屋上・サバイバル・デッド11
教頭の頭を鏡になるまで磨くのは、いったん後回しになった。
残念だが、出してきた案が「まとも」だった以上、今ここで殴っても食料は増えない。
無月が、シートを支える柱を拳で叩いた。乾いた音が二度。
それだけで、生徒たちの視線が上がる。渋々と、輪が出来上がる。
全員の立ち位置は、屋上の勢力図そのものだった。
教頭の近くに固まる女子の小さな群れ。反対側に赤間たち。
そのあいだに、立つ場所を決められない“傍観者”が薄く散っている。風向きだけを読む目つきだ。
依代の足元を、空の段ボールが転がっていった。
底に、乾いた米粒が数粒だけ貼りついている。カラカラ、と紙が鳴る音がやけに大きい。
無月が口を開いた。
「みんな集まったかな? 単刀直入に話すけど──実は、三日前に依代が持ち帰ってくれた食料が、もう底をつきそうなんだ」
「え、もう?」
誰かが笑って誤魔化そうとして、その笑いは途中で喉に引っかかった。
ざわめきが膨らみかけて、すぐに引きつる。三日目の輪は、余裕がない。
そもそも、残量を知っている者が少なかった。
配給はいつも教頭の背後で行われ、残量の箱はブルーシートの奥に隠されていた。
見えるのは“今日の分”だけ。
誰もが、明日も同じ手順が続くと錯覚していた。
「大丈夫だから、落ち着いて聞いてくれ。確かに食料は尽きかけてる。でも、新たに調達できそうな場所が──校内に見つかったんだ」
不安げな空気を断ち切るように無月が続けた、その瞬間。
「そう! この私に覚えがあってね!」
ぬめった声が割り込んだ。
教頭が、胸を張って輪の中央へ入り込む。日光に照らされた額の汗が光っている。
「無月君たちが困っていたようだから、手を差し伸べたのだよ。いやはや、大したことではないがね!」
無月の意図──全員を落ち着かせるための手順──など、教頭には伝わっていない。
彼にあるのは、“自分が中心である”という快感だけだ。
無月は一度深呼吸してから言い直す。
「……そう。教頭先生のおかげで、校内で長期間過ごせるだけの食料が確保できそうなんだ」
「場所がわかってんなら、さっさと取りに行けばいいじゃねぇか。しかも校内だろ? また依代に行かせりゃ──」
赤間が言いかけたところで、無月が静かに視線を向けた。
一点の曇りもない目。まっすぐで、逃げ場がない。
赤間の言葉は、喉の奥で詰まって消えた。
「……赤間。そういう言い方は感心しない。前回だって依代は、みんなのために命がけで動いてくれたんだ。だからこそ、行く人に僕らは《感謝》を持って送り出すべきなんだよ。決して、命令としてじゃなく」
無月の声は静かだったが、輪の外にいた数人が一歩だけ内側に入った。
言葉が、空気の向きを変える。依代はその変化を、皮膚で感じた。
赤間が、乾いた笑いを漏らす。
「……それは、わかってっけどよ。じゃあ誰が代わりに行くんだよ。俺らみたいなただの人間を、ゾンビの群れに放り込むのかよ」
乱暴な正論だが誰も否定できない。
沈黙が落ちる。沈黙の中でシートが風に煽られ、バサ……と鳴った。
「……わかってる。実はその議論は済んでるんだ。……今回も依代が調達に向かう。依代自身が立候補してくれたから」
無月は力なくつぶやいた。
その微笑みの端に、葛藤が貼りついている。
喉が渇いているのか、声の輪郭がわずかに擦れていた。
「……また依代に背負わせるのかよ」
沈黙の中、松風が低く呟いた。
やり場のない怒り。
松風は依代を見ない。見れば、自分がもっと惨めになるからだ。
「……そう言われれば、否定できないよ。僕らは依代の帰還を、ただ《祈る》しかできないんだから……」
無月が俯き、言葉を搾り出した。
その瞬間、松風が噛みつく。
「は、情けねえ話だな。自分じゃ動けねぇくせに、理屈だけは達者なんだな、リーダーさんよ」
空気が、さらに一段乾く。
誰かが止めようと息を吸いかけた、その背後から。
「まぁまぁ、松風君」
ヌルリ、とした気配が近づいた。
教頭が無月の肩をポンポンと叩いていた。いや、“叩く”ではない。指が一拍遅れて沈み、離れるときに布を撫でる。
背筋に、粘つくものが這う。
「まだ子どもである無月君にそこまで言うのは酷というものだ。だがね、君の言い分も理解できる。リーダーというのは時に《自ら動いて見せる》ことで信頼を得るものだ。ねぇ、無月君?」
舌に絡むような口調。
聞き手の耳の内側に、湿った指で触れてくるみたいな声音だった。
「……はい。その通りです」
無月は顔色を変えずに答える。
必要がなければ、関わりたくもない男だ。だが今回は“案内役”として無下にもできない。
「だぁろぉ? だからこそ私が《率先して》手本を見せようじゃないか!」
教頭が両手を広げ、大仰に声を張った。
そして急に背筋をぐるりと捻るようにして、僕を振り返る。
爬虫類が獲物を見つけたときの、無駄のない回転。目だけが先に動き、首が追いつく。
「依代君、私が君に付き添ってあげよう! 教師としての《引率》というやつだ!」
笑みが顔に貼りつく。だが、笑っているのは形だけだった。
視線は依代の顔ではなく、依代の手、輪の中心、食料という言葉に唾を飲む生徒たちの喉元──“弱いところ”を順に舐めていく。
この男は「引率」ではない。鍵と食料を握ったまま、誰を従わせるかを選びに来ている。
教頭の目に宿っているのは、怒りでも色気でもない。
もっと単純で、もっと不快なもの──支配の欲だけだった。




