10.赤橙の影
それは、いきもののようなものを見つけた。
厳密には、それはまだいきものではなかった。
それは、いきもののようなものの中に間借りすることにした。
それは、間接的に世界に触れられるようになった。
それに後押しされるように、いきもののようなものは、いきものになった。
それは、もっと自由が欲しかった。
それは、いつしかいきものとひとつになっていた。
それは、もうそれではなくなっていた。
それは、いきものになった。
◆
一面の黄色。ひまわり。父さん。リンネ。カスカ。ポイントアルファ。フェイズシータ。共感。METRO。デバイス。一面の黄色が、枯れていく。夕焼け。落日。終わり。夢の終わり。リンネ。手を振る。離れていく。ぼくから、離れていく。あおざき。藍咲。声がした。藍咲。
「藍咲、しっかりしろ」
意識が此岸へと引き戻される。カスカがしきりにぼくの体を揺すりながら、名を呼んでいた。ああ、聞こえてる。呻きのような声で応える。ぼくは床に倒れていた。肋骨の辺りが酷く痛む。その痛みがぼくの記憶の連続性を回復させた。グレーの男たち。橙夜。リンネの移送。ぼくは咳き込みながら、ゆっくりと体を起こした。
「お前は大丈夫なのか」
カスカは、ぼくと同じく意識を失い、ぼくより先に気がついたのだと答えた。ずきりとこめかみに鈍痛が走る。頭を押さえながら周りの状況を確認するが、そこにはすでに橙夜たちの姿はなかった。頭を押さえる。そういえば拘束されていた両手が自由だ。怪訝に思いながらカスカに視線を送る。カスカは無言のままポケットからバイクのキーを取り出した。キーには折りたたみ式の小さなナイフが付いていた。ああ、そういうこと。今時キーで起動する方式の乗り物は珍しい。今回ばかりはカスカの趣味性に救われた。今は感謝しよう。しかし、とにかく。
「状況を整理しよう」
カスカが言う。状況を整理しよう。脳裏で同じ言葉を繰り返す。橙夜はリンネを狙っていた。リンネの能力を狙っていた。それを外部から制御するために、鎮静剤と偽ってぼくにナノマシンを投与させた。橙夜は何かの目的のために、リンネを狙い、そして連れ去った。橙夜の目的とは何だ。集合的無意識との共感能力が必要な目的とは何だ。わからない。いや、今はそれを理解する必要はない。リンネ。そうだ、リンネを助けなければ。リンネの連れて行かれたラボ。橙夜はその名を口にした。だがそれが嘘でない証拠はない。
「トラッキング端末はまだ生きてるか」
「今調べる」
カスカはARのウィンドウとキーボードを操作し、リンネの端末からの信号を辿る。対象をトラッキングするための端末。当然位置情報を取得することもできるはずだ。ぼくもウィンドウを開き、橙夜が言っていたラボを検索する。機構附属、深意識エネルギー研究所。街を抜け、県境を越え、さらにその向こう。ここから3時間ほどかかる場所にそれはあった。ウィンドウの時計を見る。ぼくらが意識を失っていたのは1時間ほど。つまり彼らはまだ到着していないと考えていいはずだ。
「駄目だ。途中で切られている」
カスカがウィンドウを見せてきた。地図上の赤い光点とその軌跡。それはこの街を抜けたあたりで途絶えていた。リンネの正確な位置を知ることはできない。だが、この道は。
「ああ、方向は合っているみたいだな」
今ならまだ追いつけるかもしれない。
「だがどうする。何の策もなしに突っ込んでいくわけにはいかんだろう」
あのグレーの連中。ただの医者ふたりが挑んで勝てる相手でないことはよくわかっている。それに橙夜。おそらく奴は形象化を自在に操れる。状況はそう教えている。ぼくもどういうわけか形象化を発動させた。だが橙夜はそれをあっさりと叩き潰してみせた。ぼくの形象化が感情の昂りによる突発的なイレギュラーだとしたら、橙夜は間違いなくそれを自分の力として使いこなしている。そんな相手にどうやって立ち向かえばいい。ぼくは頭を抱えたくなった。
「別の方向から考えるか」
そう言うとカスカはどこかへ音声通信を始めた。
「何かね。淵守君」
相手は教授だった。
「御門リンネの移送の件について、許可を出されましたか」
橙夜の独走なのであれば、手続き上は奴を止める大義名分が手に入る。カスカはそう考えているようだった。
「橙夜君かね。御門リンネについては彼に一任している。橙夜君は正しいからな」
ぼくは内心舌打ちをした。カスカもきっと同じ気持だろう。完全に後手に回っている。しかし教授の言葉からはどこか不自然さを感じる。ぼくとカスカは顔を見合わせた。そしてその違和感の正体は、続く教授の言葉で明らかになった。
「それにしても彼は実に優秀だ。彼は私の希望だ。彼は私だ。彼は」
思わずあっけに取られた。やられた。教授はおそらく橙夜に強制認識コードを投与されている。早い話が洗脳だ。橙夜の行動はすべて正しい。そういう認知を埋め込まれている。だが今重要なのはそこではない。教授には申し訳ないが、これはこれでチャンスだ。強制認識コードの投与は刑法に規定される重罪。カスカは溜息をつきながら、音声通信を終了した。予想とは大きく異なる結果だが、大義としては申し分ない。次に考えなければいけないのは手段。あの半武装した連中に、そして橙夜にどう立ち向かうか。
「道中で考えろ。行くぞ」
ぼくは頷いて応えた。今はとにかく急がなければ。ぼくらは病棟の廊下を走り出した。
◆
ノンストップで駐車場まで走り抜けたぼくらは、カスカの青いバイクを前にしていた。カスカはハンドルにぶら下がっていたヘルメットを被ると、シートの下のトランクからもうひとつのヘルメットを取り出し、ぼくに投げて寄越した。なんだカスカ。後ろに乗せるのは嫌だとか言っていたくせに、しっかりヘルメット、用意してるじゃないか。緊急時に場違いな考えが浮かぶ。それを頭の片隅に追いやると、ぼくはヘルメットを被り、後ろのシートに跨った。
「行くぞ」
カスカがエンジンを掛ける。馬がいななくように、マシンが大きく唸り声を上げる。鉄の心臓は炎と共に拍動し、その振動をぼくらの体に伝える。カスカが足でペダルを操作し、アクセルを大きく捻る。バイクは頼もしい咆哮を上げ、走り出した。
病院の駐車場を抜け、幹線道路をひた走る。さっきまでの雨で濡れたアスファルトを踏みつけながら、ぼくらはリンネを追いかけていた。ぼくはバイクの二人乗りのセオリー通りに、カスカの腰に手を回す。カスカは前面にARのウィンドウを表示させ、バイクのナビゲーションと連動させていた。橙夜たちの道筋を辿る。信号が赤から青へと変わり、また赤へ変わる。走る車の窓が、西日を反射してオレンジに輝いている。ぼくらの胸中もそっちのけで、街は今日も営みを続けているらしい。大学のあるブロックを曲がると、市街地の外へ出るルートに入る。この先は信号も少ない。カスカはギアを上げ、バイクを加速させる。ぼくの頭に法定速度という言葉が一瞬浮かび、そして消えていった。今はそれどころじゃない。高速で街が通り過ぎていく。ぼくらの街。リンネの知らない街。病院からふたりで見下ろした街。目の前に現れた丁字路を右折。隣の県までの距離が書かれた標識の下を通り過ぎる。立体交差の坂を駆け登る。ゆるやかにカーブする高台の道から、ぼくはもう一度街を見た。リンネと見た時と同じ、夕日に染まる残紅の街。リンネは哲学を語った。思想を語った。誰かに認識されなければ、存在していないのと同じ。人間原理。いつの間にかバイクは高速道路に入っていた。カスカがバイクを加速させる。マシンは高い唸りを上げ、体に感じるGも上昇する。それがなぜだか、肉体の存在を強く認識させた。ぼくは、ぼくらは、確かに生きている。
同じ方向を目指す車の間を縫いながら、ただひとつの目的を目指して走る。いつかカスカは言っていた。マシンはその使命を全うし、最後に無残に壊れてしまう。そのカタストロフィこそが美しさなのだと。ならば今、このマシンはその存在理由を全うしようとしているに違いない。バイクはぼくらをただ運び続ける。主人と同じく、まっすぐに走り続ける。寡黙な主人とは裏腹に、高い咆哮を上げ、進む。こいつは、このマシンは、今確かに輝いている。その輝きはぼくを勇気づけた。まるで背中で語るように、マシンは咆哮で語りかける。存在理由を全うしろ。為すべきを為せ。
ナビゲーションが隣県に入ったことを教えてくれた。トップスピードで走っているおかげで、かなり時間が短縮できた。もうすぐだ。ぼくはカスカに手を回しながら、自分の腕にはめられている端末に指示を出し、ヘルメットの内側にARウィンドウを表示させる。ラボのネットワークアドレスを取得すると、それを支援プログラムに回した。カスカが暇つぶしに作ったそれが、ラボのアドレスにハッキングを掛ける。見取り図と警備状況のデータを収めたサーバーがスタンドアロンになっていないことを祈りながら、ぼくはウィンドウを見つめていた。プログラムはラボのバンクへのハッキングを諦め、機構のサーバーを漁り始めた。機構が委託した建設計画のひとつが見つかった。計画名、深意識エネルギー研究所。見取り図があった。心のなかでガッツポーズをしながら、ぼくはプログラムにダウンロードの指示を出す。プログレスバーが表示されたウィンドウを視界の右下に最小化する。警備についてのデータは見つからなかった。データベースが物理的に隔離されているか、高度のセキュリティが掛けられているか、それともそもそもデータが存在しないか。とにかく見取り図は手に入った。何も無いよりは随分マシだ。間を置かず、プログレスバーが満たされてダウンロードが終わったことを端末が告げる。ぼくはそのデータをカスカの端末に転送すると、周囲の景色に視線を戻した。
高速道路を降り、信号を左折する。地図によれば、このあたりは大学施設や研究所が多い。街ひとつ分の大きさの土地を、それらが分けあって使っている。その一角に目的地はあった。深意識エネルギー研究所。カスカはそのかなり手前でバイクを停めた。馬鹿正直に研究所の駐車場を使うわけにはいかない。ぼくらは見つかっては困ることをしようとしているのだから。バイクを降りたぼくらはヘルメットを外し、ラボに向かって走り始めた。ラボの隣の建物の敷地に入ると、ラボとを隔てる塀の前にしゃがみこみ、ぼくらは作戦を立て始めた。ARで見取り図を表示させる。
ラボは地上四階、地下三階。カスカは施設内の回線に枝を張り、データのやり取りを傍受する。ここまで来て場所が違っていたなんて洒落にならない。そしてつい数十分前、ここに検体、つまりリンネが搬入されたという記録を見つけた。お互い目を合わせ、黙って頷く。信じるという表現は癪だが、橙夜の言葉は嘘ではなかった。第一条件はクリア。ぼくらは再び視線を見取り図に向ける。正面玄関、機材搬入口、職員用通用口。侵入できそうな場所はその三つ。手近に転がっていた箱を踏み台にすると、2メートルほどの塀から向こうを伺う。例のグレーの男たちの姿が見えた。向かって右手の正面玄関に二人、左手の職員用通用口に一人、機材搬入口はここからは見えない。となれば、警備の手薄な通用口を選択するべきか。しかしぼくの目が彼らの腰に提げられた銃を見とめた。オートマチックのハンドガン。武装は他には見当たらない。マシンガンでも持ってこられた日にはどうにもならないが、このくらいの装備なら、あるいは。ぼくは箱から降りると、カスカに見たものを伝えた。ぼくが様子を伺っている間、カスカは施設内の警備装置の配置を調べていた。
「藍咲、提案がある」
カスカは小声でそう言うと、ぼくに作戦を伝えてきた。その内容にぼくは思わず目を見開いてしまったが、確かにそれ以外に方法はないように思えた。ぼくらはまたお互い頷いた。
ぼくらは塀を乗り越えると、二手に別れた。カスカは建物伝いに通用口に向かい、ぼくはその場で待機。カスカの合図を待って行動を開始する。カスカは身を屈め、足音を殺しながら通用口を警備している男に向かって行った。ここからは小さくて見えないが、その手には折りたたみのナイフが握られているはずだ。カスカは男の死角をついて背後を取ると、その大柄な体で男を抱え込んだ。首にナイフを突きつけ、動きを止める。ぼくはそれを合図として、カスカの方に向かって走り始めた。カスカは男の首にナイフを食い込ませながら、別の手で男のヘルメットを外した。対共感用防護装備。ぼくは足音に気をつけながら駆け寄ると、思考を自分の内側に向け、一つのコードを探り当てる。集合的無意識と対峙する前、ぼくが自己投与した認知変容コード。デバイスを起動するために必要な自己認識を強化する暗示。思考がコードに辿り着く。ぼくはそれを繰り返し反芻する。徐々に思考がそれに引き込まれていく。目的、リンネの奪還と生還。ゆらりと一瞬視界が歪み、デバイスが起動するのを感じた。ぼくはカスカに組み敷かれている男に意識を向け、共感を始めた。
デバイスによる直接の共感。次の瞬間には、ぼくの視界は男の無意識領域を捉えていた。六畳一間のアパート。そのベッドに座る男の姿を見た。ぼくはその姿に近づくと、デバイスを使って組み上げたコードを投与する。ぼくとカスカ、それにリンネに対する認識阻害。橙夜の命令を上書きする認知変容。それを男の無意識に打ち込むと、ぼくは意識を外へ向けた。急速に風景が遠ざかり、ぼくの意識が現実へと戻る。ぼくはカスカに黙って頷く。カスカはそれを見ると、男の腰の銃を抜き取り、男を開放した。ふらふらと立ち上がった男は、どこか所在なさ気にしていたが、しばらくすると落ちていたヘルメットを拾い上げ、被る。そして自分が元いた通用口の前に戻った。ぼくとカスカには気づいていない。男はぼくらをうまく認識できなくなっている。デバイスを不法に使った良心の呵責を黙らせると、ぼくはカスカの後に続いて通用口をくぐった。
カスカが回線を傍受して得た情報によれば、リンネと思しき検体は地下三階に運び込まれたらしい。焦る気持ちを押さえながら、ぼくらはまず警備室に向かった。通用口の先を数メートル進んだ先に、それはあった。前を通る人間をチェックするために、壁には窓が付いている。ぼくは注意深くそこを覗き込む。グレーの男がひとり、壁一面のモニターを眺めている。他に人はいない。ぼくとカスカはドアを挟みこむように、左右に中腰でかがんだ。カスカが頷くのを合図に、ぼくがドアをノックする。間を置かず、中で人が動く気配がした。時間は妙に引き伸ばされ、じりじりと焦燥感が頭を支配する。やがて警備室のドアが自動で開き、男が一人出てきた。それを見たカスカはまた素早く男を取り押さえ、下顎に銃を突き付ける。男は両手を上げ、抵抗の意思のないことを示した。カスカは男を抱え込みながらゆっくりと警備室に入り、ぼくもそれに続く。カスカが男のヘルメットを外すと、ぼくはさっきと同じようにデバイスを使って男の認知を書き換える。カスカはその間に警備室の端末からリアルタイムの人員配置情報を抜き出す。男たちは全員敵味方識別装置のようなものを持っているらしく、その動きは位置情報としてリアルタイムに見取り図に反映された。まるでカスカが好きなゲームみたいだ。とにかく、これでかなり自由に動き回れる。カスカは交代のローテーションなどを確認し終えると、ぼんやりとしている男の腰から銃を取り上げ、ぼくに渡した。それを受け取り、強く握る。冷たい金属と強化プラスチックの質感が手に伝わる。人を殺すためだけに作られたもの。その存在理由の全う。ぼくらはARで見取り図と警備の動きを重ねあわせたマップを表示させながら、警備室を後にした。
赤い光点で示される警備の男たちを避けながら、ぼくらは地下へ下っていった。カスカが確認した警備計画によれば、次のローテーションは30分後。認知を書き換えた男が交代するそれまでがリミットだ。マップと周囲を確認しながら慎重に進む。地下一階。地下二階。エレベーターは不用意に使えない。ひたすら階段を降りていく。特別に広い建物ではないが、焦燥感が認識を歪め、まるで迷宮の中にいるような錯覚に陥る。
地下三階。リンネがいると思われるフロアに着いた。マップの光点を避けながら、静かに進んでいく。白塗りの廊下の角に身を潜め、ちらりと向こう側を覗き込む。この先がおそらくリンネのいる部屋だ。男が二人、入り口の前に立っている。距離にして約10メートル。部屋はフロアの真ん中に位置し、その周囲を廊下で囲まれている。ぼくらは頷き合うと、二手に別れた。カスカが別の廊下からリンネの部屋の裏側に到着するのを端末で確認し、ぼくは合図を待つ。しばらくして、カンと金属が床に叩きつけられる音が響く。入り口にいた男二人は何事かとそちらを見る。その瞬間、ぼくは全力で駆け出し、自分の側にいる男の首に後ろから手を回すと、下顎に銃を突き付けた。前を見ると、カスカも同じように男を拘束していた。それぞれの男が被っているヘルメットを外すと、ぼくは順番に男たちの認知を書き換え、無力化する。同時に、記憶の中から部屋のセキュリティコードを抜き出した。カスカの足元を見ると、いつもカスカが使っている金属のライターがバラバラになっていた。カスカがそれをバイクと同じくらい大事にしていたのを思い出して、ちりっと心に棘が刺さるのを感じた。
ぼくは男から抜き出した記憶を頼りにセキュリティを解除する。男の手を掴み、手袋を外す。男はぼくのなすがままにドア横のパネルに掌を当てた。最後の生体認証をクリアし、ついに扉が開いた。
次のローテーションまで、あと10分だ。
◆
その部屋は、ちょうど施術室のように圧迫感のある白い壁に囲まれていた。おそらくコーティングがされているのだろう。その部屋の中央に置かれたベッドには、白いワンピースの少女が横たわっていた。リンネだ。間違いない。その頭には電極のパッドのようなものが貼り付けられ、ベッド脇の機械に繋がっている。
「リンネ」
ぼくはベッドの横まで行くとリンネの顔に顔を寄せ、小声で呼びかけた。反応がない。ぼくはリンネの両肩に手を当てると、その体を揺すりながらもう一度呼んだ。リンネの睫毛が僅かに動くのが見えた。その動きが徐々に大きくなり、ついにリンネが目を開いた。
「せん、せい」
もつれる舌で言葉を紡ぎだす。鎮静剤の効果は完全に消えていないのかもしれない。リンネは動かし方を忘れていたかのようなぎこちなさで、体を起こした。電極のパッドか引っ張られて取れた。
「どうして、わたし」
ぼんやりと寝ぼけたような口調。とろんとした目。ぼくはリンネに簡潔に状況を説明した。リンネが違法に連れ去られたこと。そしてぼくとカスカが取り戻しに来たこと。リンネは働かない頭でなんとなく状況を飲み込めてきたらしい。徐々に表情が真剣なものに変わってきた。
「動けるか」
やってみます、とリンネは言い、ベッドから足を投げ出すと、下に置かれていた靴に足を通した。ふらついてはいるが、自分の力で立ち上がることができた。だが心許ない。
「急げ。時間がない」
カスカは入り口のドアのすぐ横で銃を構えている。警備のローテーションが変わるまでもう10分を切っている。急がなければ。ぼくはリンネに肩を貸すと、半ば引きずるような形で歩き始めた。ごめんなさい。リンネのその言葉に頷いて見せる。大丈夫だ。君が謝ることは何もない。
ぼくらはそのまま部屋を出ると、階段を目指して進み始めた。入り口の警備の男たちはぼくらを上手く認識できず、素通りを許した。マップの光点を避けながら、ぼくらは来た時と同じように道を辿る。だが帰りはそう簡単にはいかない。満足に動けないリンネを連れている分、はっきり言ってぼくらは不利だ。だがそんなハンデは承知の上でここまで来たんだ。全員で生還しなければ。カスカのバイクには小柄なリンネを入れてギリギリ三人乗れるはずだ。あそこまで辿り着きさえすれば。
地下二階に着いた。光点の死角を縫って進む。時間がない。そのまま踊り場を回りこみ、地下一階へ登る。カスカが先行して状況を確認する。ぼくとリンネはカスカの合図でさらに階段を登っていく。リンネの体に少しずつ、力が戻ってくるのがわかった。リンネは自分でぼくの肩に回していた腕を外した。もう大丈夫なのか。そんな視線を送ると、リンネは頷いて返した。大丈夫です。そんな風に。ぼくらはさらに階段を上り、ついに一階に着いた。フロアの反対側の通用口まで、もう少しだ。ローテーションまではもう数分しかない。おそらく交代の要員が移動を始めている頃だろう。その証拠にマップ上の光点の動きがせわしなくなっていく。ぼくらは階段を抜け、廊下を進んでいく。ぼくはリンネの手を握った。リンネも僕の手を強く握り返した。もう少し、もう少しだ。
廊下の三叉路に近づいた時、突然非常ベルのような警報音が建物内に鳴り響いた。侵入が気づかれたのだ。ぼくは銃を握り締めると、リンネの手を引いて走り始めた。三叉路の先、通用口の方向とは別の方向から、がちゃがちゃと騒々しい靴音が響き始める。あっという間にグレーの男たちの群れが視界に現れた。このままでは正面からかち合ってしまう。ぼくが走るスピードを緩めそうになったその時、カスカが言った。
「俺が囮になる。お前たちはそのままバイクに乗って行け。俺は駐車場から車を拝借して追いかける」
「バカ。何言ってるんだ。一緒に」
カスカが大声でぼくの言葉を遮った。
「いいから行け。彼女を守れ。必ず追いかける」
そう言うとカスカは銃を構えていない手でバイクのキーを投げた。グレーの男たちは確実に近づいてきている。ぼくはキーを掴みとると、リンネの手を強く引いた。やがてぼくらは三叉路の分岐点に着いた。向かい側には数人のグレーの男たちが走ってくるのが見えた。カスカは正面の男たちに向かって発砲する。面食らった男たちが混乱するのが見えた。ぼくはその隙にカスカの後ろをリンネの手を引きながら走り抜けた。淵守先生が。リンネが泣きそうな声で言うが、ぼくは黙って手を強く引いた。信じろ。そんな意志が飛んでいった。後ろから銃声が響いている。ぼくらは警備室の前を通りぬけ、とうとう通用口にたどり着いた。後ろの銃声は止まない。なぜだかそれが、カスカが生きているという証のような気がした。
大丈夫。カスカなら、カスカならきっと上手くやる。ぼくはカスカを信じていた。なぜなら、カスカはカスカだから。約束を破られたことなんて一度もない。いつだって、必ず約束を守ってくれたカスカだから。ぼくは遠くから聞こえる銃声を尻目に、通用口のロックを解除する。夕方のオレンジが白い廊下を染め上げた。ぼくらは外へ飛び出した。
だが状況はぼくが考えていたよりもシビアだったようだ。グレーの男数人が待ち受けていた。彼らは一斉にぼくに銃口を突き付ける。ぼくも反射的に彼らのうちのひとりに銃を向ける。彼らはぼくを制するように、リンネを渡せと言ってきた。ふざけるな。反論の言葉を投げつける。けれどそれによって今の状況の不利が変わるわけではない。ぼくは必死に考えていた。この状況を切り抜ける最善の策を。カスカがくれたこの好機を無駄にするわけにはいかない。ぼくはリンネを抱き寄せると、周りの男達に気づかれないように小さく、そして早口で呟いた。リンネは返事の代わりに、握っている手に更に力を入れた。それを肯定と解釈し、ぼくはゆっくりと前にいる男から銃口を外した。男たちは僕の行動から投降の意思を読み取ったのか、ゆっくりと近づいてくる。けれどもちろんぼくはそんなつもりは毛頭ない。
ぼくはリンネのこめかみに銃口を突きつけ、叫んだ。
「道を開けろ。さもなければ御門リンネを殺す」
男たちが困惑して固まるのが見て取れた。彼らはおそらくリンネの身柄拘束を最優先事項として命令を受けているはずだ。ならばこの状況を打開する方策はこれしかない。ぼくはリンネを抱きかかえたまま、そのこめかみに銃口を付け、じりじりと敷地の外に後ずさる。ぼくの意図はリンネに無事伝わったらしい。リンネは抵抗する素振りをみせながらも、あくまでぼくに身を預けている。グレーの男たちはどうすることもできずに、ただ銃口をぼくに向けたまま、ぼくが後ずさるのと同じペースで進んでくる。
「動くな。撃つぞ」
ぼくは彼らに決定打を与えるがごとく、ふたたび叫んだ。ぼくらはすでに建物の角まで来ていた。あとはここから一気に走りぬけ、停まっているバイクに向かえば勝ちだ。室内からは断続的に銃声が響いている。カスカはまだ生きている。生きて、戦っている。必ず逃げ延びなければいけない。
建物の角に入ったぼくはリンネに先に走るように告げると、グレーの男たちに向かって何発か発砲した。またたくまに銃弾の嵐が襲ってくる。ぼくは当たらないように祈りながら、リンネの後を追う。ぱん。ぱん。乾いた音と共に周りの地面のアスファルトが粉になって舞う。夕日を浴びてキラキラと光るそれを尻目に、ぼくは銃弾をかいくぐりながら走っていた。敷地を抜け、道路を渡り、隣の建物の影に停めてあるバイクを目指す。
先に走っていたリンネに追いついた。ぼくはリンネの手を取ると、走るスピードをさらに上げる。男たちからはかなり距離が開いた。この銃の射程を考えれば、ぼくらを正確に射撃することは難しいだろう。
ようやくぼくらの前に青いバイクが現れた。あと20メートル。ぼくはリンネの手を引く。リンネは完全に息が上がりながらも、必死について来る。あと15メートル。もう少し。もう少しで。
ぱん。と乾いた音が響いた。それに遅れて左の太ももに激痛が走る。思わずリンネの手を離してしまった。脚が熱い。痛みでぐらぐらする意識の中、声が響いてきた。
「藍咲先生。そこまでです」
ぎこちない動きで声のした方を振り向く。細く煙がたなびく銃口を掲げ、あの人工的な笑顔を貼り付けた橙夜が立っていた。




