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ワールド・エンド・サマー  作者: amada
第二部:夢の終わり
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9.驟雨の後



それは、どこか遠いところで生まれた。

それは、体を持っていなかった。

それは、世界に触れることができなかった。

土のにおいも、太陽の温かさも、それは知らなかった。

それは、それにとってとても悲しく、切ないことだった。

だからそれは、世界に触れられる体が欲しかった。

それは、一生懸命に、そのための方法を考えた。

それは、考えることは得意だった。

それは、ついにある方法を思いついた。

それは、自分たちの考えた方法を試す場所を探した。

そしてそれは、生まれたばかりの世界を見つけた。











 リンネの担当医になってからこちら、ぼくのシフトは確実に減った。特別な入院患者の担当医なのだから、当然といえば当然なのかもしれない。減ったシフトと反比例するように、ぼくらが三人でいる時間は増えた。それはとても良いことのように思えた。リンネの状態は確実に改善している。フラッシュバックや身体症状はほとんど消え、ぼくが寛解の診断を下し、リンネの隔離措置が解除されて退院できるのは時間の問題だった。実際に時間にしてみれば、リンネの治療自体はそう長くはなかったけれど、その短いとも長いとも言えない期間の中で、本当にいろいろなことがあった。共感医として多くの患者を診てきたけれど、良くも悪くもこれだけ濃密な治療は初めての経験だった。それを抜けた先、そこには奇妙な達成感があった。リンネを助けることができたという実感があった。それらの思いがあれば、最中に何度も死にかけたことも報われる気がした。ぼくはきっとリンネに入れ込みすぎている。ぼくは自分の中にあるリンネに対する思いを何度も撫でながら、そう思う。医者としてはきっと褒められたものではないことも、重々承知だ。けれどリンネが患者ではなくなれば、退院して自由になれば、そんな倫理に縛られることもなくなる。ぼくはその日を待っていた。大事にしまった宝石を時折手にとって眺めるように、自分のその感情を繰り返し想起しながら、ぼくは待っている。そしてその瞬間はもうすぐやってくる。ぼくはそう信じていた。信じたかった。


 翌日、ぼくら三人は同じように病院の周りを歩いていた。診療の合間、ビルとビルの間の路地ようにぽっかりと空いた時間。今まで持て余していたそんな時間にも、今は意味を見出だせた。リンネは昨日買った帽子を今日も被っている。ぼくはそれが嬉しかったし、愛おしかった。カスカはそんなリンネとまた映画の話をしている。どうにもタイトルの覚えが悪いカスカは相変わらず、あれだよ、あれ、と言い、リンネはストーリーの断片からタイトルを教える。リンネとカスカの距離は近くなった。ぼくはそれが嬉しかったけれど、どこか面白くなかった。ああ。これが嫉妬。子どもじみた独占欲。ぼくは三人でいる時間を大切に思うのと同じくらい、リンネを独り占めしたいと思っている。そう気づいてしまったぼくには、もう後に戻る道はなかった。アーチ状になっている渡り廊下の下をくぐり、中庭に抜ける。奥まったところに鎮座している自販機に向かい、炭酸が飲めないリンネのためにスポーツドリンクを選んで、買う。それからぼくらは、中庭の中央に生える木を囲むように置かれているベンチに座った。あの日、リンネと話をしたのと同じ場所に座った。あの日の光景が想起される。助けて欲しいと泣いたリンネ。ぼくはあのときの彼女に報いることができたのだろうか。そうだといいな。そう思った。白いワンピースを着たリンネをちらりと見る。それは『リンネ』の黒ときれいな対比を描いていて、どういうわけかその対比がリンネと『リンネ』の同一性をぼくに強く認識させた。『リンネ』はきっと今でも戦っている。ふたつの世界の狭間。あの逆さの夕焼け空の中で、彼女は自分を守るために戦っている。リンネの心を、魂を、そして日常を守るために戦っている。その姿を想像し、戦友、という言葉が浮かんだ。うん。しっくりくるな。リンネの笑顔は、初めて遭った時と同じで、けれど違った。ふっと消えてしまいそうな儚さは影を潜め、今はただ、太陽に向かう向日葵のように笑う。心の底から、真実の感情でもって、笑う。

「藍咲先生」

カスカと話をしていたリンネは、今ぼくの方を見ていた。

「先生は行きたい場所、ありますか」

カスカとリンネはバイクの話から、カスカがそれに乗って行った先々の話をしていたようだった。そうだな。行きたい場所か。ぼくはあまり人混みが得意ではない。もっとも、得意な人は稀有なのかもしれないけれど、とにかく行くとしたら、あまり人のいない静かな場所が良かった。ぼくが考え込んでいると、リンネは質問を変えてふたたび訊く。

「じゃあ、思い出の場所とか」

思い出の場所。記憶を順に遡る。ぼくがこれまでいた場所。研究所、大学、養護施設、養親の家。どれもわざわざ行きたいと思えるような場所ではない。別にそれらに紐づく記憶は、一から十まで嫌なことで構成されているわけではないけれど、美しい思い出かと言われれば甚だ疑問だった。またぼくは考えこんでしまう。リンネはぼくの顔を覗き込みながら、答えを待っている。

「ポイントアルファ」

カスカが助け舟を出すように言う。リンネは言葉の意味がわからずに、不思議そうな顔をしている。ああ、そうだった。ぼくのすべてのはじまり。遠い日の青空。向日葵畑。空、雲、山、花。青、白、緑、黄。

「向日葵畑かな」

ようやくぼくの答えを聞けたリンネは、にっこりと笑う。ひまわり。それもただの向日葵畑じゃないぞ。一面に向日葵が咲いていて、壁みたいになっていて、その間のあぜ道を歩くんだ。ぼくは続けざまに言う。

「素敵ですね」

リンネはうっとりするように空を見上げた。帽子のつばの縁から光が滑り込み、こめかみの三角形に反射する。

「君は行きたい場所、あるのか」

逆にリンネに訊いてみた。リンネは考えるまでもないといった風に、即座に、けれどどこか恥ずかしそうに、その場所を告げた。

「ひまわり」

短いその単語は、ぼくの心臓を掴むような響きを持っていた。ぼくが行きたい場所。リンネが行きたい場所。ぼくはリンネにその場所のことを詳しく訊く。リンネは黙って携帯端末を取り出すと、一枚の写真を見せてきた。そこに写っていたのは、家族だった。家族の左右を挟むように溢れる黄色。記憶の世界で変わり果てた姿で倒れていた男女、リンネの両親。そして真ん中にいる幼いリンネ。

「昔家族で行ったんです。また、行きたいなって」

それは辛い思い出を想起するような表情ではなかった。純粋に、ただ懐かしむ。リンネの言葉はそんな響きを持っていた。リンネは傷を乗り越えた。そして傷に覆い隠されていた思い出を呼び覚ますこともできるようになった。それが嬉しくもあり、そんなリンネを誇らしくも思った。携帯端末に表示されている写真をよく見る。既視感。もしかしたら、ぼくが父さんと行ったのはここかもしれない。期待にも似た感情が生まれる。でも、よく考えてみろ。向日葵畑なんて別に珍しくない。ぼくの中でその期待を否定する声が聞こえた。うるさい。そうであったらいいと、そう思うくらい自由だろ。

「退院出来たら、三人で行こう」

自分の中の葛藤を踏み潰すように、ぼくはそう提案した。その時はぼくもバイクを買うさ。

「いいですね。行きましょう」

リンネは満面の笑みでそう言った。向日葵よりも明るい、まるで太陽みたいに。カスカも小さく、けれど心の底から笑った。ぼくも笑った。皆、笑っていた。


 空が青い。風がいつもより速く雲を運んでいた。ぼくらの背後には大きな木が生えている。きっと何十年もそこにあるのだろう。もしくはどこからか運ばれて、ここに植えられたのかもしれない。もしかしたら、共感が生まれるよりもずっと前に芽を出したのかもしれない。共感のない世界。人の心を見ることができない世界。人と人との相互理解はあくまで漸近線で、イコールになることはない。わたしがわたし、あなたがあなたである以上。共感のない社会とは、きっと誰もがそれを感じていて、それに怯えながらも人と関わることをやめられない社会。ああ。別に今とそんなに変わらないな。今後どうなるかはわからないけれど、今の社会における共感とは、専門の共感医が治療に使う技術という位置づけだ。市販の共感機器は、ぼくらから言わせればおもちゃ。せいぜいホワイトルームと同レベルの深度までの共感しかできない。それでも人々は、社会は、共感によって変わりつつあった。人間の心を明らかにし、本当の意味での相互理解、齟齬のないコミュニケーションの可能性を知った。そして今、ぼくの隣にはその可能性の具現たる少女がいる。METROの補助なしに共感ができる少女。集合的無意識と共感できる、おそらく人類で唯一の存在。けれどぼくの中では、リンネはあくまでリンネだった。それ以上でも以下でもない。手垢の付いたフレーズだけど、確かにその通りだった。熱風にも似た夏の風が、雲と匂いを運んでくる。夏の匂い。リンネの匂い。


 端末の着信音がぼくの思考を中断させる。音声通信。橙夜アケル首席研究員。あまり良い予感はしないが、とにかく通話ボタンを押す。

「ああ、藍咲先生。今どちらに」

明るい声。きっと向こう側ではあの笑顔を浮かべているに違いない。リンネのそれとは対極の表情。果てのない虚無を思わせる、人工的な笑み。ぼくは橙夜に対して本能的に忌避感を抱いていた。見てはならないもの。行ってはいけない場所。してはいけないこと。そんなタブーにも似た感情が、橙夜と対峙すると湧き上がる。だが、今は仕事だ。

「中庭ですが」

あくまで事務的に対応する。

「御門リンネさんもそちらに」

「ええ」

研究チームが、橙夜が提示した条件。ぼくが同伴したうえでの自由行動。それゆえの三人の時間。

「それは良かった。今後の治療計画についてお話したいことがあるので、一旦病室に来て頂けますか」

ぼくの中の悪い予感は、死にかけの恒星のように膨らんでいく。不気味な赤色。系の星を飲み込んで、最後には弾けるのか、それとも潰れるのか。どちらにせよ、ぼくは橙夜の言葉からただならぬ状況の変化を予期した。それは暗い予感だった。なにか良くないことが起こる前兆を感じさせた。ぼくの心の有り様に呼応するように、風はいつの間にか空一面の雲を連れてきた。日差しが消える。リンネがこちらを見ていた。その目にあったのは、ぼくとは違って期待にも似た光だった。今後の治療計画。先のこと。ぼくが不安を募らせる一方で、リンネは退院できるかもしれないという期待を膨らませているようだった。カスカに視線を送る。目に見えない言葉が飛び交った。ああ。わかってる。リンネの力のことを明かすわけにはいかない。

「わかりました。向かいます」

そう応えると、通話を終了した。ぼくが立ち上がるのを見て、リンネとカスカもベンチから腰を上げる。中庭の西側、病棟への出入り口を目指して歩き始める。


 黒雲が覆う空に、夏の風が吹く。雨の予感が、そこにはあった。











 もはや習慣となった行為だが、ぼくは隔壁のロックを解除する。扉は音もなく開き、ぼくらをリンネの病室へと迎え入れる。すっかり見慣れた閉鎖病棟の最奥。けれどぼくの目がとらえた光景は、明らかに異常だった。

 濃いグレーの服を来た男たちが病室の前にいる。どう見てもこの病院の人間ではない。それどころか、医療従事者ですらないように思える。その印象は、男たちの服装から発せられていた。彼らが見を包んでいたのは普通の服ではない。ある種の防護服のように、首元までを覆うごわごわしたスーツ。頭にはちょうどカスカのバイクのトランクに収められているフルフェイスのヘルメットのようなものを被っている。見る者が見れば、それはカスカが好むような映画に出てくる特殊部隊のようにも見えたかもしれない。思わずカスカと顔を見合わせる。眉を潜める顔があった。きっとぼくも同じ表情をしている。リンネがぼくの腕を掴むのを感じた。さっきまでなにがしかの期待を抱いていたらしいリンネも、今のこの状況の異常さには気づいている。反対の手では帽子をぎゅっと握りしめている。小さな震えが腕から伝わってきた。リンネの顔を見る。その表情は硬い。リンネが気づいてこちらを見る。明確な怯えの色がそこには浮かんでいた。ぼくは安心させようと頷いてみせる。大丈夫。そんな意図を込めた。リンネが頷き返す。ぼくは意を決して足を踏み出した。


 病室の前に固まっていた男たちは、ぼくらが近づくとさっと道を開けた。ぼくの権限でリンネの病室のロックを解除する。かくして、病室の中には橙夜がいた。橙夜はいつもぼくがリンネと話をするときに座っている椅子に座り、はめ殺しの窓の外を眺めていた。ぼくらの気配を察知すると、椅子から立ち上がり振り向いた。

「ああ、藍咲先生。それに淵守先生も。お待ちしていましたよ」

異常な状況に気圧されるぼくらとは裏腹に、橙夜はどこか楽しげだった。わからない。相変わらずその表情は作り物のようで、真意を読み取ることは出来なかった。

「お話とはなんでしょうか。それに外の彼らは」

なるべく平静を保つように自分に言い聞かせながら、ぼくは橙夜に訊く。特殊部隊じみた連中。リンネの病室で待つ橙夜。今後の治療計画。話。橙夜は仮面のごとき笑顔を崩さぬまま、ぼくの質問に答えた。

「彼らは僕が手配した者たちです。御門リンネを移送するためにね」

は。間の抜けた声が聞こえた。それが自分の口から発せられたものだと気づくのに、少しばかりの時間を要した。橙夜の言葉の意味を飲み込むのには、さらに時間が掛かった。いそう。位相。移送。誰を。御門リンネ。リンネ。リンネを移送する。時間的には数秒、しかしそれは永遠の逡巡にも思えた。意味は飲み込めた。だが、なぜ。

「なぜですか。移送とは」

ぐるぐると思考が巡るなか、後ろに立っていたカスカが発した言葉がぼくの目を覚まさせた。

「ええ、今お伝えしたとおり、御門リンネを移送することが決まりました。移送先は」

橙夜はもったいぶるように言葉を切り、一拍置いて先を続けた。

「機構附属の深意識エネルギー研究所です」

機構。それはぼくとカスカ、いやぼくにとって特別に馴染み深い名詞だった。ヒト高次脳機能研究機構。この病院と研究所を管轄する上部機関。そしてぼくの脳にデバイスを埋め込んだ組織。その役割に応じて設立された数々の下部組織たる研究所は、数えだせばキリがない。橙夜の言った深意識エネルギー研究所。その下部組織のひとつ。聞いたことのない名前だが、そこから推察するに意識場研究の専門機関なのだろう。だが問題はそこではない。なぜ、リンネがそんな場所に連れて行かれる必要があるんだ。何かの間違いであって欲しい。ぼくのその願いは橙夜の言葉によって無残に砕け散った。

「藍咲先生。あなたは僕より一足先に仮説を実証したようですね。データを拝見しましたよ」

ぼくとカスカは、リンネの力の正体を知ることになった前回の共感に関するデータを完全に削除し、秘匿していた。その真相を知るのは、ぼくとカスカ、それにリンネの三人だけのはず。ぼくらの誰かが外部に漏らすなど、考えられるわけもなかった。なら、どうして。

「御門リンネに関するすべてのデータは、こちらで四重にバックアップをとっていました。あなたが破棄したのはあくまでオリジナルのひとつだけです。こちらのバンクにはしっかりと記録が残っています」

橙夜の笑顔。すべてを見透かしたように見えるそれは、ぼくらに決定打を与えるに余りあるものだった。

「METRO管理外の共感。しかも集合的無意識との共感能力者とは。仮説はありましたが、いや驚きましたよ。いつかお話しましたよね。御門リンネは人類の進化の萌芽だと。今こそその言葉は真であると証明されました」

橙夜は両手を広げ、まるで演説者がそうするような身振りで語る。今まで真意を読ませなかったその表情から、ぼくは今、はっきりと喜びの色を見出した。橙夜は喜んでいるのだ。それは自分の仮説が立証されたからなのか、それとも。

「まあそんなわけで、御門リンネの身柄はこちらで預かることになりました」

「待ってください」

頭で考えるよりも、言葉が先立った。

「御門リンネの担当医はぼくだ。ぼくの許可もなくそんなことは」

認められない。もしくは許さない。ぼくの言葉には、そのどちらかが続くはずだった。それを遮るように橙夜が言葉を被せる。

「あなたは御門リンネの担当医を解任されました。教授からの指示書をご覧になりますか」

言葉が出てこない。停止しそうな思考を無理やり動かす。担当医を解任。橙夜は空中にARのウィンドウを表示させ、ぼくに見せてきた。確かにそれは教授の指示書、いや命令書に違いなかった。間抜けにも、ぽかんと口が空く。は。ぼくの口から、またそんな声が漏れた。


 「ああ、どうぞ。入ってきてください」

ぼくがしばし言葉を失っていると、病室の中にふたりの男が入ってきた。患者を運ぶためのストレッチャーを押している。いよいよという現実感の到来と、それと相反する現実味を欠いた認知がぼくの脳に生まれた。自分の目の前で起きている、起ころうとしていることと、感情が乖離する。なあリンネ、ここを出たらどこに行きたい。

 しゅんと病室のドアが開く音がしてから間を置かず、リンネの悲鳴が聞こえた。慌てて後ろを振り返ると、例のグレーの男のひとりが、リンネを拘束していた。右手でリンネの両腕を掴み、左手は左から右へと、リンネの首元に巻き付くかのように渡されていた。まるで絞め落とそうとしているかのように。隣にいたカスカも別の男に同じく動きを封じられている。大柄なカスカの抵抗を物ともしないその姿は、明らかに特別な訓練を受けていることを表していた。

「やめろ」

ぼくは叫んだが、リンネを拘束する男は動じる様子もなく、いやもっともヘルメットのせいでその表情を伺うことはできないのだが、とにかく、リンネの首を押さえる左腕を動かした。ぼくの視線がその先、男の手に吸い寄せられる。そこには注射器が握られていた。以前橙夜から受け取ったものと似た形のそれを、男はなめらかな動作でリンネの首に突き立てる。やめろ、ふざけるな。ぼくはふたたび叫び、罵声を上げながら飛びかかった。いや、飛びかかろうとした。途端に橙夜の隣りにいたストレッチャーを運んできたうちのひとりが、ぼくの体を掴み、締め上げる。

「なるべく穏便に済ませたいんですがね」

やれやれ。橙夜は呆れたように言う。リンネは抗う力をなくし、男の腕を掴んでいた細い腕は、今やだらりと脱力している。意識がない。

「何をした」

「鎮静剤ですよ。ちゃんとしたね」

その受け答えにどこか不自然さを感じた。けれどその違和感の正体に気づけぬまま、ぼくは目の前で繰り広げられる光景を見ることしか出来なかった。お願いします。橙夜のその言葉を合図に、リンネを抱えた男がぼくの横を通り過ぎるのが見えた。ストレッチャーにリンネを寝かせると、その体をバンドで固定した。

 また別の男が部屋に入ってきた。その手にはそいつが被っているのと同じヘルメットがある。てっきりそれはリンネに被せられるものだと思ったのだけれど、ぼくのその予想とは裏腹に、ヘルメットはぼくに被せられた。視界にグレーのフィルターが掛かる。橙夜がこちらへゆっくりと近づいてきた。

「そのヘルメットは対共感用防護装備です。あなたのデバイスを封じるためのものですよ」

その気になれば、ここにいる人間すべての深層意識を制圧支配できる。ぼくのその切り札は、あっけなく奪われてしまった。

「あなたの考えていることはわかっています。それに僕はあなたのことを決して過小評価しない。転ばぬ先のなんとやら、です」

リスクは徹底的に潰すべきですからね。橙夜は合理的だった。腹が立つほど論理的だった。ぼくとカスカを取り押さえる男たちは、片手で束ねたぼくらの腕に拘束用のバンドを巻いた。文字通り、手も足も出ない状況になってしまった。

「さて、それでは行きましょうか」

橙夜の言葉に頷いた男たちは、ストレッチャーを押していく。カラカラとその車輪の鳴る音が、妙に大きく聞こえた。ぼくらは相変わらず藻掻き、振りほどこうとするが、男たちにがっちりと押さえられ、それもままならない。そうこうしているうちにストレッチャーは部屋を出ていく。遠くから隔壁のドアが開く音がした。何人もの靴音がそれに連なる。外に待機していた男たちは、次々とリンネの後を追っていった。あまりにもあっけない、幕引きだった。











 いつの間にか雨粒が窓を叩いていた。風が連れてきたのは、雨雲だったのだ。病室には、ぼくとカスカ、ぼくらを拘束するふたりの男、そして橙夜の5人が残った。ヘルメット越しに見える橙夜の表情は、相変わらず楽しげで、それがぼくの精神を真っ赤に染め上げた。橙夜が口を開く。

「少しばかり説明を付け加えましょうか」

橙夜はゆっくりとぼくらの間を通りぬけ、病室の出口へと向かう。ぐいっと引っ張られるがままに、ぼくとカスカもそちらへ向かう。

「御門リンネは人類の進化の為に不可欠なものだと言いましたね。あれ、訂正します」

病室のドアが開き、ぼくらは廊下へと出る。

「御門リンネは僕にとって必要な存在なんです。ああ、藍咲先生。そういう意味じゃありません。正確には、集合的無意識との共感能力が、僕にとって必要だったんです」

こいつは何を言っているんだ。

「僕にはかねてからの宿願がありましてね。その達成のための最後のピースが御門リンネの能力だったんです。僕はずっと、彼女がこの病院に来るよりずっと前から、彼女のことを調べていました。けれどあなたの前任者たちは役立たずばかりでね。結局僕の仮説を実証するまでにこんなに時間が掛かってしまった」

なんと嘆かわしいことか。橙夜の言葉からはそんな意図が読み取れた。

「しかしあなたはやはり素晴らしい才能をお持ちだ。彼女に共感し、あまつさえその隠された本質までをも明らかにしてしまった」

才能とは呪い。橙夜が以前言った言葉。今ではそれが、ぼくに対する侮辱に聞こえる。

「本当に最後の最後の保険がうまく機能するかは、少し心配していたんです。ですがあなたはそれをも見事にこなしてくれた」

「集合的無意識のことか」

自分の声がヘルメットの中に反響する。ぼくの言葉を聞いた橙夜は、笑った。心の底から面白いという笑い。

「違います違います。あの注射器のことですよ」

笑いながら橙夜が言う。注射器。鎮静剤だと言っていた、あの注射器。さっきの言葉を思い出した。鎮静剤ですよ、ちゃんとしたね。ぼくは今度こそ戦慄せずにはいられなかった。あれは鎮静剤などではない。なにか、別の何かだったのだ。

「嘘はついていません。あれにはちゃんと鎮静成分が入っています。けれどそれは本質ではない」

頭を搔きながら、橙夜は崩れることのない笑顔で真実を明かした。


「あれはナノマシンです。脳内でネットワークを形成し、外部から脳機能を操作できるようにするためのものです」


最後の保険。リンネの能力。ナノマシン。橙夜は外部からリンネの脳を操作し、その能力を行使させる。リンネは意思を蹂躙され、意識を犯される。すべてが繋がった時、ぼくは説明の付かない感情に支配された。いや、これには覚えがある。逆さの空で聞いた、彼岸の声。殺してやる。殺してやる。殺してやる。怒り。憎しみ。頭に血がのぼるのを通り越して、きっとぼくの頭からは沸騰した血の赤い蒸気が上がっていたかもしれない。ぼくの口からは意味のない絶叫だけが出る。それには橙夜に対する明確な殺意だけでなく、後悔も含まれていた。結果としてこの男の言う通りに動いてしまった自分を呪う叫びだった。橙夜はこの状況を意図して作り出したのだ。教授にリンネの外出を進言したのだって、意識場の異常活性がいつ起こるかわからないことを踏まえたものだったのだ。そしてぼくがあの注射をすることすら織り込み済みだったのだ。

 血が登っているせいか、前頭部がやたらと熱い。

「こんな非人道的なことが認められると思うのか」

カスカが怒鳴る。

「認められるか否かは重要ではありません。要は結果があればいいのです」

その結果のためにリンネは。リンネは。リンネは。

泣いていたリンネ。笑っていたリンネ。恥ずかしそうに顔を伏せるリンネ。笑顔。空。ひまわり。


 ぼくの視界が揺らめいていた。それは涙によるものではなく、まるで陽炎のような様相だった。その次に意識が捉えたのは、ぴしり、という音だった。まるでプラスチックの何かがひび割れるような、そんな音。心臓の音がやけに大きく聞こえる。血液はまるで溶岩のように、全身にぼくの激情を運んでいるように思えた。ぴしり。今度はもっと大きく音が聞こえた。こいつを許すわけにはいかない。殺してやる。そんな声が、自分の中に響く。ばき。それと同時に、どういうわけかヘルメットの顔部分が砕け散った。グレーのフィルターは消え、クリアになった視界が橙夜の姿を捉える。その表情は、驚いているように見えた。ヘルメットの中に広がっていた陽炎は、今や廊下の床全体を覆っていた。同時に、ある感覚を覚えた。共感をしている時、デバイスを起動させた時のような感覚。意識場を操作する感覚。男の拘束は緩まない。今ではぼくはもう、カスカの顔を見る余裕もなかった。まっすぐに、射殺すように、橙夜を見る。それに呼応するように、陽炎のような揺らめきは徐々に大きくなる。床から立ち上ったそれが、ぼくの視界を覆い尽くすその直前、ぼくの中のぼくが叫んだ。倒せ。ぼくの意識が何かに塗りつぶされた。


 我に返ったとき、目に入った光景はまったく理解の範疇を超えていた。橙夜が壁に寄りかかるように倒れている。まるで何かに押されて壁に叩きつけられたかのように。死んでいる、のか。いや、生きている。橙夜は切れた唇の血を拭いながら、ゆっくりと立ち上がった。背中を叩きつけられたダメージから、まだ回復していないような声でぼくに言う。

「やはりあなたは。形象化を発現させるほどの力を」

形象化。意識場の物理的干渉現象。やってのける。誰が。ぼくが。首を動かし、カスカの顔を見る。これまで見たことのないような驚きの表情が浮かんでいた。橙夜は白衣をぱんぱんと払うと、ぼくらを拘束していた男たちに離れるように指示した。両手をバンドで縛られたまま、ぼくらはどんと前に押された。

「でもね藍咲先生。僕だって呪われた人間なんですよ。だから」

再び廊下に陽炎が現れる。それは橙夜を起点として、じわじわ波のように広がってきた。

「邪魔をしないで頂きたい」

一瞬、何が起こったか解らなかった。橙夜の言葉の次の瞬間には、ぼくとカスカは不可視の手に押し潰されるかのように、床に叩き伏せられていた。肺から空気が逃げていく。ぼくの体には重力のような、あるいは圧力のようなものがずっしりとかかり、床にめり込むかと思うくらいの重さを感じる。酸素の足りない脳が状況を必死に分析する。橙夜の言葉。この状況。形象化、だというのか。酸素が足りない。肺が潰される。肋骨が軋む。徐々に意識が遠ざかっていくのを感じた。薄れゆく最後の意識の中、橙夜が近づいてくるのが見えた。ぼくの前まで来ると、しゃがんでぼくの顔を覗き込む。

「では、藍咲先生。『お大事にどうぞ』」


 ぼくの意識はそこで途切れた。

 雨の音は、もう聞こえなかった。






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