11.藍空の涯
失った空白は埋まらない。
失った心は埋まらない。
失った昨日は戻らない。
失った日々には帰れない。
帰らぬ日々に別れの花を。
帰らぬ夢に訣別の詩を。
◆
橙夜は銃を構えたまま、こちらにゆっくりと近づいてきた。膝をつきながら、すかさずぼくも橙夜に銃口を向ける。
「やめてください。あなたを殺したくはない」
橙夜はそう言いながら、銃を握っていない方の手で空中を軽く払うような動作をした。砂糖か、あるいは塩が水に溶けるように、ゆらりと空間が揺らめく。次の瞬間には、ぼくの手にあった銃は不可視の力で弾き飛ばされていた。歯を食いしばりながら橙夜を睨みつける。ぼくの予想は正しかった。やはりこいつは形象化を完全に操れる。冷静な分析に脚の痛みが割って入る。左太ももにちらりと視線を送る。ズボンが線状に破け、血が流れ出している。どうやら銃弾は掠っただけのようだ。大丈夫。まだ動ける。右足を軸にして、ゆっくりと立ち上がる。銃はぼくの後ろ数メートルまで弾き飛ばされている。銃口がこちらを向いている以上、拾いに行くのは得策ではない。橙夜はゆっくりと近づいてくる。
「藍咲先生。お急ぎのところ申し訳ないんですが、お話しておかなければならないことがあります」
「何を」
痛みのせいで太もも自体が脈動しているような錯覚に陥る。ぼくより少し先にいるリンネは、どうしていいかわからずに立ち尽くしているように見えた。
「僕について。そして僕の為すべきことについて」
橙夜の言葉はまるで命令のような響きを持っていた。銃口を向けられているぼくに選択権はなさそうだ。今はとにかくこの状況を切り抜ける方法を考えなければ。
「お時間は取らせません。実時間では一瞬で済みます」
橙夜が言い終えると同時に、周りの風景に変化が現れた。橙夜の背後の重力に、夕日も、ラボも、道路も引きずり込まれていく。ついにあらゆる風景は消え去り、橙夜とぼく、そしてリンネは上も下もない真っ暗な空間に立っていた。この現象は。
「これは、共感」
ぼくがぽつりと零したその言葉を聞いて、橙夜は嬉しそうに頷いた。
「ええ、デバイスを使用させていただきました」
デバイス。深層意識干渉制御デバイス。ぼくの脳に眠るそれ。なぜ橙夜がそれを使える。まさか。
「はい。デバイス適合者は国内に三名。あなたは三人目。そして僕が二人目です」
痛みを打ち消さんばかりの衝撃だった。ぼくは自分以外の適合者のことを何も知らなかった。否、正確には知ることが許されなかった。デバイスに関連する実験や技術情報は最高ランクの機密事項。被験体であるぼくであっても閲覧はできない場所にある。リンネの言葉を借りれば、ぼくは他の適合者の存在を認識してこなかった。つまりぼくの中ではいないのと同義。しかしそれは今、目の前に現れた。ぼくはその存在を認識してしまった。
「今我々は瞬間的な認知の隙間にいます。先ほども言いましたが、この空間での出来事は実時間で数秒です」
理論上は可能な方法ではある。人間の認知と実際の物理的時間との間に齟齬が発生する。それは珍しいことでない。しかしそれを人工的に発生させるとなれば話は別だ。橙夜はそれを易々とやってのけた。ぼくですら試したことのないデバイスの使い方を。
だが橙夜の話を悠長に聞いてやる義理はどこにもない。ここが深層意識なのだとしたら、ぼくにも分はある。痛みで爆発しそうな神経を集中し、無意識階層に自分で打ち込んだ認知変容コードを探り当てようと試みた。デバイスを起動させることができれば、ぼくと橙夜の戦力差は厳しく見積もっても五分五分にはなる。
「甘いですよ。藍咲先生」
橙夜はそう言うと、また空中を払うような動作をした。今度はその軌跡から緑の光が矢のように飛び、瞬く間にぼくの体を貫いた。先生。後ろのリンネが叫ぶのが聞こえた。集中した意識が霧散するのを感じる。何をされた。
「前頭前野の伝達バランスを調整しました。デバイスは起動しません」
デバイスを起動させる前提条件をすべて意識に入力するが、起動する感覚がない。橙夜の言葉は嘘やハッタリでないようだ。こいつはどうやら形象化だけでなくデバイスも自在に操ることができるらしい。ぼくより数段上の使い手。認めざるを得ない。リンネが傍に駆け寄ってきた。
「話とはなんだ」
あらゆる手が封じられた今、橙夜の話とやらを聞くほかない。ぼくは頭の片隅で絶えず打開策を考えつつも諦観を装い、真っ暗な空間に言葉を投げた。
「今お見せします」
橙夜がわざとらしく指を鳴らすと、ぼくらをぐるりと囲むようにいくつもの映像が現れた。これは、橙夜の記憶か。
「まず、改めて自己紹介を」
橙夜アケルです。恭しく一礼をしてみせる。それはまるで転校生が自己紹介をするかのような軽い雰囲気だった。ああ、橙夜。君は後ろの空いている席。そうそう、藍咲の隣な。周りを取り囲む映像の一つに意識が向く。というより無理やり見させられているような感覚か。それは手術室の光景だった。
「僕はね。ずっと知りたかったんですよ。人間の心というものを。僕は『他人と分かり合ってみたかった』」
琴線に触れる言葉が放たれる。ぼくの持つ願い。カスカの抱く理念。そしてリンネの望み。他人と分かり合うこと。他の人の心を理解すること。橙夜もまた、それを抱いていた。
「僕は先天的に前頭前野にある問題を抱えていました。僕は他人の感情やその機微を読み取り、理解する能力を持たずに生まれてきたんです」
精神病質。もはや古典と化した医学書の一ページが思い起こされた。他人の心を読み取る能力の欠如。生まれつき他人の心を理解できない者。橙夜が語る他者との相互理解の願望。それは心の底からの渇望のようにも思えるが、同時にどこまでも冷淡で他人事のようにも思える。橙夜の記憶、すなわち視界が外科医たちの姿を捉えた。
「僕がデバイスの適合者として選ばれたのは、まさにそのためです。デバイスによって前頭前野の欠落した機能を補完する、というのが目的でした」
そのときのぼくはきっと怪訝な顔をしていたに違いない。デバイスは意識場同調システムを小型化、強化したものだ。その役割は共感現象の発現のはず。脳機能の補完というのはどうにも筋が通らないように思える。
「その通りです、藍咲先生。デバイスは本来共感のための装置だ。それを脳機能の補完に使うというのは、確かにおかしな話です。おそらく、デバイスには我々の知らない別の役割があると思われます」
それが何なのか、残念ながらまだわかりませんがね。橙夜はそう付け加えた。
「話を戻しましょう」
映像が切り替わる。これは病室の風景か。
「手術は成功し、僕の脳は無事デバイスに適応しました。僕は心の底から嬉しかった。これで『他人と分かり合う』ことができるかもしれないと」
再生されていた記憶映像が、突然止まった。
「結論から言いましょう。デバイスによる脳機能の補完は失敗に終わりました。先ほどお話しましたが、そもそも共感のための装置が脳機能を補完できるとは考えにくい。あとから思えば、最初に気づくべきだったんです」
ぼくらを取り囲む記憶のスクリーンが、まるでフィルムが焼けるように歪んでいく。
「僕は絶望しました。初めて『他人と分かり合う』ことができるかもしれないという願いは、裏切られました。見事に。そしてあっさりと」
ぼくが言葉を挟む隙などなく、橙夜の言葉は続く。
「脳機能の補完は名目。おそらく目的は別にあった。それはいいんです。今となってはね。ただ僕はどうしても許せなかった。僕を散々振り回した人間たちが。そしてこんな欠陥品を産み落とした世界が」
橙夜の言葉には感情のようなものが感じられた。それはきっと、奴の心の底からの言葉。大人に振り回され、世界に裏切られ、すべてに絶望した青年の怨嗟。
「僕はその後、デバイス移植に関わったチームのひとつに研究員として迎えられました。そう、あの研究所です。そこで僕はずっとあることを研究し続け、ひとつの発見をしたんです」
橙夜が言葉を切ると同時に、周囲のスクリーンに様々なグラフや図、文字の羅列が映しだされた。橙夜の言う研究、それがこの記憶映像たちなのか。橙夜は急に楽しそうな表情を浮かべた。何だと思いますか。そんな言葉を投げてくる。ぼくは返答の代わりに、改めてその笑顔を睨みつけた。橙夜はそれをものともせず、笑顔のままひとつの映像を対峙するぼくらの間に出してみせた。
何かのレポートのようなそれを読む内に、ぼくの中に激しい動揺が生まれた。隣のリンネはその専門的な内容が上手く理解できていないようで、不思議そうに眺めている。ぼくはリンネの顔を見た。リンネは相変わらず不思議そうな、そして心配そうな顔で見返してくる。リンネの力。人間の脳。共感。あらゆる情報と記憶が、頭の中を高速で流れる。これが、この研究結果が真実なのだとしたら。
「そうです。藍咲先生。人間の脳には、先天的に共感と同じ現象を発生させる機能が備わっていたんです」
驚きのあまりに言葉が出ない。だが頭のどこかでは、きっと納得していた。なぜならリンネがその生き証人だからだ。リンネはMETROの管理するシステムを使用せずとも、集合的無意識と共感をしていた。そして『リンネ』が言っていたこと。『扉は初めからあった』。これが本当なら、脳科学や共感医療などというレベルではなく、人類のあり方そのものを変革する大発見ではないのか。
「確かにこれは大きな発見です。ですが、僕にとっては手段でしかない」
ぱちん。橙夜が指を鳴らすと、実験資料の記憶映像たちが消える。
「さて、いよいよ僕の目的についてお話することにしましょう」
周囲のスクリーンの映像が変わる。爆撃された街。自爆テロ。通り魔。殺人。ひき逃げ。暴力。暴力。思わず目を逸らしたくなる。それらはすべて、人間の悪意の具現とも言えるものたちだった。
「端的に言うと、復讐です。この世界すべてに対する」
橙夜はまた、例の演説風の身振りで話し始めた。
「僕は世界に裏切られ、爪弾きにされました。異常者の烙印を押され、大人たちに振り回されてきました。僕はね、どうしてもそんな世界に一矢報いなければならないと思ったんです」
世界から爪弾きにされた者。異常者。大人たちに振り回されてきた半生。橙夜の語るその恨みつらみには、どこか懐かしさを覚えた。そうだ。ぼくだって。
「一矢報いる。では具体的にどうするか。まずは御門リンネさん。あなたの持つ集合的無意識への扉を使います」
そういうことか。橙夜の目的とリンネの能力。ようやく飲み込めてきた。
「次に集合的無意識を媒介として、全人類の脳に眠る共感回路を覚醒させます」
ぼくには橙夜が何をしたいのかがわかった。わかってしまった。そうそう、君たちは似たもの同士だからね。誰かの声が聞こえた気がした。
「そして集合的無意識に吹き溜まる怨嗟を、すべての人類の脳にフィードバックさせます。するとどうなるか。その先はご想像にお任せしましょう」
リンネと共感した時に見た怨嗟と悪意の集合体。それがすべての人間の脳に叩き込まれる。結果は想像するまでもなかった。自我を保って耐えられる者など、いるはずがない。それが復讐。人間が作る世界そのものに対する叛逆。
また、声が聞こえた。ねえ、それってぼくも考えてたよね。思い出してみなよ。母さんの顔は知らない。父さんには棄てられた。おじさんとおばさんはぼくのこと、邪魔者だと思ってた。施設のみんなもぼくなんかいないみたいに楽しく笑ってた。おまけに研究者たちはぼくを実験台にしたんだよ。ぼくはずっと世界に絶望してたんじゃないの。人間に失望してたんじゃないの。だったらさ、こいつの言うこと、間違ってるなんて言える立場じゃないんじゃないの。
入れ子になった意識の奥底から、その姿が現れた。幼いころのぼく。棄てられた孤独な子どもだったぼく。そいつがさっきから、ずっと話しかけてくる。橙夜に理解を示している、ぼくの心の一部。橙夜に賛同しろと唆す小さな悪魔の声。ぼくは、ぼくは。本当は。
「そんなこと、させません」
リンネの声が意識を引き戻した。リンネは今まで見たこともないような、強い意思の篭った目で橙夜を見つめていた。
「なぜです。あなたも理不尽に孤独と苦痛を押し付けられた者じゃありませんか」
理不尽に奪われた家族。異常な症例としてたらい回しにされてきた患者。リンネ。トラウマと集合的無意識。つねに二重の苦痛を背負うことを強いられてきた少女。
「たしかに、わたしも世界に失望しています」
あの屋上で語った哲学。認識されなければ存在しない。孤独の本質。
「わたしは辛かった。ずっと独りで苦しかった。でも先生が助けてくれた。そして自分の中にあるものを知った」
解呪の呪文のごときその言葉は、ぼくの中に強い光を注ぎ込んでいく。
「だから、辛いのはこれでおわりにするんです。わたしでおしまいにするんです」
それは何者をも寄せ付けない意志だった。誰にも突き崩せない、陰らせることのできない光だった。
「だから、わたしはあなたを否定します」
刹那、リンネの意識体から光の奔流が生まれた。そのまばゆさに思わず目を細める。それは周囲の記憶たちを吹き飛ばし、真っ暗だった空間を白く染め上げていく。視界が光に完全に塗りつぶされるその最後の一瞬、橙夜の明らかな敵意の篭った表情が見えた。
◆
正常になった視界が捉えたのは、ラボの外で対峙する自分たちの姿だった。思い出したように脚の痛みが脳に伝わってきた。橙夜は信じられないという顔をしている。それもそのはずだ。デバイスを使って作った制圧空間を、いとも簡単に破られてしまったのだから。実時間では数秒。その言葉通り、ラボの方からはまだ銃声が響いている。カスカ。
「似た境遇の我々は理解者になれると思ったんですがね。期待はまた裏切られた、というわけですか」
ぼくは橙夜を取り押さえるチャンスを狙っていた。リンネはぼくの左後方。脚の傷というハンデはあるが、この間合ならあるいは。ぼくは傷の痛みを解離させるように強く暗示を掛け始めた。大丈夫。痛いのは慣れてるでしょ。またあの子どもの声が聞こえた気がした。橙夜に気取られぬように左足に力を入れる。まるで感覚マスクのように、痛みの存在を理解しながらも、それに対する知覚は限りなく鈍い。行ける。
ぼくは体のバネを最大限に使って橙夜との距離を一気詰めた。失血が増えた気がしたが、きっと気のせいだ。橙夜の表情はわからない。ぼくは、橙夜の体の正面、銃を掲げる腕の下に潜り込むと、その顎を拳で狙った。一連の動作は完璧だった。しかし、振り上げた拳は橙夜の鎖骨辺りで止まった。いや、止められた。まるでそこに不可視の壁があるかのように、ぼくの拳は一ミリも動かない。そうして生まれたぼくの隙に、橙夜の蹴りがみぞおちに入る。リンネの悲鳴のような叫びが、遠く聞こえた。ぼくは後ろに吹っ飛ばされ、後頭部をアスファルトの地面にしたたか打った。すべての感覚が遠くなる。橙夜が何か言っている。ぱん。乾いた音が響く。右肩に激痛。橙夜はさらに近づいてくる。顔を起こす。ちょうど銃口と目が合った。だめだ。その時だった。
突然視界から橙夜の姿が消えた。どさり、という音がそれに続く。ぼくは右肩を押さえながらゆっくり体を起こした。さっきまで目の前にいた橙夜が、数メートル先に倒れている。頭やら肩やら脚やらの痛みで、正常に状況を分析できない。誰かがぼくの背中を支え、抱き起こす。リンネだった。リンネはまるで全力疾走した後のように肩で息をしている。
「これは、君が」
体中を打ったせいか、おかしな具合に声が出た。
「たぶん、そうです」
荒い呼吸の合間に、リンネが答える。徐々に意識がはっきりとしてきた。ああ、そうか。忘れていた。リンネの意識場の異常活性。形象化を起こしかねないレベル。すべて橙夜が語ったことだった。ぼくはリンネに支えられながら、何とか立ち上がった。橙夜は指一本動かす気配がない。意識を失ったか、それとも。とにかくこれは好機だ。ぼくはリンネに肩を借りながらバイクへと向かう。こんな体で運転できるかは甚だ疑問だったが、とにかくやるしかない。
バイクにたどり着いたぼくはまず自分のヘルメットを被り、リンネにももう一つのヘルメットを被せてやった。酷く痛む肩と脚を黙らせながら、なんとかマシンに跨ると、カスカから託されたキーを指し、エンジンを始動させる。
「しっかりつかまってろ」
エンジンの音に負けないように、大声でリンネに言う。リンネは返事の代わりにぼくの腰に強く手を回した。
◆
バイクはぼくらを乗せ、夕日の道路をひた走る。傷だらけの体にマシンの振動が追い打ちを掛ける。とにかくどこかで止血をしなければ。その前にラボから十分に距離を取る必要があった。でもその先は。その後はどうする。病院に戻るのか。戻って、橙夜の所業の一切を明かすか。それで果たしてすべて終わるのだろうか。教授以外の人間が洗脳されていない保証などどこにもない。橙夜はぼくよりもデバイスを使いこなしている。誰にも気取られずに意識を書き換えることなど、造作もないはずだ。なら、どうする。わからない。わからなかった。
ラボからすっかり離れた場所で、ぼくはバイクを停め、降りた。傷の状態を確認する。左足は銃弾が掠っただけ。止血さえすれば問題ない。右肩。おそらく銃弾が中に残っている。だが、まずは止血だ。ぼくはポケットのバンダナを引っ張りだすと、2つに裂き、それぞれ脚と肩を縛り上げた。ひとまずはこれでいい。あまりここで時間をとられるわけには行かない。
「大丈夫か」
リンネに訊く。リンネは笑って言った。
「それはこっちのセリフです」
一瞬ぽかんとした後、ぼくの表情筋が笑いを形作るのを感じた。こんな場面に似つかわしくない、微笑みの応酬。ぼくは再びバイクに戻る。リンネも後部シートに乗り、ぼくの腰に手を回した。エンジンを掛け、マシンを発進させる。
夕日は街路樹の隙間からさっきよりも濃いオレンジを投げ掛ける。日が暮れるまで、そう長くはないだろう。病院に着く頃にはもう夜だ。まずは外科に行かなきゃな。それから、それから誰に報告すればいいんだ。今回の顛末は。いや、やめよう。今はとにかく、無事に病院でカスカと合流することだけを考えろ。
AR端末が突然通話モードになった。通常の回線ではなく強制的なもののようだ。どうするわけにもいかず、ぼくは視線でウィンドウを操作し、受話コマンドを送る。かくして聞こえてきたのは橙夜の声だった。
「藍咲先生。無駄なことはやめたほうがいい。あなたたちの場所はちゃんとトレースできるんですから」
その声はどこか苦しげだった。それはそうだろう。あれだけ吹っ飛ばされて意識を失ったんだ。無事で済むはずがない。
「御門リンネに投与したナノマシンはいつでも使用できる状態にあります。その最後のスイッチはぼくの手の中だ」
「脅しのつもりか」
「半分はそうです。もう半分は説得です」
今更何を言い出すかと思えば。
「藍咲先生、御門リンネ。もう一度訊きます。僕に理解を示してくれますか」
懇願のようなその言葉は、まるで皮肉なものだった。他人を理解できないがゆえに世界を呪った男の言葉にしては、あまりにも皮肉な言葉だった。確かに境遇だけを見れば、同情してやってもいい。理解もしてやる。ぼくも似たようなものだったからな。ぼくのその言葉に、橙夜はどこか嬉しそうな声で答えた。
「ならば僕の理念も、目的も、理解できるはずです」
橙夜の目的。集合的無意識を媒介とした全人類の精神崩壊。誇大妄想じみたその響きは、しかし現実のものとして確かにいま、動き出そうとしている。世界への復讐。人間への復讐。確かにぼくは棄てられた子どもで、忘れられた子どもで、皆の輪からはじき出された孤独な子どもだった。養親の家で犬と遊びながら、ぼくは世界への絶望を募らせていった。けれどそれは期待の裏返しだったはずだ。裏切られたと感じるということは、逆説的に期待していたということになる。そうだ。ぼくは確かに世界に期待していた。そしてその期待は、金属が酸に蝕まれていくように、ゆっくりと失望に変わっていった。
「あなたも、僕も、本質は同じなんですよ」
そう。境遇という属性、もしくは記号を拾い上げてみれば、ぼくと橙夜は驚くほど似ている。誰かと分かり合うことを望み、叶わず、失望した。ぼくらの足跡は平行に走る二本の線のように似ている。だがそれは所詮平行線でしか無い。どこまでいっても、無限遠の先であっても、決して交わることのないふたつの道。だからそれはもう、別の道なのだ。ぼくはぼくの道を、橙夜は橙夜の道を歩いてきた。もし始まりが同じだったとしても、すでにぼくらの道は別々の方向に進んでしまったのだ。橙夜はもしかしたらそれに気づいているのかもしれない。気づいた上で、ぼくに期待しているのかもしれない。最後の最後に、自分と心を通わせてくれる人間が現れることを。
「確かにぼくらは似ている。だが辿ってきた道は別のものだ」
だからぼくは橙夜に宣言する。二本の道は決して交わらないという真理を突き付ける。
「あなたの中には本当に報復心がないのですか」
報復心。それは世界に対する怒り。人間に対する失望。それはぼくの中である程度のウェイトを占める感情であることを、否定することはできない。世界の歪みは人の心の歪みとして現れる。ぼくはそれを治す。苦しむ人を、元いた場所に戻す手助けをする。患者が来る。症状を明らかにする。症状には原因がある。原因はいつも、源流まで辿ってしまえば、この世界の歪みそのものなのだ。ぼくはそれに対して怒りを覚えている。それは否定しない。けれどそれは報復心とは、少し違う気がする。ぼくは確かに哀れな子どもだったかもしれない。体のいい呪いを受けたモルモットだったかもしれない。でも、ぼくにはカスカがいて、今ではリンネもいる。たったふたりだけれど、そのふたりが、ぼくを世界に繋ぎ止めてくれる。癒やしてくれる。そして、赦してくれる。だからぼくは、それで十分なんだ。
「ぼくはお前を哀れに思うよ。橙夜。まるで構って欲しくて泣きわめいてるガキだ」
ぼくは世界に怒っている。でもそれは報復心じゃない。
「報われないから、裏切られたから復讐する。まるで短絡的で底の浅い思考だな」
復讐が絶対的に悪だと、残念ながらぼくには言い切れない。心のどこかで、それを肯定したい自分がいる。
「お前はぼくとは違う。ぼくはお前とは違う。それは真理だ。それだけが絶対的に正しい解だ」
人間の相互理解とは漸近線のようなもの。確からしい解を探して、人々は傷つけ合う。
「だから、ぼくはお前を否定する。全力でな」
橙夜はしばし言葉を失っているようだった。今の奴に、いや橙夜アケルという人間に、ぼくの言葉が理解できるかどうかはわからない。けれどぼくは言ってやった。ぼくの言葉で、ぼくの思うことを言ってやった。
「そうやって、あなたも裏切るんですね」
これまでにないような暗い声色で橙夜が言う。ああ、お前はぼくにすら期待していたのか。世界に、人間に失望して、相互理解を諦めたとのたまいながら、結局お前はそうやってすがろうとする。その一貫性の無さが気に食わない。そして何より、リンネをただの接続装置として記号化し、矮小化し、道具化するその一切合切が許し難い。
「もう十分です。これ以上の会話は無駄でしょう。藍咲先生、最後にひとつ」
橙夜がついに何かを言おうとした時、端末に異変が起こった。突然橙夜との通信が途絶えたのだ。ウィンドウを操作するが、電波状態は問題ない。通信が途切れる時のようなノイズがない。何より端末はまだ通話モードになっている。これは途切れたというよりも、まるで。
「藍咲ユウ。聞こえるかい」
聞き覚えのない声がした。子どもの声に聞こえる。ぼくの名を呼ぶその声に、一切の心当たりがない。子どもの患者、というわけでもなさそうだ。普通の子どもに端末の通信回線を乗っ取る芸当ができるとも思えない。
「それに、御門リンネ。そこにいるの」
リンネのことも知っている。となれば橙夜の側の人間だろうか。
「誰だ」
たまりかねたぼくはそう訊いた。返答はない。バイクのエンジン音に重なるように、ただ無音が続いている。
「君たちに、来てほしい場所がある」
しばらくの沈黙の後、その声は告げた。来て欲しい場所。状況から考えれば罠としか思えない。ぼくはどうすべきか必死に考えていた。こんな時に限って傷の痛みを脳が認識してしまう。心臓の拍動とマシンの振動で増幅される痛みが、ぼくの正常な判断能力を奪おうと狙っている。しかし、その声が次に発した言葉によって、ぼくの意識は一瞬のうちに覚醒した。
「ボクはMETROシステム」




