【幕間】十五年前(前編)
バタバタと自分の足音がリビングに響く。時計の針はすでに七時三十分を指している。
「そろそろ行くよ!」声をかけるが、テレビのなかで陽気に踊るキャラクターに夢中のアオイには聞こえていないようだ。
食器をシンクに突っ込んで、洗面台で申し訳程度に髪を整える。右肩には自分の通勤バッグ、左肩にはアオイの保育園バッグ。ピッとテレビを消して、もっと見たかったと暴れまわる腕を引っ張って抱きかかえる。
「明日はパパと三人で動物園に行こうね」優しく話しかけても機嫌は直らない。暴れる体を必死でつかみながらパンプスを履く。
「ほら! 保育園遅れちゃうでしょ!」右ひじでドアノブを下げ、体当たりするように扉を開けた。
――だが、踏み出した一歩は、いつものコンクリートの感触を捉えなかった。
その先に広がっていたのは、いつもの景色ではなかった。
薄暗く、寒々しいほど広い石造りの部屋。自分たちを取り囲む十数人の男たち。
皆、おとぎ話に出てくるような豪奢で奇妙な服を着ていた。
怖い。
それが、長谷川カナコが異世界で最初に抱いた感情だった。腕の中のアオイを抱きしめる力を、無意識に強くする。アオイの短い髪がサラサラと腕をなでる。
ここはどこなのか、なぜ自分たちがこの場所にいるのか。必死に問いかけるカナコに対し、男たちは平然と言い放った。「魔王を討つために、その小さな男の子は勇者として異世界から召喚されたのだ」と。
「すでに三人の男の子が日本から召喚され、勇者として立派に教育を受けているから安心してほしい」
そう言って笑う男たちに、
ふざけないで。アオイはまだ二歳。しかもTシャツにパンツの格好だが、れっきとした女の子です!
そう拒絶の言葉を口にしようとした、その時だった。
カナコの耳が、物陰でひそひそと囁き合う、不穏な男たちの会話を拾った。
「予定通り、二歳の男の子が扉をくぐって良かったですな」
「またしても母親がついてきたがな。全く忌々しい……」
「まあ、今度は上手く使えるかもしれませんし。一旦、様子を見ましょう」
――引き剥がされる
このままここで喚き散らしていたら、アオイを強引に奪われる。直感的にそう察した瞬間、ガタガタと震えていた膝を、自らの意志でピタリと止めた。
カナコはそれ以上何も言わず、物分かりがよい母親のふりをして微笑んだ。そうして二人は、男の子の召喚勇者と母親としてルーメンに受け入れられた。
あてがわれた城の片隅で、絶望に暮れるカナコを救ったのは、先に拉致されていた子供たちだった。
先輩の勇者達は皆、よい子だった。
一六歳のシュンを筆頭に、十三歳のヤマト、そして六歳のユウトが従順に勇者教育を受けていた。
まだ幼いユウトは母親が恋しいらしく、すぐにカナコに懐いた。シュンやヤマトは勉強の合間に進んでアオイと遊んでくれ、その城の片隅には、一見すると穏やかな新しい家族の風景が出来上がっていた。
幸い二歳という年齢からか、この国の人々はアオイが男の子だと信じ切っているようだった。
カナコはアオイの一切のお世話をしながらも、朗らかな笑顔を絶やさずに城の使用人たちの雑用を手伝い、その裏で冷徹に情報収集に努めた。
この狂った国から、愛する我が子たちを連れて必ず日本へ帰るために。
親しみやすいカナコの態度に、城内の者たちの警戒はみるみる薄れていった。三カ月もすれば、「勇者たちの母」として完全に受け入れられた。
カナコはそのなかで、カイル・ヴァルハイトという年若い官僚に出会った。
端正な顔立ちで柔和な性格、それでいて仕事は優秀であるがゆえに、いつも周囲からの面倒な仕事を押し付けられているような男だった。
「ごきげんよう、ヴァルハイトさん。今日も夜中まで残業?」
「カナコさん、こんばんは。これもルーメン王国のためですから。私ができることをするまでですよ。カナコさんもお辛い中、わが国のためにありがとうございます」
愚直に国のためを想い、優しく笑う若者。
こんな人がたくさんいれば、私たちを日本から拉致する必要なんてなくなるのに。
そんなやり切れない思いを抱えながら、カナコはその場を後にした。
カナコがこの三カ月間で得られた情報は、あまりにもおぞましいものだった。
この国は、いつか来る魔王襲来を恐れ、定期的に日本から勇者の素質を持つ幼い男の子を召喚していること。星野シュンは十年前、秋山ヤマトは七年前、瀬尾ユウトは二年前に召喚されていた。
彼らは十七歳でこの世界の神アウローラによりギフトを授けられるその日まで、城内で『英才教育』という名の過酷な洗脳を受けていること。
そして、ユウトは自身の母親『瀬尾ミサキ』と一緒に召喚され、一年後に母親を殺されていること。
それはカナコも同じ運命にあることを示すものだった。
*
カナコは愛する我が子たちを連れて必ず日本へ帰るため、情報収集に努めていた。
そんなある夜、寝室で横になる直前、誰かの冷徹な会話が、突如として耳の奥へ滑り込んできた。
「新しい母親は、なかなか役に立ちますな」
「今のところはうまくいっているな。なあに、前の勇者の母親……ミサキと言ったか? アレのように、邪魔になったら消せばよかろう」
この部屋ではない。城内のどこか遠くの部屋だ。
通常なら耳に届くはずのない密談に、カナコはじっと息を殺して耳を澄ませた。
その会話は、ユウトの母親が殺された事実と、自分に迫る死の運命を意味していた。
不思議なことに、この世界に来てから、カナコは耳を澄まして集中すると、城内中のあらゆる音が聞こえるようになっていた。
会議室での紛糾した話し合いが、厨房での料理人の怒鳴り合いが、廊下の片隅での使用人たちの噂話が、すべてカナコの耳へと流れ込んでくる。
自身の肉体の変化に対し、カナコは二つの仮説を立てていた。一つは、アウローラが招く勇者は、男児だけに限らないということ。
この世界の人々は、なぜだか男児だけだと思い込んでいるようだが、カナコとアオイに扉が開かれたことがその証拠だった。
そして二つ目。勇者に関わらず、この世界に来た日本人は、十七歳になって以降初めての『切実な願い』が、叶えられるのではないかということ。
カナコは扉をくぐったあの瞬間、心から恐怖した。
ーー誰か、私に何が起こっているか教えて。
暗闇の中で放ったその魂の叫びに応え、アウローラ神はカナコへ、この歪な城のすべてを聞き届ける『耳』を授けてくれたのではないか。
そう考えれば、勇者でも男性でもないカナコが、十七歳の儀式もせずにギフトを与えられたことにも説明がつく。
ーーでも、まずは殺される前に逃げなくては。
手に入れた聴力のギフトは確かに便利だが、幼い子どもを抱えてこの堅牢な城から逃げ出すことは、今のカナコには到底不可能だ。
ベッドにアオイとユウトを並べて寝かせ、月明かりだけを頼りに、カナコはデスクの前でうんうんと唸る。
途方に暮れて、左手の薬指に光る指輪に無意識に触れたとき、
ーーカサリ、と。背後の闇から、衣服の擦れる音が鼓膜を震わせた。
「お困りのようだね?」
突然、背後から聞き慣れないしゃがれ声が聞こえた。
「誰?」
カナコが勢いよく振り返ると、そこにはだぶだぶのローブを深くまとった、見知らぬ老人が静かに立っていた。
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