第65話 不審死、現場主義
第一セクター――フェノム・システムズが統治と運営の全権を握るその領域は五十存在するセクターのなかでもひときわ静謐でかつ歪な清潔感に満ち溢れていた。
整然と立ち並ぶ高層研究施設や広域再資源化プラントの表面に反射し、無機質な銀色の光を街並みに投げかけている。通りを行き交う市民たちの身なりは端正であり、排気音を極限まで抑えた自動輸送機が低く唸りを上げて滑空していく。
下層の安アパート街に漂う湿気や重油の臭いは一切遮断され、高度なエアフィルターを通して供給される無臭の空気が、この都市の隅々までを循環していた。
だが、その完璧にコントロールされた「清潔さ」と「平穏」こそが、フェノム・システムズが製造し、市民に売り渡している最大の製品そのものであった。
フェノム・システムズ本社タワー最上階、分厚い防音壁に囲まれた代表執務室。
フレデリーク・マリは手元の端末に投影された青白いホログラム・ウィンドウのデータ群から目を離さず、薄い磁器のカップに注がれたぬるい紅茶にわずかに視線を落とした。彼女が纏う濃紺のテーラードジャケットには一塵の乱れもなく、その端正な横顔には冷徹なまでの静けさが張り付いている。
彫刻のように隙のないそのビジュアルはメディアが好んで取り上げる「洗練されたセクター代表」そのものであり、株価を安定させるための完璧な看板であった。
「代表、第1セクター・第7居住区の裏手で発生した案件ですが……監察局への正式な第一報が入る前に現場の第一処理班からダイレクトラインで報告が届きました」
重厚な自動扉が無音で開き、側近を務める女性職員が足早に入室してきた。
「続けなさい。例の『不審死』の件ね」
フレデリークは紅茶のカップをソーサーに置き、細い指先でホログラムをスワイプして、該当区画の監視カメラ映像と生体モニタリング・データを呼び出した。
「本日午前一時四十二分。該当地区の居住ブロック路地裏にて深夜勤務から帰宅途中であった第1セクター籍の男性技術者一名が、突然の身体自壊により死亡しました。爆発物や化学薬品、外部からの物理的衝撃の反応は皆無。遺体の損壊状況および周囲の残留波動から見て、異星兵器の直接的な空爆や着弾ではなく、局所的な干渉波に伴う『無意識の願望反転』による崩壊と断定されます」
ホログラム映像に映し出されていたのは、ありふれた深夜の街角だった。
濡れたアスファルトの上を歩いていた男が、何の前触れもなくふと足を止める。
苦悶の表情を浮かべる猶予すら与えられず、男の胸中央から一瞬にして高熱と衝撃波が生じ、肉体と身に着けていた衣服が内側から弾け飛ぶように四散した。 血肉と炭化した物質が周囲の壁にべっとりと塗り付けられ、映像はそこで途切れている。
空には何も飛来していない。
上空のレーダー網も地上の防衛網も「平穏」を示したままだ。
それは目に見えないどこかから文字通り「空から降ってくる落ち物」のようにはるか、上空あるいは外部からもたらされた異星兵器の残留エネルギーが人間の持つ無意識の願望に不意に触れた結果起きた理不尽な死……不審死であった。
「死因の誘発要因は?」
「直前までの被害者の精神ログ照合によれば慢性的な業務ストレスと人間関係の摩耗から強い逃避願望を無意識に抱いていたフシがあります。その精神波形が、願望の逆作用を引き起こしました。結果として体内物質が一瞬にしてガスおよびプラズマ化し、物理的な破裂に至った模様です」
フレデリークは小さく鼻から息を吐いた。
異星兵器がもたらす脅威はなにも大々的な軍事攻撃だけではない。むしろ人々の足元に潜み、何気ない日常の倦怠や絶望、鬱屈した『願望』を勝手に拾い上げて最悪の形で具現化させるこの種の突然死こそが、現代社会の構造のなかに最も深く潜行した毒であった。
「警報が出ない分、一般市民の目には『原因不明の身体爆発』にしか映らないわね。……目撃者の状況は?」
「衝撃音と肉片の飛散により、同ブロックの住民三名が窓から現場を目撃しています。すでにSNSのローカル・クラスタへ『路地で人が爆発した』という短文投稿が二件流出しました。ただし即座にセクター内の通信ノードで検閲を掛け、投稿の自動削除とアカウントの一時凍結を完了しています」
「監視カメラの映像の差し替えは?」
「完了しています。該当時間帯の映像は、『老朽化した地下高圧蒸気パイプの破裂事故』に置換済みです。現場周辺にはすでに我が社のクリーンユニットが到着し、第一段階の物理封鎖線を構築しました」
「結構。……では現場の処理手順を私が指示した通りに完璧に実行しなさい」
フレデリークは立ち上がり、巨大な窓ガラスの向こうに広がる第1セクターの全景を見下ろした。無数に明滅する光の粒子。そのひとつひとつが、何も知らずに息を潜めて生きる市民たちの生活だった。
◆
現場となった第7居住区の路地は、すでにフェノム・システムズの黄色い警告テープと騒音や視線を完全に遮断する大型の環境隔離スクリーンによって完全に覆い隠されていた。
スクリーンの内側では防護服に身を包んだフェノム・システムズの特殊除染部隊が、専用のノズルを備えた大型清掃機器を構えてテキパキと作業に当たっている。
路地のアスファルトや両脇のビル壁面には、爆破によって飛散した細かな生体組織と血液がへばりついていた。
「代表が到着されたぞ!」
現場監督の低い声とともに作業員たちの動きが一層引き締まる。
降り立ったフレデリーク・マリはヒールの音を静かに響かせて汚染区域へと踏み込んだ。彼女の周囲には、白衣を着たフェノムの首席研究員たちがデータ端末を抱えて付き従っている。
「代表、危険です。まだ微量の相転移残留波形が空間に漂っています」
「構いません。我が社が誇る『物質浄化・相転移技術』の遮断限界値の範囲内です。……それより、現場の清掃状況は?」
フレデリークは壁を一瞥し、冷淡な声で問いかけた。
「はい。相転移分解スプレーの散布を進めております。飛散した生体組織および衣服の繊維、残留エネルギーは分子レベルで相転移を引き起こし、無害な不活性ガスと水蒸気に分解・精製されます。痕跡は跡形もなく消滅します」
「結構。だが、ただ物理的に消去するだけでは不十分よ。人間という生き物は目の前で起きた異常を自分たちの知る物語に当てはめて解釈したがるものだから。事故の『物語』を物理的な証拠をもって補強しなさい」
「物語……ですか?」
研究員が首を傾げるとフレデリークは路地の壁面、破裂の爆心地点となった古い蒸気配管の接合部を指差した。
「相転移技術を用いてその高圧パイプの金属表面を局所的に可塑化・溶融させなさい。あたかも内部からの長年の高熱圧力によって金属が疲労破壊し、金属片と高温蒸気が噴出したかのような過熱痕と破断面を偽造するの。監察局の鑑識が入っても物理的な破壊プロセスの辻褄が完璧に合うようにね」
「はっ……! 直ちに処理の工程を切り替えます!」
「それから、現場を目撃した住民三名についての対応は?」
後ろに控えていた広報兼危機管理チームの担当者が一歩前に出た。
「は、はい!目撃者に対してはフェノム・システムズのメンタルケアチームを即座に派遣済みです。『インフラ事故による突発的爆音のショックに対する精神支援』という名目で自宅を訪問し、高濃度の鎮静処置と、合意の上での記憶安定化アンプルを投与しました。それから……併せて多額の事故目撃に関する口止め料……で、ではなく!併せて多額の『セクターインフラ不備に対する生活補償金』名義での口座振り込み手続きを完了しています。『深夜に凄まじい蒸気爆発事故を目撃し、ショックで一時的に記憶が曖昧になった』という認識で完全に固定されてます!」
「素晴らしい手際ですね。過剰な記憶消去や力づくの脅迫はかえって監察局の無駄な嗅覚を刺激する。人間は『補償金』と『もっともらしい事故の説明』さえ与えられればそれが真実だと思い込みたがる生き物よ」
フレデリークの言葉には人間の心理に対する冷ややかな洞察が込められていた。
彼女がやっているのは単なる隠蔽工作ではない。第1セクターという巨大な社会を支える「平穏という名の虚構」のメンテナンスであった。
フェノム・システムズは表向き、広域再資源化プラントを運営し、汚染物質の回収や有害危険物の隔離処分、突発的事故現場の区域整理を担うインフラ企業である。街角のゴミ箱から空気清浄ろ過装置に至るまで、あらゆる場所にフェノムの六角形ロゴが刻まれている。住民たちは自分たちがその統治と支配の下に置かれていることすら深く意識せず安全で快適な日常を享受している。
だが、その安全の裏側には、日々発生する理不尽な死や異星兵器に起因する異常事例を誰にも気づかれぬうちに「清掃」し続ける手腕が存在していた。
「代表、相転移分解作業、および疑似破壊痕の定着が完了しました」
作業員の報告とともに強力なノズルから噴射された無色の蒸気が路地全体を包み込んだ。
飛び散った肉片も、焦げ付いた生体組織の臭いも、すべては相転移技術によって分解・再構成され、無臭の空気とわずかな水滴へと姿を変えていく。数分後、蒸気が完全に晴れた現場に残されていたのは古びた金属パイプが無残に破裂し、煤けた黒い痕跡が痛々しく残るごく「ありふれたインフラ事故の現場」であった。
「完璧ね」
フレデリークは満足そうに頷くとポケットから薄手の手袋を取り出し、スマートな動作でそれを外して捨てた。
◆
現場処理を終え、フェノム・システムズ本社の地下深くに位置する第3研究棟へと戻ったフレデリークを待っていたのは回収された「データ」の緻密な解析作業だった。
クリーンルームの広大なホログラム・ディスプレイには先ほど爆破散逸した男性の生体データと破裂の瞬間に観測された時空・物質波動の波形が細部まで可視化されている。
「代表、回収されたサンプルの分析結果が出ました」
白衣を着た首席研究員が、慎重な面持ちでタブレットを差し出す。
「やはり異星兵器の残滓波形が人間の深層心理――特に『自虐や強い逃避願望』と同調した際、体内の物質状態が瞬時に変化する『局所的相転移現象』が起きています。これは通常の物理法則では説明がつきません。完全に異星テクノロジーの干渉によるものです」
「説明がつかないというわけではないでしょう。私たちの知る既存の物理法則が、この世界の唯一のルールではないのだから」
フレデリークの深い青の瞳が、ホログラムの光を反射して冷たく光った。
「この不審死データはジェノエッジの遺伝子改変データと照合しなさい。人間の感情や意志がどのように物質界の構造に物理的な干渉を引き起こすのか……その相関関係のパターンをすべて網羅する必要があります」
「かしこまりました。しかし……代表。監察局から第7居住区の『事故』に関する詳細な公式レポートの提出を求められています。彼ら上層部は我が社が異常事例のデータを独占していることにかねてより不信感を抱いているようです」
研究員の懸念に対し、フレデリークは薄く冷ややかな嘲笑を浮かべた。
「監察局の役人どもには完璧に整えられた『事故報告書』を叩きつけておきなさい。配管の老朽化率、金属の引張強度疲労、被害者の死亡診断書――ミリ単位まで数字を合わせ、一切の隙もない書類を作らせるの。彼らは形式が整ってさえいればそれ以上深く追求しようとはしないでしょう」
監察局は表向き、各セクターの政府や企業を監視する治安機関である。
だが、フレデリークはこれまでの経験から知っていた。監察局の現場職員の多くはただ自分たちの管轄内で「目立ったトラブル」が起きないことだけを望んでいる事務屋に過ぎないことを。派手な事件や怪物の出現であれば規定通りに押しかけてくるが、痕跡ひとつ残さず完璧に「清掃」された事故に対しては余計な手間を嫌って書類一枚で処理を済ませてしまう。
「彼らは『街が静かであること』を望んでいる。ならば、その静寂を与えてあげればいい。それが虚構の上に成り立っているとしてもね」
フレデリークの思考の根底にあるのは世界を救済するというような高尚で感傷的な利他主義ではない。貧困をなくすこと、すべての人間を幸福にすること、死や苦痛を根絶することを、彼女の最終目的として定める必要はない。
彼女が目指しているのは、「現在の世界だけが唯一の成立可能な世界である」という前提そのものを覆すことであった。
世界は約千年前から、五十のセクターという枠組みによって管理され、決められた技術とルールの中で秩序を保たれている。人々はそのルールを疑うことなく受け入れ、日々の生活を営んでいる。だが、フレデリークにとってその「維持されている秩序」が正解であるという証明にはなり得なかった。
既存の制度が社会を安定させているからといって、それが人類の唯一の生き方であるとは限らない。世界の未来を既存の管理者や過去の仕組みだけに委ねる気は毛頭なかった。
(世界は私たちが思っているよりもずっと不確定で、容易に変容し得る)
変異体と呼ばれる存在、異星兵器がもたらす理不尽な物理法則の崩壊、そして人間の願望が引き起こす肉体の崩壊――。
それらは一般市民や管理者たちにとっては恐るべき「異常」であり、隠蔽すべき「脅威」に過ぎない。だが、フレデリークにとっては違った。それらの異常現象こそが、この世界を縛り付けている固着した構造を解き明かし、再定義するための不可欠な鍵だったのだ。
「代表」
通信端末から、別の秘書官の声が響いた。
「テレビ局との定例インタビューの準備が整いました。第1セクターの環境浄化事業およびインフラ安全管理に関する全セクター向けPR枠です」
「ええ、すぐ向かうわ」
フレデリークは鏡の前に立ち、自身の服装と髪型に乱れがないかを素早くチェックした。
先ほどまで死臭と分解ガスの漂う路地に立ち、異星兵器の波形データを冷酷に分析していた人物と同一人物とは到底思えないほどその顔には穏やかで洗練された「企業の顔」が作り上げられていく。
◆
スタジオの強力な照明が眩しくフレデリークを照らし出す。
カメラの向こう側では第1セクターのみならず、全セクターに向けて彼女の姿がリアルタイムで配信されていた。
『……さて、マリ代表。先ほど第7居住区で発生した局所的なインフラ事故ですが、フェノム・システムズの迅速な対応により、すでに現場の安全が完全に確保されたとお聞きしました』
洗練された仕草で頷く女性アナウンサーに対し、フレデリークはカメラ目線で静かに薄い唇を開き、完璧に計算された微笑みを浮かべた。
『ええ。住民の皆様には大変なご心配をおかけいたしました。我が社が誇る広域再資源化および物質浄化技術により、危険物質の完全な隔離と現場の復旧はすでに完了しております』
その声は滑らかで、聞き手に絶対的な安心感を与える響きを持っていた。
『我々フェノム・システムズの使命は壊れてしまったものをそのまま放置しないことです。散らばったものを回収し、分類し、危険を極限まで減らし、再び人々が安心して暮らせる形に戻す。……私たちがやっているのはただそれだけのことでございます』
画面の向こうで狭い部屋でぬるいお湯を飲みながらテレビを見上げている住民たちが、その「完璧なスピーチ」に安堵の息を漏らしていることだろう。
明日もまた水道から水が出、電気の通った部屋で眠り、何事もない一日が始まる。彼らは自分たちの足元で何が起きているのかを知らず、知る必要もなく、ただ作られた平穏のなかで生きている。
『代表、昨今は各セクター境界付近での異星兵器の飛来や、散発的な異常現象に対する市民の不安が高まっておりますが……』
『悲しい現実として、予測不能な脅威は今この瞬間も世界のどこかで発生しております』
フレデリークは微かに表情を曇らせてみせた。
その演技には何の一片の破綻もない。
『ですが、恐怖に支配される必要はありません。フェノム・システムズが皆様の前に立ち、あらゆる危険を迅速に「清掃」し、日常を守り続けることをお約束いたします。どうか安心して、それぞれの日常をお過ごしください』
カメラの赤ランプが消え、収録の終了を告げるベルが鳴り響いた。
「完璧でした、代表。株価の反応も極めて良好です。各セクターからの問い合わせも最小限に抑えられています」
広報担当者が胸を張りながら駆け寄ってくる。フレデリークは微笑みを消し、無表情のままマイクを外した。
「当然よ。市民が求めているのは真実ではなく、安心できる嘘なのだから」
彼女はスタジオを後にし、再び静寂に包まれた最上階の執務室へと戻った。
広大な窓の外には夜の帳が下りた第1セクターの美しい街並みが広がっている。
相転移技術によって分子レベルで分解された一人の人間の死はすでにこの街のどこにも残っていない。事故として処理され、書類の中に閉じ込められ、人々の記憶からも綺麗に消去されていく。
フレデリークは冷たいガラス窓にそっと指先を触れさせた。
「世界の管理者たちがどれほど強固な枠組みを作ろうとも……隙間から溢れ出す『歪み』を完全に消し去ることはできない」
彼女がやっているのは秩序を守るための清掃でありながら、同時にその秩序の限界を突き崩すための「資料集め」でもあった。
不審死のデータ、変異体のサンプル、相転移による物質の変化。それらすべてが積み重なったとき、世界の成立条件そのものへと介入するカードを手に入れることになる。
その再定義の先にある世界が人類にとって真の救いとなるか、あるいはさらなる混沌となるか、彼女自身にも分かっていない。だが、そんなことはどうでもよかった。
「さあ、次の仕事を始めましょう」
フレデリークは静かに背を向け、青白いホログラムが浮かび上がるデスクへと戻っていった。代表として、そして世界の構造を暴く冷徹な実験者として彼女の一日は休みなく続いていくのだっ




