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退廃都市の記録係  作者: theo
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第66話 形骸師

 コツ、コツ、コツ。

 無機質なコンベヤの駆動音と冷たい空調の風切り音しかしないこの場所においてその音はあまりにも場違いでそして鮮烈だった。

 環はキーボードを叩いていた指をピタリと止め、その無機質な黒い瞳をわずかに細めた。アキもまた手元で弄んでいた小さな金属片から慌てて顔を上げ、音の出所である暗がりに視線を釘付けにする。


 コツ、コツ、コツ。

 規則正しい。一定の間隔を保ち、漆黒のベルトコンベヤの遥か奥から確かな重みを持ってこちらへ近づいてくる。機械の軋みや部品が転がる音ではない。まぎれもなく生きた人間が硬質な床を叩く足音だった。


「……先輩」

「ああ」

「今、聞こえましたよね?」

「聞こえたな」

「人が歩いている音ですよね、これ」

「そうだろうな」


 環はパイプ椅子から腰を浮かせることすらないまま、ベルトコンベヤの暗い搬送路の奥へと視線を向けた。対してアキはゆっくりと腰を浮かせた。

 この職場においてコンベヤから流れてくるのは無機物や書類、工具だけとは限らない。以前、公共安全局の役人たちが怒号とともに全身を拘束された状態でこのコンベヤに乗せられて流れてきたこともある。


 だが、今回のそれは明らかに違っていた。

 何者かに追われているわけでも、強制的に運ばれているわけでもない。

 足音には余裕があり、その歩みはどこまでも悠然としていた。


 コツ、コツ、コツ。

 高い踵が金属とコンベヤの継ぎ目を打つ乾いた音が、壁に反響する。

 やがて無限に続くかと思われたベルトコンベヤの暗がりから、一人の人影がゆっくりと輪郭を現した。


 最初に見えたのは、足元だった。

 細く尖った爪先。丹念に磨き上げられた黒い革。その踵は驚くほど高く、歩くたびに冷たく硬質な音を響かせている。

 視線を上へ向けると、その人物の装いはさらに異様だった。幅一メートルほどの、本来は工業用の搬送路であるはずのベルトコンベヤの上を彼女はまるで劇場の特設ステージでも歩いているかのように優雅に進んできたのだ。


 身にまとっているのは黒い布地を基調とした長い上着だった。左右で非対称に断ち切られた裾が歩みに合わせて揺れ、身体の線に沿ってミリ単位で調整された胴衣には、幾重もの細い銀色の留め具が規則正しく並んでいる。袖口には精緻な縫い取りが施され、肩から腰にかけて走る縫い目は衣服そのものの構造美を誇示するかのような計算された配置になっていた。

 それを「飾り立てている」と表現するのは適切ではないだろう。服そのものが、着る人間の肉体と一体化した一つの完成された作品なのだ。


 腰には細長い鞘が静かに吊られていた。

 そこに収まっているのは護身用の短剣と呼ぶには長く、かといって軍用の剣と呼ぶにはあまりにも細すぎる異様な形状の刃物だった。柄の部分には繊細な装飾が彫り込まれていたが、それが実用的な握りやすさを犠牲にしているようには微塵も見えない。

 さらに、対側の腰には金属製の小さな道具入れが下げられていた。最初はアクセサリーの一種かと思ったが、その擦り切れた質感からして本職用の精密な道具が収められていると見て間違いなかった。


 ――その人物は女性だった。

 年齢は二十代後半から三十代前半といったところか。整いすぎた顔立ちに涼しげな切れ長の目。髪は深く暗い灰色で、後頭部の低い位置でタイトにまとめられている。耳元では細い金属片を幾重にも組み合わせた幾何学的なイヤリングが、彼女の微小な動きに合わせて揺れていた。化粧はごく薄く、派手さはない。

 それなのにひどく目を引いた。この血と油と鉄錆の匂いが染みついた殺風景な地下室に存在していること自体が、あらゆる物理法則や文脈を無視したエラーであるかのような圧倒的な異物感を放っていた。


「……うわあ」


 アキは思わず幼い子供のような感嘆の声を漏らした。

 女性は作業室の片隅に立ち尽くす二人の姿を認めるとすっと優雅に足を止めた。それからまるで舞踏会の来賓客のようにゆっくりと美しい弧を描いて頭を下げた。


「ごきげんよう。突然の訪問をお許しくださいませ」


 よく通る、驚くほど落ち着いた鈴を転がすような声だった。


「……ごきげんよう?」


 アキはあまりの非現実感に、反射的にオウム返しのように聞き返した。


「ええ。ごきげんよう」

「……あ、はい。ごきげんよう?」

「おや。ご挨拶を返してくださるのですね。ありがとうございます」


 女性は嬉しそうに花がほころぶような微かな笑みを浮かべた。

 アキは返答に窮した。まさかこんな場所で貴婦人のような挨拶を交わすことになるとは思わず、ただまばたきを繰り返すばかりだ。


 女性は二人の顔を交互に眺め、それからゆっくりと周囲へ視線を巡らせた。

 剥き出しの白いコンクリート壁。乱雑に置かれた金属製の机。油汚れの染みついたパイプ椅子。青白く発光するノートパソコン。そして、床に深く埋め込まれた黒いベルトコンベヤ。

 彼女の瞳はまるで展示室のレイアウトを検品するかのように一つひとつのディテールを冷静に確かめていく。


「なるほど。こちらは……搬送施設でしょうか」

「まあ、そんなところだな」


 環が、相変わらず無愛想なトーンで答えた。


「先輩、説明が雑すぎません?」

「間違ってはいないだろう」

「いや、それはそうですけど……」


 女性は小さく、納得したように頷いた。


「搬送施設。ええ、確かに。何かを運ぶための場所であることは間違いなさそうです」


 彼女は足元を見下ろした。

 そして尖った革靴の爪先で、床の金属フレームを軽くコン、と叩いた。


「それにしても面白い構造ですこと。床そのものが運搬経路になっている。安全柵も案内表示も非常停止装置も見当らない。作業員の動線と搬送経路が重複しているのにこれほど無頓着とは……設計者の狂気を感じますわね」

「……先輩。この人、どこかの役人ですか?」

「知らん」

「聞こえておりますよ」


 女性は品よく微笑んだまま、ふわりとこちらを振り返った。


「わたくしは役人ではございません。少なくとも本日スケジュールにこの施設の視察は含まれておりませんわ」

「本日の予定って……そもそも一体どこから……」

「わたくし、少々急いでおりましたの。ですからどこかで道を間違えたのでしょうね」


 彼女は困ったように綺麗に整えられた眉をハの字に下げた。

 しかしその表情に「迷子」特有の焦燥感や恐怖心は微塵も感じられなかった。

 急いでいたと言うわりに、まとめられた灰色の髪が一筋も乱れていない。衣服には高級な仕立てを証明するようなハリがあり、埃ひとつついていない。あんな高い踵の靴でコンベヤを歩いてきたというのに呼吸すら全く乱れていなかった。

 ――そもそも常識的に考えて“迷子”が、どうしてこんな厳重に隔離された搬送路に直結するのか。


「道を間違えたというのは……」


 アキが恐る恐る尋ねる。


「ええ。つい先ほどまでわたくしはとある建物の通路を歩いておりましたの」

「通路?」

「はい。白い壁に等間隔に配置された黒い案内板。天井には冷たい直管照明が並んでいて、足元には灰色の静音絨毯が敷かれておりました。少々趣味の悪い、効率主義に毒された内装ではございましたが、目的地である会場へ向かう道としては何ら問題ありませんでしたわ」


 女性はそこで一度言葉を切り、優雅に息を吐いた。


「ところが、気がつけばこのような場所に」

「……気がつけば?」

「ええ」

「いつの間にか?」

「ええ」

「……通路から突然ここに?」

「そのようですわね」


 アキは思わず隣の環を見上げた。

 しかし環はただ淡々と女性の姿を見つめているだけで、特に驚いた様子もない。


「先輩。こういうのって、この会社では珍しくないんですか?」

「人が流れてくること自体は以前にもあっただろう」

「いや、それは分かってますけど! 今回は自分の足で歩いてきたんですよ?」

「そうだな」

「そうだな、じゃなくて……!」


 アキは頭を抱えたくなる衝動に駆られた。

 以前流れてきた公共安全局の役人は確かに拘束具を嵌められ、荷物のようにコンベヤの上を流されてきた。搬送経路に沿って移動してきたという理屈はまだ通じる。

 だが、この女性は違う。自分の足で歩き、空間の裂け目を踏み越えるようにしてこの地下室に迷い込んだのだ。

 どう考えてもフェノム・システムズの異常性のなかでも一段とタチの悪い部類の現象だった。


「……あの、失礼ですが。お名前をお伺いしても?」


 意を決してアキが尋ねると、女性は優雅に胸元に指先を添えてみせた。


「外肢工芸団に所属しております。『形骸師』のセレンと申します」

「……形骸師?」


 聞いたこともない物騒かつ芸術的な響きの肩書だった。

 アキは脳内の記憶の引き出しを必死に探ったが、該当する組織の名前すらうっすらとしか思い出せない。


「外肢工芸団ってあの……裏社会で噂の異種族を狩って、その身体を加工するという……?」

「まあ。ご存じなのですか?」

「名前だけなら。異種族を改造する、狂……いえ、先鋭的な文化団体だって聞いたことがあります」

「ええ。大筋では間違っておりませんわ」


 女性――形骸師は、我が意を得たりとばかりに満足そうに頷いた。


「わたくしたちはかつて生きていたもの、あるいは現在進行形で生きているものの構造を精密に保存し、あるいは意図的に変形させ、そこに新たな美学的意味を与えることを生業としております。失われた機能をそのまま美として残すこともあれば、あえて機能を完全に終わらせることによって初めて成立する究極の表現もございますの」

「……なんだか、ものすごく難しくて、背筋が寒くなるお話ですね」

「そうでしょうか?」


 形骸師は小首をかしげた。


「たとえば鳥の翼を思い浮かべてみてくださいませ。空を飛ぶための器官として見れば翼はただの飛翔のための構造物です。しかしその生体から剥離され、二度と空へ羽ばたく機能を失った翼には全く別の静的な意味が生まれます。骨格の精緻な連なり、羽毛の重なり、奇跡的なまでの左右の対称性……飛ぶことができなくなったからこそ初めて剥き出しになる美しさもございますのよ」


 彼女は自分の手袋に覆われた細い指をそっと持ち上げた。

 その指先がゆっくりと優雅に開かれる。


「もちろん、何でもよいわけではございません。素材の由来や歴史を無視した加工は単なる乱暴な破壊に過ぎません。構造を理解せずに形を変えればそれはただの失敗作です。美しさとは何かをただ足せば得られるような安易なものではございませんからね」

「……へえ」


 アキは身震いを覚えながらも、その淀みのない語り口に妙な説得力を感じてしまい、素直に感心させられてしまった。

 話している内容は確かに一貫した哲学に基づいている。

 だが、だからこそ恐ろしい。


 彼女は異種族の生体や肉体を加工する残酷な所作について語る時と自分の仕立ての良い衣服について語る時とで完全に同一のトーンを保っていた。

 どちらも彼女にとっては「構造を理解し、形を見極め、適切な処理を施す対象」でしかない。


「それでその……形骸師さんはどうしてこんなところに?」

「先ほども申し上げた通り、道に迷ってしまいましたの」

「ええと……どこかの展示会に向かっていたんですよね?」

「はい。わたくしの属する界隈では非常に権威のある御方が主催される大規模な展示会でございます。わたくしどもにとっても自分たちの技量を世界に証明する、たいへん名誉ある機会でして」


 形骸師はピンと背筋を伸ばした。


「今回はわたくしの自信作をいくつか出展する予定なのです。主催者の方から正式な招待状もいただいておりますし、先方とは以前から親しくさせていただいております。無論、相手の期待に最高の形で応えられるよう事前の準備も怠っておりませんわ」

「それは……なんだか大変ですね」

「ええ。大変ですとも」


 彼女はうっとりとした笑みを浮かべた。


「なにしろ、あの方々は確かな目をお持ちですから」


 言葉だけを聞けば、格式高い品評会に参加する礼儀正しい表現者だった。

 しかし、その最後の一言にはぞっとするような底知れぬ含みがあった。

 それは純粋に作品の価値を理解する目という意味なのだろうか。それとも生体素材としての「価値」を見分ける残酷な値踏みの目なのだろうか。

アキには、もうどちらが本当なのか判断がつかなかった。


「それで……お一人だったんですか?」


 形骸師の洗練された装いや装備の数々を見れば彼女が一人で展示会へ徒歩で向かっていたわけがないのは明白だった。個人のアーティストというよりは工房を構え、何人もの職人や弟子を従える主宰者の風格があった。


「ええ、道のりでは徒弟や熟練の工芸師を何人か連れておりましたわ」

「……何人か?」

「はい。作品の輸送を任せた者、会場での展示構成を担当する者、記録係、それからわたくしの細々とした補助を務める者です。皆、わたくしの教育行き届いたよく働く可愛い子たちですのよ」

「その人たちは今どこに?」

「さあ? 分かりませんわね」


 あまりにもあっけらかんとした、衝撃的な返答だった。


「……分からない、って?」

「ええ。つい先ほどまで確かにわたくしの背後をぴったりと歩いていたはずなのですけれど」


 形骸師は優雅にふっと背後を振り返った。

 そこにあるのは永遠に続くかのような無人のコンベヤと暗闇だけだ。


「声をかけても誰も返事をしてくれませんでしたし、背後から聞こえていたはずの足音もいつの間にか消えておりました。ふと振り返ってみたらいつの間にかわたくし一人になっていたというわけです」

「それって……はぐれたっていうレベルじゃなくて消えたってことじゃ……」

「そう表現するのが最も実態に即しているでしょうね」

「公共安全局に連絡するとかしなくていいんですか!?」

「必要でしたら呼んでいただいても構いませんけれど。わたくしは今のところ特にその必要性を感じておりませんわ」


 形骸師は本当に心外だと言わばかりにきょとんとした顔をしている。


「皆、それぞれの仕事には慣れておりますし、わたくしがちょっと目を離した程度で野垂れ死ぬような柔な育て方はしておりませんもの。それにわたくしがしっかりと会場へ到着さえすれば遅れてでも誰かが探しにやってくるでしょう」

「……そういうものなんですかねえ」

「そういうものですわ」


 彼女はコロコロと鈴を転がすように笑った。


 アキはこれ以上どうリアクションすべきか分からずただぐったりと肩を落とした。

 部下が何人も消えたというのに心配の色すらない。もちろん取り乱していないからといって冷酷とは限らないが、今の彼女の関心事は「展示会への遅刻」それ一点に絞られているようだった。


「ところで、お嬢さん」


 形骸師はふと、アキの手元に置かれた金属片へ興味深そうに視線を落とした。


「そちらの金属片はいったい何なのでしょう?」

「あ、これですか? さっきコンベヤで流れてきたやつです。今ちょうど、データベースに記録しようとしていたところで……」

「ふむ……拝見してもよろしいかしら?」

「えっ。あ、はい。壊れ物じゃないし、別に構いませんけど」


 アキが差し出すと形骸師は両手の指先でそれを丁寧に、まるで壊れやすい蝶の標本を扱うかのように大切に受け取った。

 まず、表面の微細な質感をじっくり眺める。次にくるりと裏返す。

 繊細な手袋の指先で縁の摩耗具合をなぞり、作業室のわずかな照明の当たり方を変えながら、微小な傷や凹凸のパターンを確かめていく。その所作は先ほどまでのどこか浮世離れした柔らかな物腰とは決定的に違っていた。

 彼女の冷徹な瞳の奥に職人としての、表現者としてのむき出しの熱が宿っていた。


「……なるほど」

「何か、分かったんですか?」

「いいえ。これだけの断片から材質や用途の正確な背景を特定するには圧倒的に情報が不足しております。ですが、この表面の処理加工は非常に興味深いですね。一見すると均質な工業製品に見えますが、縁のほんの一部だけに手作業によるものと思われる微細な刻み目がある。これが製造工程で必然的に生じたものなのか、あるいは使用者の手によって意図的に削られたものなのか……」


 彼女は愛おしそうにその金属片を机の上にそっと置いた。


「こちらの施設ではこうした正体の知れないガラクタを日々このように記録しているのですの?」

「ああ。材質、形状、状態。それらを端末に入力してシールを貼って、奥へ流す」


 環が淡々と答える。


「それだけ?」

「それだけだ」

「……まあ」


 形骸師は、ぱっちりと目を丸くした。それは彼女がこの部屋に足を踏み入れてから初めて見せた明確な驚きの表情だった。


「なんと簡潔で無駄のない工程でしょう。目の前を流れてくる対象をただ観察し、記録し、識別し、そのまま再び遠ざける。余計な装飾も、主観的な介入も、一切存在しない……」


 彼女は少しだけ思考を巡らせるように、美しい首を傾げた。


「ある意味ではわたくしたちの仕事とは完全に対極に位置する営みですわね」

「そうなんですか?」

「ええ。わたくしたちは対象を『そのまま』の状態で残すことだけを目的とはしておりませんから。何を残し、何を劇的に変化させ、どの機能を意図的に失わせるのか。その残酷で主体的な選択の連続によって初めて一つの『作品』が成立するのですから」


 形骸師は机の上の小さな金属片を名残惜しそうに見つめた。


「けれどこちらの記録のプロセスにはそのような作者の意思や価値判断が一切介入していない」

「……まあ、そうですね。言われた通りにやってるだけですから」

「これはたいへん知的である種の背徳感を覚えるほどに興味深いことですわ」


 形骸師は心底面白そうにくすくすと笑った。

 環は冷ややかな目を彼女に向けた。


「……何がそんなに興味深いんだ?」

「『判断をあえて放棄すること』によって対象の純度をそのまま保存している点です」


 形骸師は即答した。


「美術品として扱うのであれば人間は必ずそこに何らかの価値を見いだそうとします。価値を見いだせば必ず選別が生じる。選別が生じれば残すものと切り捨てて廃棄するものが生まれる。しかしこちらの記録にはそのような人間の傲慢な価値基準がまったく見当たらない」

「そういう決まりだからな」

「ええ。だからこそ、素晴らしいのです」


 彼女はふと、妖しく笑みを深めた。


「この金属片が美しいかどうかも分からない。経済的な価値があるのかも分からない。将来、誰かの役に立つかどうかも一切問わない。ただ『今、そこに存在している』という客観的な事実の断片だけを淡々と記録する。まるで世界そのものを解釈することを拒絶し、ただ観測し続けているかのようですわ」

「なんだか大層な話になってきましたけど、そんな高尚なこと考えてませんよ」


 アキは苦笑しながら口を挟む。


「私たち、ただ言われた通りに流れてきたものを処理して、シールを貼って、終わりにしてるだけですから」

「まあ」


 形骸師はうっとりとした目でアキを見た。


「それもまた驚くべきことに素晴らしいことですわ」

「えっ?」

「ご自身の日常的な行為に対して、過剰な意味や救いを求めない。労働者としてこれほどまでに誠実で、雑味のない姿勢があるでしょうか」

「いや、誠実とかそういう誇らしいものじゃなくてですね……」


 アキはすっかり気圧されてしまった。

 褒められているのは分かる。だが、ただ単調なアルバイトの作業内容を説明しただけでなぜここまで芸術家の哲学の文脈で神格化されなければならないのか、全く理解が追いつかない。


「……先輩、何か言ってくださいよ。私一人じゃこの人のペースについていけません」

「俺に話を振るな」

「ひどい!」


 形骸師は二人の気安いやり取りを眺めながら、上品に口元を覆って楽しそうに笑った。


「お二人は、本当に息の合った、仲がよろしいお仲間なのですね」

「そう見えますかね?」

「ええ。少なくとも、互いの雑な言葉を心地よく聞き流す程度の信頼関係はあるようですから」

「それ、仲がいいって表現していいものなんですか……?」

「わたくしの知る世界ではもっと血みどろの足の引っ張り合いが日常茶飯事ですから。それに比べれば天国のような関係に見えますわ」


 形骸師はそう言いながらふと自分の腰のあたりへ手を伸ばした。

 その瞬間、アキの視線は本能的に彼女の腰元に吊られた細長い鞘へと吸い寄せられた。不気味に研ぎ澄まされた刃物。

 しかし彼女はただ鞘の固定用留め具の位置を微調整し、位置を整えただけだった。今すぐそれを引き抜くつもりはないらしい。

 それでもアキは緊張のあまりわずかに背筋を硬直させた。


「……あの。失礼ですが、その武器はやっぱり……」

「こちらですか?」


 形骸師は自分の腰に下がった洗練された鞘に目を落とした。


「護身用の装備にございます」

「ごしんよう……」

「ええ。施設の敷地内も含め、道中では何が起こるか予測できませんから。備えはどれだけしてもしすぎることはありませんわ」

「……これから行くのって、『展示会』ですよね?」

「展示会へ向かう道中だからこそ、ですわ」


 形骸師はそれが世界の真理であるかのような自然なトーンで答えた。


「わたくしたちが普段の仕事で扱う素材は必ずしもおとなしく協力的なものばかりとは限りません。加工前の生体素材であればなおさらです。生きたままの状態で状態を維持して運搬されるものもあれば、死後硬直の過程で突発的な化学反応や生理反応を示すものもございます。予測不能な危険を孕んだ対象に対して、表現者が最低限の自衛手段を持たないのはプロとしての怠慢というものですわ」

「……まあ、理屈は分からなくもないですけど」

「それにね」


 形骸師は手袋をはめた指先で、さらりとその鞘を軽く叩いた。


「武器もまた究極の『道具』の一種に過ぎません。全体的な形状、重心のバランス、刃の研削角度、そして握り手のフィット感。特定の目的に特化して無駄を削ぎ落とされた道具は、それ自体が完成された一つの芸術作品のように美しいものです」

「……つまり武器そのものもコレクションであり、芸術品ってことですか?」

「必ずしもそうとは言い切れませんわ。道具はあくまで道具、作品は作品としての境界線はございます。ただし、優れた道具には必ずそれを生み出した職人の冷徹な設計の美が宿る。その機能美を美しいと感じる感性に何ら不自然なところはないはずですわ」


 形骸師は穏やかに隙のない微笑みを浮かべた。


「もっとも武器という特殊な道具に関しては美しさだけに囚われて実用性を疎かにしては本末転倒ですけれどね。どれほど造形が美しくても肝心の時に手に馴染まない武器は、ただの失敗作、あるいは粗大ごみに過ぎませんから」


 そう言って彼女はすっと鞘から手を離した。

 その一連の動作には驚くほど無駄がなく洗練されていた。日頃から命のやり取りやそれに準ずる危険な生体加工の現場に身を置いている人間特有の体に染みついた緊張感と慣れが垣間見える。

 アキは改めて、目の前の女性の全身をしみじみと眺めた。

 完璧に仕立てられたオートクチュールの服装。底知れぬ落ち着きをたたえた物腰。相手への敬意を忘れない丁寧な言葉遣い。そのどれもが彼女の纏う殺気や危険な匂いと信じられないほど自然に融合している。


 どう見ても狂気的な怪物には見えない。かといって完全に無害な一般市民だとも絶対に断言できない。この言語化し難い違和感をどう表現すればいいのかアキには見当もつかなかった。


「……ところで」


 静寂を破るように環が低い声で切り出した。


「ここから外に出たいのか?」

「ええ。もちろんでございますわ。遅刻は淑女の恥ですからね」

「なら残念だが俺たちにはこの施設の正しい出口なんて分からない」

「まあ」


 形骸師はその致命的な告白を聞いても眉毛一つ動かさず、微塵も落とした様子を見せなかった。


「そうなのですか?」

「ああ。俺たちはここでひたすら下働きとして機械的に流れてくるものを処理しているだけだ。外から迷い込んできた部外者を安全に地上へ案内するような権限も持っていなければこの迷宮のような施設の全容を把握しているわけでもない」

「なるほど。つまりお二人もまたこの広大なシステムの中の『迷子』というわけですわね」

「それは違う」

「違うのですか?」


 アキが思わず環を振り返る。


「俺は初めからこの場所にいた。迷っているわけじゃない」

「従業員、ということですわよね?」

「そういう単純な話じゃない」

「まあ。人間の定義というのは実に複雑で奥深いものですわね」


 形骸師はまったく話が噛み合っていないにもかかわらず、なぜか深く納得したように真剣な顔で頷いた。


 環はそれ以上何も言わず、キーボードに視線を戻した。

 アキは自分のこめかみを押さえ、深々とため息をついた。

 この女性は天然の世間知らずなのだろうか、それとも会話の前提にある次元そのものが一般人と完全に乖離しているのだろうか。

 言葉のキャッチボールは成立しているはずなのに芯の部分で致命的にすれ違っている感覚が拭えない。


「……とにかくですね、ここは普通の会社の通路なんかじゃないんですよ。この先がどこへ繋がっているのかも誰も分からないし、戻ろうが進もうがさっきまで歩いていた綺麗な廊下に無事に戻れる保証なんてどこにもないんです」

「ええ。よく承知しておりますわ」

「わかっててそんなにのんびりしてるんですか……?」

「はい。少なくとも今ここに立って見渡すかぎり、わたくしの知る展示会の華やかな廊下とは似ても似つかない空間であることはこの目でしっかりと確認できておりますもの」

「そうですか……」


 アキはすっかり気力を奪われ、ぐったりと椅子にもたれかかった。

 危機感を持たせるべきなのか、それともこのまま彼女のペースに巻き込まれておくべきなのか、もはや判断することすら億劫だった。


「ではしばらくの間、こちらで見学させていただいてもよろしいかしら?時間に余裕を持って出発いたしましたから、今すぐに“退室”する必要はありませんの」


 形骸師は控えめにしかし強かな光を宿した瞳で尋ねた。


「見学って……何をです?」

「もちろん、何かが起こるのか、です」

「……何かって何が起こるんです?」

「さあ?」


 形骸師は悪戯っぽく少女のように朗らかに微笑んだ。


「もしかしたらこの退屈な日常を劇的に塗り替える面白い何かが起こるかもしれませんし、あるいはこのまま永遠に何も起こらない平和な時間が過ぎ去るかもしれない。どちらにしても見知らぬ地下迷宮を当て所なく今すぐ無暗に歩き回るよりはここでこうして知的な観察を続ける方がはるかに合理的ですわ。それにこんな機会、滅多にあることでもないでしょう?」


 アキは再び、どうしたものかと環に視線を送った。

 環は小さく面倒くさそうに肩をすくめてみせた。


「……まあ、勝手にしてくれ。ここの作業の邪魔さえしなければな」

「ありがとうございます。ご厚意に甘んじますわ」


 形骸師は深く、優雅に頭を下げた。

 それから彼女は黒いベルトコンベヤの脇に上品に立ち、次から次へと流れてくる奇怪なガラクタや物品の群れを、熱心に観察し始めたのだった。

 その横顔には自分の部下が神隠しにあった人間の焦りも“ある種”出口のない空間に対する不安も一切影を潜めていた。

 むしろ彼女はこの底冷えのする施設そのものを一種の奇怪な展示会として心から楽しみ始めているようにさえ見えた。


◆


 それから時計の針はおよそ三十分ほど進んだ。

 その間、形骸師は一言も余計な不平を漏らすことなくただ静かに二人の単調な作業の様子を見学し続けていた。


 環が淡々とデータを端末に入力し、アキが手際よく識別用のシールを貼り付けていく。

 ある時は正体の知れない有機的な質感を残した小さなプラスチック片。

 ある時は表面の一部が不自然に黒く変色した、かつて何かの容器だったらしい陶器の破片。

 またある時は人間のものではない生体組織の骨格を模した、精巧な細長い金属製の機械部品。


 それらの異様な代物は一つずつ規則正しいスピードでコンベヤに乗って現れ、二人の手によって記録され、シールを貼られ、そして無慈悲に壁の向こうの暗闇へと吸い込まれていった。

 形骸師はその物品が流れてくるたびに目を輝かせて興味深そうに対象の形状や摩耗の歴史をじっと見つめていた。だが、彼女は決して無断でそれに触れたり、作業を中断させるような口を挟んだりすることはなかった。

 ただ時折好奇心を抑えきれないといった様子で短い質問を投げかけるだけだった。


「……さて」


 形骸師はまるで長居した喫茶店からお暇するかのように何事もなかったかのように優雅に身を起こした。


「そろそろ、失礼させていただきましょうか」

「……帰れるんですか、本当に?」


 アキが思わず尋ねると形骸師はまたあの可憐に首をかしげる仕草を見せた。


「無事に元の場所へ帰れるかどうかは正直なところ分かりませんわね。このような移動には前例がありませんもの」

「……分からないんですか!?」

「ええ。ですが、いつまでもこうして若者たちの仕事場をお邪魔して長居するわけにもまいりませんでしょう?」


 形骸師は二人の作業員へ改めて向き直り、深く隙のない礼儀作法で頭を下げた。


「本日は実に得がたい、素晴らしい時間を過ごさせていただきました。お二人の無駄のない素晴らしい作業を間近で拝見できたこと心より感謝申し上げます」

「いえ、その……大したことはしてませんけど」

「もしまたいつの日かどこかの空間でお会いすることがございましたら……その時はぜひ、わたくしの手掛けた作品たちもご覧にいれましょう」

「機会があればな」


 環が短く答えた。

 形骸師はそれがよほど嬉しかったのか、花が咲いたように華やかに微笑んだ。


「ええ。きっとまたどこかで良いご縁があるでしょう」


 そう言い残すと彼女はくるりと鮮やかに身を翻し、再びベルトコンベヤの遥か奥に広がる漆黒の闇の方へと向き直った。

 そして迷いのない足取りで、再び歩き始めた。


 コツ、コツ、コツ。

 高く尖った革靴の踵が、冷たい床を叩く乾いた音が、再び無機質な地下室に響き渡る。

 その足音は一つ、また一つと遠ざかり、やがて彼女の優雅な後ろ姿はコンベヤの続く暗闇のなかに完全に溶け込むようにして消えていった。

 足音すらもやがて完全に聞こえなくなった。


 アキはぽっかりと穴の開いたような気分でしばらくの間コンベヤの奥の暗闇をじっと見つめ続けていた。


「一体何だったんでしょうね、あの人。勝手に行っちゃいましたけど……シール貼らなくて良かったんでしょうか……」

「形骸師、と言っていたな。まあいいんじゃないか」

「適当ですね。まあ、適当になりたくなる気持ちも分からなくもないですけど」


 アキは深く深々とため息を吐き出した。


「何というか……ものすっごく変な人でしたね……」

「そうだな」

「礼儀正しくて話もうまいし、芸術や道具について語る言葉にはものすごい説得力があったのに。何ていうかこう……頭のネジが数本外れているような感じがしました」

「否定はしない」


 アキは肩を落とし、パイプ椅子にドッと全体重を預けた。

 悪い人ではなかった。少なくとも自分たちに危害を加えようとしたわけではない。あの物騒な仕込み刀のような武器を持っていたにもかかわらず最後までそれを抜くことはなかった。

 それなのになぜこれほどまでに得体の知れない強い恐怖と奇妙な気まずさが残るのか。

 それは彼女が自分たちとは根本的に違う価値観や倫理観で世界を測っているからなのだろうか。それとも物事を認識するための「基準の軸」そのものがこの世界の人間とは完全にズレた次元にあるからなのか。


「先輩はああいう変な人、どう思います?」

「どうとも思わん」

「……本当に?」

「ああ」

「……先輩ってある意味であの人以上にすごい人ですよね」

「何がだ」

「いや、何でもないです。忘れてください」


 アキは諦めたように頭を振ると再び気を取り直して自分の机の上へと向き直った。

 何も変わらない。いつも通りの単調で退屈な毎日の仕事だった。

 それなのにアキの脳裏の片隅には先ほどまでそこに立っていた形骸師の涼やかな言葉が、いつまでも残り続けていた。


 ――何かを変えずに何かを残す。


「……うーん」


 アキは小さく唸り声を上げた。

 やっぱり彼女の言っていた高尚な意味なんて一生理解できそうにない。


「先輩」

「どうした」

「私たちのこの毎日の仕事ってもしかして……ほんの少しだけでも芸術っぽいところがあったりすると思いますか?」

「思わない」

「ですよねえ」


 あまりにも即答だった。アキは苦笑いを浮かべた。


「……あの形骸師さん、楽しそうに歩いていきましたけど。無事に目的地へたどり着けるんですかね」

「さあな」


 環は端末の画面から一瞬たりとも目を離さずに答えた。


「あいつなら仮にどこか全く別の世界の底に迷い込んだとしてもそこで新しい『美しいもの』を見つけて機嫌よく暮らしているんじゃないか」

「……それもそうですね」


 環のその珍しく少しだけ気の利いた冗談を最後に二人は再び無言でそれぞれの作業へと意識を戻した。

 部屋には再び乾いたキーボードを叩く音と黒いベルトコンベヤの単調で低い駆動音だけが、途切れることなく響き渡っていた。


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