第64話 五十年の暮らし
ベルトコンベヤの上を古びた換気扇が流れてきた。
円形のカバーはところどころ歪み、格子状の金属網には黒ずんだ埃が幾重にもこびりついている。羽根の隙間には湿気を吸って固まった綿埃のようなものが詰まっていた。電源コードは途中で切断されており、露出した銅線が冷ややかな照明を鈍く反射している。家電製品としての寿命はとっくに尽きているように見えた。
環は手元の記録端末を操作し、対象物の外観を撮影した。
正面、側面、背面。続けて寸法を測り、材質を推定し、付着物の有無を確認する。
いつも通りの作業だった。
この部屋に流れてくる物品の大半はどれも一度は誰かの手に渡ったものだ。ここに至るまでの経緯は物品によって異なるが、多くは製造され、運ばれ、購入され、使用され、そして何らかの理由で不要になったものだろう。
ただしその“大半”について、環たちは何も知らない。
「先輩、これ換気扇ですかね?」
隣からアキが覗き込んできた。
「そのように見えるな」
「いや、まあ、見れば分かりますけど。こんなに汚れるものなんですねえ」
アキは換気扇を持ち上げ、裏返した。
金属製の筐体には製造番号らしき文字列が刻印されていた。製品名と型番は汚れに埋もれながらもかろうじて読み取れる。環は端末に型番を入力した。該当する製品の仕様が表示される。一般住宅向けの壁面換気扇。設計上の標準使用期間は十年。
「十年ですって!」
「そうか」
「これ、どう見ても十年どころじゃないですよ。二十年くらい使ってるんじゃないですか?」
「外観だけでは判断できないだろう。保管環境によっても劣化の程度は変わる」
「それはそうですけどね……」
アキは換気扇を元の位置に置く。
少しして環が換気扇の側面に貼られた小さなシールに気づいた。剥がれかけた白いラベルには保守点検の記録が残されている。
最後の点検日は今から二十七年前だった。
「随分と長持ちしたものだな」
「二十七年前ですか? もう交換する気がなかったんでしょうね」
「点検記録がないだけで交換されていないとは限らない」
「先輩ってこういうとき妙に律儀ですよね」
アキは呆れたように笑った。
環は返事をせず、ラベルを確認した。それからふと画面の隅に表示されていた日付に目を留める。
「……二十七年前か」
「何か気になりますか?」
「いや。平均寿命の話を思い出しただけだ」
アキは首を傾げた。
「平均寿命?」
「この国の人間の平均寿命は五十歳前後だったはずだ」
「ああ、そういえばそうですね」
アキはさほど興味がなさそうに答えた。
あっさりした反応だった。環は端末から顔を上げる。
「驚かないのか?」
「何にです?」
「人間の平均寿命が五十年程度しかないことにだ」
「いや……今さら驚くようなことでもないでしょう」
アキは換気扇の羽根を指先で軽く弾いた。錆びついた金属が乾いた音を立てる。
「学校で習いましたよ。昔よりは長くなったけど今でも五十歳くらいが目安だって。地域によって差はありますけどね」
「地域というよりは居住環境による差が大きいんじゃないか?」
「まあ、そうでしょうね」
アキは換気扇を見下ろしたまま続けた。
「上層で暮らしてる人たちはもう少し長生きするんじゃないですか」
上と下。
同じセクターの中にありながら、住民の生活は大きく異なる。
上層には整備された道路があり、定期的に清掃される歩道があり、管理された住宅がある。建物の空調は適切に維持され、上下水道も比較的安定して機能している。
もちろん上層であれば何の問題もなく暮らせるわけではない。星間戦争における被害――異星兵器による不審死は居住階層を選んで発生するものではなかった。
しかし、それ以外の危険については話が違う。
屋根が崩れることも、汚水を飲むことも、夜道で金品を奪われることも、上層の住民には比較的縁遠い。少なくともそれらを避けるために日々の生活を切り詰める必要はない。
「先輩、下層の住宅って見たことあります?」
「ないわけではない」
「私はありますよ。昔、親戚の家に遊びに行ったことがあるんです」
アキは換気扇の網目を覗き込んだ。
「窓がほとんど開かないんですよ。開けようとすると枠が歪んで引っかかるんですよ。壁紙の裏はカビだらけで天井には雨漏りの跡があって……隣の部屋の声なんて、普通に聞こえてきますし」
「建物の老朽化か」
「それだけじゃないですよ。そもそも、修繕するお金がないんです」
アキは顔を上げた。
「管理会社に言ってもすぐには直してくれないんですよ!契約上は修繕することになっていても、実際に来るのは何週間も後。ひどいところだと退去してくださいって言われるだけです」
「退去したところで次の住居を確保できるとは限らない」
「そういうことです」
アキは肩をすくめた。
「家賃の安いところを探せば今度は治安が悪くなる。治安のいいところを探せば家賃が払えない。結局、多少の不便は我慢して住み続けるしかないんですよ」
環は換気扇に目を落とした。
羽根の隙間に詰まった埃は単に掃除を怠った結果なのだろうか。あるいは換気扇そのものを外して洗浄する余裕がなかったのか。交換部品が手に入らなかったのか。そもそも、交換しようと思えるほどの余裕が持ち主の生活に残されていなかったのか。
物品から分かるのはあくまでも物品そのものの状態である。そこに至るまでの事情を推測することはできても確かめる手段はない。
「換気扇が動かないと何か問題があるのか?」
「色々ありますよ。料理の煙がこもりますし、湿気も抜けません。カビだって生えやすくなるでしょうね」
「窓を開ければいいんじゃないか?」
「先輩」
アキがじっと環を見た。
「窓を開けたら、今度は外の空気が入ってくるんですよ?」
「……それはそうだな」
「排気ガスとか、工場から出る粉塵とか。近所で何か燃やしてればその煙だって入ってきます。下層なんて建物が密集してるところも多いですからね。窓を開けても風が通るとは限らないんです」
環は黙った。
窓を開ければ換気ができる。その考え方自体は間違っていない。ただし窓の外に清浄な空気があることを前提としている。前提が崩れれば対策もまた意味を失う。
「それに換気扇が壊れてる家ってたぶん換気扇だけが壊れてるわけじゃないんですよ。給湯器も古い、配管も傷んでる、電気設備も怪しい。何か一つ壊れたところでそこだけ直せば済むとは限りません」
「修繕費が積み重なるわけか」
「そうです。だから、壊れても我慢するんです」
アキは言葉を切った。その声から先ほどまでの軽さが薄れていた。
「まあ……我慢してるうちに、取り返しがつかなくなることもあるんでしょうけど」
ベルトコンベヤが音を立てて動いた。換気扇は数センチ先へと運ばれていく。
環はその動きを目で追いながら、端末の画面に表示された平均寿命の数値を思い出していた。
――五十歳。
数字にすれば、たったそれだけである。生まれて、育って、働いて、老いていく。その過程を一つの数値にまとめれば五十年という長さになる。
だが、実際の人生はそんなに単純ではない。
五十歳まで生きる人間がいる一方で二十歳になる前に死ぬ人間もいる。三十歳で家族を失う者もいれば、四十歳を迎える前に住む場所を失う者もいる。生まれて間もなく命を落とす子供も少なくないだろう。
平均という言葉はそれらすべてを一つの数値に押し込めてしまう。
「先輩は、どうして五十歳くらいまでしか生きられないと思います?」
アキが尋ねた。
「不審死の影響が大きいのではないか?」
「それはそうでしょうね」
アキは否定しなかった。
この国では原因の分からない死が珍しくない。前触れもなく身体が発火する者がいる。外傷一つないまま、突然息を引き取る者がいる。身体そのものが爆発し、周囲の人間まで巻き込むこともある。異星兵器がもたらした不審死は、従来の医学や常識では説明しきれない現象だった。
しかも、その被害は戦場に限られない。
住宅街でも、学校でも、職場でも、日常の延長線上で発生する。昨日まで普通に暮らしていた人間が翌日には帰らぬ人となっている。
それはもはや特別な出来事ではなかった。
「でも不審死だけじゃないと思うんですよね」
アキは続けた。
「だって不審死がなくても長生きできる環境じゃない人は沢山いるでしょう?」
「具体的には?」
「まず、まともに食べられない人。栄養の偏った食事を続けていれば、身体だって悪くなりますよ。病気になっても、病院に行くお金がなければ我慢するしかない」
「医療制度そのものは存在しているはずだが」
「制度があることと誰でも使えることは違います」
即答だった。アキは、こういう話になると妙に容赦がない。
「診察代が払えない。薬代が払えない。仕事を休んだらその日の収入がなくなる。病院まで行く交通費だって必要です。だったら少しくらい具合が悪くても働きますよね」
「悪化するまで放置するわけか」
「そうです。治せる病気でも治療を受けられなければ治りませんから」
環は考え込んだ。
病気を治療する技術が存在することと、病気を治療できる社会であることは別の問題だ。高度な医療技術が開発されていてもその恩恵を受けられる人間が限られていれば社会全体の健康状態は改善しない。どれほど優れた医療機器が存在していてもそれを使うための費用を払えない者には関係がない。
そしてこの国では居住する場所によって生活に必要な費用も受けられるサービスも大きく異なる。
「衛生状態も関係しているだろうな」
「もちろんです。汚れた水を使わなきゃいけないところだってありますし、ゴミの回収が滞る地域もあります。排水設備が壊れて、路地に汚水が流れ出しているのに何日も放置されることだってある」
「そこまで酷いのか」
「場所によりますけどね」
アキはわざとらしく肩をすくめた。
「私だって全部を知っているわけじゃありませんから」
その言葉は環の中に妙な引っかかりを残した。
アキはこの国で暮らす人間だ。その彼女でさえ、すべてを把握しているわけではない。ましてや中流家庭の人間が(アキに言わせれば上層の中にも上流家庭と中流家庭の埋まらない溝があり、彼女のような家の人間やその居住地域を指す“中層”という俗語があるという)、国の実情をどれほど知っているというのだろう。
しかし地図の上ではどれも同じセクターの一部である。境界線が引かれているわけでもなく、国境が存在するわけでもない。しかしそこで暮らす人々の生活はまるで別の世界のものだった。
上層の人間が蛇口を捻れば水が出る。下層の人間は水が出る時間を気にしながら、空になった容器を抱えて順番を待つ。
上層の人間が夜道を歩けば街灯が足元を照らす。下層の人間は暗がりに誰が潜んでいるのかを気にしながら歩く。
上層の人間が病気になれば病院へ向かう。下層の人間は病院へ行くべきか、それとも明日も働くべきかを考える。
同じ人間でありながら生活の中で選べることの数が違う。そして選択肢の少なさは少しずつ人間の寿命を削っていく。
「治安の悪さも無視できないだろう」
環が言った。
「そうですね。強盗とか、傷害事件とか。そういう犯罪も珍しくありませんから」
「警備を増やせば解決する問題ではないのか?」
「先輩、警備を増やすにもお金がかかるんですよ」
「……そうだったな」
「それに警備が増えたところで犯罪が全部なくなるわけじゃありません。警備員が巡回している通りは安全でも一本裏に入れば何があるか分からない。そんな場所だってあります」
アキは端末を操作し、記録の入力画面を開いた。換気扇の状態について必要事項を記入する。外装の破損。羽根部分への異物付着。電源コードの切断。長期間の使用による劣化の可能性。
どれも記録としては正しい。しかしこれらの項目をいくら埋めたところで、この換気扇がどのような家で使われていたのかまでは分からない。
「……例えばですよ」
アキが入力を終えた端末を置いた。
「夜、仕事から帰る途中で襲われたとします」
「ああ」
「財布を奪われて、怪我をして、それで病院に行かなきゃいけなくなる。でも財布がないから治療費が払えない。仕事にも行けなくなって、家賃も払えなくなる」
彼女は指を折りながら、一つずつ数えた。
「住む場所を失って、まともに眠れなくなる。食事もろくに取れなくなって、身体を壊す。……そこまで行けば別に不審死なんて起きなくても死ぬには十分でしょう?」
環は返答できなかった。
アキの言葉は極端な例なのかもしれない。だが、まったくあり得ない話でもない。一つの不幸が、別の不幸を呼ぶ。その連鎖を断ち切るための余裕がなければ些細な出来事であっても、やがて取り返しのつかない結果へとつながる。
財布を盗まれること。病気になること。仕事を失うこと。住居を失うこと。
それぞれは単独で見れば人生の終わりを意味しない。しかし同時に起きたとき、人間は簡単に追い詰められる。そして追い詰められた人間が助けを求められる場所があるとは限らない。
「治安が悪いというのは単に犯罪に遭う危険があるというだけではないんだな」
「そうですよ」
アキは頷いた。
「いつ襲われるか分からないから夜は出歩かない。夜に働かなきゃいけない人は危険を承知で出歩く。危ない場所を避けるために遠回りすれば帰宅が遅くなる。……そういう小さな負担だって、毎日積み重なれば馬鹿になりません」
「精神的な負担も大きいだろう」
「まあ、そうでしょうね」
アキは少しだけ笑った。
「でも人間って慣れるんですよ」
その言葉に環は視線を向ける。
「慣れる?」
「ええ。危ない道を通るときは周囲を確認する。知らない人には近づかない。夜はなるべく一人で歩かない。お金は一か所にまとめて持たない。……そういうことを覚えて毎日を過ごすんです」
「それは生きるために必要な知識なんじゃないか?」
「そうですよ。必要な知識です」でも本当ならそんなことを気にせずに暮らせる方がいいじゃないですか」
環は黙っていた。
必要な知識。その言葉は正しい。危険を避けるための知識は生き延びる可能性を高める。しかし、その知識を身につけなければ安心して暮らせない社会は果たして安全な社会と呼べるのだろうか。
危険を避ける方法を教えることと危険そのものを減らすこと。この二つは似ているようでまったく違う。前者は個人の努力に委ねられる。後者は社会の側が取り組まなければならない問題だった。
だが、この国では前者ばかりが人々に求められているように思えた。
「……平均寿命が五十歳というのはそういうものも全部含めた数字なのか」
「多分、そうでしょうね。ただ統計の取り方によっても変わるんじゃないですか? 不審死の記録がどこまで正確なのかも分かりませんし」
「記録されない死があるということか」
「ありますよ。少なくとも私はそう思います」
アキの口調は淡々としていた。
「身元が分からない人。住民登録がない人。死んでいても誰も通報しないような人。そういう人たちが、どこまで統計に入っているんでしょうね」
環は先ほど入力した記録を見下ろした。対象物の識別番号。材質。寸法。破損箇所。付着物。必要な情報はすべて記録されている。
この換気扇がどこから来たのかは分からない。誰が使っていたのかも分からない。持ち主が今も生きているのか、それともすでに亡くなっているのかさえ分からない。
人間の方はどうだろう。
身元が分からなければ、名前が記録されないこともある。家族がいなければ死を悼む者がいないこともある。住民登録がなければそもそも統計上の存在として扱われないこともある。物品よりも人間の方が簡単に記録からこぼれ落ちてしまう。
「……奇妙な話だな」
「何がです?」
「この国では、人間の死因を記録することが難しい。にもかかわらず平均寿命という数字は存在している」
「ああ」
アキは少し考えた。
「数字があると、分かった気になれるんですよね」
「分かった気になる?」
「五十歳まで生きられるんだ、って思えるじゃないですか。平均寿命が五十歳なら、少なくともそれくらいは生きられるんだろう、って」
彼女は端末の画面を指先で叩いた。
「でも実際には違いますよね。明日死ぬかもしれない。来年まで生きられるかもしれない。六十歳まで生きるかもしれないし、三十歳になる前に死ぬかもしれない」
「……ああ」
「平均ってそういうことですから」
アキはそこで言葉を切った。
それに五十歳まで生きられたとしても、ずっと健康でいられるわけじゃなかった。
身体が悪くなってからの十年と元気に働ける十年では意味が違う。ただ生きている時間と生活を営める時間は必ずしも一致しない。長く生きたとしても病気や怪我によって働けなくなることがある。
「先輩は五十歳まで生きたいですか?」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味ですよ。五十歳まで生きたいかどうか」
「考えたこともないな」
「でしょうね。先輩、そういうところありますから。将来のことをあんまり考えてなさそうなところ」
「必要があれば考える」
「必要があるときには手遅れになってたりして」
「お前は俺を何だと思っているんだ」
「さあ?」
アキはいたずらっぽく目を細めた。
「少なくとも健康に長生きしそうな人には見えませんね」
「余計なお世話だ」
「不規則な生活をして、食事も適当で、仕事ばっかりして。そういう人ほど早死にするんですよ」
「お前も同じようなものだろう」
「私はまだ若いので」
「その理屈が通用するのはあと何年だ?」
「さあ。五十歳くらいまで?」
環は思わず小さく息を吐いた。
五十歳という数字はこの国では冗談として口にできるほど身近なものだった。長生きすることが特別な幸運であるかのように扱われ、若いうちに死ぬことが、運が悪かったという一言で片づけられる。
だが、この国では死ぬ可能性を減らすために必要な条件が、あまりにも欠けていた。安全な住居。清潔な水。十分な食事。適切な医療。犯罪に怯えずに暮らせる環境。そしていつどこで発生するか分からない「不審死」に巻き込まれないこと。
どれか一つを欠いただけでも人間の暮らしは不安定になる。
平均寿命という数字はそうした条件を満たせなかった人間の人生も含めて、算出されているに過ぎない。
「……ところでアキ」
「はい?」
「この換気扇だが、記録上はどう扱うべきだろうか」
環は話題を切り替えるように尋ねた。
アキは一瞬だけ目を丸くし、それから端末の画面を覗き込む。
「珍しいですね。まあ……普通に記録すればいいんじゃないですか?」
「使用期間が長い可能性がある。点検記録も途絶えている」
「それなら点検記録が確認できないって書けばいいんじゃないですか。二十七年間、使い続けられたと断定できるわけじゃないんですから」
「そうだな」
「それに、これがどこで使われてたのかも分からないんでしょう?」
「ああ」
「だったら持ち主がどんな生活をしていたかなんて私たちには分かりませんよ」
アキは換気扇を見下ろした。
「もしかしたら、単に物を捨てるのが苦手な人だったのかもしれません。新しいものを買うお金がなかったのかもしれない。あるいは家を取り壊すことになってまだ使えるものをまとめて処分しただけかもしれない」
「確かに」
「分かることだけ記録しましょう。分からないことまで書いたら記録じゃなくて想像になっちゃいますから」
環は、その言葉に頷いた。
確かにその通りだった。物品の状態から持ち主の生活を推測することはできても推測を事実として記録するわけにはいかない。
アキは入力を修正し、保存の操作を行った。画面には換気扇の状態が簡潔にまとめられている。外装の破損、汚れの付着、電源コードの切断、点検記録の最終確認日。そこには持ち主の事情も生活の苦労も記されておらずただ物品の状態だけが記録されていた。
「終わりです」
アキは換気扇をベルトコンベヤに戻した。
古びた機械は再びゆっくりと流れていく。やがて部屋の奥へと姿を消した。
次の物品が近づいてくる。今度は何の変哲もない金属製の箱だった。環もまた次の記録に取りかかった。
いつも通りの作業だった。
この国では明日も誰かが死ぬのだろう。不審死によって命を落とす者がいる。病気によって亡くなる者がいる。劣悪な住環境や貧困によって身体を蝕まれていく者がいる。それでも明日になればまた新しい数字が算出される。
「……先輩」
不意にアキが口を開いた。
「何だ?」
「五十歳まで生きられるとしたらあと何年あるんでしょうね」
環は彼女を見た。アキは端末の画面を見つめている。その表情から冗談なのか本気なのかは判断できなかった。
「年齢によるだろう」
「そうですね」
「それに、平均寿命は個人の余命を示す数字ではない」
「分かってますよ。ただ何となく気になっただけです」
環は少しだけ考え、それから端末に視線を戻した。
「……少なくとも、今日の分はまだ残っているだろう」
「今日の分?」
「今日を生きているんだから今日の分の人生はあるだろう」
アキは一瞬きょとんとした顔をし、それから堪えきれなかったように笑い出した。
「何ですか、それ。先輩にしては、随分と前向きなことを言いますね」
「そうか?」
「ええ。明日があるかどうかも分からないのに今日の分はあるですって」
「事実だろう」
「まあ、そうですけど」
アキは笑いながら記録を続ける。記録できるのは、目の前にあるものだけだ。
それでもベルトコンベヤの上を流れていく物品の一つ一つにかつて誰かの生活があった。その生活が五十年続いたのか、それとも五十年に届かなかったのか。
二人には確かめようもなかった。




