第63話 長期医療観察モニター募集
その日のベルトコンベヤは、いつもより紙とインクの匂いが強く漂っていた。
部屋の中央を貫く黒く分厚いゴムの帯が、低く重々しい振動を上げながら絶えず流れている。
何が運ばれてきてもおかしくない――それがこの地下深くにある検定室の日常ではあるのだが。
環はコンベヤの横に静かに立ち、指先の感覚を確かめるように手袋越しに次々と流れてくる検定品を確認していた。
路地裏で潰されたかのような小型ドローンの残骸、蝶番の歪んだ金属ケース、持ち主の分からない使い古された鞄、怪しい薬品の付着したガラス片、どこかの街角で配られていた破れたチラシ。
そして、その中に不自然なまでに一際目立つ、真っ白で真新しい紙の束。
――紙束。
アキは作業の手を止め、少しだけ眉をひそめると、流れてくるその紙束の中から吸い寄せられるように一枚を掴み上げた。
上質紙の滑らかな触感と印刷されたばかりの鮮烈なインクの匂いが指先から立ち上る。書類のヘッダー部分には彼女たちが毎日嫌というほど目にしている見慣れた企業のロゴマークが、美しくフルカラーで印刷されていた。
「これは……」
紙はまだ刷り立てのように新しかった。
印刷機から排出されてそれほど時間が経っていないのではないかと思わせるほど油分を含んだ独自のインクの匂いが強く鼻腔を突く。
この部屋に運ばれてくるガラクタの中に古新聞や古びたチラシ、出所の分からない謎の書類や不気味な手紙の類が流れてくること自体は決して珍しくはない。
しかし破れも汚れも一切ない、完全に新品の状態で紙類が束になって流れてくるというのは極めて珍しい出来事であった。
一瞬手が止まり、そのまま固まっているアキの手元を横から環が探るような視線で覗き込む。
「ただのチラシか?……それとも業務用の書類か?」
「“うち”の募集広告みたいです。ほら、私たちが着ているこの制服や社員証に刻まれているロゴと同じですよ」
アキは束から紙をもう一枚丁寧に引き抜き、両手で広げてみせた。
そこに整然とした美しいフォントで印刷されていたのは一目見ただけで強い存在感を放つ大きなタイトルだった。
フェノム・システムズ
長期医療観察モニター募集
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新しい生活を、ここから。
戦災地域での生活や原因不明の体調不良に悩んでいませんか。
フェノム・システムズでは、異星兵器による後遺症の研究のため、
長期医療観察モニターを募集しています。
あなたの健康を守りながら、未来の医療に貢献してみませんか。
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モニター参加者に提供される環境
生活支援
・個室居住スペース
・一日三食の食事提供
・衣服・生活用品の支給
・温水シャワー・洗濯設備完備
医療サポート
・定期健康診断
・専門医による診療
・精神ケアプログラム
・異星兵器後遺症の専門検査
報酬
・月額生活補助金の支給
・研究協力手当
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紙面全体のデザインやレイアウトはあまりにも整いすぎていた。
まるでこれから生活に困窮した大勢の庶民の手元へと配られることを前提にして丁寧に刷られたように角にも表面にも折り目ひとつついていない。
アキの指先が、その白い紙の端をわずかに強い力でつまむ。
「……ずいぶんと親切で丁寧な書き方ですね」
「まあ、公の参加募集だからな。こういうものは外見の見栄えと安心感が第一だろう」
環は事もなげに軽やかな調子で言ったが、その視線自体は目の前の紙面から微動だにせず離れていなかった。
コンベヤの上では今なお全く同じデザインのチラシの束が、カサカサと乾いた音を立てながら滑り続けている。
数枚や数十枚どころの量ではない。まるで印刷所の出荷用トレイからそのまままとめてどこかへ“落ちてきた”かのような異様な数量だった。
アキは静かに息を呑み、ゆっくりと視線を募集要項の下へと移していった。
特に「応募条件」と書かれた枠線の中の項目に、彼女の目が留まる。
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応募条件
以下のいずれかに該当する方
・異星兵器の被害地域に居住していた
・戦災地域からの避難者
・原因不明の体調不良や記憶障害を経験している
・長期医療観察への参加に同意できる方
※年齢・性別不問
※身元保証人不要
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アキの指先が一番最後に小さく記載されたその一文のところでピタリと止まった。
「……身元保証人、不要」
ぽつりと零れ落ちた彼女の呟きは小さかったが、静まり返った検定室の中ではハッキリと鼓膜に届いた。
「それがそんなに珍しいか?」
「ええ。普通は正反対ですよ。こういう完全隔離に近いような長期滞在施設ほどトラブルを避けるために外部の血縁者や強力な身元保証人との明確な紐付けを強く求めるものです」
アキは用紙から視線を一切外さないまま、硬い声で言葉を続ける。
「失踪されたり、施設内で何かが起きたときに外部から余計な追及を受けたり逃げられたりしないようにするために」
一瞬だけ、機械が回転するコンベヤの重い駆動音が室内で酷く大きく聞こえた気がした。黒いゴムの帯は、二人の会話など知る由もなく何事もなかったかのように規則的な回転を続けている。
環はわずかに肩をすくめた。
「だが、ここは“フェノム・システムズ”だろう? 世間の一般的な常識からして、細かい応募条件がどこか歪んでいても大して不思議じゃない」
「そうですね……“うち”ですからね」
納得しているようでもあり、同時に心の底では全く納得していないような複雑で冷めた声だった。
アキは指先で紙を少しめくり、さらにその下の段に記された説明へと視線を落としていく。
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モニター期間
研究の性質上、長期滞在(数か月~数年)となる場合があります。
参加者には十分な生活環境と医療支援が提供されます。
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「……数年、か」
アキの呟きに続いて室内には重苦しい数秒間の沈黙が落ちた。
続いて環が、どこか他人事のようにぼそりと呟く。
「……随分と長いな」
「長いっていうか、それって観察っていうより……もう『生活そのもの』じゃないですか」
アキの手元にある紙面を上から覗き込みながら、環は深く眉間を寄せた。
「健康観察ってレベルの期間じゃないな。実質的な人間の完全な買い上げと囲い込みだ」
アキは表情を変えず、小さく頷いた。
「ええ。しかも『~となる場合があります』としか書かれてませんよ」
「つまり具体的な観察の終了期限が最初から設定されていない、ってことか」
環の落ち着いた声に、わずかな乾いた響きが混じり始める。
アキは白い紙面の余白部分を指先で静かになぞった。
そこには本来あるべき契約上の注意事項や、満了時の規定などが一切書かれていない。ただ薄不気味なほど真っ白だった。
「どこを見ても観察計画の終了条件や退所手続きについての記載が存在しません」
「……まあ、企業側の研究優先ってやつなんだろうな」
環はそう口にしながら、一旦視線を目の前のコンベヤの流れへと戻した。
だが、暗い穴の奥から絶え間なく流れてくるのは依然として全く同じ白いチラシの束ばかりであった。
アキは静かに深く息を吐き出すとさらに紙面の下部へと視線を滑らせていった。
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施設環境
フェノム・システムズ医療観察施設は
静穏で安全な研究環境を整えています。
・居住区
・食堂
・運動スペース
・医療棟
・心理ケア室
安心して生活できる空間で専門スタッフが皆様をサポートします。
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「……設備の説明だけは、ずいぶんと手厚く整っていますね」
アキの声は今度は先ほどよりも少しだけ低く、沈んでいた。
「いいじゃないか。衣食住に運動施設まで揃ってるならスラムの路上で野宿するより普通に快適に住めそうだ」
「ええ……“普通に”住むだけなら、ですね」
その短い言葉の裏には隠しきれないわずかな毒と棘が混じっていた。
アキは手にした紙を軽く持ち上げ、部屋の蛍光灯の光に透かすようにしてみた。
裏面には何一つ印刷されていない。完全な片面刷りのチラシだ。
「これだけ施設や生活環境の説明は丁寧ですが……肝心の施設の所在地や全体の規模、区画の配置には一切触れられていません」
「そんな機密に関わるようなことを街頭で配るただの勧誘チラシに書くと思うか?」
「書きませんね。世間の普通の企業なら」
アキは一拍の間の後、静かに言葉を続けた。
「ですが、一度入所した人間にとって『その施設からどこまで外へ出られるのか』という行動の自由度は命に関わるほど重要です」
環は目をわずかに細め、アキの横顔を見つめた。
「……行動範囲、か」
「はい。いくら立派な『居住区』や『運動スペース』と書いてあってもそこが分厚い隔壁で『外部と完全に区切られている』とは限りませんから」
コンベヤの上で流れ続ける紙束の端が風圧でわずかに捲れ上がり、カサリと音を立てた。寸分違わぬ全く同じ文面が、何百枚、何千枚と重ね合わされている。
環は無意識のうちにコンベヤから一枚をつまみ上げ、指先でくしゃりと軽く折り曲げてみた。
「……だが」
環はそのまま、折った紙を流れる束の上へと戻した。
「これ、実際に募集を出したら……応募して来るやつは大勢いるだろうな」
アキはその言葉を否定しなかった。
「……いますね。絶対に」
「毎日の温かい食事に個室、専門医の医療手当がついて、その上小遣い程度の金まで出る。おまけに面倒な身元保証人もいらない」
環は目の前を通り過ぎていく紙の列を目で追いながら淡々と言い捨てる。
「このセクターの底辺で今日明日を食いつなぐ術もない、どこにも行き場のない連中にとってみればほぼ『救いの手』そのものに見えるはずだ」
しばし、重い沈黙が二人を包んだ。
「……ええ。だからこそ、ですよ」
アキは静かな、しかし確信に満ちた声で答える。
その声のトーンは、どこか硬く研ぎ澄まされていた。
環が横から怪訝そうに視線を向ける。
「何がだ?」
「『あらかじめ選ばれている』ということです」
アキは手にしたチラシの表面を指先でトントンと軽く叩いた。
「この過酷な条件に自ら合致してしまうような天涯孤独で追及の及ばない人間だけが、吸い寄せられるようにここへ集まってくる」
「まあ、世の中の求人や募集なんてものは元々そういう条件に合う人間を探すためにやるものだろう」
環は肩をすくめて済ませようとしたが、アキは毅然とした態度で首を横に振った。
「違います」
短く、そしてハッキリとした拒絶の拒絶。
「自発的に『来る』のではありません。こうやって巧妙に誘い出されて『集められている』んです」
コンベヤがガタンと大きな音を立てる。
奥の暗がりから全く同じ紙束の新しい山が、また滑り出てくる。
同じ企業のロゴマーク。
同じ耳ざわりの良い文面。
同じ残酷な“勧誘”。
環はその白い紙の群れを見つめたまま、低くぽつりと言った。
「……それで?」
環はゆっくりと首を巡らせ、アキの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「これがこの部屋に流れてきたってことに何の意味がある」
アキはすぐには答えなかった。
彼女は代わりにチラシの最下部に細かく印刷された注意書きの文章へとじっと視線を落とした。
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応募方法
最寄りの受付窓口、または指定医療機関にて
「医療観察モニター希望」とお申し出ください。
簡単な健康検査と面談の後、
参加可否をご案内いたします。
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フェノム・システムズ
異星兵器による未知の影響から
人類を守るための研究機関。
あなたの協力が、
未来の命を救う力になります。
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※研究の内容および詳細は機密情報を含むため、
参加契約締結後に説明されます。
※研究の進行状況により、
滞在期間や観察内容が変更される場合があります。
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アキはその一番下に記された注釈の一文を爪先で静かになぞった。
「……重要な契約内容はすべて契約を結んだ後の『後出し』ですね」
環が鼻で小さくあざ笑う。
「いつもの企業のやり口だな」
だが、アキの表情は一切崩れず笑いもしなかった。
「ええ。ですが……」
彼女は持っていた用紙を規則正しい四つ折りにゆっくりと折りたたんでいく。
「契約の後に『何をするか』ということ以上に……この大量の紙束が『どこからここへ流れてきたのか』ということの方が、私はずっと気になります」
環はその言葉を聞いた瞬間、一瞬だけ身体の動きを止めた。
「……ああ」
アキの意図にようやく思考の理解が追いついた声だった。
コンベヤの上には依然として溢れんばかりの紙束が流れ続けている。
暗い開口部の奥から一向に途切れる気配がない。
「これ……一体どこで印刷して、どこへ持ち出そうとしていたんだろうな」
環の呟き自体は軽い調子を装っていた。
だが、その瞳の奥に宿る光は酷く鋭いものへと変わっていた。
アキは折りたたんだ紙を手に持ったまま、小さく口を開く。
「少なくとも、街頭や施設で大衆に配られる『前の状態』のものです。つまり……」
アキはコンベヤの奥深く、黒く口を開けている暗い搬入口の方へと静かに目を向けた。
「一般の都市部へ出回る前の刷り立ての大量の募集広告が、なぜか途中で遮断され、外に出さずにこの処分ラインへと流されてきている」
分厚いゴムの帯が、部屋の真ん中で低く重々しい唸りを上げ続ける。
環は胸の奥から、ゆっくりと長い息を吐き出した。
「……誰かが土壇場で不要だと判断して捨てたのか」
「あるいは」
アキは冷ややかな声で、その先の予測を口にした。
「この募集計画そのものが何らかの理由で凍結され、外部へ『出させなかった』のか」
次の紙束の山が、また静かに二人の目の前を通り過ぎていく。
誰の目にも触れず、誰の手にも渡るはずのなかった、偽りの“救い”。
都市の底辺に生きる者たちを誘い出すはずだった無数の白い紙片が、何事もなかったかのように地下の闇へと流れて消えていった。




