第59話 パリンプセスト
「『街は生きている。命ある遺構、神秘のパリンプセスト・セクター』……」
読み上げるアキの声は、途中からわずかに緊張を帯びて硬くなっていた。
アキと環は、ベルトコンベヤから無機質な音を立てて流れてきた“模型”を前にほとんど同時に作業の手を止めていた。専用の梱包箱に収められていたのは異様なまでに精巧に作り込まれた都市の模型だった。
それを単なるドールハウスやジオラマと呼ぶにはあまりにも無機質で、現実に潜む狂気をそのまま縮小したかのような生々しさがあった。
透明なアクリルカバーの下では、細密に切り取られた街区が、まるで意思を持っているかのように静かに佇んでいる。林立する無数の高層ビル。しかし、その外壁の材質や建築様式は一様ではなかった。
「これ、どこかのセクターを実際にモデルにして作られた模型ですよね? ……で、その『パリンプセスト』って一体どういう意味なんですか?名前だけ聞いてもどんな特徴を持ったセクターなのか全然想像がつかないんですけど。私たちがいる『フェノム・システムズ』とかは名前だけでも何となく不気味な雰囲気が伝わってくるじゃないですか」
「消されたはずの古い文字の上から新しい文字を何度も書き重ねていく。そういう古い羊皮紙の筆記技法のことだ」
「はあ……なるほど?」
一見すると、最新のガラス張りの高層建築が整然と立ち並ぶ都市だった。
しかし外壁の継ぎ目や建物の谷間からは明らかに様式の異なる古い石造りの構造物が顔を覗かせている。近代的な建築物の基礎からは古びた石柱が突き出し、高層ビルの地下には、さらに古い時代の回廊が延びていた。その下には人間の建築様式とは思えない巨大な石組みが幾重にも埋もれている。
奇妙なのはそれらが単に古いものを壊さず残した結果には見えないことだった。
新しい建物の壁は古い石壁を避けるのではなく、まるで最初からそこにあった一部であるかのように食い込んでいる。かつての街路は新しい建物の内部へ吸い込まれ、その先で別の時代の回廊へと接続していた。
異なる時代の建築が互いの存在を否定することなく奇妙な整合性を保ったまま一つの都市を形作っている。
――まるで消されたはずの古い文字の上に新しい文字を書き重ねながら、下に記された文章だけは決して消しきれなかったかのように。
「一応、先輩に聞いておきたいんですけど……ここ、実際に行ったことありますか?」
「一応な」
「やっぱり行ったことあるんですね」
アキは気を取り直して、目の前の模型へと視線を戻した。
しかし、よく観察すればするほど、この街の構造はおかしかった。
道路が何の脈絡もなく途中で途切れ、石畳がそのまま直角に折れて、まったく別の建物の外壁へと繋がっている。近代的な高層ビルの中腹から、古びた石造りの鐘塔が突き出している区画さえあった。
まるで初心者が設計を間違えた模型のようだった。ところが不自然な継ぎ目だらけであるにもかかわらず全体としては構造が破綻していない。むしろ物理的に無理のある接合部ほど最初からそうあるべきだったかのような整合性を保っていた。
「行ったことはある。だが、もう二度とあんな場所には行きたくないな」
環は模型を見据えたまま、低い声で吐き捨てるように言った。
アキが思わず「どうしてですか?」と聞き返すと環はそれ以上話を誇張することもなく答えた。
「あそこは人間の暮らす『街』というより、街のふりをした得体の知れない遺構だ」
もともと、あの土地には人間が現在の都市を築くよりもはるか以前から巨大な“構造物”が存在していた。
後世の人間はその上に建物を築き、道路を通し、配管や電力網を敷設した。
やがて都市は旧時代の構造物を包み込むように拡張され、現在のパリンプセスト・セクターが成立した。
――しかし街は人間が手を加えた姿をそのまま受け入れてくれるわけではない。
壁を取り払えばいつの間にか同じ場所に壁が現れる。
塞いだはずの通路は別の場所に新たな入口を伴って姿を現す。
増築した部屋が翌朝には消え、何十年も使われてきた階段がまるで最初から存在しなかったかのように消失する。
それは壊れた箇所を機械的に修復しているというより、街が自分自身の構造を保とうとしているように見える現象だった。
――人間が何を建てようと何を壊そうと街には街自身の都合がある。
そしてその都合が何によって決められているのかは千年以上にわたってこの土地を管理してきた者たちでさえ、完全には理解できていないという。
「……元の形ですか」
アキが怪訝そうに呟くと環は淡々と話を続けた。
「ああ。あの街を管理しているのは行政組織だけじゃない。街そのものにも自分の構造を決める機能があるらしい」
人間が現在の暮らしに合わせて計画的にインフラを整備し続けているわけではない。むしろ街のほうが勝手に「自分にとっての正しい状態」を決定してしまう。
昨日まで当たり前に存在していた通路が、今日は固いコンクリートの壁になっている。昨日の夕方まで頑丈に塞がれていた地下階段が今朝になって突然、目の前に口を開けている。
そうした変化は、住民の都合や生活の有無などお構いなしに起こるのだという。
「発生する頻度に差こそあれ、あの変化は不定期に起きる。回数や時刻に一定の法則はないし、朝も夜も関係ない。何の前触れもなく階段が消えることもあれば、ある日突然、家の天井が丸ごと消えて吹き抜けになることもある。人間が自室で食事をしている最中や風呂に入っている最中に家そのものが勝手に組み替わって壁が移動することだってある」
アキはアクリルカバー越しに、模型の細い通りを目で追った。
高層建築が息苦しいほど密集する中心区画。その建物の合間からは朽ちかけた動物の骨を思わせる古い石組みがあちこちに顔を覗かせていた。
新しく作られた近代的な街のはずなのにどこか深く掘り返された古墓を見ているような生理的な嫌悪感を催させる光景だった。
「うわあ……それ、そこに住んでる人たちはめちゃくちゃ困りませんか?」
アキの率直な問いに、環は小さく頷いた。
「だからこそあのセクターでは建築や増改築に対して厳格な制限が設けられている」
――勝手に壁を取り払うな。床を壊すな。新しく増築するなら行政が指定した限られた区域で行え。
人間の手による工事自体は可能だが、手順を少しでも誤れば街の修復機能に「異物」や「破損」と判断されかねない。そうなれば苦労して作り上げた部分が翌日には跡形もなく消えていることもある。
必死に繋いだ避難通路が塞がれ、自分の手で建てた部屋の壁が消え失せる。どれほど汗水を垂らしても街の変化一つでその労力がすべて帳消しにされてしまうのだ。
「上層でも空間の変動自体は起きるが、構造の古い下層ではその頻度が圧倒的に高い。予期せぬ圧死や突然床が抜けたことによる落下死が絶えない」
環の声はどこまでも淡々としていた。
歩いていた通路の位置が音もなく変わる。脱出用の扉が忽然と消える。頭上の床が崩れ、逃げ場もなく奈落へ落ちる。
たとえその空間の真ん中に人間がいようとも街は人間を優先しない。その言葉の重みは実際に過酷な環境を目にしてきた者にしか出せないものだった。
アキは思わず声を落とした。
「そんないつ自分が死ぬか分からないような危ない場所なのに……どうして皆、そこに住み続けてるんですか?」
「住みたくて住んでいるわけじゃない。ほかに生きる術がないから、そこにいるしかない者も大勢いる」
環は短く答えた後、少しだけ言葉を継いだ。
「パリンプセスト・セクターにはこの国では珍しい制度が残っている」
――厳格な市民登録を済ませれば上層か下層かを問わず、最低限の住居が与えられるのだという。
その由来については諸説ある。現在の行政制度による福祉政策だという説明もあれば旧時代の慣習が形を変えて残ったものだという説もある。
いずれにせよ、この土地では住む場所を持たない者を完全に追い出すことが他のセクターほど容易ではない。
もっとも保証されるのはあくまで部屋そのものだ。
その部屋へ続く道や廊下が、明日も同じように存在しているとは限らない。昨日まで確かに繋がっていた廊下が、翌日には足場のない暗い吹き抜けに変わっていることさえある。
「電気や水道、ガスといったインフラは一応きちんと整備されている。建物の質は場所によってピンキリだが、どこかの部屋を宛がってもらえること自体は保証される。……そういう意味ではこの国の下層の中では比較的恵まれたほうなんじゃないか」
「こうして話を聞かされると確かにそうなのかもしれませんね……。私もこのセクターに来るまではずっとスラムで路上生活をしていましたけど毎日の野宿はやっぱりなかなかきついものがありますから」
アキは感心したような、あるいは気味の悪いものを見るような、複雑な眼差しで再び模型を覗き込んだ。
小さな窓。迷路のように入り組んだ細い階段。異なる時代の建築が無理やり食い違ったまま固められた奇怪な外壁。
どう見ても人間の感覚でいう「暮らしやすい理想の街」とは程遠い。
「それでそんな一筋縄ではいかない場所を一体誰がどうやって管理してるんですか?」
「およそ千年前、旧時代から続く由緒ある一族だ。正確にはただの管理者というわけでもない。……あの土地には今のセクター制が成立するよりも前から、塔を中心とした王国が存在していた」
「王国?この国に王がいたんですか?」
「ランセスト王国。今では名前くらいしか知られていないがな」
環は模型の中心部にそびえる周囲の建築とは明らかに様式の異なる塔を指し示した。
「かつてあの土地には塔を中心とした王国があった。今のセクター制が成立するよりも遥かに前の話だ」
「……塔を中心とした、というのは?」
「文字通りだ。あの土地では塔は単なる建造物でも王権の象徴でもなかったらしい。人間と大地を結ぶ場所として、特別な意味を持っていた」
「大地と人間を結ぶ……?」
「ああ。かつてあの土地に最初に辿り着いた人間がいたらしい」
「最初に?」
「まだ土地が誰のものでもなかった頃の話だ。彼等は自分たちの力で土地を征服したわけでも、先に住んでいた誰かから奪い取ったわけでもなかった。ただそこに辿り着いた。そして大地から住むことを許されたと伝えられている」
「……大地が人間を選んだんですか!?」
「選んだというより、認めたというほうが近いのかもしれないな。その証として最初の人間には光輪が与えられたそうだ」
アキは頭上に指で輪を作った。
「光輪」といえば物語の中でしか聞かないような概念だ。少なくとも彼女にはまったく馴染みがなかった。
「えっと……光輪って、頭の上に浮かぶあの輪のことですよね?ホログラムとかじゃなくて?」
「そうだ。俺も実物を見たことはないが、あそこのトップの頭上には代々光輪がある。少なくとも、あの土地では単なる装飾や権威の象徴とは見なされていない。大地と繋がるための認証鍵、とでも言えばいいのか」
「繋がる……?」
「“街”のどこが動くのか、何が壊れるのか。そうした変化の兆候を体感できるらしい。そして塔に接続することで、大地……ひいてはパリンプセスト・セクター全域を把握できるそうだ。光輪を持つ者だけが、塔に接続できる。そういう人間のことをあの土地では“塔主”と呼んでいる」
「なるほど……でも、どうして塔なんでしょうか。大地と繋がるだけなら、ほかの場所でもよさそうなのに」
二人の視線が、模型の中心にそびえる塔へと向けられた。
「宗教のことはさっぱりだが、原初の民に大地を与えた『神』の身体の一部だと伝えられている」
「神の身体の一部」
「そういう伝承があるというだけだ。実際に何なのか俺には分からない」
環はそこで一度言葉を切った。
「ただ塔が単なる建造物ではないことだけは確からしい。あの土地の人間にとっては大地との繋がりを保つためのなくてはならない場所なんだろう」
「……最初の人間が光輪を授かったなら、その人が王になったんでしょうかね?」
「そういうことだ。その後も王の血族から光輪を持つ者が現れ、代々その者たちが王を務めてきた。そういう話が残っている」
「……代々、ですか?」
「塔主は世襲の王というより、大地との関係を引き継ぐ者だったらしい。誰が次の塔主になるのかも単純に血筋や本人の意思だけで決められるものではなかったようだ」
「……それって、本人が望んでいなくても?」
「そういうこともあるだろうな」
環は少し考えるように間を置いた。
「大地が何をもって人間に証を与えるのか。誰が塔を継ぐべきなのか。そうしたことを人間の都合だけで決められるとは限らない。少なくともあの土地ではそう考えられているらしい」
「なんだか、祝福というより呪いみたいですね」
「そうかもしれない。だが、最初にその証を授かった人間はきっと違う意味で受け取ったんだろう。自分たちがこの土地の所有者になったのではなくここで生きることを許されたんだと」
「……今でもそう考えているんでしょうか」
「さあな。伝承が残っていることと、それを信じていることは別だからな」
環は模型の塔から指を離した。
「もっともランセスト王国が滅びた後も塔主という役目そのものは失われなかった。王国の統治機構が消え、国のあり方が変わっても塔を継ぐ者だけは残った」
「王様がいなくなっても塔主は残ったんですね」
「そういうことだ。今では王ではなくパリンプセスト・セクターの代表として扱われている。地元では“塔主”と呼ばれるが、外に出れば代表だ。もっとも古い時代の塔主と現在の代表がまったく同じ意味でその地位に就いているのかは分からないがな」
「じゃ……じゃあ、現在の代表も光輪を持ってるってことですよね?」
「そうだ。あの一族では、光輪を持つ者が代々塔主を務めてきた。現在の代表もその血筋に連なる人間だ」
「現代でも光輪を持っているだけで代表になれるんですか?」
「少なくともそう単純な話ではないらしい。光輪を持つことと塔を継ぐことは同じではない。何をもって継承者と認められるのか、その詳しい仕組みまでは俺も知らない」
環は再び模型の塔へと視線を戻した。
「塔主はその土地を所有する王じゃない。大地との約束を守り、土地と人間の関係を次の世代へ引き継ぐ役目を負った人間だ。少なくとも古い伝承ではそういうことになっている」
「今の代表もその約束を守っているんでしょうか」
「さあな。古い役目を引き継いでいることと、その意味まで理解していることは別の話だ」
現在の代表もまたアキとそう年齢の変わらない若い世代の人間だという。
その地位は単なる世襲の権力者というわけではない。光輪を持つ血筋に生まれ、塔主としての役目を引き継ぐことを求められた者。それが、現在のパリンプセスト・セクターを統治する代表とのことだ。
彼らの仕事は住民の生活を豊かにすることよりも街の暴走を抑え、これ以上大きな異常が起きないように監視することに近いのだという。
「それだけ長く管理してきた一族ならそういう理不尽な事故や空間のズレくらい最初から止められないんですか?」
「連中も空間異常の根本的な仕組みまでは解明できていない。あの街を完全に制御できているわけじゃないんだ。……結局のところあの土地に最初に住み着いた一族、というだけなのかもしれないな」
暴れる街――アキには、その表現が妙に生々しく腑に落ちた。
工事中の足場ごと空間が組み替えられることもあれば固く閉ざされていたはずの扉が、背後で何の前触れもなく開いていることもある。気づいたときには、自分がどこを歩いているのかさえ分からなくなっている。
そこに人間が暮らしているというのに街のほうはまるで人間の存在など考慮していないかのように姿を変えていく。
「……それって怖すぎませんか?」
アキの怯えたような呟きを、環は否定しなかった。
ただ、恐怖だけでは済まされない厄介さこそが、あの街の本当の恐ろしさなのだ。
下層ではとりわけ人命が軽い。
狭い通路に大勢の人間が行き交う、そのすぐ横で突然壁が再生成される。足場の階段が音もなく消え、下の階の暗闇へと転落する。古い石造りの遺構が地表に露出し、そこに開いた穴が危険な落とし穴になることもある。
環はわずかに視線を落とし、暗い床を見つめた。
「俺が自分の目で見た限りでもあの街は決して『人間が自分たちの手で作った街』なんかじゃなかった。ただ、地表に眠っている古い遺構……いや、“生物”の上に人間が勝手に寄生して住み着いているだけだ」
そこで一度言葉を切り、環は続けた。
「街の側からすれば自分の広大な体内に人間を一時的な仮住まいとして渋々受け入れている。そんなふうにさえ見えた」
アキは息を呑み、言葉を失った。
目の前の模型は、どこまでも静かだった。
透明なアクリルカバーの下で、小さな街並みは何事もなかったかのように整然と佇んでいる。
だが、その不気味なまでの静けさがかえって彼女の背筋に冷たいものを走らせた。模型の中では今この瞬間も人間の目には見えない何かが街の構造を組み替えている。そんな気がしてならなかった。
「……で、先輩。そんなに危険で不気味な場所にどうしてわざわざ足を運んだんですか?」
問いかけた後でアキは少しだけ自分の軽率な質問を後悔した。
だが、環は彼女を責めるような素振りも見せず「かつての親友があの奇怪なセクターの歴史や異常性に強い興味を持っていたから」だと答えた。
環のかつての親友は、世界の理不尽な「不審死」の仕組みや、それを克服する方法の手がかりを必死に探し求めていた。
世間で危険だと言われている場所ほど、そこに足を運ぶだけの価値や真実が隠されている。彼はそう信じて疑わなかったのだという。
――死が発生する理屈や仕組みが分からないのなら、あらゆる物理法則や常識が通用しない場所を、自分の目で直接確かめるしかない。
あのセクターへの訪問も彼らが追い求めた果てしない旅の一部に過ぎなかった。
環は指先を伸ばし、模型の一角をそっと示した。
そこは古い時代の地下遺構の上に近代的な居住区を重ねて増築した区画だという。外から見れば華美で豪奢な高層建築だが、その内側では古びた石材と新しい電気配管が複雑に入り組んでいる。配管は壁の中で行き先を見失い、部屋の照明スイッチがどこに繋がっているのかさえ誰にも分からなくなることがあるらしい。
「こういう場所では街の勝手な修復機能とそこに住む人間のささやかな生活が、毎日休むことなく泥臭い喧嘩を繰り広げている」
「……でしょうね。想像するだけで胃が痛くなりそうです」
アキが呟くと環は細く息を吐いた。
「あのセクターの上層にいる連中はそれでも自分たちが街を必死に守っているつもりなんだろう。街を維持することと街を支配すること。その区別が連中にはもうつかなくなっているのかもしれないな」
アキは黙って頷いた。
目の前の都市模型は美術品のように美しかった。しかし、その整然とした外観の裏側には、住民の命を脅かす危険が潜んでいる。
アキには模型の奥底から人間の耳には聞こえない不気味な鼓動が響いているような気がしてならなかった。
「……つまり、ここはですね」
アキは慎重に言葉を選びながら自分なりの推論を組み立てた。
「ものすごく古い遺構が生きたまま街のようになっていて住民の都合なんてお構いなしに勝手に形や構造を変えてしまう。そこに住んでいる人たちはそういう理不尽な変化が起こることを前提に毎日を生きている。そして社会の構造上、下層に追いやられた人たちほどその危険にさらされやすい……ということで合ってますか?」
「端的に言えば、そういうことだな。この国でも指折りにタチの悪い場所の一つだ」
「最悪の観光地じゃないですか」
「観光で済むなら、誰も苦労はしないがな」
環の返答はいつも通り短く、そして重かった。
それだけで彼がパリンプセスト・セクターという街を心底どう見ているのか、十分に伝わってきた。
「これから先、どこかで関わることがあるなら……あそこを普通の『街』として見るな。あそこのことは一つの巨大な『異形の生物』として見るんだ」
環はそれだけを告げた。
人間にとって都合のよい姿を保ってくれるとは限らない。昨日まで通じていた道が、今日は壁になっている。安全だと思っていた部屋がいつの間にか見知らぬ空間へと繋がっている。
それが人間を排除するための変化なのか、それとも街が自らの構造を維持しているだけなのか、環にも分からなかった。ただ一つ確かなのはあの街が人間の都合を基準に動いているわけではないということだった。
アキは精巧な都市模型を見つめたまま、小さく息を吐いた。
「なんだか、その話を聞いてからこの街の見方が百八十度変わっちゃいました」
「それでいい」
環はそう呟くと手元にあった木箱の蓋を、音を立てないようにそっと閉じた。
透明なアクリルカバーの下に広がっていた、美しい街並みが視界から消える。
だが、模型が見えなくなってもあの街の不気味さまで消えたわけではなかった。
むしろ箱の中に封じ込められていた何かが、こちら側へ滲み出してきたような嫌な圧迫感だけが残った。
「このセクターは外見が綺麗に保たれているほど裏にどれだけの危険を抱えているか分からない。上層の連中は街の異常や綻びが外に漏れないよう必死に取り繕っているからな。……何も知らない観光客がふとした拍子に足元の変動に巻き込まれたら、文字通り地獄を見ることになる」
「それは……物理的にですか?」
アキは思わず息を呑み、体を強張らせた。環はそれ以上、自身が過去に経験したことや具体的に何を見たのかについて語ろうとはしなかった。
だが、彼の何も語らない冷たい沈黙こそがパリンプセスト・セクターという都市の底知れぬ恐ろしさを何よりも雄弁に物語っていた。




