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退廃都市の記録係  作者: theo
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第58話 ノコギリカミキリムシ

 パイプ椅子を手にベルトコンベヤの前に立つ環、そして背後に控えるアキ。

 白いトレーが流れてきた時点で互いに“嫌”な予感はしていた。

 こうした予感に限って当たってしまうのがこの施設。


 トレーの上には長い触角を揺らす一匹の虫が鎮座していた。

 何かの目印なのだろうか。虫の背には赤のマーカーで×マークが派手に描かれている。黒に赤、という色彩がこの白一色の部屋の中で浮いている。


「先輩、これゴ……」

 

 環は虫が嫌いだ。アキは問題ない。

 問題はないが、“虫”が出てくると環は途端に使い物にならなくなる。

 軽くパニックを起こし、冷静な判断が出来なくなると言えばいいのだろうか。

 アキは“それ”を視界に収めた途端に音もなくテーブルに添えられたパイプ椅子を手に取り、一歩一歩近付いていく環を見守ることしか出来なかった。

 ……言い方は悪いが、完全に目がイってしまっている。


 ……流さずに殺してしまっていいのだろうか?潰れていても虫は虫なのだろうか。

 疑問は尽きないが、こればかりはどうしようもない。

 ――後で潰れた虫にステッカーを貼り、流すぐらいはしてあげよう。

 

「ハーイ、バイトさんたち。あなた“は”……勿論、その虫のこと知ってるよね?知ってて潰そうとなんてしてないでしょうね?いいから早くその椅子を下ろしなさい。さもなければ虫じゃなく、あなたを撃つわ」


 全てを諦め、アキが目を伏せたその時。

 ガチャリと勢いよく音を立てて部屋のドアが開いた。

 その荒々しい音とは裏腹に滑るような足取りで室内に入ってきたのは一人の女性だった。


 アキの目に飛び込んできたのは彼女の衣服の“白”だった。

 白――ただの白ではない。礼装のように整いながらどこか弔いを思わせる沈んだ白。彼女が纏うコートは布地でありながらわずかに空気を孕んでいる。裾は床に触れていないはずなのにゆるやかに揺れている。

 重さがあるのか、ないのか判然としない。一見すると軽い材質のようだ。


 風を孕んだように揺れる白いコートの隙間から胸元のカードが覗いた。

 “警備課 第三課 課長”――その下に添えられた肩書きに、アキは思わず息を呑む。


 そしてすらりと伸びた脚には踵の高い靴。

 こちらへと一歩踏み出す度、に硬質な音が鳴るはずなのに不思議とそれは抑え込まれているように感じられた。


 照明を受けて淡く光を返す金髪のショートカット。その輪郭ははっきりとしているのに目元には薄い影が落ち、表情の細部を曖昧にしている。


「……同じ施設で働く者同士、一度落ち着いて話し合いませんか?」


 初めて見る顔だが、口振りから察するに環の知人らしい。

 相手は人間――とりあえず停戦を申し出てみよう。

 流石に「本気」ではないだろう。

 

 ――そう判断しかけたその時。

 アキの視線が、彼女の腕へと引き寄せられる。


 細い腕。しなやかな指先。

 その左手には、銀色の指輪が嵌められていた。

 以前、トレーに山積みになっていたものと寸分違わぬそれが。

 そしてその手が、自然な動作で構えたボウガンの引き金に添えられている。


 狙いは――環。

 ようやくアキは我に返った。

 今は穏やかに彼女の容姿を観察している場合ではない。


「知っている。踏んだら増え――」

「そう、“死んだら増える”のよ。あなたみたいな虫嫌いの連中がパニック起こしてコイツを潰して施設中が虫だらけになったことを忘れたとは言わせないわよ」

「えっと……一匹が二匹に?」


 アキの問いに女性はこくりと頷く。


「ええ。正確には“死んだ数だけ増える”わ。踏めば二、叩けば四、潰せば八。パニックになって連打なんてしようものなら……まあ、想像つくでしょ?」


 淡々とした声音だったが、言葉の端にだけ棘があった。

 ボウガンの先端は微動だにせず、環の眉間を捉えている。


「だから椅子を下ろしなさい。今すぐ」


 環の肩がびくりと震える。

 視線は虫に貼り付いたまま、呼吸が浅く速い。

 指先が白くなるほど椅子を握りしめている。


「無理だ。こいつはゴ、」

「ノコギリカミキリムシよ」

「虫は虫だろう。遠目から見ればそう違いはない」

「はあ……無理でもやるの。ここはそういう場所よ」


 女性は一歩だけ踏み込んだ。踵の音は驚くほど小さい。

 その代わり、ボウガンの弦がかすかに軋む。


「三つ数えるわ。一で手首の力を抜く。二で椅子を床に置く。三で一歩下がる。……いい?」


 環の返事はない。

 虫の触角が、わずかに揺れた。

 アキはゆっくりと息を吸い、環の背に半歩だけ近付いた。


「……一」


 女性の声。

 アキは低く、同じテンポで重ねる。

 ぎし、と金属が鳴る。環の指の白さがわずかに戻る。


「……二」


 椅子が、ほんの数センチ下がる。

 床に触れる直前で止まり、また震えた。

 虫は動かない。 ただ、そこに“いる”ままだ。


「……三」


 女性の声のトーンは変わらない。

 そうしてようやく環の手から、力が抜けた。

 パイプ椅子が床に触れ、乾いた音が一つだけ鳴る。

 数秒――いや、もっと長く感じた静止の後、女性は小さく息を吐いた。


「よろしい」


 ボウガンの先が、僅かに下がった。


「じゃあ次。そこから一歩下がって、壁に背をつける。視線は上。床を見るな」


 環は黙って従った。

 ぎこちない動きだったが、確かに後退する。

 アキはそれを見届けてから、ゆっくりとトレーに視線を落とした。


「……で、どうするんですか。この虫」


 女性は肩をすくめる。


「どうもしないわ。“触らないで流す”。それだけ。ステッカーを貼る時にうっかり殺したりなんかしたらまた増えるでしょ?」

「でも、このまま流したら……」

「いいのよ、流して。ここで増やすより、流した方がマシ。此奴は元々“うちにいるやつ”だし……」


 彼女はポケットから薄いカードを取り出し、コンベヤ横の端末にかざした。

 それからテーブルへと歩み寄るとパソコンのキーボードを何度か叩く。

 ――社員専用のコマンドでもあるのだろうか?


 低い電子音。ベルトの速度がわずかに落ちる。

 作業が終わったのだろう。女性が再び二人へと近付いてくる。

 

「あなたたち、ついてきなさい。一定距離を保って」

「先輩、行きましょう」


 女性の指示は簡潔だった。

 さらりと言って、トレーの縁を“触れない距離で”追うように歩き出す。

 環は無言で頷く。視線は上のまま。アキは頷き、環の肩に軽く触れた。


 三人はベルトコンベヤから一定の距離を保ちながら、トレーの動きに合わせてゆっくりと歩きだした。

 やがて端に設けられた“穴”の前に着く。

 三十秒にも満たない時間であったが、環の横顔は緊張に満ちていた。


「ここから先は向こうの仕事。私たちはもう触らないわ」


 ……トレーが滑るようにして穴の中へ消えていく。

 完全に穴の奥に消えたことを確認してから環は視線の向きを変えた。

 虫が視界から視界から消えるまで、警戒し続けていたのだろう。

 環は安堵したように長く、深く息を吐き出した。


「はい、終了。――いい?覚えなさい。背中にピンクの模様のある黒い虫が出てきたら“殺すな、見せるな、触るな”。この三つで大抵の面倒は避けられる」


 女性はボウガンを肩に担ぎ直し、振り返る。

 視線が環に向く。


「特にあなた。虫嫌いなのは結構。でも嫌いを理由に手当たり次第に殺していたらこの施設にはいられないわよ」


 短い沈黙。

 環はゆっくりと視線を下ろし――すぐに逸らした。


「……分かってる」

「分かってない顔ね。でもまあいいわ。今日のところは“殺さずに済んだ”から合格」


 彼女は踵を返し、扉へ向かう。

 去り際、思い出したように付け加えた。


「それと。さっきの質問の続きだけど」


 ドアノブに手をかけたまま、肩越しに笑う。


「二匹を潰せば四匹。四匹を潰せば八匹。――そうやって施設一つ、簡単に終わるの。お陰様でこの施設には現在、“三十二匹”アレがいるわ」


 ガチャリと音を立てて扉が閉まった。

 残された静寂の中、アキは小さく息を吐く。

 虫が運ばれてきてから、現在までは三十分にも満たない時間。

 ――だというのに。虫が平気な自分までどっと疲れた気分だ。


「一応、助かりましたね?」


 環はしばらく何も言わなかった。

 やがて壁に背を預けたまま、ぽつりと呟いた。


「……虫は嫌いなんだ」

「知ってます」


 ベルトコンベヤは何事もなかったかのように次のトレーを運んできた。

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