第56夜 海南島
「今晩は、東條閣下、ご機嫌いかがでしょうか。」
「頗る良い。」
「昨日は、『先生』を意識しなくても呼び出せると話ましたが、今は、どうですか。」
「実は、今は、もう呼び出せることはできないのだ。」
「どうしてですか。」
「分からないが、役目が終わったからじゃないか。」
「そうですか。それは残念です。本当かどうか確かめたかった。それでは、お話をお願いします。」
「では、黄泉がえりの話を聞いてくれ。」
「お願いします。」
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ヤシの葉が影を落とす砂浜に打ち寄せる波を見ていると長閑で眠くなるようだ。ここが印度支那と日本の中継基地とは思えない。海南島は、常夏のリゾート地のようである。
山下奉文中将は、関東防衛軍司令官の任地、満州と違う明るい風景に戸惑った。
10月25日、山下奉文中将は、これからマレー作戦を控え、南方の環境に順応するため第25軍の訓練と侵攻準備のため海南島に到着した。
司令部に着くと軍参謀長鈴木宗作中将が、今後の予定を確認した。
「海南島は、マレーと気候が似ております。島の1周は約1千キロでマレー半島の上陸地からシンガポールまでの距離に相当します。約2か月間、上陸訓練、侵攻訓練を行うには、持ってこいであります。」
「今回の作戦は、スピードが大事だ。」
「自転車、自動車部隊の訓練も欠かせません。」
「まあ、そうは言ってもこの風景だ。本番に充分できるように、兵隊が疲れないよう配慮してくれ。座学も用意した。」
「『これだけ読めば戦は勝てる』ですか。あれはいけません。降伏の仕方を紹介するなんてひ軟弱すぎます。東條総理は、戦陣訓をどうして廃棄させたのでしょう。」
「支那で日本軍がやったような儘滅作戦(三光作戦)を印度支那でやったら、英軍支配よりひどくなるからだ。栄えある皇軍の恥だ。」
「田中隆吉少将が北支那方面軍第一軍参謀長の時、『敵根拠地を燼滅掃蕩し敵をして将来生存する能はざるに至らしむ』の命令でありますか。」
「そうだ。共産ゲリラの根拠地といっても農村だ。その家屋を燃やして、女子供含めて掃討しただろう。あんなことをやれば、占領地統治は、上手くいくわけないぞ。戦時国際法でも違法だ。」
黄泉がえり前の世界の私=東條英機が、日本軍の玉砕を招いたとされる戦陣訓について、残らず廃棄命令を出した。代わりに辻正信参謀編集の『これだけ読めば戦は勝てる』を将兵全部に配布することにしていた。ただし、内容は大幅に変更し、精神論を避け、簡易な表現と漫画入りで、英軍、米軍貸与の兵器を解説し、独軍の機動力戦法を紹介した。そして、ここが肝要だが、民族独立権を宣言した日本が軍による食糧収奪、住民虐殺、婦女暴行、俘虜・徴用の虐待をする訳にはいかないので、占領統治の実施要項の改訂版も掲載した。
私が最も力をいれたのは、戦時国際法による捕虜の取扱と降伏の仕方だった。
「現代戦は、通信・輸送手段の発達と兵器の高度化により、情報収集・攻撃速度及び兵力と武器の集中が作戦の成否において決定的なものとなった。兵の練度、精神力は、塹壕戦、接近戦では重要な要素となるが、急降下爆撃機と戦車・装甲車による電撃戦が欧州大戦では常識となっている。もはや航空機の支援のない地上戦はあり得ないと心得よ。
ゆえに、我が皇軍が中国国民党軍や共産党軍に対し用いた歩兵を主力とした突撃戦法は、英米軍の正規軍に対しては、徒に兵力の消耗戦を招く恐れがあり、参謀は作戦立案においては、偵察機や斥候による情報収集により、敵装備、兵力の把握に努め、ジャングル戦や山岳戦、平地戦など状況に応じて、遊撃戦など戦法を考究しなければならぬ。
凡そ師団以上の軍を指揮するものは、作戦の目的が失われた時には、まず、次作戦のため避退を考える。避退において殿軍を務める時には、武器弾薬を殿軍に集約させることも許される。
それもできず敵に包囲され、武器、弾薬が尽きた場合、兵に銃剣で突撃させても意味はない。降伏するほかないのだ。玉砕はしてはならない。
降伏は、武器を捨て、白旗を高く掲げ、両手を上げるなどして行う。菊の御紋が入った武器を捨てるのもやむを得ない。降伏する場合には、敵方に明確に降伏の条件を要求するべきである。
俘虜になることは恥ではない。俘虜になることにより、敵は行動を制限され、食糧を与え、監視の兵員を確保する必要がある。さらに戦時国際法では、捕虜が軍事秘密を話さなくても拷問などの虐待はできない。もっとも大事なのは、敗戦の原因を調べ、戦訓を得ることである。」
11月のある日、海南島の北方から銃声が聞こえた。その後、空を黒く焦がす煙が上がった。山下司令官は、訝しげに憲兵に聞いた。
「おい。あの煙はなんだ。」
「はっ、海軍の海南警備府が共匪を襲撃しているのであります。」
「共匪?ここに住んでいるのは漢族の他に黎族、苗族ではないか。」
「はっ、そうでありますが、共匪が遊撃戦をしております。」
「住民を殺傷したり、住民の家屋を燃やしていなければよいが。」
「はっ。海南警備府に聞いてはどうでしょうか。」
昭和14年2月、第5艦隊第4根拠地隊は、援蒋ルート遮断のため海南島を占領した。海南島に残存する重慶軍の保安団・遊撃隊、共産軍約1万人の掃討、華南における諸作戦の後方支援を行った。
昭和16年4月10日に海南根拠地隊は海南警備府に昇格し、支那方面艦隊司令長官の直轄となる。この時、海南警備府は、指揮下に入った海南海軍特務部を通じて海南島の軍政を行い、台湾総督府から人的・技術的支援を受けつつ鉱産および農林業に重点を置いた経済開発を行った。共匪の掃討は、Y作戦と言い、すでに4回おこなわれ、Y5作戦が今行われているのだ。
この5回の作戦で、戦果として遺棄死体28,863人、奪った武器6,302が報告された。11月から始まったY5作戦では、すでに10,379の家屋を焼き払い、41,000石(6,150トン)のモミを押収した。遺棄死体は、1,540人であった。
山下奉文は、海南警備府から以上のことを聞くと陸軍の儘滅作戦と同じだと思った。こんなところをマレー独立軍人やインドネシア独立軍が見れば、彼らは日本軍に対して信頼を寄せる訳がない。これから始まるアジア独立支援の戦争は、結局、侵略と呼ばれてしまうと危惧した。
山下奉文は、権限が自分にないので、大本営を通じて、海軍に善処してもらうよう意見具申した。
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もうじき就寝の時間ですから今日はここまでとしましょう。
続きはまた、明日、お話します。おやすみなさい。




