第46夜 「我は苦難の道を行く」 汪兆銘南京国民政府(1)
「今晩は、東條閣下、ご機嫌はいかがでしょうか。」
「頗る良い。」
実は、精神病院の看護師の仕事をしているうちに、私の意識の中に別の自分がいるような気になった。何となくそんな感じなのだ。こんなことは誰にも相談できない。
「エッ。今日も別の部屋に行くのですか。今度は誰ですか。」
「松井岩根陸軍大将だ。203号室だ。」
「今晩は、看護師の黒井です。東條閣下からこちらに来て、話を聞けとのことです。」
「待っていた。」
「松井閣下は、黄泉がえりですか。」
「おお、そうだよ。丁度、伊豆山の興亜観音で、シナ事変で亡くなった日中の兵士に読経を上げていたときのことだった。スーッと意識が遠のくと読経をしている自分を見下ろしていた。死んだと思ったが、自分を呼び掛ける声がしたんだ。それが、黄泉がえりの自分だった。」
「気が付くとどうなっていました?」
「もう一人の自分が絶えずいる気がした。それに、あとの6人が一塊に感じられ、気分が重かった。」
「やはり、他の人とやり取りができるのですか?」
「これができるようになると重くるしい気分はなくなった。」
「それでは、お話をお願いします。」
「僕の話は日中講和交渉の話だ。」
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自分は、陸大18期生を首席で卒業し、フランスに赴任した以外は、外地の軍務のほとんどを中国で過ごした。中国語には、不自由がない。明治42年清国滞在中に、孫文と会い、支援したこともあった。蒋介石が下野し、日本に滞在した時は、田中義一首相との会談を成立させた。
大将に昇進した後、昭和9年、自分は、予備役になると大亜細亜協会の会頭になり、日中親善に力を尽くした。蒋介石が英・米に近づき、抗日の姿勢をはっきりさせると、自分は、蒋介石に不信感を持ち、大東亜主義を推進する上で、中国一撃論に次第に傾くようになった。
中国を一撃した上で、日中提携し、欧米列強に対抗する論を強くし、各地を講演して歩いているうちに、自分は、支那派遣軍総司令官に親補され、南京攻略を早い段階から大本営に進言した。蒋介石政権を倒すことが、日中が連携し欧米に対抗する大亜細亜圏を造ることになると固い信念をもっていたからだ。
汪兆銘、号「精衛」は、蒋介石政権でも知日派として知られていた。しかし、自分は、汪兆銘には、政治力がないとみていた。
当初、汪兆銘は、影佐禎昭大佐、今井武夫中佐の提案を信じ、「中国側の満州国の承認」「日本軍の2年以内の撤兵」などを内容とする「日華協議記録」に腹心の高宗武、梅思平両代表に署名調印させた。この後に、汪は重慶を脱出したのだが、近衛内閣は、1938年12月22日に対中国和平の声明、すなわち善隣友好、共同防共、経済提携を示したが、軍部を恐れ、中国からの撤兵を言わなくなった。
その上、翌1939年1月5日、突然の近衛内閣総辞職は、信じていた撤兵を最終的に反故にするものであった。それでも汪兆銘は、中央政権のない中国国民の半分2億人を護るため南京国民政府を1940年3月30日に樹立した。しかし、日本側の提案する華日新関係調整要綱は、近衛声明の趣旨を大幅に逸脱する過酷なもので、汪自身もいったんは新政府樹立を断念したと言われていた。腹心の高宗武、陶希聖が香港に脱出し、「要綱」原案を外部に暴露するという事件も生じたが、汪は粘り強く交渉し、日本側が若干の譲歩をしたのを見て、日華基本条約案を承諾することとなった。
しかし、蓋をあけてみれば、南京政府は日本人顧問の干渉を絶えず受け、日本の傀儡政権とみられ、民心の掌握がでない。汪は、「日本政府ニ対スル希望」を日本側に渡し、日本側が全面和平及び建国の任務を完成する意志があるならば、「政令南京ヲ出ツル能ハズ」という現状を改善しなければならないと訪日した。
その頃、対米交渉を開始していた日本は、蒋介石重慶政権に比べ、汪兆銘南京国民政府が余りにも脆弱なので、可能な限り、希望に沿うと決定し、6月23日、第2次近衛内閣は汪兆銘と共に日華共同声明を発表した。
汪兆銘は、11月7日の日本政府発表の「大東亜諸国経済連合構想」を歓迎したようだ。汪兆銘に日本の言動は、信頼されていない。このままでは自分の立場は、「漢奸」として歴史に汚名を残すことを危惧していた。
そこへ、「大東亜諸国経済連合構想」の発表があり、支那事変の背後にコミンテルありとの報道があったのだ。
汪兆銘が諸手を上げて賛成した「大東亜諸国経済連合構想」に対し、待ちに待っていた日本側の具体的な動きが、11月15日、早速あった。本多熊太郎大使から、興亜院総裁の僕、松井が和平交渉全権大使として、南京に12月1日に来着すると連絡があったのだ。
南京攻略をする前に、自分が略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む「南京城攻略要領」を兵士に各師団長を通じて示していたことは、東京裁判で明らかにされていた。そして支那派遣軍司令官は、作戦の指揮権を保有するのみで、軍規違反に対する権限上の責任者は、各師団の長である師団長であった。特に第10師団が杭州湾上陸作戦を敢行し、膠着状態にあった上海戦を打開した時には、第10軍師団長柳川平助は、自分の指揮下にはなかった。その後、自分の指揮下に入ってからも柳川は、制令線を越え、南京に独断で進行し、暴走した。このことが、最終的に南京戦の統率に影響を与えた。
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もうじき就寝の時間ですから今日はここまでとしましょう。
続きはまた、明日、お話します。おやすみなさい。




