第44夜 渡満
「今晩は、東條閣下、ご機嫌はいかがでしょうか。」
「頗る良い。」
「それは良かったです。」
「この時代の満州は、大志をもつ青年には新天地だった。」
「そうですか。何か羨ましいですな。それでは、お願いします。」
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12月1日正午、鯉川金次郎は、神戸から日満連絡船のねつか丸に乗って、大連にひっそり旅立った。
瀬戸内海から玄海灘に出ると海は、荒れた。朝鮮半島に沿って、大連に着くまでそれは変わらなかった。そのため、金次郎は熟睡できず、昼間うつらうつらしていた。
12月3日午前7時半に大連港の大埠頭に着いた。屋根のある長い待合室に日本鉱山から社員が出迎えてくれた。
「阜新炭鉱管理部経理課長の丹羽秀雄です。満州は、どうですか。」
「鯉川金次郎です。よろしくお願いします。埠頭が広くてびっくりしました。しかし、人が多くて雑然としていますね。」
「そう。広くて混沌。これが満州です。野望が渦巻く大地ですよ。中国人も朝鮮人も日本人も一旗あげようと来ているのです。」
朝食後、二人は大連駅から午前9時発のあじあ号に乗った。日本国内の汽車とは一回り大きく流線型の車体は、見るからに速そうだった。冷暖房を完備した車内は豪華だった。列車は快調に遼東半島を北上した。ビュッヘで食事を済ませ、13時15分に奉天駅でおりた。約400kmを4時間15分とは驚くほど速い。
「ちょっと早いですが、今日は奉天泊りです。宿はヤマトホテルに予約済みです。」
「それは有り難い。市内見物ができます。」
奉天駅は緑色のドームと赤レンガの外壁が東京駅の駅舎に似て壮麗だった。2階にあるヤマトホテルの受付に荷物を預けた金次郎達は、早速、奉天駅周辺の見物をした。道幅36mの浪速通りを歩いて行くと6階建の七福屋百貨店があったり、満蒙百貨店があり、殷賑としていた。奉天大広場まで行くとヤマトホテルや満州医科大学、奉天警察署、三井ビルがあった。さらに、歩いて小西辺門から城内の旧市街に入った。ここからは、満州、支那人の街になる。四平街に入ると市場が立って豊富な食材を売っていた。
「金次郎さん、骨董品に興味はありますか。」
「僕はありませんが、父は蒐集してます。」
「ここの骨董品店には時々、珍品がでるそうですよ。旅行者が良く買っています。」
そう言った側から日本人と思しき人が店主と交渉をしていた。
翌日、奉山線に乗り、奉天駅を8時10分に出発した。12時30分に大虎山駅に着き、大鄭線に乗り換え、新立屯で新義線に乗り換え、17時50分に阜新駅で降りた。
熱河省阜新駅は、炭鉱の積み出し駅で、引き込み線が5本あった。その引込線には、石炭を満載した貨車が数珠つなぎになっていた。
阜新の街は、阜新駅を中心に放射上に道路が連なり、整然と区画されていた。しかし、炭鉱駅からは離れていた。街は炭鉱の発展に伴い炭鉱従業員を当て込んだ商人、料理屋、カフェー、旅館、芸者が集まって賑わっていた。その日に案内された旅館は、邦人が経営していた。
「丹羽さん、お客さんでっか。」
女将は、関西人らしい。
「ああ、社長のご子息だ。」
「あれま、鯉川さんのでっか。」
丹羽が肯くとそれからが大変だった。上等の部屋に案内され、夕飯は大歓迎会となった。
酒が入ると丹羽の口が軽くなった。
「老酒の味はどうですか。こいつが飲めないと支那通とは言えませんよ。」
「はあ、香ばしくていい香りです。」
「金次郎さんは、行ける口ですね。どうぞ。いやねぇ、阜新音頭という歌がありまして。
丹羽はその歌を披露した。
「閭山山脈 ヨウ 朝霧晴れて 阜新黎明の 阜新黎明の鐘は鳴る サテ
炭都阜新は 新興街 ヨ 千両万両の黒ダイヤ~ というんですが。」
丹羽の口がいっそう滑らかになった。
「ここの街にとっては、石炭は本当に黒いダイヤなんです。そのダイヤに女将のように内地からやってきて旅館をやったり、料理屋をやったり一旗組や食い詰めもんが集まってきます。」
「丹羽さんは、こちらにはいつからですか。」
「はあ、私は日立鉱山で経理の仕事をしてまして、こっちに鉱山会社ができてから渡満したから、ざっと5年になりますか。」
「それじゃ、内地が恋しくなりませんか。」
「いや、内地はせかせか働いて、息抜きができません。こっちは大らかでのんびりしてますよ。」
「そうですか。大陸的という言葉をよくききますが、正にそれですか。」
「支那人、満人がそうなんですよ。彼らに働けといっても馬車馬みたいに働かないです。昼はしっかり食べますよ。弁当なんてとんでもない。」
「はあ、そうなんですか。」
「まあ、あくせく働くのが馬鹿らしくなります。そのうち、坊ちゃんも慣れますよ。」
「坊ちゃんは止めてください。鯉川と呼び捨てにしてください。部下ですから。」
「それじゃ、今日は金次郎さんとうことで勘弁してください。」
その日は、疲れたせいもあって、金次郎は早々に歓待に遠慮した。
「実は、移動が大陸的だったので、くたびれました。今日はこの辺でお開きということにしませんか。」
「それは気が付きませんでした。それでは、この辺で失礼します。」
丹羽は、残念そうに自室に戻って行った。
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もうじき就寝の時間ですから今日はここまでとしましょう。
続きはまた、明日、お話します。おやすみなさい。




