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黄泉がえりの東條英機  作者: 広田昭和
17/81

第17夜 密命

「今晩は、東條閣下、ご機嫌はいかがでしょうか」


「頗る良い。」


「東條閣下、あなたは、なぜここに入院しているか知っていますか。唐突にこんな質問をして、すみませんね。」



「入院ではない。老後の生活をここで過ごしているのだ。」


「その通りですね。あなたは元総理大臣ですから。では、お話をお願いします。」

 本人は、本物の東條英機だと思っているので、それを否定するような言辞は禁物です。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 10月29日、藤本岩市少佐、中井大尉と山口中尉は、合着の背広に身を包んで、バンコクに向けて羽田飛行場を飛び立った。上空から見る東京の街は、快い暁の涼気にまだ覚めやらずにいる。彼らの眼には、平和な暁に夢をまどろんでいる祖国の山河がいたわしいものに映った。これが祖国の見納めになるかも知れないと思い、祖国の山河一つ一つを眼に焼き付けておきたいような惜別の情に駆られる彼らであった。


 藤本岩市少佐が、参謀本部第2部第8課の謀略参謀の門松中佐に呼ばれたのは10月3日の午後だった。第8課は、諜報・謀略を担当する部署であり、藤本岩市少佐は、スパイ学校と呼ばれた陸軍中野学校の教官でもあった。


「貴官には近日バンコクに行ってもらわねばならない。駐在武官の田村大佐を補佐して、マレー方面、蘭領印度方面に対する工作の準備に当たってもらう。もし日英蘭戦争が始まるようなことになれば、貴官は近く編成される南方総軍参謀に補任されたうえ、マレー方面、蘭領印度方面の工作を担任することとなる予定である。数名の将校もつける予定だ。」


「はっ。自分は、語学はからきしダメで、その上、今まで専ら報道に携わって来ました。なので、自信がありません。」


「誰でも最初は自信なんかないさ。通訳をつけるから心配するな。」

 藤本は、辛うじて、一晩考えさせてもらうことを願い出て、中佐の前を去った。


 藤本はその日、早仕舞いにして、我が家に帰った。

「おい。帰ったぞ。」


「まあ、珍しくお早いこと。何か御座いましたか。」


「うむ。何も変わったことは。」


「友子。お父さんと散歩に行こう。」


 和服に着替えた藤本に連れられて、5歳の娘は嬉々としていた。藤本の自宅は、世田谷の松陰神社の近くにあった。藤本は、敬愛する吉田松陰の社殿に額づいた。自分の行く末に神の啓示を得たかったのだ。

吉田松陰は西洋列強から幕末の日本を守るには天皇親政で国論を統一しなければならないとの信念をもち、敵を知るため黒船でアメリカに密航しようとして失敗、安政の大獄により刑場の露と消えた革命家であった。

 

吉田松陰は「死して不朽の見込みあれば、いつでも死すべし」と覚悟の上で密航を決行した。

藤本のバンコク行きは、結局、アジア諸国の独立に繋がるだろうと思うとこれこそ「不朽の見込み」であると思い、「至誠にして動かざるものは、未だこれあらざるなり」の言葉を噛みしめた。

至誠を尽くせば語学の壁はなんとかなると自分に言い聞かせるのだった。自分はこの先哲の信念と至誠と情熱と仁愛に学び、日本武士道精神の神髄にのっとり、マレー工作を行えばよいと納得するのだった。

 

 藤本は、帰り道に友子におもちゃを買ってやった。生きて帰れるか分からない父の気持ちも知らずに娘はご満悦だった。そんな藤本の様子に普段と違うものを感じたのか、夕飯の時、妻は、優しく言った。


「あなた。本当になにもございませんか。」

 仕事のことは何も聞くなと妻には、言ってあるが、今夜ばかりは違った。


「近く。海外に出張になる。いつ帰れるかわからない。友子を頼む。」


「はい。分かりました。日取りが決まりましたらおしゃってください。門出のご馳走に尾頭付きの鯛をご用意いたします。」

 

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

もうじき見回りの時間ですから今日はここまでとしましょう。

続きはまた、明日、お話しすます。


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