6-終
涼子を両脇から支えた二人がマンションのエントランスをくぐったところで、管理人が飛び出してきた。
「河合さん! 大丈夫!?」
口を開こうとして痛そうに呻く涼子の代わりに、詩都香が軽く頭を下げた。いちおう彼とは顔見知りである。
「何の騒ぎだったの? 警察呼ぶ?」
涼子が詩都香に視線を向けた。なんとか誤魔化して、とその瞳が語っていた。
詩都香は背後を振り返る。この距離とこの光量なら細かな出来事は目撃されていないだろう。そもそも、エントランスホールに向かって窓口が設けられた管理人室からは、すりガラスの窓を開けないと現場は見えない。彼は騒ぎを耳にしただけのはずだ。あるいは玄関先の防犯カメラを介して遠目に眺めていただけか。
「すみません、テレビのドッキリ企画だったんですけど、局側との連絡に齟齬があったみたいで」
苦しい言い訳だった。わたしにこんな嘘を吐かせおって、と恨めしい気も起こる。
初老の管理人は三人の顔を順繰りに見回した後、無理矢理自分を納得させるように、二度、三度頷いた。
「困るよ、そういうのは。他の入居者の人がびっくりするし」
「ごめんなさい」
涼子がつらそうに謝る。
本当はスタンガンの影響なのだが、管理人には神妙な態度に見えたはずだ。
「涼子が悪いんじゃないでしょ。後で柿沼さんに文句言わないと」
魅咲が絶妙のタイミングで柿沼の名前を出した。マネージャーの柿沼が、このマンションにおいては涼子の保護者のような立場にあることは想像に難くない。
どうもこの管理人には、涼子を頻繁に訪ねる詩都香のことを事務所の仲間だと思っているフシがある。詩都香は毎回管理人室に向かって会釈するだけでこれまで口を聞いたことがなかったし、涼子も積極的に誤解を正そうとはしていないようだ。
そして本日初対面の魅咲の口から柿沼の名前が出たとなれば、三人とも仲間だと思われる。
ここではその誤解を利用させてもらうことにする。全員が関係者面をしていた方が、嘘を信じてもらえるだろう。
「……怪我はないの?」
なおも何か言いたげだった管理人だが、顎に手を遣りながら涼子に尋ねる。
「大丈夫、です。ちょっとびっくりして、腰が抜けちゃって……」
涼子はどうにか営業スマイルを浮かべて頷いた。
「じゃあ、とりあえず河合さんをお部屋で休ませてあげて。何かあったら言ってね」
そう言って管理人室に戻る彼に三人揃ってお辞儀をしてから、エレベーターホールに向かう。
『あれでよかった?』
頭の中に魅咲の“声”が届いた。
詩都香も足を止めずに返事をした。
『うん、ありがとう』
〈精神感応〉を使って魅咲に指示を出したのは、他ならぬ詩都香だった。魅咲自身は、柿沼というのが誰なのかさえ知らないはずだ。
『ったく、あんたにゃ敵わんね』
目でエレベーターの回数表示を追いながら、魅咲がそんな思念を送ってきた。
「お買い物、ちょっと今日は無理だね。ごめん」
いったん外に出た詩都香が三人分の鞄を回収して戻ると、ソファの上に横になった涼子が、口を聞けるくらいには回復していた。
「いいって。何か飲む?」
詩都香が尋ねると、涼子は首を振った。
「いい。ありがと」
「警察に電話しなくていいの?」
と、魅咲。
詩都香としてもそれは気になる。
「大丈夫。たぶん、ただのストーカーだから。事務所に連絡して対処してもらう」
本当にいいのだろうか。未遂とはいえ明らかな刑事事件だ。ただ、未成年者略取はたしか親告罪だったろうか。
「詩都香、さっきの車のナンバー」
「うん、覚えてる」
詩都香は魅咲の問いに答え、テーブルの上のメモに書きつけた。
「涼子、このナンバーに見覚えは?」
テーブル越しに身を乗り出して示してやると、涼子は頭を横に向けてしばらくそれを見ていたが、やがて首を振った。
「ごめん、わからない」
「まあ、日常生活で車のナンバー気にすることないしね」
魅咲が腕組みする。
「それに、あんなことに使うんだし盗難車なのかも」
詩都香はそう言って腰を落ち着けた。
ふ、とそこで涼子が微笑んだ。
「あの状況で車のナンバー覚えちゃうんだ。すごいね、詩都香」
「そう?」
「こいつにとっては余裕だよ。住所もメールアドレスも、覚える気になればひと目で覚えちゃうんだから」
魅咲の言葉にひとつ頷いた涼子が、「んっ」とひと声気合を入れて身を起こした。
「やっと動けるわ」それから手足をさする。「ん、もう大丈夫」
さらにソファから立ち上がる。わずかによろめいたが、本人の言葉どおり、もう動けるようだ。脚の屈伸運動をしながら、右の二の腕を左手で軽く揉む。
「そこにスタンガン食らったの?」
「うん。痛かったよぉ、もお」
涼子はそれから右腕をぐるぐると回した。
「ん、大丈夫。……今日はほんとうごめんね。私が二人の予定を潰しちゃった」
「ううん、仕方ないよ」
詩都香はひらひらと手を振った。
魅咲は部屋の中を見回してから、
「あたしはアイドルのお部屋にお邪魔できたし満足。――いい部屋だね」
「ありがと」
涼子は笑顔になる。それでもすまなそうな色は残っていた。
「えーと……」
魅咲がまたきょろきょろする。涼子を元気づける話題の糸口を探っているらしいが、この部屋にはあまり個性的なものがない。強いて言うならば、液晶テレビの前の写真くらいだろうか。
魅咲もその写真に目を留めて席を立った。
「涼子って、自転車乗るんだ?」
「まあね。なかなか走る時間とれないんだけど。魅咲は?」
「あたしは移動手段としてだけだね。自転車もママチャリだし」
「今度詩都香とサイクリングに行こうかって話になってるんだけど、魅咲もどう?」
「ダメダメ」詩都香が割って入る。「こいつのママチャリにはついていけないから。いっしょに走ったらヘコむよ?」
実際、スポーツ自転車に乗っていながらママチャリの魅咲に置いていかれるのは、詩都香としても忸怩たるものがある。
「あははっ。さっきもすごかった。魅咲、強いんだね」
「いや、それは、まあ。でもあんまり強いとか言わないでほしいな。いちおう女の子ですから」
魅咲が大げさに肩を落とす真似をする。
涼子は「何それ~」と笑った。
「私がもし超ビッグになったら、魅咲にボディガードしてほしいな」
「その頃にはあたしも超ビッグになってるから、ちょい難しいな」
と、魅咲がまぜっ返す。
さすが魅咲だ、と詩都香は感心した。何の分野でビッグになるつもりなのかは知らないが。
そこで涼子は右腕を揉んでいた左手を放し、ソファに座りなおして目を伏せた。
「……それでね、本当に悪いんだけど、ちょっと事務所に電話したいから、ひとりにしてもらってもいいかな。微妙な話になりそうだし」
たしかに、先ほどの出来事を報告して判断を仰ぐとなれば、他人に聞かれたくない話題も出そうだ。それに、警察に連絡するという結論が出た場合、早い方がいいだろう。
「あっ、そうだね、うん」
次の話題を探していたらしい魅咲は、それを機に立ち上がった。
詩都香も投擲武器にしてしまった本に目立った汚損がないのを確かめて荷物をまとめた。
「気をつけてね。戸締まりちゃんとすること」
「うん、気をつける。今日は本当にごめんね。あと、二人とも助けてくれてありがとう」
頭を下げる涼子の悲しげな眼差しに見送られて、詩都香と魅咲は部屋を辞した。
背後でチェーン錠が下りる微かな音がした。
管理人に「ご迷惑をかけしました」とひと声かけて頭を下げ、マンションを出てから、魅咲が詩都香の顔に横目を向けてきた。
「どう思う?」
「どうって?」
「ただのストーカーって涼子は言ってたけど」
「ストーカーにしちゃやることが荒っぽいわね」
詩都香はそう答えながら思案したが、考えがうまくまとまらなかった。
「っていっても、ストーカーっていきなり刃物出すのもいるじゃん」
「そういうのは、なんていうか逮捕覚悟の破滅型でしょう? 今回のはそういうんじゃなかった」
「でも、誘拐のプロとかそういうわけでもなさそう」
と言った魅咲が、顎に手を当てて斜め上に視線を向ける。
「誘拐のプロなんて日本にいるのか知らないけど、まあ、たしかに弱かった」
詩都香は対峙した男を思い出した。あのままやり合えば、ひょっとしたら詩都香が勝っていたかもしれない。
「訓練してるとかそういうレベルじゃない。運動不足の域」
魅咲は手厳しい。
「うん、この辺の坂道を散歩しただけで息切れしそう」
詩都香のこれまた辛口なコメントに、魅咲がくすり、と笑った。
「でもよかった。涼子に何ごともなくて」
「まったくね」
そう相槌を打ちながら、詩都香は周囲の地面に視線を配っていた。
「探しもの?」
詩都香の様子に気づいた魅咲が尋ねる。
「まあね。さっきあんたが蹴飛ばしたスタンガン、どこかに落ちてないかな、って」
「ああ、そういや回収してく暇はなかったか。でも拾ってどうするの?」
「もし警察に相談するってなったら、証拠になるでしょ。それに、危ない人に拾われても困るし」
とはいえ黒色のスタンガンは、薄暗くなった敷地内ではなかなか見つからないかも、と諦め半分だったのだが、
「あ、たぶんあの辺」
蹴った本人の魅咲が助け舟を出した。
魅咲が指差した方向に歩いていくと、バラバラに壊れたスタンガンの残骸が路上に落ちていた。
「……あんた、こんなに力込めて蹴ったの? 相手の腕ごと吹き飛ばしてない?」
「違う違う!」魅咲は大急ぎで否定した。「ここ、車通ったところじゃん。踏まれて壊れたんでしょ」
「どーだか」
詩都香はしゃがみ込み、急な雨のために常備しているビニール袋を鞄から取り出すと、ハンカチで部品を拾い集めた。
その作業を見守りながら、魅咲ぽつりとこぼした。
「でもさ、芸能人ってやっぱ大変なんだね。あんなのに狙われて、その上警察に相談するのも事務所次第なんて」
「今回みたいなのは特殊なんじゃない? ていうかそれってさ――」
「あ、うん。あたしも自分で言ってて思った」
「……ね。わたしたちもいっしょ」
ストーカーよりも危険な魔術師たちに狙われ、国家権力に庇護を求めることもできない。
ただ一点涼子と違うのは、彼女たちが抗い、戦うための力を持っているということだった。
「帰ろっか」
飛び散った部品をあらかた袋に収めた詩都香が立ち上がった。
「そだね」
魅咲が柔らかな微笑を返してきた。
帰宅した詩都香は涼子に電話をした。
もちろん、帰宅途中にもメールを送っていた。
大丈夫、という返信が届いていた。電話は念のためである。
『もしもし?』
何度かのコール音を経て、涼子の声が応じた。
「あ、もしもし。大丈夫、だよね?」
『ああ、うん。大丈夫』
そう答える涼子の声の背後で車の音がしたので、詩都香は眉をひそめた。
「なに? 外にいるの?」
『あっ、うん……。ちょっと外せない用事があってね。もう家に着くとこ』
涼子は何やら言い訳がましい口ぶりになった。
「用事があるならわたしがいっしょに行ったのに」
本気で心配になる。
それにしても、さっきあんなことがあったばかりなのにもう外に出るとは。テレビで活躍する芸能人というのは、度胸の塊なのだろうか。
『気をつけるよ。何かあったら連絡する。詩都香、すぐに来てくれるでしょ?』
「かどわかされた後だったら保証できないけど」
『そのときは仕方ないね』
涼子があまりに恬淡と言うので、束の間反応に困った。
「……で、事務所と話してどうだった?」
『ああ、うん、ひとまず警察への通報は見送ろうか、って』
「あっ、そうなんだ」
言いつつ、詩都香は一抹の不安を覚えた。あの人数――運転手も含めて、最低五人――を揃えて襲ってきた連中が、そう簡単に諦めるだろうか。
――いや待て、とそこで詩都香の脳は別解を弾き出す。
素人の寄せ集めみたいな集団だ。あの人数はかえって足かせになるかもしれない。
一度失敗すれば、怖気づく者も出てくるだろう。それを説き伏せるにせよ、切り捨てるにせよ、体勢を整えて再襲撃に踏み切るまでには時間がかかるのではないか。
おまけに、車のナンバーを見られなかったと考えるほど楽観的でもないだろうし、指紋の残ったスタンガンという動かぬ証拠を現場に置き去りにしてしまった。理性的に判断すれば、涼子にちょっかいを出すどころではなく、官憲の目を怖れて息を潜めているべきだろう。
事務所側は、そのように考えたのかもしれない。
もっとも、あのような凶行に走る集団が、理性的な判断を下せるものかどうかは定かではないが。
『周りで変わったことがあったらすぐに連絡するように、って言われてるから』
涼子が重ねて言う。
「わかった。でも、そのときにはわたしにも教えて。すぐに飛んでいくから。文字どおりの意味で」
『文字どおりって?』
「だから飛んでいくんだって」
『……そりゃどうも』
首をひねる涼子の様子が目に見えるようだ。
本当に空を飛んで駆けつけられることを伝えられぬのがもどかしい。
『今マンションに入ったところ。――あ、どうも。……ええ、大丈夫です。本当にすみません』
後半の声は遠かった。管理人に声をかけられたのだろう。
『というわけでちゃんと帰れた。心配してくれてありがとうね』
「……うん。それじゃ」
『それじゃ。――私ね、詩都香と友達になれて、本当によかったと思ってるよ』
「え?」
『なんでもなーい。それじゃ、おやすみ。魅咲にもよろしく~』
急に明るくなった声とともに電話が切れた。
詩都香は耳から離した携帯電話のディスプレイを見つめて、片手で頭を掻いた。
「なんじゃ、そりゃ」
ぽつりと呟き、携帯電話をポケットにしまう。
――涼子の言葉に込められた意味は、次の日明らかになった。
明けた十月十八日、金曜日。
詩都香の携帯電話がポケットの中で振動したのは、二時間目の化学の授業の終盤だった。
普段は学校側の指導に従って授業中は電源を切るか機内モードにしている詩都香だったが、涼子のことで漠たる不安が残り、マナーモードのみの設定にしていたのである。
メールとは振動の仕方が違う。通話だ。
詩都香は教師の石原が教室に背を向けて黒板に化学式を書くいとまに、そっと相手を確認した。
相手の名前は表示されていない。
だが、この番号には見覚えがあった。
しばし記憶を探り、相手に思い至った瞬間に、振動が途切れた。
残りの数分の時間をじりじりと過ごし、クラス委員の松本由佳理の号令で礼を済ませてから、詩都香は石原よりも早く教室を飛び出した。
リダイヤルすると、相手はすぐに出た。
『もしもし、高原さん?』
涼子のマネージャー、柿沼智仁だ。
「もしもし。すみません、授業中で」
詩都香は動悸を制御するように片手で胸を押さえた。
『ああ、やっぱり涼子の学校とは休み時間のタイミングが違うんだね。こっちこそごめん。――で、ちょっと困ってるんだけど、もし涼子がそこにいたら、代わってもらえないかな?』
柿沼の言葉を認識した瞬間、足元ががらがらと崩れるかのような錯覚に襲われた。




