8話 報酬よりも大切なもの
ベルンさんが頷いた次の瞬間には、声から気だるさが消えていた。
「まず、二人ともその場から動くな。白い花には触れるなよ」
僕とエリクは足を止めた。
倒れている男の子へ駆け寄りたかった。けれど、慌てて同じ草を踏めば、助ける側まで動けなくなる。
それは古橋でイレーネさんに教えられたことと同じだった。
逃げるときも、助けるときも、足元を見失ってはいけない。
「女の子。弟に最後に触ったのはいつだ」
「さ、さっきです。起こそうとして、肩を……」
「手は痺れているか?」
女の子は泣きながら両手を開いた。
指は動いている。紫色の斑点もなかった。
「名前は?」
「サラです。弟はニコ。私が十一で、ニコは七歳です」
「サラ。立てるなら、弟の頭からゆっくり離れろ。足元に白い花がない場所までだ」
サラは唇を噛み、ニコの頭を草の上へ置いた。
離したくないのだろう。
それでも、ベルンさんの言葉どおり、黄色い花だけが生えている場所まで四つん這いで移動した。
ベルンさんは灰色の外套を脱ぎ、地面へ広げた。
「テト」
丸い石の甲羅を持つテトが、白い花の手前まで進む。
小さな前脚が土を一度掻いた。
ニコの身体を中心に、地面へ四角い亀裂が走った。その内側だけが、薄い板のように持ち上がる。
草を踏み分けたり、毒のある花を引き抜いたりしたのではない。痺れ鈴草から離れた場所まで、ニコの下の土ごと運ぶためだ。土の板は傾かず、寝台のようにニコを乗せたまま、こちらへゆっくり滑ってきた。
白い花から十分に離れたところで止まる。
ベルンさんは外套の上へニコを移した。
「ルカ。話しかけ続けろ。名前と年齢、ここへ来た理由を聞け。返事がおかしくなったら、すぐ俺に言え」
「はい」
僕はニコの顔が見える位置へ膝をついた。
右膝に鈍い痛みが走り、少しだけ体勢を変える。
「ニコ、僕はルカ。僕の声、聞こえる?」
ニコの瞼が震えた。
「……聞こえる」
「何歳?」
「七歳」
「今日は、どうしてここへ来たの?」
「母さんに……薬草、買ってあげたくて」
サラが顔を伏せた。
「母さん、咳が続いてるの。私が薬草を売れば、薬代の足しになると思って。南の採取場は安全だって、みんな言ってたから……」
責める言葉は出なかった。
僕だって昨日まで、ここが安全な採取場だと聞けば、その言葉を疑わなかったと思う。
「お父さんか、ほかの大人には話した?」
サラは首を横へ振った。
「父さんは荷馬車の仕事で、三日前から町の外。母さんに言ったら、寝ていなさいって言われるから」
「だから、二人だけで来たの?」
「私が見ていれば大丈夫だと思ったの。ニコは悪くない。白い花を止血草だって言ったのは私だから」
ニコの動かない手を見つめるサラの顔は、泣いているのに逃げようとはしていなかった。
自分が何とかしなければならないと思ったのだろう。
その気持ちは、少し分かる。
僕も家から追い出された朝、アインもエリクも自分が守らなければならないと思っていた。
でも古橋では、僕一人なら出口まで辿り着けなかった。
「サラ、ニコを助けたいんだ。だから、何に触ったか、最初から教えて」
サラは袖で涙を拭き、白い花を摘んだ場所と、ニコが倒れるまでの順番を話し始めた。
僕は聞いたことを一つずつベルンさんへ伝えた。
ベルンさんはニコの瞼を指で開き、呼吸の間隔を数えた。
次に両手を見比べる。
右手の指先だけでなく、手のひらまで紫色が広がり始めていた。
「痺れ鈴草は、触れただけなら皮膚が痺れる程度で済む。だが、汁が傷へ入ると、腕から胸へ上がる」
ニコの右手には、泥で塞がった細い切り傷があった。
「昨日、木箱で切った」
ニコが掠れた声で言う。
傷の縁に、白い繊維が一本張りついている。
「エリク。やっとこはあるか」
「あります」
エリクはすぐ工具袋を開いた。
小型のやっとこを出しかけ、手を止める。
「でも、橋の留め金や石垣に使った物です。このまま傷には使えません」
「正解だ。火口箱を借りるぞ」
ベルンさんは僕の鞄から火口箱を取り出した。
乾いた草へ火を移し、やっとこの先を炎へかざす。
「熱くしただけで、きれいになるんですか?」
「泥を拭き取ってから十分に熱すれば、傷を腐らせるものの多くは死ぬ。だが、熱いまま使えば別の傷を増やす。冷ますまで触るな」
ベルンさんは水筒の水を少量、金属の器へ注いだ。
そこへ灰色の粉を溶かす。
「これは?」
「痺れ鈴草の汁を弱める吸着粉だ。飲み薬じゃない。傷と皮膚を洗うために使う」
答えながらも、ベルンさんの手は止まらない。
「ルカ。ニコの袖を肘まで上げろ。ただし、右手には触るな」
袖へ手をかけたとき、肩のアインが低く唸った。
『待て。その布にも苦い匂いが残っておる』
「袖にも、草の汁がついています」
「見えるのか?」
「アインが、苦い匂いが残っているって」
ベルンさんは袖口を嗅ぎ、わずかに眉を寄せた。
「俺には分からん。だが、可能性があるなら脱がせる」
無理に袖を抜けば、汚れた布が傷へ触れてしまう。
エリクが革の前掛けを外し、裏側を上にして地面へ敷いた。
「この上へ腕を置いてください。紐を切って、袖だけ開きます」
「できるか?」
「服を作るのは無理です。でも、縫い目なら見れば分かります」
エリクは工具袋から小さな糸切りを出した。
袖の外側へ刃を入れ、縫い糸だけを一本ずつ切る。
布が開き、ニコの腕を擦らず外せるようになった。
ベルンさんは冷めたやっとこで、傷へ張りついた白い繊維を摘まみ上げた。
それを金属の器へ落とすと、灰色の水に細かな泡が浮いた。
「間に合った。まだ胸までは上がっていない」
その言葉を聞き、サラの肩から力が抜けた。
けれど、ベルンさんは安心させるようには笑わなかった。
「ここから洗う。痛みがなくても、傷は傷だ。ニコ、腕を動かすぞ」
「動かないよ」
「だから俺が動かす。痛かったら言え」
ベルンさんがニコの右腕を支え、粉を溶かした水を少しずつ傷へ流す。
紫色の斑点はすぐには消えなかった。
魔法のように一瞬で治るわけではない。
「テト。ここから肘までだ」
テトがニコの腕へ鼻先を寄せた。
茶色い光が土の板から細く伸び、手首と肘の下を支える。
締めつけて止めるのではない。ただ腕を心臓より低い位置へ保ち、動かないように固定している。
『あの石の者は、土で傷を治しておるのか?』
アインが尋ねた。
「違うみたい。毒が広がりにくい姿勢を保っているんだと思う」
『治す力でなくとも、命を守れるのだな』
アインの言葉は、僕にしか聞こえない。
それでも、テトは何かを感じたように鼻先を上げた。
「アインが、治す力でなくても命を守れるのかって聞いています」
ベルンさんはニコの脈を数えたまま答えた。
「治療で一番先にやるのは、派手な術を使うことじゃない。何が命を脅かしているかを知って、それ以上悪くしないことだ」
「毒を消す精霊術はないんですか?」
「ある。水や光の上位精霊なら、体に入った毒だけを分けられることもある。ただし、使い手は少ない。到着を待っている間に死ぬなら、目の前にある水と粉と手を使う」
ベルンさんはテトの甲羅を指先で一度叩いた。
「俺とテトが得意なのは、体を支え、傷が治る時間を作ることだ。できないことを嘆く前に、できる手順を間違えない。それが療師の仕事だ」
テトが短く鼻を鳴らした。
アインは返事をしなかった。
けれど、土の支えに守られたニコの腕を、瞬きもせずに見つめていた。
ベルンさんはニコの脈を確かめた。
「指は動かせるか?」
ニコの人差し指が、ほんの少し曲がった。
「さっきは動かなかった」
サラが息を呑む。
「洗った分だけ戻り始めている。だが、ここで寝かせておく理由はない。町の診療所で昼まで様子を見る」
「僕が背負います」
そう言ってから、自分の右膝を思い出した。
ベルンさんは僕の足へ目を落とす。
「歩くだけで許可を出した。人一人を背負う許可は出していない」
「でも、ベルンさんは左脚が――」
「悪い。だから背負う方法を知っている。お前は、自分ができないことまで抱えるな」
言葉が胸に刺さった。
助けたいと思ったら、自分が持たなければならない気がしていた。
けれど、ここにはエリクも、アインも、ベルンさんも、テトもいる。
「エリク。前掛けをもう一度借りてもいい?」
「何に使う?」
「棒を二本通せば、担架にできると思う」
エリクは周囲を見回し、魔獣よけの柵へ目を止めた。
柵の脇には、補修用らしい細い木材が束ねてある。
勝手に使ってよい物か分からない。
「ベルンさん」
「人命救助に必要な資材は使え。何を何本使ったか覚えて、あとで報告する」
僕とエリクは補修材を二本借りた。
革の前掛けの紐を棒へ巻きつける。けれど、中央が狭く、このままではニコの体が落ちそうだった。
僕は鞄から着替えの上着を出した。
「これも使おう」
「汚れるぞ」
「洗えばいいよ」
エリクが前掛けと布を重ね、針金で四隅を留めた。
ベルンさんが結び目を一つずつ引き、ニコを乗せる。
前はエリク、後ろはベルンさんが持った。
「ルカはサラと籠を頼む。白い草を入れるなよ」
「はい」
三本の止血草が入った籠を持ち、サラの隣を歩いた。
来たときより遅い速度で、町へ戻る。
僕は何度もニコへ名前を呼び、眠くないか、息苦しくないかを尋ねた。
やがて、ニコは自分から指を曲げて見せた。
「もう、三本動く」
「よかった」
サラは泣きながら笑った。
町の診療所へ着くと、ベルンさんは治療師へ草の種類、触れた時刻、傷の場所、行った処置を順番に伝えた。
僕が話したのは、ニコの返事が途切れなかったことと、指が一本、三本と動くようになったことだった。
エリクは袖を切った理由と、担架に使った補修材二本を報告した。
サラは、痺れ鈴草が生えていた場所を説明した。
誰か一人の記憶だけでは、全部を伝えられなかった。
治療師は記録を書き終えると頷いた。
「処置は適切です。痺れは夕方までに引くでしょう。念のため、今日はここで休ませます」
今度こそ、サラは声を上げて泣いた。
僕たちは二人を診療所へ残し、ギルドへ戻った。
止血草は三本のままだ。
依頼票には、二十本と書かれている。
マルタさんは籠と僕たちの顔を見比べた。
「まず、受注した依頼の結果を報告してください」
「止血草は三本だけです。採取場で痺れ鈴草に触れた子どもを見つけて、救助を優先しました」
「依頼は未達成ですね」
胸が沈んだ。
人を助ける方が正しいと思った。それでも、約束した数を持ち帰れなかった事実は変わらない。
「はい。未達成です」
言い訳を足さずに答えた。
マルタさんは三本の止血草を確かめ、帳面へ線を引いた。
「採取済みの三本は買い取ります。銅貨三枚です。依頼達成報酬の銅貨十八枚は出ません」
昨日払った宿代の半分にしかならない。
エリクが僕を見る。
僕は頷いた。
「分かりました」
報酬の分け方はあとで決めることにして、銅貨三枚は僕が一時的に預かった。
「では次に、救助報告です」
マルタさんは別の帳面を開いた。
僕たちは診療所で話したことを、もう一度順番に伝えた。
白い花が安全指定地の内側に生えていたこと。
ニコの手に古い切り傷があったこと。
草の汁が袖にもついていた可能性があること。
柵の補修材を二本、担架へ転用したこと。
ベルンさんは、吸着粉と包帯を使った量まで報告した。
マルタさんの筆が止まる。
「見習い登録の際に、何を教えたか覚えていますか?」
「依頼中に見つけた人命を、報酬より優先することです」
「そのとおりです。ですから、依頼は未達成。でも、規則違反ではありません」
マルタさんは僕とエリクの記録欄へ、それぞれ短い文章を書いた。
『採取数三。負傷者救助を優先。危険物、処置、使用資材を正確に報告』
「この記録は、昇格審査でも確認されます。依頼を失敗した事実も、人を助けた判断も、どちらも消しません」
都合の悪い方だけを隠さない。
都合のよい方だけで飾りもしない。
それが、ベルンさんの言っていた冒険者の信用なのだと思った。
「ただし、助けたからすべて正しかった、で終わりにもできません」
マルタさんは片眼鏡の位置を直した。
「最初に二人へ駆け寄らなかったのは、なぜですか?」
「僕たちまで倒れたら、ニコを運べなくなると思ったからです」
「では、ニコさんを町へ運んだあと、採取場へ戻らなかったのは?」
僕は少し考えた。
診療所を出た時点なら、昼まではまだ時間があった。
「白い花が、ほかにどこまで生えているか分からなかったからです。また誰かが触るかもしれないと思って」
「もう一つ」
エリクが口を開いた。
「それに、ベルンさんなしで町の外の依頼を続けちゃ駄目だって、最初に言われました」
マルタさんが初めて微笑んだ。
「二人とも合格です。依頼は未達成でも、判断まで失敗したわけではありません」
胸の奥に残っていた重さが、少しだけ軽くなった。
依頼に失敗したことは消えない。
でも、ニコを助けようとしたことまで間違いではなかった。そう言ってもらえた気がした。
ベルンさんは壁へ寄りかかり、何も言わなかった。
けれど、テトが僕の靴先へ鼻を当てたとき、止めようとはしなかった。
「それから、南採取場は一時閉鎖します。安全指定地に痺れ鈴草が入った経路を調べなければなりません」
マルタさんがサラの描いた簡単な地図を広げた。
ベルンさんは白い花の場所ではなく、木柵の南端を指で叩く。
「ここに穴があった」
「穴?」
「子どもの拳二つ分ほどだ。柵の根元が外から削られていた」
エリクが首を傾げた。
「痺れ鈴草が歩いて入ったわけじゃないですよね」
「種を運ぶものがいる」
ベルンさんは外套のポケットから、灰色の毛を一本取り出した。
先が硬く、細い石のように尖っている。
「石角兎の毛だ。穴の周囲に足跡もあった」
マルタさんは依頼棚から新しい紙を取り出した。
『E級・南採取場へ侵入した石角兎一匹の追い払い』
「柵の内側に一匹なら、危険度は低いでしょう。修復班が入る前に追い払う必要があります」
アインが僕の肩で、灰色の毛へ鼻を近づけた。
そして、南の方角へ顔を向ける。
『一匹ではないぞ』
「え?」
『草の向こうから、同じ匂いがいくつもしておった』
掲示板へ貼られたばかりの依頼票が、開いた窓から入る風に揺れた。
そこには確かに、石角兎一匹と書かれていた。




