6話 下位精霊の達人
西門を出てしばらくすると、石畳は土の街道へ変わった。
朝露に濡れた草が道の両側で揺れ、その向こうに低い森が続いている。
領都の警鐘は、まだ背中の遠くで鳴っていた。
「足、大丈夫か?」
エリクが何度目か分からない質問をした。
「大丈夫」
答えた直後、右膝がずきりと痛んだ。
歩けないほどではない。けれど、古橋から離れようと急いだせいで、革靴の上まで流れていた血が乾き、ローブの裾へ黒っぽい染みを作っていた。
『大丈夫な者は、そのような歩き方をせぬ』
僕の肩に乗ったアインが言った。
「アインまで同じことを言わないで」
『我は事実を述べたまでだ』
「やっぱり痛いんじゃないか」
「少しだけだよ。待避小屋まで行ったら薬を塗るから」
街道の先には、腰ほどの石垣に囲まれた小さな建物が見えていた。
灰色の石を積んだだけの待避小屋だ。嵐や魔獣に遭った旅人が身を守るためのもので、姉上の地図にも印がある。
イレーネさんは、負傷者を引き渡したら必ず追うと言った。
あそこまで行けば、今度こそ大人と合流できる。
そう思って足を速めたとき、エリクが僕の腕を掴んだ。
「待て」
街道を横切るように、泥の跡が続いていた。
最初は荷車の轍だと思った。けれど、跡は二本ではない。丸い穴が四つずつ、深く土へ沈んでいる。
一つ一つが、僕の手のひらより大きい。
道端の木は、根元から僕の肩ほどの高さまで樹皮を削られていた。剥がれた場所には、白い石の粉のようなものがこびりついている。
「これ、蹄か?」
エリクがしゃがみ込む。
『近い』
アインの尾が膨らんだ。
森の中で枝が折れた。
低い唸り声が続く。
僕たちは同時に待避小屋を見た。あと百歩もない。
「走ろう」
言い終えるより早く、茂みが左右へ弾けた。
現れたのは、大人の背丈ほどもある猪だった。
背中から脇腹まで、茶色い岩の板を何枚も重ねたような皮膚に覆われている。左右へ伸びた牙の先にも石がまとわりつき、蹄が地面を掻くたびに土が小石へ固まっていく。
古橋の灰色の獣とは違う。
目も鼻もある。息は白く、怒りと怯えの混じった鳴き声を上げている。
だからといって、安全なわけではなかった。
「岩甲猪だ」
エリクの顔から血の気が引いた。
名前だけなら僕も本で読んだことがある。土の属性を持つ魔獣。縄張りへ入った相手を、岩より硬い身体で跳ね飛ばす。
本には、遭遇したら刺激せず離れろと書いてあった。
僕たちと猪の間は、もう二十歩もなかった。
「目を合わせないで、ゆっくり下がろう」
僕は声を落とした。
一歩、後ろへ下がる。
乾いた枝を踏んだ。
岩甲猪の耳が立った。
前脚が地面を打つ。
「走れ!」
僕たちは待避小屋へ駆けた。
右膝に痛みが弾ける。一歩ごとに身体が傾き、エリクとの差が開いていく。
『右へ寄れ!』
アインの声に従って道の端へ飛ぶ。
次の瞬間、岩甲猪が僕の左側を通り過ぎた。
岩の脇腹が風を叩き、肩が押される。転びかけた僕を、引き返してきたエリクが受け止めた。
猪は急に止まれず、街道を十歩ほど進んでから向きを変えた。
「小屋まで間に合わない」
エリクが工具袋から金槌を抜く。
「それで戦うつもり?」
「牙を一度くらいは逸らせるかもしれない」
「無理だよ」
「じゃあ、ほかに何があるんだよ!」
答えられなかった。
剣も、盾も、炎の精霊もない。
僕を選んだアインが何者なのかは、まだ分からない。
古橋では危険な足場を見抜いてくれた。けれど、目の前の巨体を止められる力があるのかは、アイン自身にも分からない。
それでも助けを求めようとして、アインを見る。
淡い銀色の瞳が、悔しそうに細められていた。
『我には、まだ命じられる力がない』
その言葉を聞いて、頼めなくなった。
岩甲猪が地面を蹴った。
僕はエリクの前へ出ようとした。
その頭を、後ろから長い杖で押し戻された。
「子どもが友達を庇うのは結構だが、二人まとめて轢かれたら意味がないぞ」
気だるそうな声だった。
使い込まれた灰色の外套が、僕たちの横を通り過ぎる。
白髪の混じった焦げ茶色の髪。無精ひげを生やした男が、長い杖を片手に街道の中央へ立った。
足元には、子犬ほどの大きさの何かがいる。
丸い石の甲羅と、細長い鼻。短い四本の脚で土を掻き、岩甲猪をまっすぐ見ていた。
その姿は、教本の挿絵で見た下位土精霊によく似ていた。
「テト、三歩前。古い轍を使え」
男は猪から目を離さずに言った。
テトが鼻を一度鳴らす。
「お前たちは小屋の石垣まで下がれ。走るな。地面を強く踏むな」
「でも――」
「手伝いたいなら、まず指示を守れ」
声は大きくなかった。
それでも、僕は言い返せなかった。
エリクと顔を見合わせ、足音を立てないように道を外れる。
岩甲猪の目は男を向いている。けれど耳だけが、僕たちの動きを追っていた。
「あいつ、ほとんど目で見てない」
男が呟いた。
杖の先で、街道を一度叩く。
猪が音のした方へ顔を向けた。
二度目は、少し右。
猪の身体も右へ傾く。
「蹄から伝わる振動で、相手の場所を測る。走れば追われる。倒そうとして強い術を撃てば、四本の脚で地面を掴んで皮を硬くする」
男は僕たちへ説明しているのに、猪から視線を外さない。
「なら、掴ませなければいい」
杖が三度、地面を打った。
岩甲猪が突進する。
男はぎりぎりまで動かなかった。
牙が届く直前、左脚を引きずるようにして横へ身体をずらす。
遅い。
そう思ったのに、猪の牙は外套の端をかすめただけだった。
「今だ、テト」
テトが、前脚を古い轍へ押し当てた。
轍の底にばらばらに走っていた細い亀裂が、猪の前脚を囲むように一本の円へつながる。
土が壁のように盛り上がったわけではない。
亀裂の両側に転がっていた小石が足首の周りへ寄り集まり、石の輪になって二本の前脚を挟んだ。
岩甲猪の身体が前へ傾く。
四本のうち二本の蹄が地面から離れた瞬間、背中を覆っていた岩の板が茶色い毛へ戻った。
男は杖を牙の根元へ当てた。
押し返すのではなく、猪自身の勢いを使って顔を外側へ向ける。
巨体が道を逸れ、浅い草地へ転がった。
「倒した……」
エリクが息を呑む。
「まだだ」
男の言葉どおり、岩甲猪はすぐに起き上がった。
右前脚を引きずっている。
今できた傷ではない。蹄の上には古い裂傷があり、泥と乾いた血がこびりついていた。
猪は逃げなかった。
痛みに怯えるように頭を振り、もう一度、街道へ蹄を打ち付ける。
「怪我をしてる」
僕が言うと、男の眉が少し上がった。
「見えたか」
「右の前脚です。だから、さっき曲がるのが遅かった」
「合格だ。では次に何を見る?」
こんなときに問題を出されるとは思わなかった。
猪の鼻。耳。背中。蹄。
答えを探していると、アインが僕の頬へ鼻先を寄せた。
『飢えているわけではない。我らを獲物とも見ておらぬ。ただ、ひどく怯えている』
「空腹で襲っているんじゃない。僕たちを獲物とも思っていない。ただ、ひどく怯えている」
アインの言葉をそのまま伝えた。
「分かるのか?」
「アインが、そう言いました」
男は僕の肩の白い相棒を一度だけ見た。
驚きも、笑いもしなかった。
「なら、あとは周りだ」
僕は街道の脇を見回した。
削られた木の根元。深い蹄の跡。折れた枝。
待避小屋の向こうにある森から、小さく高い鳴き声が聞こえた。
「子どもがいる?」
岩甲猪の耳が、僕と同じ方向へ動いた。
「正解」
男は外套の内側から小さな革袋を取り出した。
「雌だ。怪我をして、子どもとはぐれ、警鐘と人間の足音で混乱している。殺す必要はない」
袋から乾いた草をひとつまみ出し、指ですり潰す。
苦い匂いが風へ広がった。
岩甲猪が鼻を鳴らし、顔を背ける。
「この匂いを嫌う。風上を空ければ、自分から森へ戻る」
「子どもの声は小屋の向こうだ。だが、石垣が親子の間を塞いでいる。入口まで回らせれば、また俺たちの前を通ることになる」
男は僕たちが隠れる石垣の角を、杖の先で示した。
「あそこに、細長い赤い石が見えるか?」
石垣の角に、周囲より細長い赤茶色の石が差し込まれていた。
「見えます」
「あれは後から詰めた石だ。抜けば隙間ができる。金槌の坊主、できるか」
エリクは一瞬だけむっとした顔をした。
けれど、すぐ石垣を調べた。
「叩いたら音でこっちへ来る」
「だから叩くな」
エリクは金槌をしまい、代わりにやっとこを取り出した。
赤い石の端を挟み、少しずつ揺らす。
僕も反対側から両手を添えた。
右膝へ力をかけないように、石垣へ肩を押し当てる。
石が抜けた。
周りの小石が崩れそうになる。
テトが振り返り、前脚を一度地面へ置いた。
離れているのに、石垣の隙間を囲む亀裂がぴたりと止まった。
「下位精霊なのに……」
僕の口から、思わず言葉がこぼれた。
男の目が細くなる。
「下位だから、何だ?」
責めるような声ではなかった。
けれど胸が痛んだ。
僕を外れだと決めた人たちと、同じ見方をしてしまった。
「すみません。小さい力だと思っていました」
「小さいぞ。テトは岩山を割れないし、城壁も持ち上げられない」
男はあっさり認めた。
「だが、どの亀裂をつなげば崩れないかを知っている。四十二年、俺が見落とした足元を教え続けてきた。それで十分だ」
テトが得意そうに鼻を鳴らす。
岩甲猪が再び突進した。
今度は男ではなく、森と小屋の間を目指している。
「道を開けろ!」
僕とエリクは抜いた石を抱えたまま横へ退いた。
テトが地面へ腹をつける。
石垣の隙間だけを残し、周囲の石が固く結びついた。
岩甲猪は僕たちの前を駆け抜ける。
牙が石垣へ触れ、石の粉が散った。それでも壁は崩れなかった。
猪は隙間から草地へ抜け、苦い匂いを避けるように森へ向かう。
やがて、小さな鳴き声が二つ重なった。
枝の揺れる音が遠ざかる。
静かになってからも、僕はしばらく動けなかった。
「終わりだ」
男が杖を肩へ担いだ。
テトが短い脚でこちらへ歩いてくる。
近くで見ると、甲羅には無数の傷があった。欠けた部分を別の小石で埋めた跡もある。
テトは僕の前を通り過ぎ、肩のアインへ鼻を伸ばした。
『無礼者め』
アインは鼻先を上げたが、逃げなかった。
テトが、ふん、ふん、と二度鼻を鳴らす。
丸い尻尾が左右へ動いた。
「珍しいな」
男が言った。
「テトは初対面の精霊へ、そんなに近づかない」
『我の偉大さを理解したのであろう』
「アインは、偉大さを理解したんだと言っています」
「自信だけは上位らしい」
男が初めて笑った。
僕の膝から力が抜けた。
石垣へ手をついたが支えきれず、その場に座り込む。
「おい、ルカ!」
エリクが駆け寄った。
男の顔から気だるさが消える。
「その足を見せろ」
「待避小屋に薬がありますか。僕も傷薬は持っています」
「薬の前に洗う。泥を閉じ込めたいなら好きに塗れ」
僕は慌てて口を閉じた。
小屋の中には木の長椅子と、水を溜める蓋付きの甕があった。
男は匂いを確かめてから水を布へ含ませ、僕の膝を丁寧に洗った。
染みるたびに肩が跳ねる。
アインが隣で落ち着かなそうに歩き回った。
「浅い擦り傷だ。ただし、傷を庇って走ったせいで筋を痛めている。今日は走るな。歩くなら、こまめに休め」
「でも、イレーネさんがここへ来るはずなんです」
「あの橋に残った灰髪の騎士か」
「知っているんですか?」
「遠目に見ただけだ。橋へ向かおうとしたら、西門から封鎖の角笛が聞こえた」
遠くから、低い音が二度、短い音が一度響いた。
さっきまで続いていた警鐘は止んでいる。
「あれが封鎖の合図だ。橋の魔物を隔離するまで、門からは誰も出せない。お前たちの護衛も、すぐには来られん」
胸の奥が冷たくなった。
イレーネさんが僕たちを見捨てたわけではない。
分かっていても、大人が来ないと聞けば怖かった。
男は僕の膝へ薬を薄く塗り、包帯を巻いた。
きつ過ぎず、緩過ぎず、僕が曲げ伸ばししてもずれない。
「あなたは、お医者様ですか?」
「精霊療師だ。人間と精霊、ついでに無茶をする子どもを見る」
「ついでって何だよ」
エリクが言った。
「料金を取れそうにない患者という意味だ」
男は僕の濃紺のローブと鞄を見た。
「もっとも、その服を売れば薬代にはなるか」
「売りません」
「冗談だ。半分くらいはな」
本気なのか分からない。
男はベルン・アステルと名乗った。
冒険者ギルドにも籍を置き、旅をしながら傷ついた人と精霊を診ているらしい。
ベルンさんは外套の内側から、冒険者ギルドの登録証を見せた。
刻まれていたのは、災害級の依頼を任されるAランクを示す文字だった。
本でしか見たことのない階級に、エリクと同時に息を呑んだ。
僕たちも名乗った。
家名を言わず「ルカ」とだけ伝えると、ベルンさんは一瞬、僕の赤い髪を見た。けれど、何も尋ねなかった。
「二人とも十歳。護衛とはぐれ、片方は怪我人。目的地は?」
僕は公式の地図を広げ、旧別邸を指した。
「この足で今日中に進むのは無理だな」
「ここでイレーネさんを待ちます」
「待つのは構わんが、橋の魔物が一匹とは限らない。さっきの岩甲猪も、いつもの縄張りから街道へ出てきていた」
古橋の下へ消えた小型の獣を思い出す。
生きていれば、どこへ行ったのか分からない。
「では、どうすればいいですか」
「西街道に宿場町ハルデンがある。ここから怪我人の足でも半日だ。ギルド支部なら門の状況も入るし、護衛へ伝言も預けられる」
ベルンさんは杖で自分の左脚を軽く叩いた。
「俺も速くは歩けん。都合がいいだろう」
立ち上がったとき、左脚をわずかに引きずっていた。
それでも、岩甲猪の牙を避けた動きは、僕たちよりずっと速かった。
「どうして、僕たちを助けてくれるんですか」
「見つけたからだ」
ベルンさんは当然のように答えた。
「怪我をした子どもを見つけて、面倒だから置いていく。それで療師を名乗ったら、テトに鼻で笑われる」
テトが、ふすん、と強く鼻を鳴らした。
「もう笑われてるぞ」
エリクが言う。
「今のは同意だ」
「分かるの?」
「四十二年一緒にいればな」
ベルンさんはテトの甲羅を杖の先で軽く叩いた。
テトは嫌がるどころか、目を細める。
命令する人と、従う精霊には見えなかった。
長い時間をかけて、お互いの小さな合図を覚えた二人だった。
『あれは強い』
アインがぽつりと言った。
「ベルンさんが?」
『どちらもだ』
僕はテトを見た。
下位精霊。
人間の言葉も話せず、岩山を割る力もない。
それでも、あの小さな前脚がなければ、僕たちは岩甲猪から逃げられなかった。
「ベルンさん」
僕は、選定の間から胸に刺さったままだった疑問を、初めて口にした。
「アインには、本当に何の属性もないのでしょうか」
「知らん」
返事はあまりにも早かった。
「見ただけで精霊のすべてが分かるなら、俺は四十二年もテトに教わっていない」
ベルンさんはアインの前へしゃがんだ。
アインも逃げずに見返す。
「ただ一つ言える。測定盤が知らないものを測れなかったからといって、その相手に何もないことにはならん」
僕は胸元に下げた、母上の形見の護符へ無意識に触れた。
選定の間で聞いた「属性反応なし」という言葉が蘇る。
あの結果を疑う人に、初めて出会った。
ベルンさんは立ち上がり、待避小屋の扉を開けた。
「昼まで休め。飯を食ったらハルデンへ向かう」
「一緒に行っていいのですか?」
「嫌なら、ここへ置いていくが」
「行きます」
僕とエリクの声が重なった。
『我の許可を取っておらぬ』
「アインも行くって」
『まだ言っておらぬ!』
テトが鼻を鳴らした。
ベルンさんは、また少しだけ笑った。
街道の先には、まだ知らない町がある。
僕たちの前を歩き始めたのは、下位精霊を誰よりも信じる、足の悪い精霊療師だった。




