5話 炎を消す獣
西の使用人門を離れてから、僕は三度も振り返った。
けれど、見えるのは侯爵邸を囲む高い石壁だけだった。
閉じた門が開くことも、姉上が追いかけてくることもない。
「前を見ないと転ぶぞ」
エリクに言われ、慌てて向き直る。
背中の鞄が左右へ揺れた。そのたび、上に乗ったアインの爪が蓋へ食い込む。
『歩き方がなっておらぬ』
「重いからだよ」
『我は軽い』
「じゃあ下りて歩いて」
『断る』
僕がため息をつくと、隣でエリクが笑った。
朝の領都ラグナは、僕の知っている街と少し違って見えた。
家の馬車から眺めた大通りではない。姉上の地図に引かれた赤い線をたどり、荷運びの人たちが使う裏道を歩いている。
石畳の隙間から雑草が伸び、開店前のパン屋から焼きたての匂いが流れてくる。軒下では店主が昨日の値札を裏返し、井戸のそばでは眠そうな少年が水桶を二つ並べていた。
みんな、今日もここで暮らしていく。
僕だけが、初めて見る旅人のように街を歩いている。
「腹減ったな」
エリクがパン屋の煙突を見上げた。
「さっき来たばかりじゃないか」
「朝飯を食べていたら、父さんの気が変わりそうだったからな。許されたうちに出てきた」
「旧別邸まで行くことは、認めてくれたんだよね」
「ああ。イレーネさんが護衛につくなら、旧別邸までだけだって。それでも、出る直前までずっと心配そうな顔をしてた」
「工具も持たせてくれたんでしょう?」
「うちの父さん、止めたいのか応援したいのか、時々分からないんだ」
父上の用意した地図と荷物が頭に浮かんだ。
「うちも、そうかもしれない」
僕は鞄から固いパンを一つ取り出した。半分に割ろうとしたが、指が滑る。
エリクが受け取り、膝へ押し当てて割った。大きい方を僕へ返してくる。
「こっちがアインの分な」
小さい方をさらに欠いて差し出すと、アインは匂いを嗅いで顔を背けた。
『我はそのような硬い物を食べぬ』
「いらないって」
「昨日、お前の枕はかじったくせに」
『あれは寝床を整えたのだ』
伝えると、エリクは声を上げて笑った。
僕も笑った。
家を出てからずっと胸の奥に詰まっていたものが、少しだけほどける。
これが旅なのだと思った。
知らない道を歩き、友達とパンを分ける。西の古橋でイレーネさんと合流すれば、あとは旧別邸まで連れていってもらえる。
怖いことばかりではないのかもしれない。
そう思った直後だった。
通りの先から、人の叫び声が聞こえた。
「橋から離れろ!」
続いて、鐘が激しく鳴る。
時を知らせるゆっくりした鐘ではない。火事や魔獣を知らせる、短く打ち続ける警鐘だ。
荷車を引いていた男が手綱を引き、僕たちの横を走り過ぎた。
「西の古橋だ! 橋の上に魔物が出た!」
僕とエリクは顔を見合わせた。
「合流場所だ」
「行くのか?」
聞かれて、足が止まる。
家へ戻る道はもう閉じている。旧別邸へ向かうには、西門を抜けなければならない。そしてイレーネさんは、橋の守衛詰所で僕たちを待っている。
「近くまで行こう。危なかったら逃げる」
エリクがうなずいた。
僕たちは走った。
古橋へ近づくほど、逃げてくる人が増えた。籠を捨てた商人、泣く子どもの手を引く母親、片方の靴をなくした老人。
皆、街の内側へ向かっている。
僕たちだけが流れに逆らっていた。
角を曲がると、西の古橋が見えた。
川は領都の外壁に沿って南へ流れ、古橋は内側の市街と西門前の守衛区画を結んでいる。荷馬車が二台すれ違える幅の石橋で、中央には避難しきれなかった三台の荷車が折り重なっていた。
その向こうに、獣がいた。
牛ほどもある身体を低く伏せ、四本の脚で石を掴んでいる。灰色の皮膚には毛も鱗もなく、顔の真ん中に縦長の口だけが開いていた。
守衛が松明を投げる。
火は獣へ届く前に細く引き伸ばされ、口の中へ吸い込まれた。
炎が消えたあと、黒い薪だけが橋へ落ちる。
獣の背が、ひと回り大きく膨らんだ。
「火を食べた……?」
エリクの声がかすれた。
橋の中央で、赤銅色の大きな犬が吠えた。
その前に弧を描く炎の壁が立ち上がり、獣と倒れた荷車の間を隔てる。
けれど炎の端は、風に吹かれたのではないのに獣の口へ引かれていた。
赤銅の犬の隣で、短い灰色の髪の女性が剣を構えている。
右頬に、耳元まで続く火傷の痕があった。
「ロッソ、低く保て! 燃やすな、壁にするだけでいい!」
『ウオォン!』
犬の精霊が低く吠え、炎の高さを落とした。
「イレーネ・バルカさん!」
僕が呼ぶと、女性が振り返った。
視線が僕の赤い髪と濃紺のローブ、その上のアインを順に捉える。
「ルカ様ですね!」
「もう、様ではありません!」
「呼び方の話はあとです! なぜここへ来たのです!」
「ここで合流すると聞いて――」
橋の上、荷車の向こうで石床が砕けた。
灰色の獣が前脚を振り下ろし、炎の壁へ飛び込む。赤い炎が獣の身体へまとわりつくより先に、輪郭ごと吸い込まれていく。
ロッソが苦しそうにうなった。
倒れた荷車の陰では、足を挟まれた男と、それを助けようとする守衛が二人残っている。
イレーネさんは僕たちと負傷者を見比べた。
ほんの一瞬だった。
それでも、どちらを選ぶのか迷ったことが分かった。
「橋の北側、欄干の外に保守用の通路があります」
イレーネさんが早口で言った。
「欄干の外にある梯子を下りると、橋の側面に沿って細い足場が延びています。西の守衛詰所まで続いているので、そこを通ってください」
「一緒に来ないのですか」
「私は、あの三人を置いていくわけにはいきません」
赤銅の炎がまた薄くなる。
「ロッソとここを支えます。西門を出たら、街道を半刻進んでください。石造りの待避小屋があります。そこで待っていてください」
「でも、あの獣は炎を――」
「だからこそ、動ける守衛は住民の避難へ回しました。ここに残っている二人を助ければ、橋を捨てられます」
イレーネさんは僕の目をまっすぐ見た。
「あなたたちを守る役目は忘れていません。必ずあとを追います。ですから今は、ご自分たちで逃げてください」
怖かった。
けれど、イレーネさんの声は、僕たちを見捨てる人の声ではなかった。
僕はうなずいた。
「エリク、行こう」
北側の欄干へ駆け寄る。
橋の端には、点検作業員が使う鉄の梯子が取り付けられていた。その先に、人一人がやっと通れる石の張り出しが続いている。
エリクが先に梯子へ足を掛けた。
「俺が下りる。お前はアインを抱け」
僕はアインを胸へ抱え、鞄の肩紐を握り直した。
『我は自分で下りられる』
「今、一度でも滑ったら川だよ」
『……抱くことを許す』
下からエリクが手を伸ばす。
最後の一段を下り、濡れた張り出しへ足を置いた。
頭のすぐ上を橋の石床が覆い、足元からは濁った川までの高さが見えた。通路は橋脚の側面から張り出した、人一人が歩けるだけの細い石棚だった。橋側の壁からは錆びた鎖が何本も垂れ、川側には腰の高さまでしか柵がない。
「前だけ見ろ」
エリクが言った。
自分も青い顔をしていた。
僕たちは壁へ身体を寄せ、一歩ずつ進んだ。
頭上から獣の唸りと、イレーネさんの指示が響く。
『ルカ』
アインが低く呼んだ。
「どうしたの」
『後ろから来る』
振り返る。
橋の上から、赤い火の粉が一つ落ちてきた。
川へ消えるより先に、その光が横へ引かれる。
梯子の脇に、白っぽい指が掛かった。
橋の隙間から這い出したのは、先ほどの獣よりずっと小さい。猟犬ほどの大きさで、同じように目も鼻もなく、縦に裂けた口だけを持っていた。
火の粉はその口へ吸い込まれた。
石の張り出しへ降りると、音もなく僕たちを追い始めた。
「走れ!」
エリクに背を押される。
狭い通路では追い越すことも、並んで戦うこともできない。
そもそも僕たちは剣を持っていない。
アインを抱いたまま走る。鞄が壁へぶつかり、水筒が硬い音を立てた。
小型の獣は速かった。
振り返るたびに距離が縮まる。
「ルカ、先へ行け!」
エリクが立ち止まった。
「何をするの!」
「あれを落とす!」
エリクが指したのは、橋の裏側に沿って張られた太い鎖だった。
鎖は僕たちの頭上から橋脚の滑車を回り、川側へ吊られた大きな鉄格子につながっている。普段は歯止めで巻き上げたまま固定し、増水時だけ格子を水面へ落として流木をせき止める設備だと、僕も授業で聞いたことがあった。
けれど、固定具は赤錆に覆われている。
「動かないよ!」
「鎖を引くんじゃない。巻き上げたまま止めてる金具を外す!」
エリクは腰から小さな金槌を抜いた。
鎖を留める歯止めへ一度、二度と打ち付ける。
高い金属音が響いた。
小型の獣が迫る。
僕は足元の石を拾って投げた。獣の肩へ当たったが、止まりもしない。
『火を使うな』
アインが言った。
「使えないよ!」
『では、あの金具だ。右側が欠けている』
見ると、歯止めを支える留め金の右端だけが薄く割れていた。
「エリク、右! 右の端が割れてる!」
「見えてる!」
エリクはやっとこで割れ目を挟み、身体ごと引いた。
留め金が抜ける。
支えを失った鉄格子が川へ落ち始め、引かれた太い鎖が滑車を勢いよく走った。
僕たちの間近を、何十年分もの錆を散らしながら落ちていく。
「伏せろ!」
僕はアインを抱えてしゃがんだ。
たるんだ鎖が石床を叩き、僕たちと獣の間へ斜めに落ちて、狭い通路を塞いだ。ほぼ同時に、川側の鉄格子が大きな音を立てて水へ沈んだ。
小型の獣は鎖へ飛びかかった。
絡まった脚を振りほどこうともがき、口で鉄を噛む。鎖から色が抜け、錆びた茶色が灰色へ変わっていく。
獣の口の奥で、針の先ほどの赤い光が瞬いた。
『あの火は、あれのものではない』
アインの身体が僕の腕の中で強張る。
「何が見えるの?」
答えの代わりに、アインが獣へ前脚を伸ばした。
選定の間で見たものと同じ、硝子を重ねたような透明な波紋が一度だけ広がる。
獣の口から赤い光の粒が引き抜かれた。
火の粉ほどの光は橋床の隙間を上へ抜けた。頭上でロッソの吠える声が響き、薄くなっていた炎が一瞬だけ明るさを取り戻す。
小型の獣が足を止めた。
アインの身体から力が抜ける。波紋もすぐに消えた。
「今の、アインがやったの?」
『分からぬ。ただ、奪ったものを持ち去らせてはならぬと思った』
一粒の火を取り戻しただけだった。獣は倒れていない。アインも、もう一度できるとは言わなかった。
それでも、その一瞬が鎖の壊れる音を止めた。
「長くはもたない!」
エリクが僕の手を掴んだ。
また走る。
出口まで、あと橋脚一つ分だった。
そのとき、足元で鈍い音がした。
石の張り出しに亀裂が走る。
先にいたエリクが踏み出しかけた場所から、小石が剥がれて川へ落ちた。
『止まれ!』
アインの叫びが頭へ刺さった。
「止まって!」
僕も叫び、エリクの鞄を掴んだ。
つま先の先で石が崩れた。
もう一歩進んでいたら、エリクごと川へ落ちていた。
後ろでは、鎖が一本ずつ切れる音がする。
前には、崩れかけた足場。
「戻れないぞ」
エリクが息を呑んだ。
『左だ』
アインが腕の中で身を乗り出す。
『壁際の白い石。その次は、半歩右の黒い石』
「分かるの?」
『分からぬ。ただ、そこ以外には下がない』
意味は分からなかった。
でも、アインの身体を通して、胸の奥へ強い嫌悪が伝わってくる。
崩れた石に対する怯えではない。
そこにあるはずの何かが、きれいに欠けていることへの嫌悪だった。
考えている時間はない。
「僕が先に行く」
「待て、ルカ」
「アインの声は僕にしか聞こえない。僕が踏んだ場所だけ踏んで」
壁へ手をつき、左の白い石へ足を置く。
体重をかけても崩れない。
次は半歩右の黒い石。
鞄が柵へ触れ、身体が川側へ傾いた。エリクが後ろから肩紐を掴んで戻してくれる。
『次は前の細長い石だ。中央を踏め』
一歩。
また一歩。
僕が足を離した直後、右隣の石が音もなく沈んだ。
穴の縁は砕けた形ではなかった。最初から石がそこになかったように、滑らかに途切れている。
背中が冷たくなった。
「次は?」
『その先は、どこでもよい。走れ!』
僕は残った隙間を跳んだ。
着地した膝が石へぶつかり、鋭い痛みが走る。
それでも振り返り、エリクへ手を伸ばした。
「白、黒、細長い石! 僕と同じところ!」
エリクはうなずき、工具袋を胸へ押さえて進む。
一歩目。
二歩目。
背後で最後の鎖が切れた。
小型の獣が身を低くする。
「跳んで!」
エリクが地面を蹴った。
伸ばした手を掴む。
二人の身体がぶつかり、そのまま出口側へ倒れ込んだ。
直後、小型の獣も跳んだ。
けれど、僕たちと同じ石を選ばなかった。
前脚を置いた石から色が抜け、表面が砂のように崩れた。支えを失った獣の身体が川側へ傾く。爪で通路の縁へしがみついたが、すぐ下に沈んだ鉄格子へ濁流がぶつかり、大きな飛沫を跳ね上げた。
大きな波が橋脚へぶつかる。
小型の獣は落ちながら橋脚の排水穴へ前脚を掛けた。次の瞬間、濁った飛沫がその身体を覆う。
飛沫が引いたとき、獣の姿はなかった。川へ落ちたのか、排水穴から橋の内部へ逃げたのかは見えなかった。
僕たちは守衛詰所側の梯子を這い上がった。
地面へ膝をついたまま、何度も息を吸う。
腕の中から抜け出したアインも、前脚を広げて石畳へ伏せた。
『抱き方が悪い』
「助かったんだから、我慢して」
『我が助けたのだ』
「鎖を落としたのは俺だぞ」
『足場を示したのは我だ』
エリクが僕を見る。
「じゃあ、三人で逃げたってことでいいだろ」
『我を一人と数えるなら、許す』
笑おうとしたが、膝が痛んだ。
ローブの裾をめくると、革靴の上まで血が細く流れている。傷は浅い。姉上が入れてくれた薬を使えば大丈夫だと思う。
橋の上から、大きな音が響いた。
振り返ると、イレーネさんとロッソが、負傷者を守衛詰所の反対側へ運び終えたところだった。
灰色の獣は橋の中央に立っていた。
ロッソの炎を追うように口を開けるが、イレーネさんはもう攻撃しない。赤銅の犬と並んで後退し、獣を無人の橋へ残していく。
倒す必要はない。
全員を橋から離せばいい。
さっきの言葉どおりだった。
イレーネさんもこちらに気づいた。
「そのまま西門を出てください!」
川音に負けない声が飛んでくる。
「待避小屋で待っていてください! 負傷者を引き渡したら、必ず追います!」
「分かりました!」
僕は返事をした。
本当は、すぐに来てほしかった。
怖かったと伝えたかった。
それでも橋に残る人を見れば、僕たちだけを優先してほしいとは言えない。
エリクに肩を借りて立ち上がる。
「歩けるか?」
「うん。少し擦りむいただけ」
「待避小屋に着いたら薬を塗ろう。俺、包帯は巻けないぞ」
「僕も初めてだよ」
『我はできぬ』
「知ってる」
僕たちは西門を抜けた。
門の外には、土の街道と広い畑、その向こうに低い森が続いている。
振り返れば領都の塔が見える。けれど、侯爵邸はもう外壁の向こうだった。
朝、門を出たときには、イレーネさんに会えば旅が始まると思っていた。
違った。
守ってくれる人が来るまで、危険が待ってくれるわけではない。
僕は戦えなかった。
エリクも、アインも、あの獣を倒してはいない。
それでもエリクの鎖が時間を作り、アインが足場を見つけ、僕が二人の間で声をつないだ。
三人でなければ、ここには立っていなかった。
『ルカ』
アインが街道の先を見ていた。
『あの橋にいたものを、我は知らぬ』
その声には、いつもの偉そうな響きがなかった。
『だが、あれが喰らった場所は嫌いだ。世界に穴を開けられたようで、腹が立つ』
僕にも、うまく説明はできなかった。
ただ、足場の欠けた場所を思い出すと、胸元に下げた母上の形見の護符が、ひどく冷たく感じられた。
「イレーネさんが来たら聞こう」
答えは返ってこなかった。
アインは一本の尾を揺らし、街道へ最初の一歩を置いた。
その隣へ僕が並ぶ。
反対側にはエリクがいた。
追放された僕と、精霊に選ばれなかった親友と、属性のない白い相棒。
僕たちは、守ってくれる人を待つだけだった場所から、自分たちの足で最初の一歩を踏み出した。




