4話 別れの朝に託されたもの
夜明けを告げる鐘より先に、僕は目を覚ました。
ほとんど眠れなかった。
目を閉じるたび、父上が追放状へ印章を押す音が聞こえた。
客室の窓を覆っていた厚い布の隙間から、細い光が差し込んでいる。
日の出まで、もう時間がない。
ベッドの足元では、アインが僕の外套を敷物にして丸くなっていた。昨夜は枕の真ん中を譲らなかったのに、いつの間に下りたのだろう。
僕が身体を起こすと、大きな耳だけがこちらを向いた。
『起きたか』
「アインも今起きた?」
『我はずっと起きていた』
「でも、頬の毛に寝癖がついてるよ」
アインは慌てて前脚で頬を撫でた。
『これは元からだ』
どうやら、眠っていたことを認めるつもりはないらしい。
扉が三度、控えめに叩かれた。
護衛が確認する声のあと、エステル姉上が大きな鞄を抱えて入ってきた。肩のそばにはルーメが浮かんでいる。
姉上は昨日と同じ服を着ていた。赤い髪も簡単に束ねただけで、きっと姉上も眠っていない。
「着替えを持ってきたわ」
ベッドへ置かれたのは、濃紺のフード付きローブ、厚手のシャツ、丈夫なズボン、それに底の硬い革靴だった。
どれも僕のために仕立てたように大きさが合っている。
「いつ用意したのですか」
「ずっと前よ。あなたが十歳になったら、領内の村を一緒に回ろうと思っていたから」
姉上はローブの襟を指でなぞった。
「選定が終わって、落ち着いてから渡すつもりだったの」
本来なら、家族と領地を巡るための服だった。
今は家を追われる僕の旅装になっている。
「ごめんなさい」
姉上がまた謝った。
「この服は悪くありません」
僕はローブを手に取った。厚すぎず、けれど朝の冷気を通さない。前は走りやすいように開き、裾には脚を邪魔しない切れ込みがある。
「大切に着ます」
姉上は唇を結び、うなずいた。
選定用の礼装を脱ぐ。
手首には、赤い共鳴補助糸がまだ結ばれていた。
昨日の朝、炎の精霊へ僕の存在を届けるために巻いた糸だ。
結び目を解こうとして、指が止まった。
兄上が少し緩めてくれたときの感触を思い出したからだ。
「切らずに外しましょう」
姉上が後ろから手を添えた。
細い針を結び目へ差し込み、糸を傷つけないよう少しずつ緩めていく。
外れた赤糸を、姉上は僕の掌へ載せた。
「これはあなたのものよ。炎に選ばれなかったからといって、捨てる必要はないわ」
僕は赤糸をローブの内ポケットへしまった。
着替え終わるころ、廊下から車輪の音が聞こえた。
窓の布へ近づいても外は見えない。
僕を旧別邸へ運ぶ、紋章のない荷馬車が来たのかもしれない。
姉上は持ってきた鞄を机へ置き、中身を一つずつ並べた。
水筒。二日分の固いパンと干し肉。火口箱。包帯。傷薬。針と丈夫な糸。小さな石鹸。木の匙。
「侯爵家から支給される荷物より多くないですか」
「薬と裁縫道具は私が足したの」
「父上に叱られます」
「叱られるくらいなら安いものよ」
そう言いながら、姉上は扉を気にした。
護衛に聞かせるつもりはないらしい。
ルーメが鞄の底へ降り、橙色の身体を細く伸ばした。底板と布の間に、小さな隙間が見える。
姉上はそこへ、公式の地図とは別の折り畳んだ紙を差し込んだ。
「領内の薬師と、私が信用している宿に印を付けた地図よ。困ったときは、私の名前ではなく、この印を見せて」
紙の端には、小さな灯火と薬草を組み合わせた記号が描かれていた。
侯爵家の紋章ではない。
姉上個人の約束だけを示す印だった。
「それから、これを」
姉上が胸元から革紐を取り出した。
先には、親指ほどの大きさの灰白色の石が付いていた。銀色の細い枠にはめ込まれ、表面には六本の線が中心へ集まる模様が刻まれている。
長く使われてきたのだろう。銀の縁はところどころ黒ずみ、革紐も柔らかく擦れていた。
「母上のものですか」
見覚えがあった。
母上に抱かれたとき、頬へ触れた冷たい石。
記憶はぼやけているのに、その感触だけが残っていた。
「母方の家に伝わっていた護符よ。災いから家族を守るものだと、母上は言っていたわ」
「姉上が持っていなくていいのですか」
「私はここに残る。今、遠くへ行くあなたが持つべきよ」
姉上が僕の首へ革紐を掛けようとしたとき、アインが机へ前脚を載せた。
『待て』
「どうしたの?」
『それを近くで見せろ』
僕は護符を掌へ載せ、アインの鼻先へ近づけた。
最初は何も起こらなかった。
アインが鼻を寄せる。
灰白色だった石が、僕の掌の上でかすかに温かくなった。
刻まれた六本の線を中心に、透明な輪が一つ浮かんだ。
光っているのではない。石の表面に薄い硝子の輪を置いたように、その部分だけ向こう側の景色がわずかに歪んで見える。
二つ目、三つ目の輪が外側へ広がり、重なったまま一瞬だけ宙へ浮かんだ。
選定の儀でアインが現れたときの波紋に似ている。
けれど次の瞬間、胸の奥へ届いたのはアインの感情ではなかった。
誰かを抱き締めようとする必死さ。
置いていかなければならない悲しみ。
それでも守りたいと願う、痛いほど強い気持ち。
息が詰まった。
護符を落としそうになり、姉上が僕の手を両側から包んだ。
「ルカ?」
「今、母上が……」
そこまで言って、言葉を止めた。
母上の顔を見たわけではない。声を聞いたわけでもない。
ただ、悲しみだけが流れ込んできた。
アインは銀色の瞳を細めて、護符を見つめている。
『我の記憶ではない』
「分かるの?」
『分からぬ。だが、我が失ったものとは違う。これは誰かがここへ残したものだ』
透明な紋様はすぐに消えた。
護符も、朝の空気と同じ冷たさへ戻っている。
「アインが近づいたら、反応しました」
僕が伝えると、姉上は護符とアインを交互に見た。
「母上とアインに、何か関係があるのかしら」
『知らぬ』
アインが答える。
「アインにも分からないそうです。ただ、アインの記憶ではないと」
姉上はしばらく迷ったあと、革紐を僕の首へ掛けた。
「なら、なおさら持っていって。母上の死について、家の記録だけでは分からないことがあるのかもしれない」
ローブの下へ護符を入れる。
胸へ触れる石は冷たい。
それでも、もうただの形見には思えなかった。
扉が叩かれた。
今度は返事を待たず、執事長と二人の護衛が入ってきた。
執事長は机へ革袋と書類を置いた。
「侯爵閣下より、手切れ金、仮身分証、旧別邸までの地図、出立命令書でございます」
仮身分証には、僕の名前が『ルカ』とだけ記されていた。
家名の欄は空白だった。
昨日までは、どの書類にも長すぎるほど肩書が並んでいたのに。
「護衛はどこにいるのですか」
姉上が尋ねた。
「イレーネ・バルカ殿が、西の古橋にある守衛詰所で合流する予定です」
イレーネという名前は知っている。
父上が若いころの副官で、右頬に火傷の痕を持つ退役騎士だ。今は領都の外で暮らしていると聞いていた。
「なぜ、ここから同行しないのです」
「人目を避けるためです。西の使用人門を出た後、古橋までは徒歩で向かっていただきます」
執事長の声に迷いはなかった。
けれど、地図には大通りを避ける細い道が赤い線で記されている。旧別邸までの宿場と井戸の位置も、子どもの僕でも分かるよう印が付けられていた。
見捨てるための荷物にしては、あまりにも丁寧だった。
そう思った自分が嫌になった。
また父上の沈黙に、都合のいい意味を探そうとしている。
「閣下から、ほかに言葉は?」
姉上が尋ねた。
執事長は一度だけ目を伏せた。
「命令書に記された以上のものは、お預かりしておりません」
胸の中に浮かんだ期待が消えた。
日の出の鐘が鳴った。
廊下にいた護衛が姿勢を正す。
「時刻でございます」
執事長が告げた。
「ルカ様。ただいまをもって、廃嫡と領外追放が発効いたしました」
様と呼ばれたのは、それが最後だった。
僕は鞄を背負った。
思っていたより重い。身体が後ろへ引かれ、姉上が肩紐を短く調整してくれた。
アインが鞄の上へ飛び乗ろうとする。
一度目は滑り落ちた。
二度目は僕が抱き上げた。
『今のは荷の具合を確かめた』
「歩いてくれた方が軽いんだけど」
『我はお前を見張る必要がある』
結局、アインは鞄の蓋の上へ収まった。
客室を出る。
自分の部屋へ戻ることは許されなかった。
西棟へ続く廊下の角で、一度だけ足が止まる。
あの先に、十年間使ったベッドも、読みかけの本も、母上の記憶を探して何度も開いた古い絵本もある。
取りに戻ることはできない。
姉上が僕の手を握った。
「行きましょう」
僕たちは使用人用の階段を下りた。
朝の厨房では火が入り、パンの匂いがしていた。働いている人たちは僕を見ると手を止めたが、誰も声を掛けなかった。
父上から命じられているのかもしれない。
それとも、何と言えばいいか分からないのかもしれない。
皿洗いをしていた年配の女性だけが、僕の通り過ぎる床へ小さく頭を下げた。
子どものころ、熱を出した僕へ蜂蜜湯を作ってくれた人だ。
僕も立ち止まらずに頭を下げた。
西の使用人門は、荷車一台が通れるほどの小さな門だった。
門扉の向こうには、まだ人の少ない裏通りが見える。
姉上は門の内側で足を止めた。
侯爵家に残る姉上は、ここから先へ来られない。
「手紙は、エリクへ渡せましたか」
「ええ。夜のうちに、信用できる使用人へ頼んだわ」
「選定の結果は?」
姉上は答える前に、門の外へ目を向けた。
「本人から聞いて」
僕も外を見る。
向かいの石壁の陰から、茶色い髪が飛び出していた。
その隣には、大きすぎる鞄と、工具を巻いた革帯が見える。
「エリク?」
呼ぶと、親友が石壁の陰から出てきた。
昨日の礼服ではない。使い込んだシャツとズボンに、父親の工房で見慣れた革の前掛けを畳んで背負っている。
「遅いぞ、ルカ」
いつものように笑おうとしていた。
でも、目の下は赤かった。
「どうしてここに」
「手紙を読んだから」
エリクは胸元から折り畳んだ便箋を出した。
僕が書いた『どんな結果でも、エリクは僕の一番の友達だ』という文字が見えた。
「昨日の選定は、どうだった?」
聞いてから、質問の仕方を間違えたと思った。
エリクは紙を折り直した。
「最後まで、誰も来なかった」
声は平らだった。
「鐘を三回鳴らした。祭司が陣を調べて、場所まで変えた。それでも一体も来なかった」
無選者。
精霊に選ばれなかった子どもを、人々はそう呼ぶ。
昨日まで、その言葉がエリクへ向けられると考えたことはなかった。
「ごめん」
僕の口から出たのは、そんな言葉だった。
エリクの眉が上がる。
「なんでお前が謝るんだよ」
「近くで見守るって約束したのに、僕はそこにいなかった」
「いたら精霊が来たのか?」
「それは……」
「じゃあ、お前のせいじゃない」
エリクは僕の胸を指で軽く押した。
「俺も、お前に謝らないぞ。お前が変な白いのに選ばれたのは、俺のせいじゃないからな」
『変とは何だ』
アインが鞄の上で立ち上がった。
「アインが、変とは何だと言ってる」
「そこは伝えなくていい!」
エリクが初めて、いつもの顔で笑った。
すぐに笑いは消えた。
「父さんには反対された。十歳の子どもが、追放された友達についていくなんて馬鹿だって」
「そのとおりだと思う」
「お前まで言うなよ」
「でも、イレーネさんが護衛につくと聞いて、旧別邸までならと折れたんだ」
エリクは背中の鞄を持ち上げた。
「でも最後に、行くなら道具を持っていけって。壊れたものを見つけたら、直してから帰ってこいって言われた」
鞄の横には、小さな金槌とやっとこが差してある。
ダリオさんは許していない。
それでも、息子が戻る場所まで閉ざしたわけではないのだ。
「旧別邸まで行くだけだよ。護衛もいる」
「その先は?」
答えられなかった。
僕は昨日まで、家の外で一晩過ごしたことさえない。
旧別邸へ着いたあと、どうやって暮らすのかも分からない。
エリクは僕の返事を待たずに言った。
「分からないなら、一緒に考える」
「でも、エリクには家がある」
「あるよ。だから帰れる」
エリクはまっすぐ僕を見た。
「お前には今、帰る場所がないんだろ。だったら一人にしない」
昨日、僕が書いた言葉を思い出した。
どんな結果でも、エリクは僕の一番の友達だ。
選ばれなかったエリクは、何も変わっていない。
追放された僕も、本当は同じなのかもしれない。
僕たちは、精霊や家に選ばれたから友達になったのではない。
「ありがとう」
今度は謝らなかった。
門の内側で、姉上が小さく息を吐いた。
「エリク。ルカをお願い」
「任せてください。……って言いたいけど、俺も旅は初めてです」
エリクは少しだけ迷ってから、姉上をまっすぐ見た。
「でも、ルカを一人にしないことだけは約束します。二人で考えて、危なくなったら一緒に逃げます。アインもいるし」
『最初から我を数えよ』
「アインは、最初から数えろって」
「じゃあ二人と一匹で何とかする」
『一匹ではない!』
アインが怒り、エリクが笑う。
姉上も涙を浮かべたまま笑った。
僕は姉上へ向き直った。
何を言えば別れになるのか分からない。
さようならとは言いたくなかった。
「行ってきます、姉上」
姉上の顔が崩れた。
僕を強く抱き締め、鞄の上のアインまで腕の中へ巻き込む。
ルーメが僕たちの周囲を回り、濃紺のローブを朝の火のように温めた。
「行ってらっしゃい、ルカ」
姉上は、戻れない者へ言う言葉を選ばなかった。
「必ず、元気で」
僕はうなずいた。
門をくぐる。
背後で、重い扉が閉まり始めた。
振り返ると、狭くなる隙間の向こうに姉上とルーメが見えた。
父上も、兄上も来なかった。
最後に見えた姉上の手が消え、門扉が音を立てて閉じた。
十年間暮らした家が、石壁の向こう側になった。
胸元の護符へ手を当てる。
もう温かくはない。
それでも、首から外そうとは思わなかった。
「西の古橋で、イレーネさんと合流する」
僕が地図を広げると、エリクが隣から覗き込んだ。
「道、分かるのか?」
「赤い線が引いてある」
「それは分かるって言わないぞ」
『我が導こう』
「アインは地図を読めるの?」
『……まずは、お前たちに任せる』
エリクと顔を見合わせた。
そして、どちらからともなく歩き出す。
追放された僕。
精霊に選ばれなかったエリク。
属性のない白いアイン。
まだ冒険者でもなく、戦い方も、旅の仕方も知らない。
それでも、その朝。
僕たちは誰かに決められた道ではなく、自分たちで選んだ最初の一歩を踏み出した。




