3話 明朝、家を追われる
三日後、僕とアインは大神殿へ連れていかれる。
そう決まったはずだった。
けれど、屋敷へ戻る馬車で父上は何も話さなかった。残された三日が本当に三日あるのかさえ、僕には分からなかった。
屋敷へ戻る馬車の窓は、すべて厚い布で塞がれていた。
外から僕たちを見られないためだと護衛は言った。けれど、中から逃げ道を見つけられないようにしているようにも思えた。
車輪が石畳の継ぎ目を踏むたび、僕の膝の上でアインの耳が揺れる。
向かいには父上とギルベルト兄上、隣にはエステル姉上が座っていた。誰も話さない。
誓約殿を出てから、聞こえるのは車輪の音と、ルーメが燃える小さな音だけだった。
姉上の肩に浮かぶ橙色の炎は、いつもより低く縮んでいる。それでも、ときどき僕の手元へ熱を送ってくれた。
「ありがとう、ルーメ」
僕が囁くと、ルーメが一度だけ明るくなる。
『礼を告げられる火は、よい火だ』
アインが言った。
「うん」
声に出した途端、兄上の視線がこちらへ向いた。
何を話したのかと問われる前に、僕は口を閉じた。アインの言葉を伝えても疑われる。伝えなければ、独り言を話すおかしな子に見える。
昨日まで、家族の前で何を言うかをこんなに考えたことはなかった。
『窮屈な箱だな』
アインは前脚で座席を踏み、窓の布へ鼻先を近づけた。
「開けちゃ駄目だよ」
『なぜだ』
「僕たちは、外の人と会ってはいけないから」
『我は会ってもよいぞ』
「僕が困るんだ」
アインは不満そうに尾を振ったが、布へ触れるのはやめた。
父上が初めて口を開いた。
「屋敷へ着いたら、ルカは東棟の部屋へ入れ。許可なく廊下へ出るな」
東棟にあるのは、客人用の部屋だ。
僕の部屋は家族の居室が集まる西棟にある。
「僕の部屋ではいけないのですか」
「使用人との接触を減らす。大神殿の通達に従うためだ」
父上は僕ではなく、窓を覆う布を見たまま答えた。
「食事は運ばせる。必要なものがあれば扉の前の護衛へ言え」
「アインも一緒でいいのですね」
「契約分離の許可は、まだ出ていない」
許可が出ていないから一緒にいられる。
その言い方では、許可が出れば離されるように聞こえた。
僕はアインを抱き締めた。
『苦しい』
「ごめん」
腕を緩めても、アインは膝から下りなかった。
馬車が屋敷の裏門を通る。
いつもなら正面玄関前で止まるのに、今日は荷物を運び込むための小さな車寄せへ回った。
扉が開くと、見慣れた石壁と厨房の煙突が見えた。朝に屋敷を出たときと何も変わっていない。
変わったのは、そこにいる人たちの目だった。
僕を迎えた使用人たちは一礼したあと、誰も顔を上げなかった。厨房の若い手伝いがこちらを見かけ、先輩の使用人に肩を引かれて物陰へ消える。
もう噂が届いているのだ。
炎の名門の末子が、属性なしの精霊に選ばれた。
階級さえ測れない、家の恥だった、と。
東棟の客室には、ベッドと机と水差しだけが用意されていた。
窓には外から鉄の留め具が掛けられ、扉の前には二人の護衛が立った。
「囚人みたいだね」
僕が言うと、アインはベッドの上へ飛び乗った。短い脚では高さが足りず、前脚だけを掛けて一度ずり落ちる。
二度目は僕が腹の下へ手を入れて持ち上げた。
『試しただけだ』
「うん」
『笑うな』
笑ったつもりはなかった。でも、頬が少し緩んでいた。
今日初めて、息をきちんと吐けた気がした。
アインは枕を前脚で何度も押し、気に入った形になると中央へ丸くなった。
「アインは、怖くないの?」
『何をだ』
「大神殿へ連れていかれること。僕と離されるかもしれないこと」
淡い銀色の瞳が僕を見る。
『我は、離れぬ』
「でも、大人が無理に離そうとしたら」
『断る』
「断っても聞いてくれなかったら?」
アインは少し考え、胸を張った。
『もっと強く断る』
何の答えにもなっていないのに、不思議と心が温かくなった。
その温かさが消えないうちに、扉が叩かれた。
姉上だった。
護衛が室内を確かめてから、姉上とルーメを通す。家族でさえ自由には会えないらしい。
姉上は扉が閉まるのを待ち、僕の前へ膝をついた。
「ごめんなさい、ルカ」
「どうして姉上が謝るのですか」
「あの場で、あなたを連れて逃げることもできなかった。父上へ逆らって、ここから出すこともできない」
「姉上まで捕まったら困ります」
そう答えると、姉上は泣きそうな顔で笑った。
「そういうところよ。あなたは、いつも自分より先に誰かの心配をする」
ルーメが僕と姉上の間へ浮かぶ。アインも枕から下り、二体は昔からの友達のように向き合った。
「父上は、どうするつもりなのですか」
姉上の表情が固くなった。
「王都の記録を調べているわ。執事長に、十年以上前の神殿通達を全部書庫から出させたの」
「僕を大神殿へ渡すためですか」
「分からない」
姉上はすぐに否定しなかった。
その正直さが、かえって怖かった。
「でも、父上は誓約殿で分離の危険を確かめていた。何も考えず、あなたを差し出す人ではないと思う」
「それなら、どうして僕には何も教えてくれないのですか」
姉上は答えられなかった。
「エリクの選定は、どうなりましたか」
僕が尋ねると、姉上は視線を伏せた。
「儀式が終わったことまでは聞いたわ。でも、結果は神殿から家族以外へ知らせないよう止められているの」
「僕が会いに行くのは」
「今は許されない」
朝、近くで見守ると約束した。
それなのに僕は、親友がどんな精霊に選ばれたのか、選ばれてどんな顔をしたのかさえ知らない。
「手紙なら渡せますか」
「外部との接触を禁じられているから、護衛が受け取らないと思う」
「書くだけなら、いいですか」
姉上は少し考え、机の引き出しから便箋と鉛筆を出してくれた。
僕は『約束を守れなくてごめん』と書いた。
その次に何を書けばいいか分からない。
選定の結果を聞けば、自分のことばかり心配しているように見える。おめでとうと書けば、望んだ結果ではなかったときに傷つけるかもしれない。
迷った末に、『どんな結果でも、エリクは僕の一番の友達だ』と続けた。
けれど、書き終えた手紙を届けてくれる人はいなかった。
姉上が折り畳んで預かり、胸元へしまう。
「渡せる時が来たら、必ず渡すわ」
「お願いします」
扉の外で護衛の靴が鳴った。
面会時間が終わった合図だった。
姉上が出ていくと、部屋はまた急に広くなった。
机には、鉛筆で強く書きすぎた跡だけが残っていた。
父上はいつもそうだった。
僕が幼いころ、乗馬の練習で落ちたときも、泣いている僕を抱き起こさず、「自分で立て」と言った。
あとで厩務員から、父上が僕の落ちた場所の土をすべて入れ替えさせたと聞いた。石が混じっていたからだ。
危ないものは取り除く。
けれど、痛かったかとは聞かない。
今回は、取り除かれる危ないものが僕なのかもしれない。
夕刻、家族全員が父上の書斎へ呼ばれた。
長い机の上には、精霊誓約殿から持ち帰った通達書と、何冊もの古い記録簿が積まれていた。
窓の外では日が傾き、赤い光が床を細く照らしている。
父上のそばには、侯爵家の印章と、まだ何も書かれていない一枚の文書が置かれていた。
兄上は父上の右側に立ち、姉上は僕の隣を選んだ。
「大神殿の迎えは、予定を早める可能性がある」
父上が言った。
「過去の記録では、期限を三日後としながら、翌朝に到着した例が二件あった」
姉上が息を呑む。
「その契約者たちは、どうなったのですか」
「記録上は、王都で継続調査となっている」
「帰還した記録は」
父上は答えなかった。
沈黙が答えだった。
机の端に開かれた記録簿があった。
逆さまの文字を、僕は一つずつ目で追った。
十二年前。契約者、十一歳。属性判定不能。王都へ移送。
その下の帰還日の欄は空白だった。
次の頁には九歳の子の名があり、やはり帰還日の記録がない。
父上が記録簿を閉じた。
「見る必要はない」
「僕と同じなのですか」
「同じかどうかを確かめる術がない。だから危険なのだ」
父上の言う危険が、アインのことなのか、大神殿のことなのか、僕には分からなかった。
僕の足元で、アインが低く唸る。周囲には小獣の声にしか聞こえなくても、僕には怒りが熱のように届いた。
「では、王都へ同行する護衛を選ばなければなりません」
兄上が言った。
「私が行きます。侯爵家の後継者が立ち会えば、乱暴な調査は――」
「同行は認められない」
「ならば軍務を通じ、王都へ先に抗議を」
「大神殿へ正面から異を唱えれば、この領の精霊炉と騎士団への認可を止められる」
「だからといって、何もしないのですか」
兄上の声が初めて強くなった。
父上は机上の白い文書へ手を置いた。
「ルカ・エルフォードを廃嫡する」
言葉の意味は分かった。
それなのに、父上が何を言ったのか理解するまで、しばらくかかった。
「明朝、家門簿から名を外す。契約した未分類精霊とともに、エルフォード侯爵領から追放する」
姉上が机を叩いた。
ルーメが大きく燃え上がり、書斎の壁を橙色に染める。
「そんなことをすれば、ルカはどこへ行けばいいのです!」
「西の旧別邸までの旅費と身分証を与える」
「十歳の子どもに、お金と紙だけ持たせて家族を捨てさせるのですか」
「監視役を兼ねた護衛を一名付ける」
「ですが、大神殿の通達はルカの移動を禁じています」
兄上が言った。
「承知している。未分類精霊を領内へ留めるより、家門から排除することを優先したと、私の名で回答する。命令違反の責任は私が負う」
父上は何でもないことのように告げた。
自分を追い出すためなら、父上は大神殿の命令にまで背く。
その事実をどう受け取ればいいのか、僕には分からなかった。
「出立は東の正門ではなく、西の使用人門からだ。侯爵家の紋章がある馬車は使わない。街道へ出るまでは、家の名も口にするな」
姉上が父上を見た。
「なぜ、そこまで人目を避ける必要があるのです」
「家の恥を見世物にするつもりはない」
冷たい答えだった。
けれど、父上の机には領都から西へ延びる古い道の地図が広げられていた。
王都から来るなら、迎えは東の大街道を通る。
地図では、王都へ続く大街道が領都の東へ伸びている。西門から出れば、大神殿の迎えとは正反対へ進むことになる。
少なくとも、同じ道で鉢合わせることはない。
そこまで考えても、父上が僕を逃がそうとしているとは思えなかった。
逃がすつもりなら、そう言ってくれるはずだと思っていたからだ。
「そういう話ではありません!」
姉上の声が震えていた。
父上は表情を変えない。
兄上は文書と僕を見比べていた。
「父上。これは、侯爵家が未分類精霊を匿っていると疑われるのを避けるためですか」
「それもある」
「家を守るには、必要な決断だと思います」
兄上の答えを聞いた瞬間、胸の中で何かが切れた。
兄上は僕を憎んでいない。
それでも、家と僕を秤へ載せれば、迷わず家を選ぶ。
「僕がいなくなれば、全部元に戻るのですか」
自分の声が、遠くから聞こえた。
「兄上も、姉上も、父上も、今までどおり炎の名門の家族でいられるのですか」
「失われた信用がすぐ戻るわけではない」
兄上が答える。
「だが、侯爵家として未知の危険を容認していないことは示せる」
『我は危険ではない』
アインが言った。
「アインは危険ではありません」
僕は父上を見た。
「まだ自分の力を思い出せないだけです。僕を選んだ理由も、強さではなく、僕がアインを見たからだと言っていました」
「それを証明できる者はいない」
「僕がいます」
「お前は契約者だ。判断を影響されている可能性を否定できない」
「父上まで、僕の言葉を信じてくれないのですか」
父上の指が、机の端を強く押さえた。
「当主として、証明できないものを根拠にはできない」
当主として。
父親としてではない。
「もしアインが上位炎精霊だったら、僕は明日も父上の息子でしたか」
姉上が僕の肩へ手を伸ばす。
父上は、すぐには答えなかった。
ほんのわずかな沈黙だった。
けれど、その沈黙だけで十分だった。
「起きなかったことを論じる意味はない」
胸が痛かった。
大神殿へ連れていかれると聞いたときよりも、ずっと痛かった。
アインが僕の足へ身体を押しつける。
温かくはない。それでも、ここにいると伝わった。
「分かりました」
喉の奥が詰まり、最初の声はうまく出なかった。
息を吸って、もう一度言う。
「家を出ます」
「ルカ!」
姉上が僕を振り向かせた。
「でも、アインとの契約が間違いだったとは言いません」
涙が出そうだった。
泣けば、父上が困ると思った。兄上に子どものわがままだと思われるのも嫌だった。
だから、爪が掌へ食い込むほど拳を握った。
「僕を選んでくれたことを、なかったことにはしません」
『ルカ』
初めて、アインが僕の名前を静かに呼んだ。
父上は白い文書を引き寄せた。
「廃嫡と追放は、明朝の日の出をもって発効する。今夜中に必要なものをまとめろ」
父上がペンを取る。
「侯爵家から支給するのは旅費、仮身分証、旧別邸までの地図、最低限の装備だ。手切れ金として受け取れ」
「手切れ金……」
姉上が呟く。
「以後、侯爵家の庇護を求めるためにエルフォードの家名を使うことを禁ずる。侯爵家はルカと未分類精霊を庇護せず、捜索もしない」
捜索もしない。
見捨てられたのだと理解するには、十分な言葉だった。
けれど、父上の机には古い記録簿が積まれている。
大神殿へ送られ、帰ってこなかった子どもたちの記録だ。
ただ家の恥を追い出すだけなら、その子たちの行方まで調べる必要があったのだろうか。
それに、父上は僕を王都とは反対の西門から出そうとしている。
捜索しないというのも、侯爵家の者が僕の行き先を大神殿へ漏らさないためなのではないか。
そんな考えが、一瞬だけ浮かんだ。
けれど、本当に僕を守るつもりなら、そう言ってくれるはずだ。
家を守るために追い出すのか。
僕を大神殿から逃がすために追い出すのか。
十歳の僕には、父上の沈黙の向こうまで見抜くことはできなかった。
それでも、傷ついたことだけは本物だった。
父上が文書へ僕の名前を書く。
ルカ・エルフォード。
十年間、当たり前に使ってきた名前だった。
次の行には、廃嫡という文字が記された。
最後に侯爵家の印章が押される。
赤い封蝋へ炎獅子の紋が沈んだ瞬間、僕はこの屋敷にいるのに、もう帰る場所を失った気がした。
「話は以上だ」
父上は僕を見なかった。
姉上は何か言おうとしたが、僕は首を横に振った。
これ以上、姉上まで父上と争ってほしくなかった。
書斎を出る直前、兄上が僕を呼び止めた。
「ルカ」
振り返ると、兄上はいつものように背筋を伸ばしていた。
「未知の精霊を守るなら、その結果にも責任を持て」
厳しい言葉だった。
けれど、声の奥にわずかな迷いがあった。
兄上の右手が一度だけ上がりかけ、僕へ届く前に騎士礼装の脇で止まった。
引き留めたかったのか、最後に襟元を直そうとしたのかは分からない。
「はい、兄上」
僕は答えた。
もう兄上と呼んではいけないのかもしれない。
そう思ったけれど、訂正される前に扉を閉じた。
東棟へ戻る廊下で、ずっと我慢していた涙が一粒だけ落ちた。
アインは何も言わず、僕の隣を短い脚で歩いていた。
部屋へ入ると、僕は床へ座り込んだ。
「ごめんね。僕と契約したせいで、アインまで追い出される」
『逆だ』
「え?」
『我がお前を選んだ。お前が詫びる筋ではない』
アインは僕の膝へ前脚を載せた。
『紙の上から名が消えれば、お前はお前でなくなるのか』
「分からない」
『我には分かる』
淡い銀色の瞳が、まっすぐ僕を映していた。
『お前はルカだ。我を最初に見た者だ。ほかに何が消えようと、それは変わらぬ』
今度は涙を止められなかった。
僕は声を押し殺し、白い毛へ顔を埋めた。
アインは苦しいとも、離せとも言わなかった。
夜の鐘が鳴る。
明日の日の出に、僕は家を追われる。
母上が生きていたら、父上の決断をどう受け止めただろう。
――精霊に選ばれるのは、偉い人になるためではないのよ。
選定のとき、僕はその続きを自分なりに考えた。
それでも、母上が本当は何を伝えようとしていたのかを、今ほど知りたいと思ったことはなかった。
窓の外には見慣れた領都の灯があるはずなのに、閉ざされた部屋からは一つも見えなかった。
その夜、僕は自分の部屋へ戻ることを許されなかった。
十年間暮らした家で過ごす最後の夜を、客人のためのベッドで迎えた。




