2話 炎の家の恥
「もう一度、測定を行います」
祭司長がそう告げても、誓約殿のざわめきは収まらなかった。
僕の腕の中で、アインが小さく鼻を鳴らす。
『一度で分からぬ道具を、二度使って何になる』
周囲には「きゅう」としか聞こえていない。
けれど僕には言葉だけでなく、同じことを二度させられてむっとしている気持ちまで、胸の奥へ直接伝わってきた。
「アインは、晶盤の方が壊れていると言っています」
僕が伝えると、参列者の間から失笑が漏れた。
「都合のよい通訳だな」
誰かが言った。
顔を上げる勇気がなくて、声の主までは分からない。笑われたのが僕なのか、アインなのか、それとも両方なのか。それだけは分かった。
「静粛に!」
祭司長が銀の小槌で共鳴鐘を一度打った。
まだ選定を終えていない子どもたちは、家族とともに後方へ下がらされていた。人の隙間からエリクがこちらを見ている。僕と目が合うと何か言おうとしたけれど、神殿の係員に促され、別の待合室へ連れていかれた。
僕のせいで、みんなの儀式まで止めてしまった。
その事実が、胸の上へ新しい重石を置いた。
祭司たちが六属性晶盤の周りへ集まる。晶石を一つずつ外し、細い銀棒を差し込んで内部の魔力を確かめていく。
赤、青、緑、黄、白、紫。
六つすべてが順番に光った。
「晶盤の動作に異常なし」
若い祭司が報告した。
祭司長はうなずくと、エステル姉上を見た。
「確認のため、あなたの契約精霊を晶盤へ」
姉上が来賓席から下りてくる。肩のそばには、中位炎精霊のルーメが寄り添っていた。
「お願いできる?」
姉上が話しかけると、ルーメは一度明滅し、晶盤の中央へふわりと移った。
小さな炎が透明な板へ触れる。
赤い晶石が穏やかに輝いた。
『炎属性・中位』
銀の縁へ、はっきりと文字が浮かぶ。
「やはり晶盤は正常です」
祭司の一人が言った。
客席から小さな囁きが起こる。
――侯爵家の姫君なのに中位。
――弟まで外れでは、エルフォードの炎も衰えたな。
姉上の横顔は変わらなかった。
けれど、ルーメの炎がわずかに縮んだのを、僕は見逃さなかった。
『あの者は、弱くない』
アインが言った。
「え?」
『大きく燃えるだけなら、枯れ枝にもできる。あの火は、熱を必要な場所へ正しく渡している。器用な者だ』
アインの銀色の瞳は、姉上ではなく、その契約精霊を見ていた。
初めて会ったはずなのに、ずっと当たり前のことを話しているような口調だった。
「姉上」
僕は思わず呼びかけた。
「アインが、姉上の精霊は弱くないって。熱を必要な場所へ正しく渡せる、器用な精霊だと言っています」
姉上が目を見開く。
ルーメは一瞬だけ大きく燃え、照れたように姉上の髪の後ろへ隠れた。
「ありがとう。そう言ってくれたのね」
「姉上、本気で信じるのですか」
ギルベルト兄上の声が割って入った。
兄上は晶盤のそばまで歩み寄ると、僕とアインを交互に見た。
「ルカにしか聞こえない言葉だ。あの精霊が話したのか、ルカが庇うために作ったのか、確かめようがない」
「ルカは、こんなときに嘘をつく子ではありません」
「本人が嘘だと思っていない可能性もある。未知の精霊が、契約者の感覚へ何をしているかも分からないのだ」
兄上の言葉に、僕はアインを抱く腕へ力を入れた。
「アインは、僕を操ってなんかいません」
『当然だ。我は頼まれてもそのような無作法はせぬ』
アインが胸を張る。
周囲には、やはり小さな鳴き声しか届かない。
それが悔しかった。
僕にはこんなにはっきり聞こえているのに。驕った言い方の奥で、アインが兄上の言葉に傷ついていることまで伝わるのに、誰にも証明できない。
「再測定を」
父上が命じた。
声には怒りも慰めもなかった。
「アルヴァン様。結果が同じであれば、神殿規定に従って記録します」
祭司長が念を押す。
「構わない」
短い返事だった。
僕はアインを晶盤へ戻した。
「もう一回だけ、触ってくれる?」
『同じ石を二度叩いても、賢くはならぬぞ』
「お願い」
『……仕方あるまい』
アインが前脚を載せる。
六つの晶石は、どれも光らなかった。
共鳴鐘を鳴らしても、補助の晶石を交換しても、結果は同じだった。
『属性反応なし』
『階級判定不能』
二度目に浮かんだ文字は、一度目よりも冷たく見えた。
祭司長は長い沈黙のあと、記録係へ告げた。
「未分類精霊。契約者名、ルカ・エルフォード。測定不能のため、王都大神殿へ照会する」
未分類。
その言葉が書記のペンで記録紙へ刻まれる。
アインの名前は書かれなかった。
「待ってください。この子にはアインという名前があります」
「正式記録には、神殿が確認できた情報だけを記します」
若い書記は僕を見ないまま答えた。
「名前は、確認できた情報です。僕には聞こえました」
「契約者以外に確認できません」
「でも――」
「ルカ」
兄上に名を呼ばれ、言葉が止まる。
「これ以上、儀式を乱すな」
乱しているつもりはなかった。
ただ、名前を書いてほしかっただけだ。
アインが僕を見上げる。
『我は、己の名をあの紙に認められずとも困らぬ』
「僕が困るんだ」
小声で答えると、アインは黙った。
胸へ届いた感情は、少しだけ温かかった。
「記録のため、いくつか確認します」
祭司長が僕の前へ膝をついた。
子どもへ目線を合わせるための動作なのに、逃げ道を塞がれたように感じた。
「その精霊へ質問を伝えてください。まず、どこから来たのか」
僕が聞くと、アインの耳が左右へ傾いた。
『分からぬ』
「分からないそうです」
「自分が何の精霊かは」
『それも、今は思い出せぬ』
答えと一緒に、知らない部屋へ一人で置かれたような心細さが伝わってきた。
アインは偉そうに話している。でも、忘れたふりをしているのではない。自分でも答えを探し、それでも見つけられずにいる。本当に、自分の名前以外を思い出せないのだ。
僕がそのまま伝えると、書記のペンが忙しく動いた。
「使用できる力は」
『知らぬ』
「火を出せますか。水を動かすことは」
『知らぬと言っておる』
アインの尾が僕の腕をぺしぺしと叩く。
周囲には焦れた子獣が鳴いているようにしか見えない。
祭司長の表情が、質問のたびに硬くなった。
「では最後に。なぜ、ルカ・エルフォードを選んだのですか」
僕は息を止めた。
それは、僕も知りたかった。
アインが僕を見上げる。
『お前が、我を見たからだ』
「僕が?」
『ほかの者は、現れたものが何属性で、どれほど強いかばかり見ていた。お前は、我が何者かも分からぬうちに、我へ用があるのかと尋ねた』
召応陣で交わした最初の言葉が蘇る。
――僕に、用があるの?
あれはただ、アインが僕の靴先まで来たから尋ねただけだった。
『理由のすべては思い出せぬ。だが、お前が我を見た。それだけで、今の我には十分だった』
胸の奥へ、迷いのない温かさが届く。
僕は祭司長へ、その言葉を伝えた。
誓約殿のどこかで、誰かが小さく息を吐いた。
「理由になっていない」
兄上だった。
「高位の精霊ほど契約者を慎重に見定める。能力も家系も問わず、声をかけられたというだけで選ぶなら、やはり知性の低い下位精霊ではないのか」
『あの男は、よく燃える火ほど賢いと思っておるのか』
「兄上は、アインに知性がないと決めつけています」
「測定結果と今の回答から判断している」
「思い出せないことと、考えられないことは違います」
自分でも驚くほど、声が強く出た。
兄上の目を見たまま続ける。
「もし僕が母上のことを全部思い出せなくなったら、僕は僕ではなくなるのですか」
兄上の唇が止まった。
姉上が僕の肩へ手を置く。
「分からないことは、罪ではありません」
その言葉はアインへ向けたものでもあり、僕へ向けたものでもある気がした。
祭司長は反論しなかった。ただ、記録紙の余白へ「自称名アイン・記憶欠落の可能性」と書き加えた。
正式な名前としてではない。
それでも、紙の上にアインの名が残ったことに、僕は少しだけ息をつけた。
祭司長は残る候補者の選定を午後から再開すると告げた。僕たち家族は、誓約殿の奥にある石造りの控え室へ移された。
扉が閉じても、廊下の声は消えなかった。
「炎の名門から属性なしが出た」
「王位精霊どころか、階級すらないそうだ」
「侯爵家の恥だな」
聞かないようにしようとするほど、一つ一つの言葉が耳へ入ってくる。
僕は長椅子の端へ座り、膝の上のアインを見た。
白い毛。大きな耳。短い脚。淡い銀色の瞳。
晶盤に測れないだけで、朝まで僕が持っていたものが全部なくなったわけではない。
それなのに、家族のそばにいる自分が、急に知らない誰かになったような気がした。
遠くで共鳴鐘が鳴った。
残っていた子どもたちの選定が再開されたのだ。
一度、二度と鐘が響くたびに、誓約殿の向こうから拍手や歓声が聞こえてくる。
エリクは、もう呼ばれただろうか。
朝、拳を掲げてくれた親友の顔が浮かぶ。僕も近くで見守ると約束していたのに、今は厚い扉の向こうへ出ることさえ許されない。
「エリクの選定を見に行ってはいけませんか」
扉の前に立つ神殿の護衛へ尋ねたが、返ってきたのは首を横に振る動作だけだった。
「照会が終わるまでは、未分類精霊を参列者へ近づけられません」
未分類精霊。
また、名前ではなく分類で呼ばれた。
『友とは、あの髪の跳ねた者か』
「うん。僕の一番の友達」
『ならば、あとで直接聞けばよい。選ばれたものが何であろうと、我らが先に喜んでやればよい』
その言い方がアインらしくて、僕は少し笑った。
扉の向こうで何が起きているのか、このときの僕はまだ知らなかった。
『炎の精霊に選ばれなければ、お前はこの家の家族ではなくなるのか』
アインが尋ねた。
すぐには答えられなかった。
それでも、黙っていてはアインの問いをなかったことにしてしまう気がした。
「アインが聞いています。炎の精霊に選ばれなければ、僕はこの家の家族ではなくなるのか、と」
「家には、守らなければならない立場がある」
兄上が答えた。
「エルフォード家が炎の名門として信頼されているからこそ、領内の精霊騎士を率い、冬の暖房炉を管理し、魔物から民を守れる。家の評価は、私たちだけの問題ではない」
「だから、アインがいると困るのですか」
「未知の力を、分からないまま安全だと言い張ることが問題なのだ」
兄上の声は厳しかった。
けれど、怒鳴ってはいない。僕を傷つけたいのではなく、本当に正しいことを教えているつもりなのだと思う。
だからこそ、何を言えば届くのか分からなかった。
「分からないなら、知ろうとすればいいでしょう」
姉上が僕の隣へ座った。
ルーメが姉上の肩から下り、アインと同じ長椅子へ浮かぶ。
アインとルーメは、しばらく無言で見つめ合った。
やがてルーメが小さく揺れる。
アインも、偉そうに一度だけうなずいた。
言葉が届かなくても、何かは伝わったらしい。
「この子たちは、もう相手を知ろうとしています」
姉上が言った。
「私たちが、それより先に扉を閉じてどうするのです」
兄上は答えなかった。
父上は窓際に立ち、ずっと外を見ていた。
僕は父上の背中へ呼びかけた。
「父上」
返事はない。
「僕が王位精霊に選ばれなかったことは、謝ります。でも、アインを選んだことは、間違いだったと思いません」
言い終えた瞬間、喉が震えた。
謝ることなのか、自分でも分からない。
けれど、今まで期待してくれた家族を失望させたことだけは分かった。
父上がゆっくり振り返る。
その視線は最初に僕ではなく、アインへ向いた。
「選定は精霊が人を選ぶ儀式だ。お前が望んだ結果ではない」
「それなら――」
「だが、契約を受け入れたのはお前の意思だ」
胸の奥が冷えた。
父上は責めている。
そう聞こえた。
『この男は、言葉が足りぬ』
アインが不機嫌そうに言う。
僕も同じことを思った。でも、それを父上へ伝える勇気はなかった。
控え室の扉が三度叩かれた。
入ってきた祭司は、白い厚紙を載せた銀盆を持っていた。縁を金色の光が走り、まだ乾いていない文字が表面へ浮かび続けている。
王都大神殿との連絡に使う、光写しの通達書だった。
祭司長も後ろから入室し、父上へ一礼する。
「照会への回答です。通常より早く返答がありました」
父上の眉が、わずかに動いた。
「読み上げろ」
祭司長が通達書を開く。
「六属性のいずれにも反応せず、階級を判定できない精霊を、王国神殿規定に基づく未分類精霊と仮認定する」
部屋の空気が重くなる。
「当該精霊および契約者ルカ・エルフォードは、王都大神殿の調査対象とする。正式な迎えが到着するまで、領主家の責任において両名の移動および外部との接触を禁ずる」
移動を禁ずる。
外部との接触を禁ずる。
難しい言葉なのに、自分が閉じ込められるのだということだけは理解できた。
「迎えはいつだ」
父上が尋ねる。
「三日後の日没までに。到着後、精霊と契約者を王都へ移送するとのことです」
姉上が立ち上がった。
「ルカはまだ十歳です。調査には家族も同行できますね」
祭司長は答える前に、通達書の続きを見た。
「保護者の同行については、王都到着後に審査する、と」
「そんな……」
ルーメが大きく揺れた。
兄上も初めて表情を崩した。
「契約者と精霊は、常に一緒に調査されるのですか」
「調査方法は大神殿の判断となります」
祭司長は目を伏せた。
答えを避けたのだと、十歳の僕にも分かった。
「契約を分離する可能性は」
父上が尋ねた。
部屋にいた全員が父上を見た。
僕は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
「分離って、何ですか」
誰も答えない。
アインを抱く腕へ、知らないうちに力が入る。
「父上。アインと僕を、離すということですか」
「祭司長へ聞いている」
父上の声は冷静だったが、固く握った拳の関節だけが白くなっていた。
祭司長はしばらく黙ったあと、慎重に答えた。
「契約者または精霊に危険があると判断された場合、調査の一環として一時的な分離処置が認められています」
「一時的とは、どれほどだ」
「王都の判断です」
「分離によって契約者へ障害が残った事例は」
「地方神殿からお答えできる記録はありません」
記録がないとは言わなかった。
答えられないと言った。
父上はそれ以上尋ねなかった。
けれど僕には、父上が初めから「分離」という言葉を知っていたことだけが、妙に心へ残った。
父上は表情だけは崩さなかった。
父上は通達書を受け取り、最初から最後まで一度だけ目を通した。表情を変えないまま、紙を静かに二つに折った。
「ルカと未分類精霊は屋敷へ連れ帰る。大神殿の迎えが来るまで、私の監督下に置く」
「父上、アインです」
思わず言った。
「未分類精霊ではありません。アインには名前があります」
父上の目が、ほんの一瞬だけ揺れた。
けれど、その口から名前が呼ばれることはなかった。
「馬車を裏門へ回せ」
命令だけが返ってきた。
廊下ではまだ、炎の家の恥という言葉が囁かれていた。
でも本当に怖かったのは、知らない人たちの声ではない。
三日後には、僕とアインが家族から引き離されるかもしれない。
そのことを、父上がどんな顔で受け入れたのか、僕には分からなかった。




