46話 巌地王の鍵
朝、シャツをかぶろうとして、肩がつった。
「いたっ」
首だけを襟から出したまま固まると、隣の寝台でエリクが笑いかけた。けれど、彼も握った手を開いて、顔をしかめた。
昨夜、僕を引き戻してくれた手だった。
「笑うとこじゃなかった」
「ううん。僕も、そっちを見て笑いそうになった」
二人で袖を引っ張るのをやめた。手当ての人が教えてくれたとおり、前の開く上着を、片腕ずつゆっくり通す。
アインは毛布の端で丸くなっていた。
僕が座ると目を開け、鼻先を膝へ押しつける。白い尾はいつもの一本。昨夜のように、力を使うために広がってはいなかった。
『動かぬ服を選べばよい』
「服じゃなくて、僕の肩が動かないんだよ」
エリクが僕を見た。
「今、何て?」
訳すと、彼は自分の上着の紐を見下ろした。
「俺の手も、紐が勝手に結べたら楽なんだけどな」
アインは前足で紐を押さえようとした。結び目にはならなかったけれど、端が逃げなくなった。
エリクは笑わずに、ゆっくり結んだ。
*
ドルガラム様のお招きに応じる前に、ベルンさんが全員の具合を聞いた。
僕は肩の痛いところを隠さなかった。エリクも掌を見せた。今日は荷運びをしない。ミレアとノエルにも、眠れたか、気分が悪くないかと順に聞く。
「会いに行くことと、働きに行くことは別だ。途中でつらくなったら戻る」
神殿の石段は、成人の点検班が朝に確かめていた。
途中、外の封印室へ曲がる道には、新しい柵が立っている。昨夜の敵は、石の中へ閉じ込められただけだ。扉の前には見張りが二人いて、交代の人へ記録板を渡していた。
僕たちはそちらへ行かず、本殿へ下る。
柵の外から見えた巌地王は、初めてお会いしたときと同じ場所にいた。
岩でできた大きな甲羅。その下から伸びる脚が、床の裂け目をまたいでいる。甲羅から天井へ続く石の柱も、まだ外されていなかった。
王様が首を動かすと、細かな砂が、顎から床へ落ちた。
「地面は、まだ怖いか」
僕は足元を見た。
石段では、一段ずつ確かめて下りてきた。さっきから、両足に同じ重さがかかっているか、何度も気にしていた。
「少し、怖いです」
「それでよい。昨夜を知らぬ足に戻る必要はない」
怖さをなくせと言われると思っていた。
僕が顔を上げると、王様はエリクの手へ目を向けた。
「綱を握った者も、出口を空けた者も、水を見張った者も、ここにおるな」
ミレアが水筒を両手で持ち直す。ノエルも小さくうなずいた。
「昨夜だけではない。坂へ石を積む前に荷をどけ、支柱を一本ずつ確かめた。力を使わず待った時間も、わしは報告を受けておる」
五日かけた坂のことだった。
僕には、王様の目の前で大きな術を見せる方が、ずっと目立つ気がしていた。けれど、王様が尋ねたのは、どの石を先に動かしたか、なぜ古い綱を使わなかったか、ということだった。
答えるときは、分かる人が答えた。
エリクは綱の擦れを指で示し、ミレアは椀の水が縁に対してどう傾いたかを話した。
アインが、僕の腕の中で姿勢を変える。
『我だけが戻したのではない。戻る場所を、皆が残した』
僕は、そのまま伝えた。
王様の目が、ゆっくり閉じた。
「わしは長く、動かぬことが守ることだと思ってきた」
裂け目をまたぐ脚は、動かなかった。
「だが、ここを離れられぬわしには、上の坂へ支柱を立てる手がない。昨夜も、外へ残った筋を外す手が要った」
甲羅の陰から、低い息が漏れた。
「白い精霊。わしの持つ土の鍵を、お前へ返したい」
*
アインは、すぐに喜ばなかった。
『返す、と申すのか』
僕が訳すと、ドルガラム様は首をこちらへ伸ばした。柵を越えずとも、僕たちの目の高さへ顎が近づく。脚は、裂け目を支えたままだ。
「お前を見たときから、この内に、応えるものがあった。わしはその理由を、まだ知らぬ」
王様の喉の奥に、土色の光が灯った。
石の床に、細い線が見える。光が床を削っているのではない。アインの胸元にも同じ形の線が浮かび、二つの間で、欠けた輪が重なるように揺れていた。
僕は、炎と風と水の鍵を受け取ったときのことを思い出した。
鍵は、袋へしまえる道具ではない。アインの中で閉じていた力へ、精霊王の側から道をつなぐものだ。
「受け取ったら、王様は弱くなりませんか」
昨夜の封印も、床の裂け目も、そのままだった。
「わしの体や力を、丸ごと渡すのではない。この場を守る責めも、なくならぬ」
王様は、僕をまっすぐ見た。
「お前たちにも、わしの代わりに町を背負えとは言わぬ」
ベルンさんが、光の線とアインを見比べた。
「昨夜の消耗は残っている。今、無理につなぐ必要はないはずだ」
「そのとおり。双方が受け入れねば、開かぬ」
僕はアインを見た。
「今日じゃなくてもいいよ」
白い前足が、僕の手へ重なった。
『昨夜、力を戻した石は、小さかった。だが、そこへ皆が帰れた』
アインは王様を見上げた。
『我も、そのように使いたい。すべてを支えるとは誓えぬ。できぬことまで、できるとは言わぬ』
僕が言い直す途中で、喉が詰まった。
もっと強くなれば、もう怖くなくなるのだと、どこかで思っていた。
アインは、怖かった夜を覚えたまま、受け取ろうとしている。
「……アインは、受け取りたいと言っています。でも、無理をするためじゃありません」
「それでよい」
僕はアインを抱き上げず、柵の手前に置かれた低い台へ、腕を添えて歩かせた。肩を動かすと、まだ痛む。
王様が鼻先を近づける。
アインも、自分から一歩進んだ。
二つの額が触れた。
床を揺らす音は、しなかった。
土色の線が、アインの白い毛の下へ順に沈んでいく。胸から背中へ、背中から尾の付け根へ。
白い尾が、五本に分かれた。
伸びた尾の一本が僕の手首へ触れ、乾いた砂を握ったような温かさがした。
その一瞬、僕の目の前ではない場所が見えた。
崩れかけた石のアーチ。
下から支える、いくつもの影。
誰かが手を離しかけ、別の誰かが、その隣を押さえ直す。
顔を見る前に、景色は消えた。
僕は台の縁へ手をついた。エリクが肘を支えてくれる。
「ルカ?」
「倒れてない。今、何か……」
『我も、見た』
アインは五本の尾を見返し、王様へ尋ねた。
『あれは、いつのことだ』
ドルガラム様は、すぐには答えなかった。
「わしにも、確かな記憶としては語れぬ。分からぬものへ、今、名を付けるのはやめよう」
土色の光が薄れる。
アインは僕の腕へ飛び込まず、自分で台を下りた。足元へ戻ったときには、尾は一本になっていた。
王様の体も、柱も消えてはいない。
同じ場所に残った大きな顎へ、アインはもう一度、額を寄せた。
*
その日は、宿へ戻って休んだ。
新しい力を使ってみたい気持ちはあった。でも、アインは昼のスープの匂いを嗅いだあと、僕の膝で眠ってしまった。
エリクも、掌を冷たい布で包んで寝ていた。
翌日、ベルンさんとオルナさんの見ている庭で、浅い木箱を一つ置いた。中には、湿らせた土が入っている。鉱山の地面をいきなり動かすのではなく、失敗しても人が落ちない箱で試すことになった。
アインが前足を土へ置く。
尾が五本へ広がり、足元の土が盛り上がった。
木箱の中央に、小さな土手ができる。
僕が息をのむより早く、その横がへこんだ。
『……こちらが減った』
「土が増えたわけじゃないんだね」
「動かした分、別の場所が薄くなる。実物で覚えておけ」
ベルンさんが、へこんだ場所へ細い棒を差した。すぐ木箱の底へ当たる。
あの夜のような場所で、足元を知らずに盛り上げたらどうなるか。僕にも、少し分かった。
二度目は、箱の端に足した土を使った。
低い土手を作り、ミレアが水を少し流す。水は土手の手前で曲がり、横に空けた隙間から出ていった。
「できた!」
僕は手を上げかけ、肩を押さえた。
アインが、得意そうに胸を張る。
『騒ぐ前に、その肩を治せ』
「それは俺も言おうと思った」
エリクが笑った。
僕は、口を閉じた。
まだ、訳していない。
エリクも笑うのをやめて、アインを見た。
「今、お前が言った?」
白い耳が立った。
『聞こえたのか』
「うわ。今度は、途中で切れない」
彼は自分の耳を押さえ、すぐ手を離す。僕の方へ顔を近づけた。
「風の王様のところで聞いたときより、はっきりしてる。ルカには、いつもこう聞こえてたのか?」
「うん。でも、あのときは短くしか続かなかったのに……」
ミレアとノエルは顔を見合わせている。二人には、まだ届いていなかった。
ベルンさんが、土の試験を止めた。
「声に出たのではないな。誰へ届けようとした?」
『ルカを案じておったので、隣で同じ顔をしていた者へも、向けたのだ』
今の言葉は僕とエリクだけが聞き、僕が大人へ伝えた。
アインは前足を引き、土の力を使うのをやめた。それからミレアとノエルを順に見て、僕へ二人にも聞いてほしいと頼んだ。
「アインの声、聞いてもいい?」
二人がうなずく。
アインは少し目を細めた。
『ミレア。あの夜は、水を見ていてくれて助かった』
水筒を抱く腕が、ぴくりと動いた。
「……ポロの声とは、違う」
次に、ノエルの目が大きくなった。
『出口を空けてくれた礼も、まだ言っておらなんだ』
彼女は足元のネロを見てから、アインを見た。
「聞こえる。ルカの声じゃない」
僕だけが知っていた話し方に、みんなが返事をした。
何度も、アインが言ったことを声にしてきた。時々、僕の言い方では違うかもしれないと、言い直した。
今日は、僕が間に入らなくても、エリクが首をかしげ、ミレアが笑った。
嬉しいのに、胸が少しだけ寂しくなった。
アインが僕へ顔を向ける。
『ルカ。届いておるな』
「うん。ずっと聞こえてる」
『ならばよい』
白い前足が、僕の靴へ重なった。
僕は笑って、目の端を袖で拭いた。
確かめると、声が空気を震わせているわけではなかった。離れて道具を片づけていた職人には、何も聞こえていない。ベルンさんには、アインが届ける相手に加えてから聞こえた。
誰も彼もが精霊と話せるようになったわけでもない。エリクはテトへ尋ねてみたけれど、返事は、いつもどおりベルンさんが伝えた。
アインも少し話すと、眠そうに目をこすった。
続きは、休んでからにした。
*
その後の一週間は、確かめて、休み、また確かめる日が続いた。
僕たちが休む間も、封印室の見張りは交代していた。王様の本殿へ続く道も、許可なく入る場所にはならない。戻らない二体の精霊については、成人の調査班が捜索の記録を増やしていた。
アインが土を動かせても、その行方が見えるわけではなかった。
僕とエリクの痛みが引いてから、ギルドの実地確認を受けた。
オルナさんの作業場の外で、低い足場を組み、緩めた綱がどれかを確かめる。手順を急がされても、エリクは荷を載せる前に止めた。
「ここ、結び直します」
僕はアインと土留めを作り、ミレアはポロと水の流れを確かめ、ノエルはネロと見通しの悪い場所から合図を送った。
審査では水都の救援を含むこれまでの記録と、今回の実地確認が合わせて見られた。失敗したところも、記録へ残った。
僕の土留めは、一度、水をかけすぎて崩れた。エリクは綱を張り直し、僕は土を足す前に、水を止めてもらった。
土の鍵を得たから、昨日までできなかった仕事が全部できる、とはならなかった。
それでも、次に同じ失敗をしないために、何を見ればよいかは増えていった。
審査の結果を受け取る日、僕たちは四人で支部へ入った。
机の上には、四人分の活動記録が並んでいた。
その横に、新しい等級を記した書類が三枚あった。
*
ルカ、ミレア、ノエル。
三人は、Bランクへの昇格を認める。
僕は名前を目で追い、もう一度、最初へ戻った。
「エリクは?」
受付の人は、残った活動記録へ手を添えた。
「審査は保留です。現在のCランクは変わりません」
エリクの顔を見た。
彼は、机の上を見ていた。
「何を直せばいいですか。足場の試験で、結び直しが遅かったですか」
受付の人が、別の紙を出した。
そこには、契約精霊による継続的な属性戦力の確認ができない、と書いてあった。
エリクは少し黙り、唇を舐めた。
「精霊がいないから、ってことですか」
「審査担当の所見は、そうなっています」
僕はアインへ手を伸ばした。
あの夜の綱は、精霊が結んだものではない。
そのことを言おうとしたら、隣からオルナさんの声がした。
「私が出した記録に、あの子の担当が書いてある。読んだうえでの判断?」
「功績は記録されています。報酬の支払いも、取り消しにはなりません。ただ、昇格の審査が――」
「なら、その線引きを書面で出してくれ」
ベルンさんが、静かに言った。
「契約のない者は一律に上がれない規則なのか。それとも、今回の審査担当がそう解釈したのか。本人が次に何を示せばよいのか、返答が要る」
机を叩く人はいなかった。
その方が、僕には怖かった。
紙の上で何が決まっているのか、僕にはまだ読み切れない。けれど、エリクがやり直せる仕事の話ではないことだけは、分かった。
ミレアが、自分の書類を両手で押さえた。
「私たちだけ、先に受け取るの?」
エリクが顔を上げた。
「受け取れよ。みんながやった分だろ」
笑おうとして、うまく笑えていなかった。
僕は、その顔から目をそらせなかった。
ベルンさんは、僕とエリクが十三歳未満であることも確かめた。等級が変わっても、必要な監督はなくならない。明日から僕だけ自由に危険な依頼へ行ける、という話でもなかった。
異議を申し立てる手続きは、大人たちが引き受けてくれた。
僕たちは、自分の活動記録に間違いがないかを確かめた。
あの夜、僕を戻した綱を扱った人の欄には、エリクの名前があった。
その名前は、消させなかった。
*
宿へ戻る坂で、エリクが立ち止まった。
「おめでとう、ルカ」
「……うん」
「そこは、もっと喜べよ」
僕は、受け取った紙を見下ろした。
嬉しかった。それをなかったことにすると、ミレアやノエルまで、喜んではいけない気がしてしまう。
「嬉しいよ。でも、エリクの結果は、嫌だ」
エリクは靴先で、小石を少し押した。
「俺も」
それから、紙を持つ自分の手を握った。
「どこを直せばいいか、聞いたのにな」
アインが僕の足元から、エリクの前へ歩いていった。
『お前の綱は、我らを戻した』
今度は、訳さなくても届いた。
エリクはしゃがみ、白い頭へ手を置く。
「……うん」
『我は、覚えておる』
彼はすぐには立たなかった。
僕も、急かさず隣へしゃがんだ。
町の方で、支柱を点検する木槌の音がした。
アインの声が届く相手は、増えた。
それなのに、エリクが何をしたのか、届いてほしいところへは、まだ届いていなかった。




