45話 上下が消える地下
空へ上っていた砂が、途中で横へ折れた。
風ではなかった。近くの旗は広場へ向かって揺れているのに、砂は反対側の壁へ貼りついていく。
「走るな。壁に寄れ!」
ベルンさんの声で、僕は鐘楼の石へ肩をつけた。
足の下が軽い。
踵を浮かせたのではないのに、靴の底と石畳の間に、薄い隙間ができた。
エリクが僕の袖をつかむ。僕も彼の腕をつかんだ。
『足を踏ん張るだけでは足りぬ。何かにつながれ!』
僕は叫んで訳した。
ベルンさんが鐘楼の柱へ縄を回し、僕たちをその内側へ入れた。持ち上がりかけた体が、縄に支えられて止まる。
その先で、置き去りにした空の椀が、壁へぶつかって割れた。
下へ落ちるはずの物が、下へ落ちない。
僕は、どちらへ転べば地面に着けるのかも、分からなくなっていた。
*
異常は、広場全体へ同じように広がってはいなかった。
鐘楼の山側では、落とした小石が普通に足元へ転がる。支部側へ寄ると、小石は途中から坂の下へ曲がった。
大人が鐘を鳴らし、住民を山側の道から町の外へ出していく。僕たちが直した左の坂道を、最後の一団が上ってきた。
荷車を持ち込まず、道を空けていたから、足の遅い人も追い越す人とぶつからずに済んだ。
オルナさんは人の列を送り、見張りへ確認してから戻った。
「支部から下は無人。右の道は、もう近づけない」
彼女が示した先で、閉鎖作業場の壁が内側へたわんでいた。
石の隙間に、細いものが何本も伸びている。
最初は、糸を張った蜘蛛の巣に見えた。
だが、糸の真ん中には蜘蛛がいなかった。人の頭ほどの石片が、何もない空間の周りを回り、その中心だけ、向こうの壁がずれて見える。
細いものが別の石へ触れると、その石が、音もなく浮いた。
『あれだ。あれが、引く向きを変えておる』
僕が訳すと、ベルンさんは見張りへ、浮き始めた場所と時刻を尋ねた。
「糸のついた石が、先だ。ほかの物は、その後で動いた」
オルナさんが答えた。
あの糸のようなものは、補修材をつないでくれていたのではない。
石から石へ、何かを渡していたのだ。
「石を固めて止めます」
上位の土精霊を連れた術者が、一歩進んだ。
ベルンさんは、まず自分たちの足場だけにしろと言った。
岩人形が広場の端へ手をつける。石畳が締まり、傾いていた端の一枚が止まった。
その直後、石の継ぎ目を伝った細い筋が、固めた場所へ伸びた。
乾いた音がして、石畳の色が薄れる。
術者が即座に手を引かせた。
「こっちの力まで、持っていかれる」
「そこで止めろ。追いかけて流すな」
ベルンさんが告げる。
アインは僕の胸へ前足を当てていた。
火も水も大きく放てば、同じことになる。僕が思いつくものを、敵へ順に渡すわけにはいかなかった。
そのとき、神殿の連絡員が山側の道から駆けてきた。
「王様からだ。上へ抜けたものを、外の封印室へ戻せと!」
*
ベルンさんは、すぐに僕たちを連れて走り出しはしなかった。
「来るな、と言われたばかりだ。どこまで使える」
連絡員は、折り畳んだ作業図を広げた。
神殿へ下る石段の途中に、封印のための部屋がある。大きな異物が外へ漏れたとき、閉じ込めるための部屋だという。
奥の本殿とは、厚い石壁で分かれている。ドルガラム様は本殿を動かず、外の部屋の床にある円へ力を通せる。
「そこへ入れば、全部吸って強くならないんですか」
僕が聞くと、連絡員は王様の言葉を伝えた。
「内へ力を放つな。外から石を閉じる。輪が閉じる前に、つながった糸を残すな、と」
ベルンさんが図へ指を置いた。
「外の石へつながったままなら、その結び目から逃げる。切り離して、中へ収めてから封じる必要があるんだな」
「はい。外室の点検班は退避済み。上の待避所と二つの出口は使えます」
僕には、まだ怖い場所へ向かう話にしか聞こえなかった。
「アインに、糸を切らせるんですか」
「できるとは決めていない。まず、どの力がどこから奪われたか、分かるかを聞く」
ベルンさんは僕の返事を待った。
『石へ残ったものと、あれの内側へ奪われたものは、違って見える。全部を一度には戻せぬ』
僕が伝えると、彼はうなずいた。
「一筋ずつだ。戻す先の石はこちらへ運ぶ。お前たちは待避所から出るな。足場が変わったら、いったん止めて退く」
僕は、エリクとミレアとノエルを見た。
「僕だけで返事しちゃ、駄目ですよね」
「当然だ」
エリクはすぐ答えた。
みんなが自分で担当を確かめ、ベルンさんと支部の成人責任者が応援と退避を決めた。
閉鎖坑道を探検するのではない。王様の本殿へ入るのでもない。点検済みの神殿通路から、出口のすぐそばの待避所へ道具を運ぶ。
それでも、僕は出発前、アインの背中を何度も撫でた。
『怖ければ、怖いと言え』
「怖いよ」
『我もだ。ゆえに、戻る道を忘れるな』
僕は、出口を示す図の矢印を、もう一度指でたどった。
*
日が沈むころ、外室の準備が整った。
僕たちがいるのは、部屋の西側の一段高い待避所。真後ろの石段は地上へ、左の横道は別の出口へ続く。
右手の東壁には、鉱山の旧通路へつながる狭い口がある。通行用ではなく、封印室へ異物を誘導するための穴で、今は金属の格子で塞がれていた。
その手前の床に、馬車一台ほどの大きさの円が刻んである。
敵を東から円へ入れ、僕たちは西へ退く。
オルナさんが、図と実際の床を指して教えた。
東側の誘導は成人の調査班が行う。閉鎖作業場から旧通路へ伸びる糸を観察し、地上へ出る隙間を板で塞ぎ、退路を残してこちらへ押し戻すのだという。
「板で、あれを止め続けられますか」
「ずっとは無理。だから、同じ場所で粘らない。変わったら、伝令が知らせる」
オルナさんの声は、はっきりしていた。
待避所の奥には、巻き取り機が二つ置かれた。職人が壁の太い固定環を点検し、エリクが綱を通す。
片方は作業板を引く綱。もう片方は、人が戻るための綱だった。
「先日、擦れたって印を付けたやつは使わない」
エリクは新しい綱を僕に見せた。
腰だけへ食い込まないよう、体を支える帯も大人が合わせてくれる。
ミレアは待避所の隅で、水を浅い椀へ少し注いだ。ポロに異常を治させるのではなく、僕たちのいる場所で水面が傾かないかを見るためだ。
ノエルは二つの出口と、巻き取り機の間を空ける。ネロは彼女の足元で、耳を低くしていた。
ベルンさんとテトは待避所の縁。オルナさんと職人たちが、その下で円の近くへ石の載った小さな作業板を置いた。
載せた石は、色の薄れた補修材だった。滑り落ちないよう、作業板へ金具で留めてある。円の外で働く大人たちも、壁の固定環へ体をつなぐ。
成人班が、地上から出る糸の一本をたどり、その端につながっていた石を確保した。土の力を奪われた石を、アインが見分けるために運んできたのだ。
「勝手に引かないでください。まだ、向こうにつながっています」
僕がアインの言葉を伝えると、職人は手を止めた。
待避所の横の伝声窓から、低い声が響いた。
「外へ向いた糸を残すな。閉じるのは、わしがする」
本殿から、壁の短い管を通って届く声だと連絡員が教えてくれた。
王様も、自分の場所を離れずに待っている。
僕は両足を板につけ、アインへうなずいた。
*
東の格子が引き上げられた。
先に、石が一つ入ってきた。
床ではなく、東の壁へ張りついたまま、上へ滑っていく。
その後ろを、細い筋が追った。
空中に組まれた石の輪が、ゆっくり部屋へ入ってくる。中心には顔がない。それでも僕は、そこから見られていると感じた。
「まだ、円へ入っていない」
オルナさんの声がする。
成人班の最後の二人が東口の脇へ退き、別の退避口へ入る。ノエルは連絡員の帰還合図を確かめ、ベルンさんへ伝えた。
東口の格子が下りる。細い糸までは止められなくても、石をまとった塊が、そのまま引き返す道は狭くなった。
敵は、円の直前で止まった。
「……ひらけ」
石を擦るような声だった。
僕の腕が粟立った。
人の言葉だ。
「輪を越えず、外の石から壊そうとしている」
ベルンさんが低く言った。
地上の灰喰いと同じように、ただ前へ進むものではない。
『右の石へ、帰るものがある』
アインが作業板を見た。
僕はベルンさんへ訳し、戻す先を確認してから、手の力を抜いた。
アインの周りに、硝子を重ねたような薄い波紋が広がる。
石の輪の一角から、砂のような光が一筋ほどけた。
作業板の上の石へ、灰茶色がわずかに戻る。
その瞬間、敵の伸ばした糸が、床を強く叩いた。
「……かえすな」
石の輪が、こちらを向いた。
『嫌がっておる。奪ったものを手放したくないのだ』
僕が言い終わる前に、待避所の椀から水が盛り上がった。
「傾いた! 壁側へ!」
ミレアが叫ぶ。
僕の体が、突然、右へ倒れた。
いや、倒れたのではない。
東の壁へ向かって、落ちていた。
*
帯が胸と腿を引いた。
足が浮き、アインを抱いた腕まで、体の外へ持っていかれる。
「巻きすぎるな、首が当たる!」
ベルンさんの声。
エリクは職人と巻き取り機を押さえ、僕の肩が壁へぶつかる前に、綱を止めた。
僕は空中で膝を曲げたまま、待避所の手すりをつかんだ。
「アイン、いる?」
『ここだ。お前の腕を離れてはおらぬ!』
見下ろそうとして、どちらが下なのか分からなくなった。
板の上の石が、円へ向かって滑る。オルナさんたちの綱が、それを止めた。
反対に、天井へ貼りついた砂は、僕たちの方へ流れてくる。
部屋全体がひっくり返ったのではなかった。
物が落ちる向きが、場所によって違っている。
『動く前に、細いものが触れておる。あの継ぎ目だ!』
アインの鼻先が、待避所の縁を向く。
僕は息を吸って、場所を叫んだ。
ベルンさんが長い棒の先の金属板で、敷石の継ぎ目を覆う。テトが手前の小さな亀裂をつなぎ、筋が伸びる隙間を狭めた。
それで敵の力を消せたわけではない。けれど、次の筋が入ってくるのが、一瞬遅れた。
「床を全部信じるな。綱を伝って、後ろへ戻れ」
僕は手すりを離さず、帯を支える綱へ片手ずつ持ち替えた。
ノエルが後ろの段へ空の袋を詰め、僕の体が戻ったときの角を覆ってくれる。ネロも影を薄く広げ、灯りの眩しさを弱めた。
目を開けたまま、結び目が見えた。
僕は膝を板へ戻し、空いている方の出口を見た。
行けと言われたら、今なら行ける。
でもアインは、その先ではなく、僕の手を見ていた。
『ここへ、皆が戻してくれたな』
「うん」
『ならば、我も、できる分だけ返す』
僕はベルンさんへ、アインがまだ一筋を見分けていると伝えた。
「次が来たら中止だ。今の位置で、一度だけ」
ベルンさんの声に、僕もアインもうなずいた。
*
作業板を、西へ引く。
エリクが職人の合図を見て巻き取り機を動かす。敵が伸ばした一本の糸だけが、色を取り戻した石につながっていた。
その糸を伝って、もう一筋、奪われた土の力が戻る。
敵の周りを回る石片が一つ、床へ落ちた。
「……やめろ」
石の輪が、動いた。
封印の円を避け、北の壁を伝って、作業板へ伸びようとする。
「そっちへ寄った!」
ノエルが指をさす。
オルナさんと岩人形が、円の北側へ大きな鉄板を立てた。上端は天井に届く。精霊術を敵へ流すのではなく、用意していた板で、壁の継ぎ目へ届く道を塞ぐ。
敵の糸が板を引っかいた。表面が白く曇る。
ずっとは持たない。
南側の職人も、同じように板を起こした。
正面に残ったのは、円の上を通る道だった。
敵は進まず、石へつながった糸を縮めようとした。
『まだだ。ここで強く引けば、石ごと奪われる』
僕はエリクへ叫んだ。
彼は手を止めた。作業板が、円の向こうで止まる。
敵が後ろへ引けば、その分だけ戻す力を失う。前へ出れば、輪を踏む。
アインが力ずくで引きずり込んでいるのではない。
奪ったものへしがみつく敵を、みんなで行き止まりへ追い込んでいた。
石の輪が震えた。
天井へ向かって上がっていた砂が、急に止まる。
『来る!』
「みんな、つかまって!」
部屋の石が、一斉に音を立てた。
僕の体は動かなかった。さっき締め直した帯と綱が、今度は浮く前に体を支えた。
オルナさんも、職人も、固定環へ綱をつないでいた。
板が揺れる。岩人形の片腕が欠け、術者が唇を噛んだ。
でも、板は倒れなかった。
作業板の石へ、最後の一筋が戻った。
敵の輪から、大きな石片が外れる。
その重さを失った中心が前へ伸び、円の縁を越えた。
「今です!」
僕の声に、オルナさんが伝声窓へ顔を向けた。
「まだ、外へ一本つながっている!」
ベルンさんが止める。
僕は見た。
東口へ戻る細い筋が、床を離れて天井に沿っていた。
アインの尾が三本に広がる。
小さな風が舞い、浮いていた粉をその筋へ沿わせた。灯りの下で、一本だけ、はっきり見える。
『あれは空だ。奪った力は、もう通っておらぬ』
僕が訳すと、ベルンさんは成人の職人へ位置を示した。
金属の長柄が、天井へ伸びる。
糸を両側から挟み、引き離すと、石をつかんでいた端が外れた。
二本の柄が、外れた筋を円の内側へ押し戻す。
「外れた!」
その声で、床の円が閉じた。
*
白い閃光も、大きな爆発もなかった。
円の周りの溝に、灰色の石が細くせり上がる。天井側からも同じ幅の石が下り、敵を挟むように、内と外を分けた。力は外側から石を動かし、敵のいる内側へは流し込まない。
糸の塊が内側を叩いた。
僕たちのいるところでは、砂が下へ落ちた。
膝が、本当に板へ重く沈む。
「戻った……?」
ミレアが椀の水を見る。水面は、縁と平らになっていた。
彼女はすぐに安全だと言わず、もう一度揺れがないか確かめた。
本殿から、低い声が来た。
「離れよ。消えたのではない。ここへ留めた」
僕たちは綱を外す前に、順に地面へ体重をかけた。
立てる。
僕は、そのことが嬉しくて、少し泣きそうになった。
ベルンさんはすぐ次の試験をせず、退避を命じた。アインは僕の腕へ顎を預け、一本に戻った尾を丸めている。
もう力を使わない。
僕たちは成人班と一緒に、来た石段を上った。
*
地上へ出ると、夜になっていた。
避難した住民のいる場所まで、帰還の知らせを連絡員が運ぶ。町全体へ戻ってよいという知らせではない。
ミレアが僕の肩を見た。帯の当たったところが赤くなり、エリクの掌にも、巻き取り機を押さえた跡が残っている。
上位精霊の術者は、欠けた岩人形の腕へ布を掛けた。形が戻るには休息が要り、今夜また働かせるつもりはないと言った。
戻らない二体の精霊も、まだ見つかっていない。
勝ったからと、全部を取り戻せたわけではなかった。
それでも、僕たちはここへ戻ってきた。
「あれは、今までの灰喰いより上の個体だ」
ベルンさんは、王様から届いた記録を見せた。
言葉を理解し、奪った土の力で物の落ちる向きを変え、逃げ道まで選んでいた。ドルガラム様も高位の虚無種と判定したという。
「最初から分かっていたんですか」
「いいや。だから、見えたものを記録した」
僕も紙へ、床ではなく壁へ落ちたと書いた。
怖かった、とも、小さく書き足した。
アインが僕の指へ鼻を寄せた。
『それも、忘れるな』
「うん」
エリクが隣で座り直し、僕の肩へ触れないように、肘でつついた。
「ちゃんと訳せよ。今の、俺にも」
僕は息をつき、アインの言葉を声にした。
みんなが黙ってうなずいた。
そのあとで、連絡員がベルンさんを呼びに来た。
「王様が、明朝、来てほしいと。白い精霊にも、働きを見せてくれた仲間にも」
僕は眠りかけた相棒を見た。
アインは目を開き、返事の代わりに、僕の手へ前足を重ねた。




