44話 強さは支えるために
大きな石を持ち上げた人より先に、小さなテトが首を振った。
石を下ろそうとしていた職人の手が止まる。
「そこへ置くな。下が割れている」
ベルンさんが言うと、職人は石を荷台へ戻した。
僕には、ほかの場所と同じ石畳にしか見えなかった。
けれどテトの前足が触れた継ぎ目から、さらさらと細かい砂がこぼれている。
重いものを置いていたら、そのまま下へ抜けたかもしれない。
「置く前で、よかった」
声にすると、膝に入っていた力が、少し抜けた。
アインは僕の腕の中で、小さな土精霊を見ていた。
『よく止めた』
僕が訳すと、テトは短く鼻を鳴らし、また足元へ顔を近づけた。
褒められたからと、確かめる仕事は終わらないらしい。
*
ガルドで働き始めた朝、僕たちの担当場所は、昨日聞いたものより狭くなっていた。
錘が斜めへ引かれた作業場と、その隣の通りは閉鎖された。大人の調査班が外から測り、変化があれば鐘で知らせる。
昨夜は、封鎖した場所から外へ異常は広がらなかったという。それでも、誰も囲いを外さなかった。
「今日は、上の道から整える」
オルナさんが地図を台へ置いた。
町の高い側に鐘のある広場。そこから坂を下ると支部があり、その先で道が二つに分かれている。
昨日の作業場は右の道だ。僕たちが点検するのは左の坂道で、広場へ荷物や人を運ぶために残しておきたい道だった。
「ここまで閉じると、下の区画から広場へ上がる道が遠くなる。だから補強する。ただし、持たなければ使わない。通すために安全だと言うのは、なし」
僕は地図の左の線を指でたどった。
まっすぐ上る道を守れたら、歩くのが遅い人も、遠回りしなくて済む。
「下には入らないんですね」
「閉鎖坑道には入れない。この坂の脇には、横から土台を見られる古い資材棚がある。大人が先に確かめる」
オルナさんは答え、作業ごとの持ち場を示した。
ベルンさんとテトが足場を確かめる。職人が測り、必要な木と石を選ぶ。僕とアインは、離れたところへ異常を知らせる。
エリクは資材を運ぶ台車と縄の点検。ミレアは広場の手当て場所、ノエルは通行止めと迂回路の記録だ。
離れて働くときの合図も決めた。笛が長く鳴ったら、荷物を置いて広場へ戻る。僕たちだけで別の場所を見に行かない。
「分からない音がしたときも、戻っていいですか」
僕が聞くと、ベルンさんはうなずいた。
「戻って聞け。勘違いなら、そのとき笑えばいい」
エリクが僕の肩を小突いた。
「お前が聞かなくても、俺が聞いた」
僕だけが怖がっていたのではないと分かって、少しほっとした。
最初の荷台が来て、テトが石畳の割れを見つけたのは、そのすぐ後だった。
*
昼前、坂道の脇にある資材棚へ、大人の職人が入った。
棚は山側へ浅く掘り込んだ、横長の石の部屋だった。天井は人の背より少し高い。左の壁と中央の柱が、上の道を支えている。
入口は坂道へ大きく開いていた。奥に坑道へ抜ける扉はなく、暗い穴へ進む場所ではない。
僕たちは向かいの空き地で待ち、ベルンさんが入口の敷石へテトを下ろした。
テトはそこから離れず、前足を石へ押し当てる。
「奥ではなく、左だな」
ベルンさんが、壁の下の方を指した。
オルナさんは長い物差しを差し入れ、壁と床の間の隙間を調べる。手前は狭いのに、奥では差した先が深く入った。
壁の土台が、一部だけ沈んでいるらしい。
「この隙間を埋めれば、戻りますか」
若い職人が聞いた。
そばには、土の上位精霊と契約しているという成人の術者がいた。背丈ほどの岩人形が、彼の後ろへ立っている。
「壁一枚を固める力はあります。昨日までは、そうやってきた」
「その隣が、また割れたんだよ」
オルナさんは、昨日の補修跡を示した。
術者は口を閉じた。怒った顔ではなく、眠れていない人のような顔だった。
「力が足りないなら、もっと強くすればいいと思っていました」
「弱かったからじゃない。どこへ押したかが分からなかったんだ」
ベルンさんはテトの甲羅へ手を添えた。
「ここだけ固めると、重みが隣へ寄る。先に荷を下ろし、別の支えを入れる。術は最後の隙間へ使ってくれ」
上位精霊を帰らせろと言ったのではなかった。
大きい力も、使う順番と場所を決める必要があった。
僕は岩人形を見上げた。その指が動くと、道に転がっていた石が一つ、静かに台車へ載る。
テトが止めたところへ置かずに済んだから、その力は、ちゃんと人の助けになった。
*
補修のために、まず坂の上の荷物を退けた。
住民が、自分の家の前から樽や薪を運び出す。大きいものは職人と岩人形が持ち、僕たちは軽い袋を広場側の台へ移した。
「それは、こっちへ置かないで」
ノエルが、床へ引かれた線を指した。
広場へ抜ける道と、荷物の置き場は別。空いているからと道へ積んだら、逃げるときに通れなくなる。
エリクは台車の車輪へ膝をつき、曲がった留め金を大人へ見せた。
「重いのを載せる前に、ここを替えたい」
「動いてるぞ」
持ち主の男の人が言ったが、エリクは車輪を横へ揺すった。
金属がかたっと鳴り、車輪が軸の端へずれる。
「坂の途中で外れたら、止められない」
男の人は、すぐ台車の荷を下ろした。
エリクが道具を出す。その横へ、修理を手伝う職人がしゃがんだ。
僕は袋を運びながら、二人の手元を見た。誰に選ばれたかを聞かずに、分かることを分かる人へ聞いている。
こういうときのエリクは、返事が少し大きくなる。
昼には、広場で汁とパンを受け取った。
ミレアは熱い椀を並べる前に、手を洗う水を分けていた。ポロが確かめた水と、道具を洗った水を混ぜないよう、桶の置き場も変えてある。
「飲む方は、柄の長い柄杓。足元の桶は、手を洗う方」
僕が聞き直すと、ミレアはうなずいた。
アインがパンへ鼻を伸ばしたので、汁の飛ばない場所へ小さな欠片を置く。
『我も働いたぞ』
「分かってる。ちゃんとあるよ」
訳すと、向かいのエリクが、自分のパンを隠すふりをした。
「俺も働いたからな」
アインは彼の手をじっと見たあと、自分の欠片へ顔を戻した。
それが少しおかしくて、僕は笑った。
笑ってから、坂の下の家を見た。窓を閉めた家にも、持ち主の名前を書いた札が下がっている。
「直ったら、すぐ戻れるんでしょうか」
オルナさんは、椀を両手で持っていた。
「戻していいか、確かめる仕事も残る。今日の夕方に持っていても、夜を越せるかは、まだ分からない」
僕は、パンをちぎる手を止めた。
壊れたものを直すことと、安心して眠れることの間には、まだ時間が要る。
「じゃあ、明日も見るんですね」
「そう。明後日も」
彼女はやっと少し笑い、空いた椀を下ろした。
*
最初の二日は、坂道へ新しい石を積むより、置いてあるものを退け、割れ方を調べる時間の方が長かった。
町へ着いた日に見つけた紙と同じように、細い筋へ貼りついて動かなくなった印もあった。職人は紙だけに頼らず、板に付けた目盛りと、離れた場所から見る石の高さを一緒に記録するようになった。
斜めになる錘が見つかった区画には、近づかない。その外側でも朝と夕方に測り、囲いを広げるかどうかは大人が決めた。
筋の正体は、まだ分からなかった。
アインが全部へ触れれば分かるかもしれないと、僕は一度思った。でも、最初に見つけた小さい一本ですら、何がつながっているか分かっていない。
「見るのと、引っ張るのは違うよね」
『そうだ。引けば、向こうも動く』
アインはそれ以上のことを、できるとは言わなかった。
三日目の午後、資材棚の左壁を支える作業が始まった。
荷を退けても、壁の隙間は消えていない。オルナさんたちは入口側の丈夫な石床へ広い板を敷き、その上に二本の支柱を立てた。
支柱の上へ横木を渡す。横木の端が壁の上の石を受け、細い木片を下へ少しずつ打ち込むと、横木が持ち上がって石へ触れる。
いきなり壁を持ち上げるのではない。今かかっている重さの一部を、新しい二本へ預けるのだと教わった。
テトは入口の石床、ベルンさんの手が届く位置にいた。
僕とアインは、向かいの空き地。入口の左側でオルナさんが合図し、右側の職人が木片を打つ。広場へ戻る坂道には、物を置かなかった。
一度、木槌が鳴る。
二度目の前に、テトが前足を上げた。
「右を止めろ。左から、少しずつだ」
ベルンさんの言葉を、オルナさんが繰り返した。
僕は、木槌よりテトを見ていた。
小さな足が石へ触れ、甲羅がゆっくり前へ傾く。大きな石を動かす音よりも、その足が上がるかどうかが気になった。
「なんで、分かるんですか」
近くで待つ住民の人へ聞かれ、僕はベルンさんへ問いを伝えた。
「石が押されると、触れたところへ細かい震えが来る。テトは、その変わり目を探している」
「石が嫌がる場所を、触って探すみたいなことですか」
僕が聞くと、ベルンさんは少し口の端を上げた。
「その言い方でもいい。ただし、石がしゃべって教えてくれるわけじゃない。測ったものと合わせて確かめる」
テトが前足を下ろす。
オルナさんは目盛りを確かめ、次の一打を指示した。
みんなが、小さな足の止まるのを待った。
*
横木が石を受け始めたころ、細い砂が、棚の左壁から落ちた。
オルナさんが手を上げ、全員の木槌が止まる。
「下がって」
声に従って職人が入口から出た。その一人が空き地へ着いたとき、棚の左の角で、短い音がした。
かちり、と、食器をぶつけたような音だった。
僕は無意識にアインを抱き上げた。
テトが入口の敷石へ前足を押しつける。細かいひびの縁が寄り、落ちかけた砂が止まった。
でも、棚の奥で、石同士の隙間がまだ開いている。
テトだけで、壁全部を支えられるわけではなかった。
『上だ。あの小さい石が、横へ押し出されておる』
アインの視線を追う。
入口の左上、横木の端の外に、薄い石が挟まっていた。ほかの石より少し前へ出て、その角から粉が落ちている。
「左の上です! 横木の外の、薄い石!」
僕が叫ぶと、オルナさんが長い柄の先で場所を示した。
アインは、石へ風をぶつけなかった。
三本の尾が広がり、もう人のいない入口の前で、埃が低く流れる。石の隙間を抜けた細い流れが、入口の左の角から、白い筋になって出た。
『そこだけ、奥へ続いておる。ほかは閉じているのに』
「左の角だけ、風が抜けるそうです!」
ベルンさんはオルナさんを見た。
「そこへ横から押すな。今の支えの外だ。もう一本、下から受けられるか」
「予備の支柱がある。長柄で置く。子どもは下げて」
僕はエリクに腕を引かれ、広場へ近いところまで退いた。
アインの風が止まり、尾が一本に戻る。これ以上強い風を送れば、細かい砂まで動かしてしまう。
職人が長い道具で予備の支柱を運ぶ。別の人が入口の外から綱を引き、その先を横木の下へ起こした。
オルナさんが、下の木片を長柄の木槌で叩く。
一打ごとに、三本目の支えが、少しずつ上の石へ近づいた。
テトの甲羅が震えていた。
ベルンさんはそばを離れず、石床とテトの前足を交互に見る。
「あと一つだ。終わったら、俺の方へ戻れ」
最後の木片が入る。
上から落ちていた粉が、止まった。
職人が目盛りを読み、オルナさんが別の位置から確かめる。
「受けた。いったん、全員そのまま」
テトが前足を離した。
細いひびは、すぐには開かなかった。
僕は自分の掌が汗で濡れていることに、やっと気がついた。
*
その日は、補修した場所へ人を通さなかった。
三本の支えで重さを受けたまま、別の班が外から石を詰める準備をする。土の上位精霊は、オルナさんの指示で、必要な材だけを近くへ運んだ。
職人も精霊も、疲れた人から交代する。
「テト、もう休んでいいって」
僕が近づくと、テトはベルンさんの外套の上で、丸くなりかけていた。
アインが僕の腕から鼻を近づける。
『よく持たせた。あとは、ほかの者の番だ』
訳すと、ベルンさんが息を吐いた。
「その通りだ。俺たちまで一晩ここで支える必要はない」
テトの丸い甲羅を、彼は指で二度撫でた。
ミレアは水を持ってきて、職人の手を順に見ていた。ひとりの指に木のささくれが刺さっていたが、大きな怪我をした人はいない。
ノエルの紙には、朝と昼と夕方の時刻が書かれていた。
「開ける場所じゃなくて、まだ閉じておく場所も、書いておいた」
彼女は僕へ地図を見せた。
直せたのだから、通れる道がすぐ増えると思っていた。でも、その紙を見れば、勝手に通ってしまう人を止められる。
エリクは使った綱を点検し、擦れた場所へ布で印を付けた。
「明日、そのまま使うなってこと」
自分が引くことより、次に使う人のことを考えていた。
僕は、最初の日に話した上位精霊の術者が、オルナさんへ頭を下げるのを見た。
「次も、場所を教えてください。まとめて固める前に」
オルナさんは、彼の岩人形へうなずいた。
「明日は、まず今日運んでくれた石から使う」
役に立たなかった人が、役に立った人へ謝っているのではない。
自分の仕事を、隣の仕事へつなげようとしていた。
僕も、アインの前足へ指を添えた。
石を積めなくても、僕に見えないところを見つけてくれる。その言葉を、僕が人へ渡す。
それで今日は、誰も石の下へ残らずに済んだ。
*
四日目の朝も、五日目の朝も、坂道の石の高さを確かめた。
夜に見張るのは成人の班で、僕たちは宿へ帰って眠った。昼の班へ渡す記録には、変化がなかった時間も書かれていた。
土台の隙間へ入れた石が落ち着き、支えがずれていないと二日続けて確かめてから、坂道の片側だけを開けた。
重い荷車はまだ通さない。歩く人も一度に固まらないよう、入口で案内する人が立つ。
最初に上ってきたのは、杖をついたおばあさんだった。
息をつきながら広場へ着くと、彼女は振り返って、坂を見下ろした。
「今日は、途中で座らずに済んだねえ」
僕たちはまだ、町を直せていない。
でも、遠回りせずに上ってこられた人がいる。
それを見ていたら、何本の柱を直したかより、先に胸が温かくなった。
その日の夕方、オルナさんは神殿への報告を大人の連絡員へ渡した。子どもたちは広場へ残り、ドルガラム様のいる地下へは行かない。
返事を持ち帰った連絡員は、泥の付いた靴のまま僕たちを探した。
「王様が、外の支えが一か所つながったとおっしゃった。だが、今夜は神殿へ来るなと」
僕はアインを見た。
白い相棒の耳が、通りの下を向いている。
「どうしたの」
『さっきから、石の落ちる音がせぬ』
静かなら、いいのではないかと思った。
そのとき、閉鎖した作業場の方から笛が長く鳴った。
僕たちは決めた通り、荷物を置いて鐘の下へ戻る。ベルンさんが僕たちをまとめ、オルナさんは見張りの報告を聞いた。
「小石が、床から離れた。落ちるんじゃない。上へ行った」
報告した人の指が震えていた。
遠くの囲いの上に、白い砂が見えた。
風に吹き上げられるような散り方ではなく、細い線のまま、まっすぐ空へ伸びていく。
僕はアインを抱き、広場の石畳を踏みしめた。
『ルカ。足を、離すな』
地面に立つことを、初めて命じられた。




