42話 まだ、その命を諦めない
石角兎は、僕たちではなく、自分の後ろ脚を噛もうとしていた。
首を曲げるたび、額の短い角が土へ刺さる。灰色になった脚が跳ね、その脚から逃げるように、残った三本で体を引きずった。
「近づくな。まだ、何に怯えているのか分からん」
ベルンさんの腕が僕の前へ伸びた。
僕は足を止めた。腕の中のアインも、兎から目を離さない。
助けたい。
でも、その気持ちだけで触ったら、昨日の魚と同じ間違いをする。
僕は握りかけた手を開き、まず、兎が息をしているかを見た。
*
上流へ向かう依頼を受けたのは、その日の朝だった。
前夜の報告を持ってきた見回りの二人が、支部の机に地図を広げる。水都から歩いて一時間ほどの川沿いで、草の色が薄れていたという。
川の水の異常が、そのまま陸へ広がったのか。
別のものが来たのか。
まだ、誰も答えを持っていなかった。
「調査は必要です。ただ、子どもを連れていく理由がありますか」
調査責任者の女性が、ベルンさんへ尋ねた。
机には僕たち四人の登録札が並んでいる。みんなCランクだ。けれど、僕とエリクはまだ十二歳で、町の外では大人の監督が要る。
「魚の動きを見分けたのは、この二人だ。俺も立ち会う。先へ出すためじゃなく、確かめたことを記録するために連れていく」
ベルンさんが僕とアインを見た。
「助けられると分かっているわけじゃない。判断できなければ退く。いいな」
「はい」
返事をしてから、僕は依頼票を読み直した。
発見地点の確認。異常の範囲の記録。危険があれば通行を止め、応援を呼ぶ。
討伐する数は、どこにも書いていなかった。
未知の異常を含むため、調査はC級指定。ただし、見回りが確認した道から外れず、それ以上の危険があれば中止する。
責任者はベルンさん。僕たち四人と見回りの大人二人、合わせて七人の名前と役割が記された。
ノエルは地図と記録。ミレアは体調と水の確認。エリクは縄と捕獲道具。僕はアインの言葉と、二人で感じた変化を伝える。
「俺の縄、使わなくて済む方がいいけどな」
エリクが背負い袋を揺すった。
「使わないなら、帰りの荷物を縛って」
ミレアが答える。みんなが少し笑い、僕もやっと肩を下げた。
出発前に、港へ寄った。
メルセリア様は舟溜まりの監視を続ける。取水口の板は閉じたまま、石柱の周りの縄も外されていない。
「魚と、同じようにできるでしょうか」
僕の問いに、王様はすぐにはうなずかなかった。
「呼吸の仕方も、体の大きさも違います。昨日、私が水を動かした場所を、そのまま真似してはいけません」
『分かっておる。まず、内側に残った動きを探す』
僕が訳すと、王様はアインへ手を差し出した。
白い前足が、その指に触れる。
「引き離す道筋を、あなた自身が選ぶことになります。選べないときは、選べないと伝えてください」
『うむ』
「できるって言うより、それを言う方が難しいよね」
僕が小さく言うと、アインは僕の手首へ鼻を押しつけた。
『ならば、二人で言えばよい』
その言葉を聞いてから、僕たちは出発した。
*
町を離れると、川の土手に細い道が続いた。
左は川、右は刈り取りを終えた畑。帰るときも同じ道を使う。ノエルが曲がり角の標石を地図へ写し、見回りの一人が道の先を確かめた。
途中で一度、腰を下ろした。
ベルンさんは左脚の具合を確かめ、僕たちも水を飲む。早く着けば助けられると、決まっているわけではない。
やがて、道の右側に白っぽい草が見えた。
掌を広げたくらいの場所から、灰色の筋が畑の端へ続いている。土も乾いていたが、右隣の草は緑のままだ。
大人が先に周りを見て、畑へ続く小道に縄を渡した。
僕たちはまだ色の残る土手側へ荷物を下ろす。
ポロはミレアの水筒から顔を出した。持参した飲み水は嫌がらない。だからといって、川全体が安全だと分かったわけではなかった。
「ここから先の水は、別に調べる」
ベルンさんが言い、ミレアも水筒の蓋を閉めた。
「動いた」
先に出ていた見回りの人が、手を上げた。
畑の端には浅い溝があり、その向こうで、石角兎がうずくまっていた。
ベルンさんは額の角と足跡を確かめ、低位の石角兎だと教えた。種類は知っていても、この個体が安全という意味ではない。
少し離れた草の中から、もう一匹が顔を出す。
そちらは小さく、毛の色も普通だった。大きい方が暴れると、溝の陰へ逃げる。
「小さいのを追い立てないで。道へ出たら、人にぶつかる」
ノエルが見回りの人へ伝えた。
大人の一人が道側へ回り、持ってきた板を立てる。もう一人は僕たちと畑の間に残った。
そこで、大きい兎が自分の脚を噛もうとした。
僕は思わず前へ出かけ、ベルンさんに止められたのだった。
兎の胸は上下していた。
鼻を動かし、小さい兎のいる溝へ顔を向ける。なのに灰色の後ろ脚は、反対側の白い草を蹴っていた。
『近くで確かめたい。だが、まだ触れるな』
僕はアインの言葉を伝えた。
ベルンさんが長い棒を斜めに構える。兎の前を塞ぐ盾ではなく、急に跳んだとき、僕たちとの間へ入れられる位置だった。
「アインは俺の横まで。ルカ、お前はその後ろ。エリク、退く道に縄を置くな」
「分かってる」
エリクは溝を避け、二枚の板を土へ立てた。その間へ、支部から借りた丈夫な網を広げる。
兎が人の方へ跳んでも、まず板にぶつかる。網を引く縄は、僕たちが帰る道とは反対側にまとめた。
僕はアインを地面へ下ろした。
白い相棒が二歩進み、耳を伏せる。
兎の鼻がそちらを向いた。
『お前を追うものではない』
僕への念話とは違う、短い共鳴が空気を震わせた。
兎がそれをどう受け取ったのかは分からない。でも、跳ねていた前脚が土をつかみ、体が一度止まった。
そのとき、灰色の後ろ脚だけが持ち上がった。
アインの尾が三本に広がる。
僕の胸へ、息を吸って吐く感覚が届いた。兎の鼻が動くたび、こちらにも小さな間ができる。
その間を無視して、脚の奥から速い引っ張りが来る。
『二つある。息に合わせる方と、勝手に引く方だ』
「兎自身の動きと、別の動きがあるそうです」
ベルンさんが兎の姿勢を見た。
「逃げる方へ、まだ自分で体を向けられる。昨日の説明でいう、入り込まれた初めの段階かもしれん。記録では虚蝕と分けている」
虚蝕。
初めて聞いた言葉を、ノエルが書き留めた。
僕には、兎が自分の脚と喧嘩しているように見えた。まだ自分で止まれるうちに、止める手伝いができないだろうか。
*
兎はもう一度、小さい方へ近づこうとした。
だが後ろ脚が強く地面を蹴り、体が僕たちの方へ跳ねる。
ベルンさんが棒の腹を角へ当て、向きを横へずらした。兎は板の間へ落ち、エリクが網の縄を引く。
網は胴を締めつけず、兎の周りで袋のように立ち上がった。
大人が長柄で網の縁を支え、ベルンさんが角の前へ板を入れる。兎は立てるが、僕たちへ飛びかかれない。
「胸は押さえてない。息もしてる」
ミレアが僕の横で言った。
網の下へ鼻を突っ込み、兎が逃げ道を探す。その鼻が止まるたび、後ろ脚がまた震えた。
『ルカ。水を少し、借りるぞ』
僕は訳し、ミレアが椀へ飲み水を注いだ。
ポロが縁で確かめたあと、アインはその水へ前足を触れさせた。
四本目の尾が、ふわりと広がる。
水が細い帯になって持ち上がり、網の隙間から兎の顎の下へ届く。口へ流し込むのではなく、外側の毛を濡らすだけだった。
『体の奥へは送らぬ。この水へ、出てくるものだけを受ける』
「兎に飲ませる水じゃないんですね」
僕が確かめると、アインは耳を動かした。
昨日は、王様がこの道を作っていた。
今日はアインが、水の幅も行き先も選んでいる。
『速い方をほどく。息の方は、残す』
僕の中にも、二つの揺れが届く。
僕は兎の鼻を見た。吸って、吐く。次の息が少し遅れた。
焦って引っ張り返しそうになり、掌を膝へ押しつける。
力を込めるのではなく、アインが感じた違いを一緒に見失わない。
『今だ』
兎の後ろ脚が止まった。
顎の下の水へ、細い黒い筋がにじむ。兎が咳をするように口を開き、筋が口の端から伸びた。
出たものが、濡れた毛へ戻ろうと曲がる。
アインは水を大きくしなかった。
細い帯の周りで、落ち葉がわずかに浮く。風が、兎から離れる方へ水の帯を押した。
黒い筋が毛に届く寸前、帯ごと横へずれる。
「容器へ来ます!」
僕が叫んだ。
見回りの人が、すぐ横に用意していた陶器の蓋を上げる。水の帯が中へ垂れ、黒いものが底へ落ちた。
蓋を閉める音がした。
その直後、僕の胸を引っ張る感じが消えた。
兎の後ろ脚が、もう一度動く。
僕は息を止めた。
今度は、前脚と同じ方へ土を蹴った。
網の中で向きを変え、鼻を上げる。溝の方から、小さい兎が顔を出していた。
二匹の鼻が、少し離れたところで同時に動いた。
『残ったぞ』
アインの声が届いた。
『こちらの命は、残った』
「うん」
返事が、うまく声にならなかった。
アインは僕の靴へ前足をかける。抱き上げると、四本だった尾が一本に戻った。
いつもの重みだった。
でも、白い相棒が胸を張ろうとして、僕の腕へ顎を預けた。その耳まで撫でると、まだ少し震えている。
「できたね。王様がいなくても」
『皆がおったからな』
僕は顔を上げて、その言葉を伝えた。
エリクはまだ網の縄を持っている。ノエルは小さい兎と退路を見ていた。ミレアが僕の手を取り、指が震えていないか確かめる。
ベルンさんと大人二人は、蓋を閉めた容器を外箱へ移し、兎の動きを見続けていた。
喜ぶ前に、やることが残っている。
それでも、兎の息をもう諦めなくていい。
僕は、アインの背中へ額をそっとつけた。
*
その場ですぐに網を開くことはしなかった。
後ろ脚の色は薄いままだし、足を引きずっている。中のものを出せても、傷んだ体まで元に戻ったわけではない。
小さい兎も追い回さず、板で人の道から離した。
見回りの一人が応援を呼びに戻り、残った六人は、異常な草から距離を取って待った。捕まえた兎には網の外から影を作り、容器は別の場所で大人が見張る。
僕とアインは、もう力を使わなかった。
今なら二匹目も、と聞かれても、できるとは答えられない。胸の奥が空っぽになったようで、水筒を持つ手にも力が入りにくかった。
「僕、魚と同じように引っ張ればいいと思いかけました」
ベルンさんに言うと、彼は僕の横へ座った。
「だが、今日は兎の息を見た」
「アインが、別々だって分かってくれたから」
「それを人へ伝えたのは、お前だ。見ていなければ、合図の早さも決められなかった」
僕は腕の中を見た。
アインは目を閉じている。でも僕が指を動かすと、前足で押さえた。
『褒めるなら、我が起きている間にせよ』
「起きてるじゃないか」
『起きておるうちに、と言ったのだ』
訳すと、エリクが口元を手で隠した。
笑っているのに、網をつかんだ手には赤い跡が残っていた。僕は自分だけが疲れたみたいに座っていたことが、少し恥ずかしくなる。
「エリク、手を見せて」
「擦っただけだって」
「擦ったなら、見る」
ミレアが言い、エリクは諦めて両手を出した。
昼前に、応援を呼びに戻った見回りの人が、成人の捕獲班を案内してきた。
兎と小さい個体の位置、網の張り方、回復を確かめる場所を引き継ぐ。捕獲班は二匹の観察を続けることにし、大きい方を網から広い運搬籠へ移した。小さい方は溝の出口を板で囲い、追い回さずに別の籠へ誘導する。僕たちはその作業まで立ち会った。
異物の容器も、蓋の印と変化を確認して渡した。箱に入れたから安全、と誰も言わなかった。
草の白い筋の先は、成人の調査班が別に確かめる。
僕たちは、七人で来た道を、七人で戻った。
*
支部で報告を終えるころには、窓の光が斜めになっていた。
僕の紙には、兎が自分で止まれたことと、アインが二つの動きを分けたことが書いてある。
ノエルの地図には、白い草と溝、二匹のいた位置。
エリクは網が胸を押さえない形を描き、ミレアは呼吸と、分離した後も脚の傷みが残ったことを記した。
調査責任者はそれを並べ、しばらく黙って読んだ。
「この話は、調査班の中で止めてください。魔獣の中へ異界のものが入ると広めれば、何でも憑かれていると言い出す人が出ます」
僕は紙から顔を上げた。
ベルンさんが椅子を引く。
「だから、違いを教える必要がある」
「助けられると聞いて、素人が灰喰いを捕まえたら? 今日の兎で成功したからと、もっと大きな魔獣へ近づいたら?」
声は厳しかったが、僕たちを見下しているようには聞こえなかった。
実際、僕だって昨日の魚と同じだと思いかけた。
でも、何も知らないままだったら。
「普通の兎まで、殺してしまうかもしれません」
僕の声に、女性がこちらを見た。
「色が薄いだけで、決めちゃう人もいると思います。僕も、違いを聞くまで分かりませんでした」
それ以上、うまく言えなかった。
みんなに全部教えたら安全になる、とも思えない。
ベルンさんが僕の紙を手前へ戻した。
「分離の手順を掲示しろとは言っていない。色だけでは決めるな。触るな、餌を与えるな。場所と動きを記録して支部へ知らせろ。少なくとも、それは今から伝えられる」
「異界由来という説明は、ほかの支部との確認が必要です」
「では、その確認を今日、送ってくれ。いつまで待たせるかも決めてほしい」
二人は、すぐには折れなかった。
僕たちは座ったまま、言葉が行ったり来たりするのを聞いた。怖い話を隠すことと、怖がる人を守ることは、同じではないらしい。
最後に、明朝から注意書きを掲示し、街道の見回りにも渡すと決まった。
色だけで討伐対象を決めないこと。近づかず、見た場所と行動を知らせること。救出できる例はあっても、誰でも安全に試せる方法ではないこと。
虚無種の正式な広報と分類は、王の証言を添えて他支部へ照会する。分離の実験は勝手に増やさない。
ベルンさんは送付先と控えを確かめた。
それで全員が同じ考えになったわけではない。でも、紙が机の引き出しにしまわれたままになることは、なくなった。
帰り際、エリクが僕の袖を引いた。
「俺たちの名前、ちゃんとあるぞ」
依頼票の役割欄には、四人それぞれの記録が付いていた。
僕だけでも、アインだけでもなかった。
『次は、我の名も大きく書かせよ』
「アインは僕の欄に、一緒に書いてあるよ」
『一緒なら、よい』
僕が訳すと、エリクが笑った。
そのとき、責任者が別の封書を手に戻ってきた。
「ベルン殿。北方の支部から、応援の照会です」
机へ広げられた紙には、町の下を通る坑道の図があった。
天井を支える柱。その何本にも、ひびを示す線が引かれている。
「毎朝、同じ場所を補修しているそうです。けれど夜になると、また裂ける。地下の土精霊も、戻ってこない個体がいると」
ベルンさんはすぐに受注せず、避難状況と現地の人数を尋ねた。
足元で、テトが小さく鼻を鳴らす。
眠りかけていたアインも、目を開いた。
僕は相棒を抱き直した。
今日、一本の脚が自分で動くのを見られた。
次の場所にも、まだ諦めなくていいものがあるだろうか。
紙に描かれたひびを見たまま、僕はアインの温かな背中へ、そっと手を置いた。




