41話 亀裂の向こう側
「魚だったんです。最初から、敵だったんじゃなくて」
メルセリア様の問いに、僕はそう答えていた。
これまで何と戦ってきたのか。聞かれたのは、そのことだったのに。
尾の欠けた魚が藻を食べたときの、丸い口が頭から離れなかった。
蒼海王は、僕の言葉を訂正しなかった。
「ええ。だからこそ、違いを確かめたいのです」
ベルンさんが建物の入口から椅子を運んだ。港の詰所で、戸口からは舟溜まりを見渡せる。僕たちは壁際へ座り、見張りの人が出入りする真ん中を空けた。
魚から取り出したものは、外の立入柵の奥に置かれている。蓋を閉めた容器を、食事の机へ持ってくる人はいなかった。
ミレアが、湯気の立つ椀を僕へ渡す。
「食べながら。説明だけして寝たら、明日また手が震えるよ」
「うん」
豆の入った汁を飲むと、思っていたよりお腹が空いていた。
アインには、味のついていないパンを小さくちぎった。
『我の話も、勝手に省くでないぞ』
「省かないよ。口に入ってるときは、ちょっと待って」
膝の上で、白い相棒がパンを前足で押さえた。
僕は古橋で出会った獣から話した。炎を飲み込んだこと。前足が触れた石から色が抜け、表面が崩れたこと。
井戸の水が使えなくなった村。領都を襲った群れ。
うまく言えないところはベルンさんが補い、エリクは敵を閉じ込めた場所を机に指で描いた。
「でも、灰色の鼠は違った。水を飲んだんだ」
エリクの指が止まる。
「俺たちが離れたら、そっと。今日の魚みたいに」
ベルンさんが鞄から、紐でまとめた記録の控えを出した。旅の途中で何度か見せてもらった、異常な魔獣についての束だ。
その中には、石切り場で捕まえた墓掘り鼠の紙もあった。
「呼吸がある。餌と水を取る。脅せば逃げる一方で、不意にほかの鼠を襲った。あのときは、病気なのか、外から何かを受けたのか判断できなかった」
僕も覗き込んだ。
紙の端に、格子の色が薄れた位置が描いてある。檻を調査員へ渡した日のことを思い出した。
「霧の村のロクもです。こっちに来ようとして、それから自分で足を止めました」
「魚は、頭と尾が別々の方へ動いていたわ」
ノエルが言った。
メルセリア様は控えを読み、外の容器へ目を向けた。
「私が昔見たものと、同じ特徴があります。自分の体を持たないものと、ほかの命の体へ入り込んだもの。あなたたちは、その両方に会っていたのですね」
僕は匙を置いた。
「体が、ない?」
「灰喰いの姿は、奪った力と周りのものを寄せ集めた、仮の形です。もともと狼や鼠として生まれた体ではありません」
「獣に見えても、魚と同じ体じゃないんですね」
「ええ。外側が似ていても、中で起きていることは違います」
僕は古橋を思い出した。
あれほど獣に似ていた。だから、生まれたときから獣なのだと、考えもしないで決めていた。
「では、魚から出たものも」
ベルンさんが尋ねる。
「ええ。あちらは、生きた魚の体を使っていました。魚自身が消えたわけではないのに、動きを奪っていたのです」
ミレアが椀を両手で包んだ。
「魚は、ずっと逃げようとしてたんですね」
誰も、すぐには返事をしなかった。
僕の膝でアインが顔を上げる。
『あの遅い揺れは、魚のものだった。引かずに残した方だ』
僕は相棒の言葉を伝えた。
メルセリア様がうなずく。
「今日、それを確かめられました。取り出したあとにも、魚の命は残った」
机の下で、握っていた左手を開いた。
あのとき魚ごと引っ張らなくてよかった。
できなかったから待ったことが、今になって少し怖くなった。
*
ベルンさんは紙を一枚裏返し、二つの丸を離して描いた。
一方に僕たちのいる岸、もう一方には何も描かなかった。
「別の生き物、というだけじゃない。こちらの世界にはないものだと?」
「はい。私が見た最初の侵入でも、境界の向こうから来ました。炎も水も、こちらと同じようには働かない場所から」
「海の、もっと向こうですか」
僕が聞くと、メルセリア様は首を横に振った。
「船で進める場所ではありません。あの水底で、石の先の景色が途切れていたでしょう。石が割れただけなら、下の土か水が見えるはずです」
採水班の人が見つけた、石柱の下の裂け目。
その先が、見えなかった。
「世界を隔てる境目が破れて、こちらへ入れる隙間ができているのです」
エリクが机の二つの丸を見比べた。
「隣町から来るんじゃなくて、俺たちのいる場所の外から?」
「そう考えてください。私も向こうのすべてを知っているわけではありません」
ベルンさんの指が、紙の端を押さえた。
「虚無種」
小さな声だった。
メルセリア様が顔を向ける。
「あなたは、その名を」
「昔の研究で使っていた。ヴォイド、とも呼んだ。世界の外から来たのではないかと考えたが、証明できなかった」
僕はベルンさんを見た。
知っていたのなら、どうして。
顔に出たのだと思う。ベルンさんは僕から目をそらさなかった。
「灰喰いを、普通の魔獣と同じように扱うなとは言ってきた。だが、俺の予想を答えとして教えるわけにはいかなかった。鼠の中へ何かが入っていたことも、あのときには分からなかったんだ」
「今は、分かったんですか」
「魚から取り出したものと、王の見たものが重なった。俺が足りないまま持っていた記録にも、続きができた」
ベルンさんは二つの丸の間に線を引いた。
「ただし、魚が何匹いるかも、この亀裂がなぜ開いたかも、まだ調べなきゃならん。名前がつけば全部分かるわけじゃない」
『名がなくとも魚は苦しんでいた。名を知った今は、違えず助ければよい』
僕が訳すと、ベルンさんは少しだけ眉を下げた。
「そうだな」
メルセリア様は、魔獣の中には力を蓄える魔核という器官があると教えてくれた。
魚から出たものは、その近くに絡みついていた。魚の力を使い、筋肉を動かしていたのだという。
「そのように、生きた魔獣が入り込まれている状態を、虚ろ憑きと呼びます」
僕は紙の隅へ、忘れないように書いた。
魚そのものの名前ではない。
助ける前とあとで、別の生き物になるわけでもない。
「では、色の薄くなった魔獣は、みんなそうなんですか」
ミレアの質問に、王は首を振った。
「体の外側から力を奪われただけの場合もあります。色だけでは決められません。自分で逃げ、餌を選び、仲間へ応じられるか。中に違う動きがないか。それぞれを確かめる必要があります」
灰色の脚で巣を離れた小さな魔獣たちまで、魚と同じだったとは限らない。
僕は書きかけた字の横に、色だけでは分からない、と足した。
「今の魚は、自分で体を動かそうとする力が残っています。もっと深く奪われていれば、今日と同じやり方では救えません」
ノエルが、足元のネロへ手を伸ばした。
「精霊も、体を取られるんですか」
「精霊は生き物の肉体を持ちませんから、同じことは起きません。ただ、力も記憶も、契約のつながりも傷つけられます。安全という意味ではないのです」
ノエルの指に、黒い子猫の額が触れた。
僕もアインを撫でた。眠そうに細めた銀色の目が、僕を見上げる。
『心配するな、とは言わぬ。明日も、よく見よ』
「うん。一緒に」
*
その夜は、話を途中で切り上げた。
王様が残るからといって、見張りを一人に任せることはできない。港の人たちは交代の相手へ網と容器の様子を伝え、僕たちは宿へ戻った。
翌朝、尾の欠けた魚は生きていた。
別にされた籠の底で藻をつつき、影が差すと少し離れる。夜の見張りの人からも、石柱へ向かって暴れることはなかったと聞いた。
僕は柵の向こうへ、小さく手を振った。
もちろん、振り返してはくれない。
「元気なら、それでいいよな」
エリクが言い、僕は笑った。
その日の作業も、休みを挟みながら一匹ずつだった。
大人が網籠で体を支え、メルセリア様が水を導く。僕とアインは、その前に魚自身の動きを探した。
昨日より、何を待っているのか分かった。
けれど、簡単になったわけではなかった。
昼前に籠へ入った一匹は、尾を動かさない。鰓だけが、かすかに開いていた。
アインの尾が四本に広がる。
『遠い。魚の動きが、ほとんど分からぬ』
僕の手首には、石柱へ向かう引っ張りだけが強く伝わった。
早くしないと。
昨日の魚も、横になりかけていた。
「今なら――」
言いかけると、白い前足が僕の親指を押さえた。
『待て。昨日に似ておるだけだ。魚まで引くかもしれぬ』
僕は唇を噛んだ。それから、まだ分けられないと声に出した。
メルセリア様は水を動かさず、網の持ち手へ指示を出した。
魚の腹が網の折れ目に当たっていた。港の人が籠を少し傾け、底を平らにすると、魚の鰓が大きく開いた。
押さえつけられて、息をしにくかったのだ。
ミレアがしゃがみ、魚の口と鰓を交互に見た。
「さっきより、動いてる。でも、まだゆっくり」
誰も次を急かさなかった。
やがて尾が一度、水を打った。
その瞬間、手首を引く感じとは違う、小さな揺れが胸に届く。
『そこだ。今度は、分かる』
「魚の方が分かりました!」
声に出すと、王様が僕たちの合図を待った。
アインが先に絡みついた動きを止める。僕はその瞬間を伝え、細い水の流れが魚の口から外へ通った。
黒ずんだ筋が出てくる。
それは魚へ戻ろうと曲がったが、アインの耳がぴんと立った。
『そちらではない』
僕にも伝わっていた二つの動きのうち、速い方だけが岸沿いへずれた。
王様が用意した別の容器へ水を送る。引っ張る感じが切れ、水の光が消え、大人が蓋をした。
籠に残った魚は、今度は自分で向きを変えた。
僕は息を吐いた。待っている間、肩を上げたままだったらしい。
「アインが、止めてくれたんです。僕、昨日と同じだと思って」
ベルンさんが僕の手を確かめた。
「分からないまま始めなかった。それも、できるようになったことだ」
白い相棒は僕の腕に戻ると、鼻先で掌を押した。
『褒めるなら、撫でてもよい』
「いつも撫でてるよ」
『今日は、多めでよい』
僕は両手で背中を包んだ。
エリクが笑ったのは、僕の言葉とアインの得意そうな顔を見たからだ。相棒の言葉を訳すと、もっと笑われた。
*
夕方までに、前日囲いへ入れた魚は、みんな回復を見るための籠へ移った。
全部が元気に泳げるわけではない。底で休む魚もいたから、すぐには放さなかった。取り出したものの容器は、蓋の印を確かめて大人が引き継いだ。
沈んだ舟には触れず、石柱の周りには新しく縄を渡す。
取水口の板も外さない。
魚を助けられたことと、水路へ近づいてよいことは別だった。
王様は支部の調査班と、亀裂の監視を続けることになった。魚へ使った水の流れで、世界の裂け目まで塞げるわけではないという。
「別の魚が来ないかも、見なくちゃいけないんだ」
僕が言うと、メルセリア様はうなずいた。
「あなたたちが眠っている間も。ここから先は、交代できる人たちと進めます」
僕はアインを抱き直した。
自分たちが去ったら終わりになってしまうのは怖い。でも、今日は引き継ぐ相手の顔が見えた。
ノエルが二日分の記録をまとめ、ミレアが魚の様子を書き足した。エリクは網籠の底が折れた場所を描き、持ち方を変えたことも残した。
僕の紙には、アインに止められたことも書いた。
ベルンさんは読み終えると、自分の鞄から別の小さな手帳を出した。
紐をほどく手が、途中で止まる。
「昨夜、言わずにいた続きがある」
僕たちは詰所の椅子へ座り直した。外では王様が見張りの人へ話しかけている。今ここにいるのは、旅をしてきた五人と相棒たちだった。
「俺も、昔、亀裂を見た」
ベルンさんが手帳を開いた。
紙は角が丸くなり、綴じ糸だけ新しかった。
「お前たちが十歳で旅を始めたころには、十八年前と数えていた事故だ。今は、二十年ほど前になる」
僕は手帳と、ベルンさんの顔を見比べた。
僕が生まれるより、ずっと前。
それでも、この人は今も持ち歩いていた。
「学院にいたころ、こちらのものでは説明できない現象を調べていた。そこで境界に裂け目ができた。どうして開いたのかは、今も全部は分かっていない」
「そのときに、灰喰いが?」
「似たものが出た。俺は人を外へ出そうとして、左脚をやられた。……出せなかった教え子もいた」
机の下で、ベルンさんの左足が少し動いた。
僕は何か言おうとして、言葉をなくした。
大丈夫だと言ったら、何が大丈夫なのだろう。
教え子は今も帰ってきていないのに。
「先生も、分からないまま逃げたんですか」
エリクが聞いた。
責める声ではなかった。自分ならどうしたのか考えているときの、低い声だった。
「ああ。何が起きたかも、どうすれば止まるかも分からなかった。残った記録で外から来たものだと主張したが、学院も神殿も認めなかった」
「だから、あの魚もすぐには決めなかったんですね」
「慎重でいたかった。だが、話すのを避けていたところもある」
ベルンさんは手帳を閉じなかった。
「お前たちは、もう同じものの前へ立っている。俺が嫌だからで黙っていていい話じゃなくなった」
アインが僕の膝から手帳を見た。
『ルカ。聞いておけ。我も、覚える』
僕はその言葉を伝えたあと、ベルンさんに言った。
「すぐに全部、分かるかは分かりません。でも、聞きたいです」
ベルンさんはうなずいた。
手帳には、床の印と、印から外れた線が描いてあった。僕には図の意味が読み取れない。
ただ、線の横の字は読めた。
〈向こう側から動く〉
僕たちが今日、魚から引き離したものは、確かに向こうへ戻ろうとしていた。
向こうには、ほかに何がいるのだろう。
そのとき、詰所の戸が開いた。
支部の調査員が、丸めた地図を抱えて立っている。
「ベルン殿。上流の見回りから報告です。水路の外でも、色の薄れた魔獣が見つかりました。人はまだ襲われていません」
ベルンさんは席を立ち、まず発見した場所と見回りの人数を尋ねた。
僕は追いかけず、膝の上を見た。
アインも僕を見ていた。
『魚とは違うかもしれぬぞ』
「うん。だから、ちゃんと確かめたい」
外で港の鐘が鳴った。
明日どうするかは、まだ決まっていない。
それでも僕の紙には、初めて書ける答えが一つ増えていた。
灰色になったからといって、まだ、その命を諦めなくていい。




