40話 蒼海王の鍵
尾の欠けた魚が、網の前で体をひねった。
戻りたいのか、逃げたいのか。
右へ泳ぎかけた頭が、不意に石柱へ向く。そのたびに、尾だけが反対へ水を打った。
魚の中で、違う二つのものが争っている。
そう考えると、さっきまで怖かった丸い口も、息をするため必死に開かれているように見えた。
「長くは話させません。まず、座って」
メルセリア様が、柵の内側の石段を示した。
僕たちは水路から離れず、乾いた段に腰を下ろした。後ろには通りへ戻る道がある。舟溜まりの入口では、港の人たちが網枠と、その外側に下ろした板を見張っていた。
板の下を通る水も細かな網を抜ける。魚は出られないけれど、水をすべて止めたわけではない。
ベルンさんが大人たちに声をかけてから、僕の隣にしゃがんだ。
「魚の様子が変わったら、話はそこまでだ。立つ前に俺へ言え」
僕はうなずいて、水筒を握り直した。
メルセリア様は、人の姿をしている。青銀の髪が肩から流れ、裾に触れた水滴が、音もなく水路へ落ちていった。
「あの白い子が、私から奪われた力を返してくれました。でも、魚の体に入り込んだものまでは離せなかった。そうですね」
「はい。アインにも、まだ分からないことがあるんです」
膝の上のアインが、僕の手に鼻を押しつけた。
『魚まで引けば、傷つく。中にあるものだけを選べぬ』
僕はそのまま伝えた。
「どれが魚の力で、どれが違うものなのか、うまく分けられないんだと思います」
蒼海王は、うなずいた。
僕は炎の精霊王から力の一部を返してもらったこと、風の精霊王に会って、動く力を前よりたどれるようになったことを話した。
上手には説明できなかった。
言い直すたび、アインが短く補い、ベルンさんは、実際に見たことと僕たちの予想を分けてくれた。
「では、あなたたちは、何者か分からないまま旅を?」
メルセリア様に聞かれ、僕は膝を見た。
アインの耳が少し下がっている。
「分かりたいです。でも、それが分かるまで、アインじゃなくなるわけではないので」
白い耳が、ぴくりと立った。
「僕の相棒です」
蒼海王はすぐには答えなかった。
舟溜まりへ目を向け、魚が一匹、底へ沈みかけてから泳ぎ直すのを見ていた。
「私も、すべて知っているわけではありません。ただ、先ほど、その子に応じて動いた力があります」
彼女は自分の胸に手を置いた。
「返してもらった力とは、別です。私が長く抱いてきたもの。なぜあの子を知っているのか、私にも説明できない。それでも、応じるかどうかは私が決められます」
僕はアインを抱く腕に、少し力を込めた。
王様がそう言ってくれても、知らないことがなくなったわけではない。
「メルセリア様が、弱くなったりはしませんか」
「危険がないとは約束しません。だから、いきなり全部を渡すようなことはしないのです」
彼女は手を伸ばした。
指先に、小さな水の粒が浮かぶ。
「触れなくてもいい。嫌なら、やめられます」
アインは僕を見上げた。
『ルカ。試したい』
「僕も。でも、痛かったら言って」
『お前もだ』
白い前足が、水の粒に触れた。
*
冷たい砂を踏んでいた。
さっきまで石段に座っていたのに、足の指の間を水が通る。
知らない浜辺だった。
空は暗い。けれど雨は降っていない。小さな波が引いたあと、砂の上で、何かが光っている。
拾おうとした。
そこで、自分の手が見えないことに気づいた。
これは、僕が今、見ている景色じゃない。
『置いていくな』
声がした。
アインのようにも聞こえた。でも、いつもより遠く、誰に言っているのか分からない。
波が寄せた。
光っていたものを、押し流すのではなく包むように。
胸がぎゅっと苦しくなった。なくしたくない。何をなくすのか分からないのに、それだけが分かった。
「ルカ」
肩に手が触れた。
僕は息を吸った。
目の前にはベルンさんがいた。靴も、ちゃんと履いている。足の下は乾いた石だった。
「戻ったか。今いる場所は」
「水路の横。みんなと、一緒です」
答えると、ベルンさんは僕の顔を見てから、肩の手を離した。
アインが僕の胸にしがみついていた。
「アインも、見た?」
『浜だ。……覚えておる。いや、全部ではない』
白い額が、僕の服をこすった。
『何かを、残したかった』
いつもの偉そうな声ではなかった。
僕は背中を撫でた。何を、と急いで聞くことはできなかった。
メルセリア様が、僕たちの手元を見る。
水の粒は、もうなかった。
代わりに、アインの尾の両側で白い光がほどけていた。
一本、また一本。
四本の尾が、僕の膝の上で開いた。
「増えた」
エリクが小声で言った。
僕はうなずいた。炎のあとに二本、風のあとに三本見えた尾が、今は四本ある。
目をこすっても、同じだった。
それは長くは続かず、やがて重なるように一本へ戻った。
『眠っていたところが、起きた気がする』
アインが、自分の前足を見つめる。
僕が伝えると、メルセリア様は静かに息を吐いた。
「私も、ここにいます。あなたに命令されるようになったわけでもない」
彼女の周りで、水滴がいつものように光った。
王様がアインの中へ入ってしまったのではない。
そのことに、ようやく肩の力が抜けた。
「これも、鍵なんですね。風の王様のときと同じで、アインの中にある力を使えるようにする」
「そう呼んでいるのなら、ええ。ただ、開いた先で何ができるかは、これから確かめなくてはなりません」
手の中に、鍵の形をしたものはない。
僕はアインの背を撫でた。毛の温かさは同じなのに、相棒が何かを思い出そうとすると、僕の胸にもかすかに寂しさが広がった。
『勝手に渡ったか』
「少しだけ」
『閉じるぞ』
その感じが引いた。
ずっと気持ちが混ざったままになるのではないらしい。僕はほっとして、アインもうなずいた。
「今の浜辺は、メルセリア様の思い出ですか」
「あなたが何を見たか、私は見ていません。私の記憶だと決めることもできません」
僕は口を閉じた。
分からないことが、また増えた。
けれどアインの前足は、僕の服をつかんでいる。今ここにいることまで、分からなくなったわけではなかった。
そのとき、網を見ていた港の人が手を上げた。
「尾の欠けたのが、横になりかけてる!」
僕は立ちかけ、ベルンさんを見た。
ベルンさんは水路を確かめてから、うなずいた。
「柵の内側までだ。足元を見ろ」
*
魚は、まだ動いていた。
けれど、尾を打つ間隔が長くなっている。
アインが、柵から鼻先を出した。
『ルカ。我が感じているものを、お前にも見せられるかもしれぬ』
「さっきの浜辺みたいに?」
『嫌ならやめる』
僕は息を整えた。
「少しだけ。苦しくなったら、すぐ言う」
前足が手首に触れた。
アインの背後で、また尾が四本に開く。今度は、水の中を見つめている間も消えなかった。
魚の姿が消えたわけではなかった。水面も、柵も、そのままだった。
その上に、違う動きが重なった。
鰓が開くたび、魚の腹の中で小さな揺れが広がる。
もう一つは、もっと細くて速い。腹の奥から伸び、石柱の下へ引かれている。魚が尾を振っても、そちらの動きだけは変わらなかった。
目だけで見ている感じではない。細いものが引かれるたびに、僕の手首までつんと引っ張られるようだった。
「違う。動く速さが、違うんだ」
口にすると、アインの耳が立った。
『同じ体にあっても、同じものではない』
僕は見えたことを、みんなに話した。
ベルンさんが石柱の位置を確かめ、メルセリア様は魚の息を見た。
「まず一匹。体を傷つけず、動きを抑えます。私の力を魚へ入れるのは、あなたたちが離せるところを見つけてからです」
「先に水の力を使うと、また食べられるから?」
「ええ。あなたが見分けられても、急に安全になったわけではありません」
港の人が、魚を運ぶときに使う網籠を持ってきた。
細かな網を張った浅い籠で、両端に長い柄がある。片側を水へ沈め、尾の欠けた魚の下へ、ゆっくり差し入れた。
別の人が板で進む方向を狭める。
魚が籠の中央に来たところで、上にも網を重ねた。水から引き上げず、岸寄りの浅いところへ運ぶ。口も鰓も、水の中にある。
エリクが、大人の立つ足場の端を指した。
「そこ、濡れてる。後ろに下がるなら、右の方がいい」
港の人は足を移し、別の人に柄を持ち替わってもらった。
ミレアは水筒を置き、いつでも僕に渡せるようにした。ノエルは僕たちの後ろに立ち、通りから見物に近づいた人へ、離れていてほしいと頼んだ。
僕が魚だけを見ていられるのは、ほかのところを、みんなが見てくれているからだった。
アインを抱いたまま、僕は柵の内側に膝をついた。
白い前足が、格子の間から伸びる。
魚には届かない。けれどアインの視線は、腹の奥から出た細い動きを追っていた。
『今なら、違いが分かる。だが、魚まで動く』
魚が暴れた。
網に尾が当たり、僕の肩も跳ねる。
「やめようか」
『まだ引いておらぬ。魚が、逃げようとしておる』
それを聞いて、僕は丸い目を見た。
戦いたいのではない。
逃げたくて暴れているのなら、押さえつけるだけでは、もっと怖いのかもしれない。
「持つ人を変えないでください。いったん、そのままで」
ベルンさんが僕の言葉を受け、港の人たちに頼んでくれた。
誰も近づかなくなると、魚の尾が少し静まった。
鰓が開く。
また、開く。
細い動きとは違う、魚自身のゆっくりした揺れが見えた。
「アイン。息をしてる方は、触らないで」
『分かっておる』
メルセリア様が片膝をついた。
「水は私が支えます。始めるとき、声で知らせて」
アインの言葉を、彼女も当然に聞いているわけではない。
僕は相棒の額へ、自分の額をそっと当てた。
『今だ』
「今です!」
石柱へ伸びていた動きが、一瞬だけ止まった。
魚の腹の揺れは止まっていない。
メルセリア様が指を動かす。籠の中に、細い水の流れができた。
魚の体を押しつぶす流れではない。口の前から籠の外へ、水だけがゆっくり通っていく。
僕の指先が冷えた。
思わずアインを強く抱き、すぐに力を緩めた。
『追うな、ルカ。我らの方へは引かぬ』
腹の奥に重なっていたものが、口の方へずれた。
水の中に、煤を溶かしたような細い影が出る。
その影だけが、石柱へ戻ろうとした。
アインの前足が震えた。
「まだ、つながっています!」
「見ています」
メルセリア様が、水の流れを岸沿いに曲げた。
ベルンさんの指示で、港の人が蓋のついた陶器の容器を、水の出口へ寄せる。魚を運ぶための水を汲む容器だ。
影を含んだ水が中へ入った瞬間、アインが低く唸った。
手首を引いていた感じが、ふっと切れた。
メルセリア様はすぐに指を下ろした。容器へ流れ込んでいた水が止まり、水面を動かしていた光も消える。
中に残ったのは、汲み入れた水と細い影だけだった。
「これ以上、私の力を近づけません。中身が動いても、蓋を開けて確かめようとしないで」
彼女の言葉に、港の人がうなずく。
王様の力で押さえ続けるのではない。離せた今のうちに、力を食べさせず、人も近づけないようにするのだ。
「蓋を!」
僕の声で、港の人が蓋を押さえた。
ベルンさんが受け取り、人の足に触れない場所へ運ぶ。中身が無害になったわけではない。誰も勝手に開けないよう、そばに見張りがついた。
僕は魚を見た。
まだ、横を向いている。
失敗したのかと思って、喉が縮んだ。
「待って。鰓を見てください」
メルセリア様が言った。
一度、ゆっくり開く。
もう一度。
尾が水を打った。
欠けた尾だった。さっきまで石柱へ引かれていた魚が、今は自分で体を起こしている。
網を外してもらうと、魚は籠の中を半周し、底についた藻へ口を寄せた。
「食べた」
エリクが言った。
僕には返事ができなかった。
魚は生きている。
倒さなくても、元の魚を残せた。
抱いていたアインの背に、顔を押しつけた。
『濡れるであろう』
「ごめん」
『……魚よりは、少ない』
笑ったら、また涙が出た。
*
次の魚に取りかかろうとすると、ベルンさんに止められた。
「手を見ろ」
指が、まだ少し震えていた。
アインも、僕の腕の中で目を細めている。
「できたことと、続けてできることは違う。今の魚を確かめる時間もいる」
悔しかったけれど、うなずいた。
ミレアが水筒を渡してくれた。エリクは隣に座り、ちぎったパンを半分よこした。
「俺、最後に魚が口を開けたとき、また噛みに来ると思った」
「僕も」
「藻、うまいのかな」
「魚には、たぶん」
少し離れた浅瀬では、救った魚を入れた籠を、港の人が見ていた。
ほかの魚とすぐ一緒にはしない。石柱のそばへ戻すこともしない。
まだ分からないことがあるから、見ていてもらう。
今度は、それが魚を閉じ込めて責めているようには見えなかった。
午後は休みを挟みながら、メルセリア様と一匹ずつ同じことを試した。
水を通す位置は、そのたびに王様が確かめてくれた。僕とアインだけで、同じことができるとは思えなかった。
すぐには離れない魚もいた。アインが迷ったときには中断し、大人たちが息の様子を確かめた。
日が傾くまでに、舟溜まりの魚を全部救えたわけではない。
それでも、籠の中で普通に泳ぐ魚が増えた。
町の小さな取水口は、閉じたままだ。沈んだ舟も、石柱の下の裂け目も、まだそこにある。
王様が力を貸してくれたからといって、水路そのものが直ったわけではなかった。
夕方、僕たちは見張りを港の人たちに任せ、温かいものを食べるため建物へ向かった。メルセリア様はその夜も水路に残ると言った。明日も休息を取りながら続ける約束をした。
歩きながら、アインが僕の腕をつついた。
『ルカ。あの浜が、まだ少し見える』
「怖い?」
『分からぬ。だが、一人で見たくはない』
僕は抱き直した。
「また見せて。疲れてないときに」
白い頭が、僕の胸へ収まる。
建物の入口で振り返ると、蒼海王は、蓋をされた容器を見つめていた。
僕たちが取り出したものを、ただの汚れを見るようには見ていなかった。
その目に気づいたベルンさんが、足を止める。
「知っているものなのか」
メルセリア様は、しばらく黙っていた。
「似たものを。けれど、同じだと決める前に、聞かせてほしいことがあります」
彼女が顔を上げた。
「あなたたちは、これまでに、どんなものと戦ってきたのですか」




