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属性なしのハズレ精霊に選ばれて追放された僕――白い相棒と旅に出たら、消えた属性が蘇り始めました  作者: ハッピーミラクルエンジョイ
六王巡礼と消える世界

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40/50

40話 蒼海王の鍵

尾の欠けた魚が、網の前で体をひねった。


戻りたいのか、逃げたいのか。


右へ泳ぎかけた頭が、不意に石柱へ向く。そのたびに、尾だけが反対へ水を打った。


魚の中で、違う二つのものが争っている。


そう考えると、さっきまで怖かった丸い口も、息をするため必死に開かれているように見えた。


「長くは話させません。まず、座って」


メルセリア様が、柵の内側の石段を示した。


僕たちは水路から離れず、乾いた段に腰を下ろした。後ろには通りへ戻る道がある。舟溜まりの入口では、港の人たちが網枠と、その外側に下ろした板を見張っていた。


板の下を通る水も細かな網を抜ける。魚は出られないけれど、水をすべて止めたわけではない。


ベルンさんが大人たちに声をかけてから、僕の隣にしゃがんだ。


「魚の様子が変わったら、話はそこまでだ。立つ前に俺へ言え」


僕はうなずいて、水筒を握り直した。


メルセリア様は、人の姿をしている。青銀の髪が肩から流れ、裾に触れた水滴が、音もなく水路へ落ちていった。


「あの白い子が、私から奪われた力を返してくれました。でも、魚の体に入り込んだものまでは離せなかった。そうですね」


「はい。アインにも、まだ分からないことがあるんです」


膝の上のアインが、僕の手に鼻を押しつけた。


『魚まで引けば、傷つく。中にあるものだけを選べぬ』


僕はそのまま伝えた。


「どれが魚の力で、どれが違うものなのか、うまく分けられないんだと思います」


蒼海王は、うなずいた。


僕は炎の精霊王から力の一部を返してもらったこと、風の精霊王に会って、動く力を前よりたどれるようになったことを話した。


上手には説明できなかった。


言い直すたび、アインが短く補い、ベルンさんは、実際に見たことと僕たちの予想を分けてくれた。


「では、あなたたちは、何者か分からないまま旅を?」


メルセリア様に聞かれ、僕は膝を見た。


アインの耳が少し下がっている。


「分かりたいです。でも、それが分かるまで、アインじゃなくなるわけではないので」


白い耳が、ぴくりと立った。


「僕の相棒です」


蒼海王はすぐには答えなかった。


舟溜まりへ目を向け、魚が一匹、底へ沈みかけてから泳ぎ直すのを見ていた。


「私も、すべて知っているわけではありません。ただ、先ほど、その子に応じて動いた力があります」


彼女は自分の胸に手を置いた。


「返してもらった力とは、別です。私が長く抱いてきたもの。なぜあの子を知っているのか、私にも説明できない。それでも、応じるかどうかは私が決められます」


僕はアインを抱く腕に、少し力を込めた。


王様がそう言ってくれても、知らないことがなくなったわけではない。


「メルセリア様が、弱くなったりはしませんか」


「危険がないとは約束しません。だから、いきなり全部を渡すようなことはしないのです」


彼女は手を伸ばした。


指先に、小さな水の粒が浮かぶ。


「触れなくてもいい。嫌なら、やめられます」


アインは僕を見上げた。


『ルカ。試したい』


「僕も。でも、痛かったら言って」


『お前もだ』


白い前足が、水の粒に触れた。


*


冷たい砂を踏んでいた。


さっきまで石段に座っていたのに、足の指の間を水が通る。


知らない浜辺だった。


空は暗い。けれど雨は降っていない。小さな波が引いたあと、砂の上で、何かが光っている。


拾おうとした。


そこで、自分の手が見えないことに気づいた。


これは、僕が今、見ている景色じゃない。


『置いていくな』


声がした。


アインのようにも聞こえた。でも、いつもより遠く、誰に言っているのか分からない。


波が寄せた。


光っていたものを、押し流すのではなく包むように。


胸がぎゅっと苦しくなった。なくしたくない。何をなくすのか分からないのに、それだけが分かった。


「ルカ」


肩に手が触れた。


僕は息を吸った。


目の前にはベルンさんがいた。靴も、ちゃんと履いている。足の下は乾いた石だった。


「戻ったか。今いる場所は」


「水路の横。みんなと、一緒です」


答えると、ベルンさんは僕の顔を見てから、肩の手を離した。


アインが僕の胸にしがみついていた。


「アインも、見た?」


『浜だ。……覚えておる。いや、全部ではない』


白い額が、僕の服をこすった。


『何かを、残したかった』


いつもの偉そうな声ではなかった。


僕は背中を撫でた。何を、と急いで聞くことはできなかった。


メルセリア様が、僕たちの手元を見る。


水の粒は、もうなかった。


代わりに、アインの尾の両側で白い光がほどけていた。


一本、また一本。


四本の尾が、僕の膝の上で開いた。


「増えた」


エリクが小声で言った。


僕はうなずいた。炎のあとに二本、風のあとに三本見えた尾が、今は四本ある。


目をこすっても、同じだった。


それは長くは続かず、やがて重なるように一本へ戻った。


『眠っていたところが、起きた気がする』


アインが、自分の前足を見つめる。


僕が伝えると、メルセリア様は静かに息を吐いた。


「私も、ここにいます。あなたに命令されるようになったわけでもない」


彼女の周りで、水滴がいつものように光った。


王様がアインの中へ入ってしまったのではない。


そのことに、ようやく肩の力が抜けた。


「これも、鍵なんですね。風の王様のときと同じで、アインの中にある力を使えるようにする」


「そう呼んでいるのなら、ええ。ただ、開いた先で何ができるかは、これから確かめなくてはなりません」


手の中に、鍵の形をしたものはない。


僕はアインの背を撫でた。毛の温かさは同じなのに、相棒が何かを思い出そうとすると、僕の胸にもかすかに寂しさが広がった。


『勝手に渡ったか』


「少しだけ」


『閉じるぞ』


その感じが引いた。


ずっと気持ちが混ざったままになるのではないらしい。僕はほっとして、アインもうなずいた。


「今の浜辺は、メルセリア様の思い出ですか」


「あなたが何を見たか、私は見ていません。私の記憶だと決めることもできません」


僕は口を閉じた。


分からないことが、また増えた。


けれどアインの前足は、僕の服をつかんでいる。今ここにいることまで、分からなくなったわけではなかった。


そのとき、網を見ていた港の人が手を上げた。


「尾の欠けたのが、横になりかけてる!」


僕は立ちかけ、ベルンさんを見た。


ベルンさんは水路を確かめてから、うなずいた。


「柵の内側までだ。足元を見ろ」


*


魚は、まだ動いていた。


けれど、尾を打つ間隔が長くなっている。


アインが、柵から鼻先を出した。


『ルカ。我が感じているものを、お前にも見せられるかもしれぬ』


「さっきの浜辺みたいに?」


『嫌ならやめる』


僕は息を整えた。


「少しだけ。苦しくなったら、すぐ言う」


前足が手首に触れた。


アインの背後で、また尾が四本に開く。今度は、水の中を見つめている間も消えなかった。


魚の姿が消えたわけではなかった。水面も、柵も、そのままだった。


その上に、違う動きが重なった。


鰓が開くたび、魚の腹の中で小さな揺れが広がる。


もう一つは、もっと細くて速い。腹の奥から伸び、石柱の下へ引かれている。魚が尾を振っても、そちらの動きだけは変わらなかった。


目だけで見ている感じではない。細いものが引かれるたびに、僕の手首までつんと引っ張られるようだった。


「違う。動く速さが、違うんだ」


口にすると、アインの耳が立った。


『同じ体にあっても、同じものではない』


僕は見えたことを、みんなに話した。


ベルンさんが石柱の位置を確かめ、メルセリア様は魚の息を見た。


「まず一匹。体を傷つけず、動きを抑えます。私の力を魚へ入れるのは、あなたたちが離せるところを見つけてからです」


「先に水の力を使うと、また食べられるから?」


「ええ。あなたが見分けられても、急に安全になったわけではありません」


港の人が、魚を運ぶときに使う網籠を持ってきた。


細かな網を張った浅い籠で、両端に長い柄がある。片側を水へ沈め、尾の欠けた魚の下へ、ゆっくり差し入れた。


別の人が板で進む方向を狭める。


魚が籠の中央に来たところで、上にも網を重ねた。水から引き上げず、岸寄りの浅いところへ運ぶ。口も鰓も、水の中にある。


エリクが、大人の立つ足場の端を指した。


「そこ、濡れてる。後ろに下がるなら、右の方がいい」


港の人は足を移し、別の人に柄を持ち替わってもらった。


ミレアは水筒を置き、いつでも僕に渡せるようにした。ノエルは僕たちの後ろに立ち、通りから見物に近づいた人へ、離れていてほしいと頼んだ。


僕が魚だけを見ていられるのは、ほかのところを、みんなが見てくれているからだった。


アインを抱いたまま、僕は柵の内側に膝をついた。


白い前足が、格子の間から伸びる。


魚には届かない。けれどアインの視線は、腹の奥から出た細い動きを追っていた。


『今なら、違いが分かる。だが、魚まで動く』


魚が暴れた。


網に尾が当たり、僕の肩も跳ねる。


「やめようか」


『まだ引いておらぬ。魚が、逃げようとしておる』


それを聞いて、僕は丸い目を見た。


戦いたいのではない。


逃げたくて暴れているのなら、押さえつけるだけでは、もっと怖いのかもしれない。


「持つ人を変えないでください。いったん、そのままで」


ベルンさんが僕の言葉を受け、港の人たちに頼んでくれた。


誰も近づかなくなると、魚の尾が少し静まった。


鰓が開く。


また、開く。


細い動きとは違う、魚自身のゆっくりした揺れが見えた。


「アイン。息をしてる方は、触らないで」


『分かっておる』


メルセリア様が片膝をついた。


「水は私が支えます。始めるとき、声で知らせて」


アインの言葉を、彼女も当然に聞いているわけではない。


僕は相棒の額へ、自分の額をそっと当てた。


『今だ』


「今です!」


石柱へ伸びていた動きが、一瞬だけ止まった。


魚の腹の揺れは止まっていない。


メルセリア様が指を動かす。籠の中に、細い水の流れができた。


魚の体を押しつぶす流れではない。口の前から籠の外へ、水だけがゆっくり通っていく。


僕の指先が冷えた。


思わずアインを強く抱き、すぐに力を緩めた。


『追うな、ルカ。我らの方へは引かぬ』


腹の奥に重なっていたものが、口の方へずれた。


水の中に、煤を溶かしたような細い影が出る。


その影だけが、石柱へ戻ろうとした。


アインの前足が震えた。


「まだ、つながっています!」


「見ています」


メルセリア様が、水の流れを岸沿いに曲げた。


ベルンさんの指示で、港の人が蓋のついた陶器の容器を、水の出口へ寄せる。魚を運ぶための水を汲む容器だ。


影を含んだ水が中へ入った瞬間、アインが低く唸った。


手首を引いていた感じが、ふっと切れた。


メルセリア様はすぐに指を下ろした。容器へ流れ込んでいた水が止まり、水面を動かしていた光も消える。


中に残ったのは、汲み入れた水と細い影だけだった。


「これ以上、私の力を近づけません。中身が動いても、蓋を開けて確かめようとしないで」


彼女の言葉に、港の人がうなずく。


王様の力で押さえ続けるのではない。離せた今のうちに、力を食べさせず、人も近づけないようにするのだ。


「蓋を!」


僕の声で、港の人が蓋を押さえた。


ベルンさんが受け取り、人の足に触れない場所へ運ぶ。中身が無害になったわけではない。誰も勝手に開けないよう、そばに見張りがついた。


僕は魚を見た。


まだ、横を向いている。


失敗したのかと思って、喉が縮んだ。


「待って。鰓を見てください」


メルセリア様が言った。


一度、ゆっくり開く。


もう一度。


尾が水を打った。


欠けた尾だった。さっきまで石柱へ引かれていた魚が、今は自分で体を起こしている。


網を外してもらうと、魚は籠の中を半周し、底についた藻へ口を寄せた。


「食べた」


エリクが言った。


僕には返事ができなかった。


魚は生きている。


倒さなくても、元の魚を残せた。


抱いていたアインの背に、顔を押しつけた。


『濡れるであろう』


「ごめん」


『……魚よりは、少ない』


笑ったら、また涙が出た。


*


次の魚に取りかかろうとすると、ベルンさんに止められた。


「手を見ろ」


指が、まだ少し震えていた。


アインも、僕の腕の中で目を細めている。


「できたことと、続けてできることは違う。今の魚を確かめる時間もいる」


悔しかったけれど、うなずいた。


ミレアが水筒を渡してくれた。エリクは隣に座り、ちぎったパンを半分よこした。


「俺、最後に魚が口を開けたとき、また噛みに来ると思った」


「僕も」


「藻、うまいのかな」


「魚には、たぶん」


少し離れた浅瀬では、救った魚を入れた籠を、港の人が見ていた。


ほかの魚とすぐ一緒にはしない。石柱のそばへ戻すこともしない。


まだ分からないことがあるから、見ていてもらう。


今度は、それが魚を閉じ込めて責めているようには見えなかった。


午後は休みを挟みながら、メルセリア様と一匹ずつ同じことを試した。


水を通す位置は、そのたびに王様が確かめてくれた。僕とアインだけで、同じことができるとは思えなかった。


すぐには離れない魚もいた。アインが迷ったときには中断し、大人たちが息の様子を確かめた。


日が傾くまでに、舟溜まりの魚を全部救えたわけではない。


それでも、籠の中で普通に泳ぐ魚が増えた。


町の小さな取水口は、閉じたままだ。沈んだ舟も、石柱の下の裂け目も、まだそこにある。


王様が力を貸してくれたからといって、水路そのものが直ったわけではなかった。


夕方、僕たちは見張りを港の人たちに任せ、温かいものを食べるため建物へ向かった。メルセリア様はその夜も水路に残ると言った。明日も休息を取りながら続ける約束をした。


歩きながら、アインが僕の腕をつついた。


『ルカ。あの浜が、まだ少し見える』


「怖い?」


『分からぬ。だが、一人で見たくはない』


僕は抱き直した。


「また見せて。疲れてないときに」


白い頭が、僕の胸へ収まる。


建物の入口で振り返ると、蒼海王は、蓋をされた容器を見つめていた。


僕たちが取り出したものを、ただの汚れを見るようには見ていなかった。


その目に気づいたベルンさんが、足を止める。


「知っているものなのか」


メルセリア様は、しばらく黙っていた。


「似たものを。けれど、同じだと決める前に、聞かせてほしいことがあります」


彼女が顔を上げた。


「あなたたちは、これまでに、どんなものと戦ってきたのですか」

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