39話 水を喰う魚群
魚の群れが、沈みかけた舟の下から飛び出した。
白い板の前を横切り、石段へ向かってくる。
メルセリアが手を上げた。
水面が盛り上がる。薄い壁になった水へ、先頭の魚が丸い口を押しつけた。
次の瞬間、壁の一部が崩れた。
穴から水が零れたのではない。そこだけ、立っていられなくなったみたいに落ちたのだ。
「上がって!」
水の王の声で、大人たちが石段を駆け上がる。
壁は残った部分で群れを横へ押し、すぐに普通の水面へ戻った。
魚たちは岸へ飛び上がらず、底へ向きを変えた。
僕は、柵から離れたまま息を止めていた。
王の力なら大丈夫だと、どこかで思っていた。
アインの爪が、ローブへ引っかかった。
『あれは、力を喰った』
◇
ベルンさんが、石段へ続く入口を閉じさせた。
怪我をした作業員は、もう建物の中で手当てを受けている。舟から逃れたもう一人も、今度は岸の上にいた。
水へ残っているのは、傾いた舟と、長い竿の先の白い板だけだ。
「水そのものを、飲んだんですか」
僕が尋ねると、メルセリアは首を振った。
「私が水を壁にしていた力が、あの口へ引かれました。あの魚が普段からすることではありません」
彼女は指先を曲げた。
震えてはいない。でも、平気だったから同じことを続けるつもりもなさそうだった。
「たくさん力を出したら」
「相手へ、たくさん渡すことになるかもしれません」
炎を飲み込んだ、古橋の獣を思い出した。
僕はアインの言葉を伝えた。
メルセリアは頷いたが、魚を灰喰いとは呼ばなかった。
「似ているところはあります。違うところも、見ておきたい」
◇
港の職員が、大きな板と巻いた網を運んできた。
最初の騒ぎで支部が呼んだ応援だった。通りを塞ぐ担当と、水路の設備を扱う担当が分かれて動く。
僕たちは町側の広場に残り、ベルンさんの後ろから説明を聞いた。
狭い水路は、奥で本流へつながっている。
途中、僕たちの左手には、舟を一台入れて荷を下ろすための四角い窪みがあった。三方が石壁で、一方だけ水路へ開いている。
魚はその入口と、石柱の下の割れ目の間を行き来していた。
「横の舟溜まりへ入れて、口を塞ぐ」
ベルンさんが板を指した。
「できるか」
水路の係が頷いた。
「板は補修用です。上から溝へ差せます。ただ、底に水を通す隙間が残る」
「そこへ網を重ねる。魚が抜けない目のものを」
水まで全部止めれば、別の場所で溢れるかもしれない。
だから水は通し、魚を止める。
エリクが、板の下端へ顔を近づけた。
「落とす途中で網を噛まない?」
係の人もしゃがみ、二人で溝の幅を確かめ始めた。
◇
すぐに囲えるわけではなかった。
網を木枠へ留め、板と別々に下ろせるようにする。その間に、水路の係が町側へつながる細い取水口を閉めた。
水の逃げ道は本流側に残っている、と彼はベルンさんへ説明した。
町じゅうの水を止めたのではない。この脇道から、魚が入り込む口を減らしたのだ。
僕は道具箱の蓋を押さえた。
何か手伝いたくて、頼まれる前に次の道具へ触りそうになる。
エリクが僕の手を軽く叩いた。
「それ、まだ使う釘」
「ごめん」
「蓋、頼む。風で閉まる」
僕は両手で押さえ直した。
今は、それが僕の仕事だった。
ミレアは休んだポロの顔を見てから、小さな皿を一枚だけ頼んだ。
舟溜まりの奥の水を、大人に採ってもらう。
ポロは縁へ寄り、尾を縮めなかった。
「今の水なら、さっきの底より嫌ではないみたい」
安全だと決めたわけではない。
それでも、魚を動かそうとする先が、もっと悪い水ではないか確かめる手がかりになった。
◇
板の準備を待つ間、ノエルが僕を呼んだ。
彼女は柵から離れた高い石段に立ち、水の中を見ていた。
「左の、尾の先が欠けた魚。ずっと見ていて」
白い板が岸の人に動かされ、魚の後ろへ来る。
一匹だけ、尾の上の端が短かった。
その魚は舟溜まりの方へ泳いだ。
口は閉じている。
けれど石柱の前を通ると、身体がびくりと曲がった。
尾が左を叩いているのに、頭は右へ引き戻される。やがて口を開き、ほかの魚と並んで王のいる岸へ向かってきた。
「さっきも、ああなった」
ノエルが言う。
僕はもう一度待った。
群れが底へ戻ると、その一匹はまた端へ離れようとした。
同じ魚なのに、逃げたいときと、襲いたいときがある。
「怖がっているのかな」
僕の声に、アインが耳を動かした。
『近づきたいだけの動きではないな』
◇
メルセリアは、港の職員から聞いた名前を教えてくれた。
「このあたりで、丸口魚と呼ぶ魚です。石についた藻を削って食べる水棲の魔獣。普通は、舟を引き倒そうとはしません」
どの位階なのかは、今の姿だけで決めなかった。
白い板の前へ来ると、横腹の鱗が見えた。
銀色の部分と、灰色に薄れた部分がまだらに混ざっている。
えらの蓋が動き、腹の小さなひれが揺れる。口の中には、短い歯が輪になって並んでいた。
水を吸って吐く、生き物の動きだった。
灰色だからといって、全部同じものではない。
「斬らないでと言ったのは、逃げようとしているからですか」
「ええ。人を守るために必要なことはします。でも、まだ別の方法があるなら、試したい」
その返事なら、僕にも分かった。
魚がかわいそうだから、人が水へ落ちても我慢するという話ではない。
アインを抱え直し、僕はベルンさんのところへ戻った。
◇
網の枠は、舟溜まりの入口へ下ろせる位置に吊られた。
押さえる縄は岸の杭へ回し、大人二人が扱う。手首には巻かない。
そのすぐ後ろに、補修用の板が待っていた。
僕たち四人は、入口から離れた町側の柵の内側にいる。背中の通路には、荷物を置かない。
エリクは係の人と、網が下りるときに使う留め具を見張る。
ノエルは魚が入口を通ったかを見る。
ミレアはポロと、水の変化を確かめる。嫌がったら、まず自分たちが離れる。
僕とアインは、群れへ逃げ道を伝えられるか試すことになった。
「言うことを聞かせるんじゃない」
ベルンさんが僕の目を見た。
「応じなければ、離れろ」
「はい」
丸口魚が人の言葉を理解するかも、僕たちは知らない。
アインの呼びかけも、届くとは限らなかった。
◇
最初に動いたのは、メルセリアだった。
舟溜まりの奥で、水面が静かに盛り上がる。
魚から離れた場所の水を少し動かし、入口を通る細い流れを作る。壁にして押し潰すのでも、魚へ直接力を流し込むのでもない。
岸の作業員が白い板を斜めに下ろした。
石柱の方は板で狭く、舟溜まりの方は開いている。
それでも、群れはすぐには動かなかった。
アインが僕の両手へ前脚を置いた。
『狭い方へ追い詰めるつもりはない、と伝える』
「うん」
白い身体の周りに、硝子の縁のような輪が広がった。
水の色は薄れない。
魚の先頭が、口を閉じた。
尾の欠けた一匹が身体をひねり、流れに沿って舟溜まりへ向かう。
「来た」
声が大きくなりそうで、僕は唇を噛んだ。
ほかの魚も、少しずつ間隔を空けた。
一つの塊だった群れが、別々の生き物に見え始めた。
◇
石柱の下が揺れた。
水面ではない。底の敷石の端が、向こうへずれたように見えた。
ポロが鋭く鳴く。
「離れて!」
ミレアの声と、魚が振り向くのはほとんど同時だった。
丸い口がいっせいに開く。
メルセリアが流れを止めた。
だが、水の中に残った細い光が、魚の口へ引き込まれていく。
銀色の鱗が灰色に沈み、尾が水を叩いた。
群れが白い板へぶつかる。
竿が、岸の大人の腕で大きくしなった。
「板は放していい!」
ベルンさんが叫んだ。
作業員が竿から手を離す。白い板は水へ倒れ、魚に押されて岸壁へ当たった。
僕たちも、決めていた線の後ろへ下がった。
アインの前脚は、まだ僕の手にある。
逃げたい。
そう思ったのは僕なのか、魚なのか、一瞬分からなくなった。
◇
群れの一部が、舟溜まりの入口へ突っ込んだ。
残った魚は石柱の前で回り、また後を追う。
ノエルが、大人へ手を上げた。
「まだ、外にいる!」
縄を持つ人が、網を下ろしかけて止める。
そのとき、一匹が板の端へ口を当てた。
短い歯で縁へ吸いつき、尾を振る。ほかの魚も同じ側へ重なった。
板が、水の下へ傾いた。
舟が引かれたときと同じ動きだった。
「ああやって、舟にも」
エリクが呟いた。
僕も頷いた。でも、さっきの舟の底を見たわけではない。
今、見えたことだけを覚えておく。
魚は噛みついた板を放し、今度は仲間同士でぶつかり合った。
逃げる向きが、揃わない。
奥へ入った魚まで、入口へ押し戻されようとしていた。
◇
『戻せるものがある』
アインが言った。
僕は白い耳を見た。
『あの者の水を立たせていた力だ。魚の口のそばに、まだ残っておる』
僕はメルセリアへ、そのまま伝えた。
「前に、喰われた力を戻したことがあります。でも、全部はできません」
ベルンさんが僕の隣へ来た。
「魚の中を無理に探るな。見えている、奪われた分だけだ」
アインが頷く。
メルセリアは、今は力を足さないと約束した。
彼女が手のひらを開く。
「私から失われたものが戻るなら、ここで受けます。あなたたちの身体へ通さないで」
帰る先が、すぐ隣にいる。
僕は肩の力を抜き、息を吐いた。
大きなものを全部戻そうとしたとき、アインは消えかけた。
あのときと同じことはしない。
「一筋だけ。苦しくなる前に止めよう」
『分かっておる』
◇
白い輪が、水の上へ伸びた。
尾の欠けた魚の口元から、隣の魚へ絡まっていた細い光がほどける。
その光は僕の指へ来ず、メルセリアの開いた手へ向かった。
水滴ほどの光が、彼女の指先で揺れた。
魚の泳ぐ速さが落ちる。
一匹だけではない。周りで重なっていた魚も、押し合うのをやめた。
「アイン、そこまで」
ベルンさんの声で、輪が止まった。
僕は息を吸った。
胸は苦しくない。手も温かい。
アインが、まだ水面を見ている。
『向こうへ行け。そちらは、ぶつからずに泳げる』
今度の呼びかけには、尾の欠けた魚が先に応じた。
口を閉じ、白い板の横を抜ける。
群れが、後を追った。
灰色の鱗は、銀色には戻らなかった。
アインが取ったのは、さっき王から奪った力の一部だけだ。魚をおかしくしているものまで、なくせたわけではない。
それでも、逃げようとする尾が水を押せるようになった。
その短い間を、ノエルは見逃さなかった。指で入口を示し、縄を持つ大人へ魚の位置を伝える。
僕は手を伸ばして魚を押したくなるのをこらえた。
行くと決めた魚の邪魔は、したくなかった。
◇
「最後の一匹、入った!」
ノエルが言った。
網の木枠が下りる。
途中で片側が止まった。
「左の紐、挟まってる!」
エリクが叫び、係の人へ留め具を指した。
上から垂れた余り紐が、木枠と溝の間へ入っていた。
魚が戻ってくる。
大人が枠を少し上げ、もう一人が長い鉤で紐を外す。
僕は歯を食いしばった。
燃やせばいいとは言わなかった。その紐を切れば、網の片側まで落ちるかもしれない。
エリクが両手を下へ向ける。
「抜けた。今!」
枠が水底へ着いた。
続けて板が下ろされる。
灰色の魚がぶつかったが、板は倒れなかった。
乾いた岸の上では、テトが杭の根元の石へ前脚を当てていた。継ぎ目の小さなひびが閉じ、揺れていた杭が止まる。
水の底の奇妙な割れ目を直したのではない。
みんなが引いている縄の、その足元を支えてくれたのだ。
◇
僕たちは、網を上げずに様子を見た。
舟溜まりの水は、下の網を通ってゆっくり動いている。
魚のえらも動いていた。
狭いところへ押し固めず、身体を曲げて泳げる場所が残っている。
でも、ときどき全員が同じ方へ頭を向けた。
石柱のある方だ。
そのたびに網が揺れ、少しすると魚はまた奥へ逃げようとする。
治ったわけではなかった。
僕はアインを胸へ抱いた。
白い身体は消えていない。尾もいつもの一本で、腕の中にちゃんと収まっている。
「ありがとう」
『礼は、あの魚が泳いでからでよい』
「もう、泳いでるよ。さっきみたいにぶつかってない」
アインは少し黙り、それから僕の親指へ鼻先を押しつけた。
◇
職員が網と板を見張り、別の班が本流側から魚が来ていないか確かめ始めた。
ここで見えた群れは囲えた。
それで町全部が安全になったとは、まだ言えない。
ミレアが、僕とアインの顔を順に見た。
「手、冷たくない?」
「大丈夫。少し、喉が渇いた」
彼女は飲用の水を渡してくれた。
ポロも水筒の口へ上がり、アインへ尾を振る。
ノエルが見取図へ、網を下ろした場所を書き足した。
エリクは、挟まった紐を短くまとめ直す大人を手伝っていた。
「一人だったら、間に合わなかったね」
僕が言うと、彼は顔を上げた。
「一人であんな板、持てるかよ」
確かに、その通りだった。
笑ったら、さっきまで固かった背中が少し緩んだ。
◇
メルセリアは、網越しに魚を見ていた。
「取り戻してくれて、ありがとう」
僕はアインの返事を待った。
『あれは、お前のものだった』
伝えると、王は静かに頷いた。
「そうです。でも、あの魚の中には、私から奪ったものとは別のものが残っています」
僕は水を飲む手を止めた。
「魚の気持ちじゃない、何かですか」
「少なくとも、泳ごうとする動きと、引き戻す動きは違う。あなたたちが見てくれたとおりです」
彼女は、捕まった魚へ強い水の力を当てなかった。
追い出そうとして、魚の命まで壊すかもしれないからだという。
ベルンさんが尋ねた。
「分ける方法は、あるのか」
「確かめたいことがあります。アイン、あなたが力を返したとき、私の内側にも応じるものがあった」
白い耳が立った。
僕の腕で、アインが王を見上げる。
炎の王の前でも、風の王の前でも、似たことがあった。
けれど今は、喜ぶより先に水の中を見た。
尾の欠けた魚が、石柱とは反対の方へ泳ごうとしている。
頭だけが、何度も戻されていた。
「あの子が、行きたい方へ行けるようになりますか」
僕が聞くと、メルセリアはすぐに約束しなかった。
代わりに、アインと僕の両方へ手を差し出した。
「あなたたちの話を、聞かせてください。助けるために何が足りないのか、一緒に確かめましょう」




