38話 一滴を見分ける者
三枚の白い皿を前に、ポロが真ん中だけを避けた。
左の縁へ寄り、右へ移り、真ん中へ顔を向けると、魚に似た尾を丸める。
ミレアはすぐに抱き上げなかった。
「戻る?」
差し出した水筒へ、青い身体が滑り込む。
机の向こうで、昨日の調査担当が口を開いた。
「瓶の印を覚えていたのでは」
「瓶は、こちらに隠してあります」
白髪の女性が、机の下の箱を示した。
僕たちからは、青い糸も、ほかの印も見えない。
彼女は紙に小さな丸をつけた。
「嫌がったのは、今朝も下の取水口の水ね」
ミレアの指が、水筒の口で止まった。
ポロの感じたことを、初めて誰かが一緒に確かめてくれた。
◇
朝、支部へ来たときには、昨日の四本の瓶が別の棚へ置かれていた。
今日は新しく採った水を使う、と白髪の女性が説明した。同じ採水班が同じ時刻に、水面近くと下の取水口から採ってきたという。
もう一つは、ポロが普段入っている水筒と同じ、飲用の水だ。
僕は、白い皿を覗き込んだ。
どの水も、底の小さな傷まで透けて見える。
見た目だけなら、全部飲めそうだった。
「口へ入れるなよ」
ベルンさんが言った。
「見ただけです」
「見ただけで分かることには、限りがある」
そう言って、ミレアの隣へ椅子を引いた。
彼女の顔を見るためでも、ポロの動きを見るためでもあるらしかった。
ポロは一晩休んで、朝には水筒の縁へ上ってきた。ミレアが嫌ならやめると伝えると、自分から机へ移った。
皿の中には入れない。水に触れず近くへ寄り、嫌がったら離す。
それが、今日の最初の約束だった。
◇
女性は皿を片づけ、汚れていない別の皿に取り替えた。
僕たちが後ろを向いている間に、水の並びも変える。
今度、ポロが避けたのは右だった。
「同じ場所の水です」
女性が自分の控えを開く。
ミレアが息を吐いた。
僕も、肩に力が入っていたことに気づいた。
「汚れがあるんですか」
調査担当に聞かれ、ミレアは首を傾げた。
「いつもの汚れとは違うみたいです。取り除きたいものがあるときは、もっと、こう……寄っていくので」
言葉を探しながら、指先を合わせる。
ポロは、その指へ尾を絡めた。
「何かが足りない。ソーン村の井戸のときに近いです。でも、同じ原因かは分かりません」
女性は頷いた。
「なら、分かったのは違いがあることまで。先へ進む場所は、そこから決めましょう」
真ん中の皿へ、何もかも答えが書いてあるわけではない。
それでも、町じゅうの水を片端から調べるより、進めそうだった。
◇
昨日、下位では量が足りないと言った男性が、水筒を見た。
「比較の補助を、お願いできますか」
ミレアはすぐには頷かなかった。
「ポロができるのは、少しずつです」
「はい」
「何度でも続けられるわけではありません」
「休む時間も取ります」
その返事を聞いてから、彼女はベルンさんを見た。
「私、やりたいです」
ベルンさんは、ポロの目と尾の動きを確かめた。
「今の量で区切る。嫌がる水へ押し込まない。それなら、俺もつく」
男性は依頼票へ、ミレアとポロの名を書き足した。
昨日の名簿全部が変わったわけではない。
それでも、今日は運ぶだけの欄ではなかった。
ミレアは紙を受け取ると、少し笑った。
僕はその横で、なぜか胸がいっぱいになった。
◇
岸へ向かう途中、エリクが囁いた。
「俺だったら、昨日のうちに言ってくれって言う」
「私も思ってる」
ミレアの返事は早かった。
「でも、今からなら一緒に調べられる」
エリクは頷き、水の入っていない道具箱を持ち直した。
僕も、昨日は怒っていた。
今は少しだけ、あの男性がちゃんと皿を見てくれたことを嬉しく思っている。
怒ったままでいることと、次の仕事を一緒にすることは、両方できるのかもしれなかった。
肩のアインが、僕の頬へ鼻先を寄せる。
『我も、皿を見ておったぞ』
「見てたね」
『違いは分からなかった』
僕は驚いて、白い顔を見た。
アインは大きな耳を動かした。
『あの小さいのが得意なら、任せればよい』
僕が訳すと、ミレアは水筒を持ち上げた。
「だって、ポロ」
青い尾が、得意そうにぴんと立った。
◇
調べる場所は、昨日の閘門の手前だった。
大きな扉の横に、幅の狭い水路が分かれている。扉を通る流れが強すぎるとき、水を逃がすための脇道だという。
今は舟を通さず、両岸の通路にも縄が張られていた。
僕たちは、町へ戻る道につながる広場にいる。
その一段下の作業台へ降りられるのは、採水班の大人だけだ。
白髪の女性が、折り畳んだ図を広げた。
下の取水口は、狭い水路の底に近い場所へつながっている。
「底沿いに、何か違う水が来ているかもしれません。採る場所を少しずつ変えてみます」
「ポロを泳がせて探すんじゃないんですね」
ミレアが聞いた。
「ええ。水の方を、ここへ持ってきます」
僕はそれを聞いて、少し安心した。
ポロが見つけられるからといって、ポロだけを暗い底へ送る話にはならなかった。
◇
長い竿の先に、小さな蓋付きの器があった。
岸の人が器を水へ下ろし、底近くで紐を引く。蓋が開いて水が入り、もう一度引くと閉じる。
上げるときに、別の場所の水が混ざりにくいようにする道具だという。
エリクは仕組みを聞くと、紐を目で追った。
「二本、間違えそうだな」
「開ける方だけ結び目を作ってある」
作業員が太い指で示す。
「暗いところでは、色より手で分かる方がいい」
エリクは自分の指でも結び目を触り、何度も頷いた。
僕は瓶を置く板を押さえる。
ノエルは、採った位置を図へ書く。
ミレアが感じた違いだけでなく、どこを調べたのかが分からないと、次に同じ場所へ戻れない。
昨日の四本を運んだときより、紙に書くことが増えた。
◇
ポロは水を、全部嫌がったわけではなかった。
扉のすぐ横から採った水では、皿へ鼻先を向けたままだった。
少し離れた底の水では、身体を低くする。
さらに横へずらすと、また尾が伸びる。
同じように見える水の中に、細い嫌な場所がある。
ノエルが図につけた印は、岸の石柱の前で重なった。
「ここばっかりだ」
僕が言うと、女性が作業員を呼んだ。
ポロは水筒へ戻り、今度は奥で休むことになった。
ミレアも椅子へ座る。
もう少しだけ、と誰も言わなかった。
◇
大人たちは、底を見るための箱を運んできた。
底に透明な硝子をはめた、浅い木箱だった。水面へ押し当てると、揺れる水面越しより底が見えやすくなるという。
作業員が小舟から覗き、もう一人が舟を岸の縄で支えた。
僕には箱の中は見えない。
岸の上で、返事を待つしかなかった。
「石の継ぎ目が開いてる」
やがて、舟から声がした。
ノエルが顔を上げる。
「どのあたりですか」
「石柱から真下。二枚目の敷石の端だ」
図に、新しい線が引かれた。
ポロが嫌がった水は、そのすぐ上から採られていた。
僕はミレアを見た。
彼女は、休んでいるポロへ小さく言った。
「見つかったよ」
◇
普通の石の割れ目なのかは、まだ分からなかった。
舟の作業員は、底が見えないと言った。
暗いから見えないのではなく、そこへ来ると硝子箱の向こうの形が、急に途切れるのだという。
ベルンさんが眉を寄せた。
「棒を入れるな。先に上がれ」
舟が岸へ寄せられる。
そのとき、ポロが水筒の底で身を縮めた。
「待って。さっきより嫌がってる」
ミレアが立ち上がる。
採った水は、もう蓋をして離してある。
皿のそばへ近づけたわけではない。
アインが、肩の上で耳を伏せた。
『下だ』
僕は足元を見た。
『舟の下から、来る』
水面に映った空の青が、舟の舳先のそばだけ薄くなっていた。
◇
ベルンさんが、全員に下がれと叫んだ。
僕は椅子を引こうとしたミレアの袖を掴む。
「椅子は後で!」
彼女が水筒を胸へ抱え、町側へ走る。
ノエルは退路に置いてあった箱を横へ押した。
岸の下では、作業員が小舟から石段へ足をかけている。
舟を引く縄が、一度緩み、それから急に張った。
舟が沖へ動いたのではない。
船縁が、下へ傾いた。
「縄、離せ!」
ベルンさんが言った。
けれど、岸の作業員の手首に、緩んだ輪が絡まっていた。
身体が柵へぶつかる。
僕の足も、止まった。
あの人まで、水へ引かれる。
◇
エリクが箱から道具を探した。
アインは僕の腕へ降り、張った縄を見た。
『我を近づけよ。手の方ではない。杭の横だ』
縄は作業員の手元から、岸の杭を回り、舟へ伸びている。
僕が行こうとすると、ベルンさんの腕が胸の前へ出た。
「そこから届くか」
柵の内側。乾いた石の上。
杭へ続く縄が、僕の手のすぐ先を通っていた。
アインが頷く。
「近いところだけなら!」
「やれ。人の手から離した側だ」
水へ火を向けるのではない。
僕は、縄と水面の間にある石の岸壁を見た。アインが火をつけるのは、その上の短い部分だけだ。
ベルンさんは作業員の腰を掴んだ。
僕は息を吸い、アインを両手で支えた。
白い尾の隣に、もう一本が現れる。
縄の毛羽に、小さな火がついた。
濡れた表面から湯気が上がる。
乾いた紐を切ったときより、遅い。
「アイン」
『動くな』
焦げた繊維が細くなり、ぱん、と切れた。
同時に、火が消える。
ベルンさんが作業員を後ろへ引き倒した。
切れた縄は柵の外を叩き、舟が石段から離れていく。
もう一人の作業員は、石段の上へ這い上がっていた。
◇
僕の手は、まだ縄を待っているみたいな形だった。
エリクが、その肘を引く。
「下がろう」
僕は頷いた。
アインを胸へ抱き、町へ戻る道まで離れる。
追いかけてくるものはなかった。
小舟は岸から離れたところで、片側を水へ沈めていた。
ベルンさんは作業員の手首を確かめ、ミレアに布を頼んだ。擦り傷から血は出ているが、指は動いた。
助かった。
そう思った途端、僕の膝が少し震えた。
アインの尾は一本に戻っていた。白い身体はちゃんと僕の腕にある。
「熱くなかった?」
『我より、お前の指を見よ』
僕は手を広げた。
火傷はなかった。
ただ、力を入れすぎて指が痛かった。
◇
「道具、間に合わなかった」
エリクの手には、小さな刃物があった。
僕は首を振った。
「僕のこと、引っ張ってくれた」
彼は刃をしまい、僕の腕を一度叩いた。
水面の青は、ゆっくり戻り始めていた。
だからといって、もう近づいていいとは誰も言わなかった。
作業を止め、通りの向こうから人が来ないよう、支部の職員が立つ。
ベルンさんは、舟を引いたものを見たかと作業員に聞いた。
「下から、何かが当たった。石に乗り上げたんじゃない」
僕には、何も見えなかった。
アインも、相手の姿まで分かったわけではないと言った。
水の下には、割れ目だけではない何かがいる。
そのことだけが、急にはっきりした。
◇
昼前、白髪の女性が一人の客を連れてきた。
青銀色の長い髪を、結ばずに背へ流した女性だった。
濡れた石の道を歩いてくるのに、裾には泥の跳ねた跡がない。
ポロが、水筒から顔を出した。
さっきのように尾を縮めず、すっと身体を起こす。
「朝から外港で調査しておられた方です。底の異常を見つけたと連絡したら、こちらへ」
白髪の女性が説明した。
客は封鎖の縄の前で止まった。
「怪我をした方は?」
「手当てを受けています。水へ落ちた者はいません」
ベルンさんが答える。
そこで初めて、彼女の肩がわずかに下がった。
僕たちを試すために、舟が沈むのを待っていた人ではなさそうだった。
◇
「水の違いを見つけたのは、あなたたちね」
青銀の髪の女性は、ミレアと同じ高さまで腰を落とした。
「その子に、近づいてもいいかしら」
ミレアはポロを見る。
青い尾が水筒の縁へ触れた。
彼女が頷くと、女性は指先を差し出した。
ポロは自分から、その指に鼻先を寄せた。
水筒の水面に、小さな輪が広がる。
その輪を見ていると、胸の奥が静かになる気がした。
アインも身を起こす。
テトはベルンさんの足元で、頭を低くした。
「私はメルセリア。海では、蒼海王と呼ばれています」
水の王。
僕は思わず、背後の海を見た。
あの向こうへ会いに行くつもりだった相手が、目の前にいた。
「支部の者も、外港で水の精霊たちへの呼びかけを確認しています」
白髪の女性がベルンさんへ伝えた。
ベルンさんはテトに目を落とし、それから王へ頭を下げた。僕たちを囲んでいた腕は、下ろさないままだった。
偉い人が来たから、急に岸が安全になるわけではなかった。
◇
「静海宮から、水精霊たちの異変を追って来ました。海でも、返事の弱い場所があったのです」
メルセリアは町の水路へ顔を向けた。
「今朝は、外港から続く流れを確かめていました。でも、町の中のこの場所までは、絞れていなかった」
大きな力があれば、どこで何が起きているか全部分かるわけではない。
僕は水筒の小さな顔を見た。
王が追ってきたものへ、ポロは岸から近づいていた。
「この子は、下位です」
ミレアが言った。
メルセリアは、少し不思議そうに首を傾げた。
「ええ。それで?」
ミレアは口を開き、それから閉じた。
後ろにいた調査担当も、何も言わなかった。
「一滴の違いを、私が見落としていた場所で見つけた。今日は、その話を聞きに来たのです」
ミレアの目が赤くなった。
彼女は水筒を抱え直し、今朝のことから話し始めた。
◇
説明を聞き終えた王は、僕の腕へ視線を移した。
アインと目が合う。
長い間に思えた。
「あなたは……」
白い耳が動いた。
『我はアインだ』
僕はその名を声にした。
メルセリアは、ゆっくりと繰り返した。
「アイン」
知らない名を確かめるようでも、忘れていたものを探すようでもあった。
でも、彼女はそこで答えを言わなかった。
「あなたの話も、聞かせてください。まずは、水の下を確かめてから」
ベルンさんが、子どもを潜らせるつもりはないと告げた。
王は頷いた。
「岸からできることを。私も、姿の見えないものへ力を注ぎたくはありません」
彼女が職員へ頼み、長い竿の先に白い板が結ばれた。
板を水へ沈めると、その前を小さな影が横切った。
一つではなかった。
銀色の鱗が光る。
魚だ。
丸い口を開いた群れが、板の向こうで急に向きを変えた。
その瞬間だけ、水面に映る空が薄くなる。
僕はアインを抱く腕へ力を入れた。
舟を引いたのは、この群れなのだろうか。
そして水の王は、群れを見つめたまま言った。
「あの子たちを、すぐに斬らないで」




