37話 水都支部の依頼
水の上を歩いているのかと思った。
馬車を降りて最初に渡った橋には、石の床の真ん中に細い溝があった。透明な水が流れ、橋の端から下の運河へ落ちていく。
その下を、小舟が通った。
僕は欄干へ近づきかけ、ベルンさんにローブの背を摘まれた。
「荷を置いてから見ろ」
背負った袋が、隣の人にぶつかりそうになっていた。
「すみません」
謝って横へ寄ると、エリクも同じように袋を下ろした。
「橋の上にも水があるのか」
僕も頷いた。
水の都と聞いていたけれど、こんなに水ばかりだとは思わなかった。
◇
リゼルを出て、西へ向かった。
支部で通行できる道と馬車の便を調べ、行き先を家族への手紙と転送先の控えに書いた。ベルンさんが責任者として同行することも、変わらない。
旅は三日かかった。
途中で一度雨に降られ、エリクの靴の中まで濡れた。アインの小さな風で一瞬に乾く、とはいかなかったので、宿で乾いた布を詰めて取り替えた。
着いた町の名は、セレナード。
西の海へ注ぐ川の河口に、石の島を繋ぐように家が並んでいる。
大きな舟が入る港は外側、町の中へ荷を運ぶ小舟は運河を通る。
僕たちの立つ橋からは、海が少しだけ見えた。
白い帆が、屋根と屋根の隙間を動いていた。
「あの向こうに、水の王がいるのかな」
僕が言うと、肩のアインが鼻を動かした。
『広いな』
王の場所が分かる、と言ったのではない。
僕と同じように、初めて見る海を眺めていた。
◇
支部へ行く前に、水売りの屋台で休んだ。
飲める水は、運河から汲めばいいわけではないらしい。
屋台の桶には蓋があり、柄杓は逆さに吊ってあった。
ミレアが水筒を出すと、ポロが青い顔を覗かせる。
屋台の女性は、少し驚いてから笑った。
「元気な子だね」
「いつもは、ここに入ってます」
ミレアが水筒を軽く持ち上げる。
「この町なら、水の精霊もたくさんいるんでしょう?」
女性は、通りの奥へ目を向けた。
石の水盤に、青い小さな塊が二つ並んでいる。
水の精霊らしかった。
けれど、どちらも動かなかった。
「前はね。昼間なら、このあたりを跳ねてたんだけど」
女性は桶の蓋へ手を置いた。
「このところ、眠る子が多くて」
◇
ミレアは、すぐ水盤へ手を伸ばさなかった。
誰の精霊か聞き、そばに座っていた男の人へ声をかけた。
精霊は二体とも、彼と連れの人の契約精霊だった。
昨日から呼びかけへの返事が弱いという。
眠っているという言い方が、急に違って聞こえた。
気持ちよく昼寝をしているのではない。
起きてほしいのに、起きないのだ。
「触らずに、少し近くで見てもいいですか」
ミレアが頼むと、男の人は頷いた。
ポロが水筒の口で揺れる。
丸い目が細くなり、尾が内側へ引っ込んだ。
ミレアの指が、水筒を握り直した。
「何か、嫌みたい。でも、何が起きてるかまでは分からない」
「治せるのかい」
男の人が身を乗り出した。
ミレアは唇を結び、それから首を振った。
「今は、分かりません」
僕は水盤の青い塊を見た。
ソーン村の井戸を思い出したけれど、似ているから同じだとは言えなかった。
アインも黙っていた。
引き寄せれば返せる力が、目の前に見えているわけではなかった。
◇
屋台の女性に教えられた支部は、二本の運河に挟まれた建物だった。
入口は地面の通り側にあり、反対側には舟をつける低い桟橋がある。
床には、濡れた靴で歩く場所と、乾いた書類を置く場所を分ける線が引かれていた。
エリクが自分の靴底を見た。
「ここ、俺はどっちだ」
「今は乾いてるでしょ」
ミレアが言って、少しだけ笑った。
受付で登録札を出す。
四人ともC。ベルンさんはA。
それを読んだ職員は、僕たちを依頼の机へ案内した。
札の文字を見てもらえたことが、ちょっと嬉しかった。
その気持ちは、長く続かなかった。
◇
机には、運河の地図が広がっていた。
青い線が何本も交差し、赤い丸が岸沿いに並んでいる。
支部の調査担当だという男性が、丸の一つを指した。
「水精霊の反応が弱くなった場所です。五日前の報告から増えています」
屋台で見た精霊だけではなかった。
町では上流から入る水と、海から戻る水が、時間によって混じり方を変えるという。
それで異常が運ばれているのか、それぞれ別の場所で起きているのかは、まだ分からない。
ベルンさんが地図を覗く。
「子どもへ何をさせる依頼だ」
「危険区画へは入れません。岸の指定地点で試料と記録を受け取り、こちらへ運ぶ補助です。中央水路の調査は、別の班が担当します」
その説明なら、僕にも分かった。
水の中へ潜る仕事ではない。
決められた場所で瓶を受け取り、どこから来た水か分かるように運ぶ。
ミレアが手を挙げた。
「少しの水を比べるなら、ポロもできます」
男性は水筒の口を見た。
「位階は?」
「下位です」
そこで、彼の手が止まった。
◇
「中央の調査班へは、上位の水精霊との契約者を集めています」
「中央へ入りたいと言ったのではありません」
ミレアは地図の、岸に近い点を指した。
「運ぶ前に、少量を比べられます。汚れの違いなら、見つけられるかもしれません」
「下位では、調べられる量が足りません。運搬をお願いします」
僕は、口を開きかけた。
あの井戸では、ポロが最初におかしいと気づいた。
そう言えばいいと思った。
でも、ミレアはまだ話していた。
「たくさん動かせないのは、分かっています。見分ける方を、試してもらえませんか」
男性は、机の端の書類を揃えた。
「今は人手が足りません。一人ずつ試験をする余裕もないのです」
僕は胸が熱くなった。
役に立つかどうかを見る時間がなくて、役に立たないと決めるのか。
言おうとしたところで、ベルンさんが先に口を開いた。
「得意なことを確かめず、位階だけで切るのか」
◇
男性は困ったように眉を寄せた。
「多量の水を扱える人から優先する方針です」
「大量の水を動かす作業なら、それでいい。細かな違いを見つける仕事まで同じにするな」
ベルンさんは声を荒らげなかった。
これまでの依頼記録を出し、後で確認するよう求めた。
ただし、その場でミレアの参加が認められたわけではない。
担当者は、運搬補助を受けるかどうか尋ねた。
僕はミレアを見た。
彼女は地図を見つめていた。
ポロが、水筒の縁へ前より低く沈む。
「少し、外で相談してもいいですか」
ミレアが言った。
僕たちは机から離れた。
◇
建物の横には、荷を待つ人用の長椅子があった。
ミレアは座ると、水筒を両手で包んだ。
「まただ」
小さな声だった。
診療所への弟子入りを断られた話を、僕は思い出した。
下位の精霊だから。
その一言で、できることまで見てもらえない。
「ポロが見つけたこと、僕も話す」
「うん。でも、ルカが怒鳴ったら、別の話になる」
怒鳴るつもりはなかった、と言おうとしてやめた。
さっきなら、たぶん大きな声になった。
「……じゃあ、何を言ってほしい?」
ミレアが顔を上げる。
「見たことだけ。私が一人で言ってるんじゃないって、分かるように」
僕は頷いた。
代わりに喧嘩をするより、そっちの方がよかった。
◇
エリクは、自分の登録札を膝へ置いた。
「Cになったら、もっと見てもらえると思ったんだけどな」
誰も、笑わなかった。
彼が仕掛けを動かしたことを、別の誰かの働きにされかけたのは、ついこの前だ。
札の文字が変われば、全部変わるわけではない。
「受けるの、やめる?」
ノエルがミレアへ聞いた。
「断ってもいいと思う。悔しいまま、無理に笑わなくていい」
ミレアは少し考えた。
通りの向こうで、水桶を運ぶ人が立ち止まっている。水盤の精霊を抱えていた男の人も、支部へ入ってきた。
彼女はその背中を見送った。
「運ぶ仕事は、必要だからやる。でも、ポロを調べる仲間に入れないって決めたことには、納得してない」
ベルンさんが頷いた。
「両方、伝えていい」
それでミレアは、ようやく立ち上がった。
◇
依頼は、ベルンさんの監督下で受けた。
中央水路へは入らない。指定された岸の道から外れない。精霊の反応や身体に変化があれば、すぐ作業を止める。
調査の担当外でも、気づいたことは記録して出していい。
その確認を、ベルンさんが加えた。
僕はソーン村で見たことを話した。
ポロが水の違いに気づいたこと。原因まで最初から分かったわけではないこと。
担当者は書き留めたが、調査班の名簿は変えなかった。
ミレアは、その紙が引き出しへ入るところまで見ていた。
無かったことにしないでほしい。
そう言わなくても、僕には分かった。
◇
瓶を運ぶ箱は、木の仕切りで四つに分かれていた。
今日回る受渡所は二か所。それぞれ二本ずつで、計四本だ。
すべて、先に現地の採水担当が採った水を受け取る。
僕たちが運河へ身を乗り出して汲む必要はない。
エリクが空の箱を持ち上げる。
「片側に二本先に入れると、傾くな」
彼は布を折って仕切りの隙間へ詰めた。
ノエルは行き先と瓶の印を、手元の紙へ写す。
ミレアはポロを水筒の奥へ戻した。
「この水へは入らないでね。何があるか、まだ分からないから」
青い尾が、一度だけ揺れた。
僕は箱を運ぶ順番を確かめた。
小さい仕事だと思っていたけれど、間違えれば、調べる人へ違う水が届く。
それは、思っていたより怖かった。
◇
最初の受渡所は、パン屋の裏にあった。
岸の石段は柵で閉じられ、その内側で大人の作業員が瓶の蓋を締めている。
水面には浮草が寄り、舟が通るたび、壁へ押されて戻った。
アインが鼻先を動かす。
『水の匂いが違う』
僕が訳すと、作業員は頷いた。
「海の水が入る時間だからな。臭いだけで悪い水と決めないでくれよ」
アインはむっとした顔をした。
『悪いとは言っておらぬ』
「違うって言っただけです」
訳し直すと、作業員は軽く手を上げた。
「そうか。悪かった」
知らない町では、知っているつもりで答えない方がいい。
僕も、アインも、今日は覚えることが多かった。
◇
二本の瓶を受け取り、ノエルが印を読み上げた。
場所と時刻が、作業員の控えと合う。
そのとき、橋の上から風が吹いた。
控えの紙がめくれ、机の端へ滑る。
作業員は瓶の蓋を押さえていて、手を離せなかった。
「紙!」
僕が声を上げるより早く、アインの三本目の尾が現れた。
紙の進む向きが、少しだけ変わった。
運河へ落ちず、机の脚に引っかかる。
僕はその端を掴んだ。
アインの風は止まった。
紙を自在に空へ飛ばして戻したのではない。落ちる前に、手が届く側へ寄せてくれたのだ。
「ありがとう」
僕が言うと、白い鼻が上を向く。
『持っておれ。次は知らぬぞ』
僕は笑って、紙を両手で渡した。
風が使えるようになったから、紙を押さえなくていいわけではなかった。
◇
次の受渡所は、海へ近い閘門の脇だった。
閘門というのは、水路を横切る大きな扉のことだとベルンさんが教えてくれた。
開け閉めして、水の高さを調節する。
扉の上には細い橋があり、僕たちはその手前の広場で待った。
右手が町へ戻る道。左手の階段は鎖で閉じられ、調査班以外は通れない。
そこから、水盤を抱えた女性が上がってきた。
中の水精霊は、指ほどの小さな身体を丸めていた。
ミレアが息を呑む。
女性は僕たちの水筒を見て、足を止めた。
「その子、まだ動けるの?」
ミレアは頷いた。
女性の顔が、ほっとしたように緩む。
羨ましそうでもあった。
僕は何を言えばいいか、分からなかった。
◇
二か所目の瓶を箱へ入れたとき、ポロが鳴いた。
短く、一度。
ミレアの手が止まる。
「こっち、少し離して」
彼女が指したのは、今受け取った二本のうち、青い糸を巻いた瓶だった。
エリクは箱を置き、瓶に触らず離れた。
ベルンさんが全員を岸から遠ざける。
「どうした」
「ポロが、こっちを嫌がってる。屋台の水盤のときより強い」
ミレアは水筒を胸へ抱いた。
「でも、瓶を開けてない。何が違うのか、まだ言えない」
僕は箱を見た。
四本とも透明で、砂が見える瓶もない。
僕には、同じ水にしか見えなかった。
◇
採水担当に伝えると、彼は控えを開いた。
青い糸の瓶だけ、扉に近い下側の口から採った水だという。
もう一本は、同じ場所の水面近く。
「塩の濃さが違うのかもしれない」
彼は言った。
ミレアは頷いた。
「そうかもしれません。だから、開けずに持ち帰りたいです」
知らないことを、無理に一つの答えへ決めなかった。
ベルンさんは、瓶を別の蓋付き箱へ分けるよう頼んだ。
元の印は外さず、ポロが反応したことと時刻を控えへ追加する。
試料は四本のまま。一本を別にしたから、増えたわけではない。
ノエルが二つの箱へ手を置き、運ぶ人を確かめた。
僕はポロへ近づけない方の箱を持った。
◇
帰り道、ミレアはあまり喋らなかった。
水筒の中で、青い尾が小さく動いている。
眠ってしまったわけではない。
それでも、彼女は何度も覗いた。
「私が役に立ちたいからって、無理させたくない」
ぽつりと言った。
僕は肩のアインを見た。
消えかけた白い身体を、思い出した。
「今日は、入れなかったよ」
「うん」
「見つけたことを届けたら、休もう」
ミレアは頷いた。
支部へ戻ったら、誰より先に正しかったと認めてほしい。
さっきまで僕は、そんなことも考えていた。
でも今は、ポロが明日も水筒から顔を出してくれる方が、大事だった。
◇
調査担当の男性は、別の箱を見て眉を寄せた。
ミレアは、起きたことを順に説明した。
瓶は開けていない。ポロを水へ入れていない。二本目の青い糸の瓶にだけ、強く反応した。
採水担当の控えと、ノエルの記録を並べる。
「下位精霊の感覚だけで、異常とは決められません」
男性が言った。
「決めてほしいのではありません」
ミレアの声が、少し震えた。
それでも、紙を引かなかった。
「ほかの瓶と分けて、確かめてください」
机の向こうで、別の職員が顔を上げた。
白髪を短く切った女性だった。
彼女は控えの場所を見て、棚から一枚の図を出した。
「この取水口、昨日も反応の弱い精霊が運ばれてきた岸の下ね」
部屋が静かになった。
それだけで原因が分かったわけではない。
でも、別々だった二つの話が、初めて同じ机へ載った。
◇
女性は、明朝の確認にベルンさんの立会いを頼んだ。
まず採った場所と時刻を揃え、小さな量で違いを調べる。
ポロを使うかどうかは、休ませた後の状態と本人の意思を見て決める。
中央水路へ入る許可ではない。
ミレアは、その条件を聞いてから頷いた。
依頼の机を離れると、エリクが小さく言った。
「ちゃんと、紙になったな」
ミレアは受領控えを見た。
そこには、彼女とポロの名があった。
笑うには、まだ少し悔しそうだった。
それでも、紙を丁寧に畳んだ。
◇
宿へ向かう橋の上で、僕は運河を見下ろした。
水面には灯りが揺れている。
あれほど綺麗に見えた水の、その下で何が起きているのだろう。
アインの尾は、一本に戻っていた。
『上から見えるものだけでは、分からぬな』
僕は頷いた。
今の言葉は、僕にだけ聞こえた。
エリクへ短く伝えられるようになっても、みんなとの話は、まだ僕が繋いでいる。
「アインも、水の下はまだ分からないって」
僕が言うと、ミレアは水筒を抱き直した。
「だから、明日、少しずつ確かめる」
青い目が、口から覗いた。
この町の水を全部動かせなくても。
一滴の違いを見つけられる仲間が、僕たちにはいた。




