36話 翼なき者の答え
フィンの背中から、白い翼が開いた。
外套を破ったわけではなかった。
肩の後ろに光の筋が重なり、それが羽の形になる。木陰へ伸びた翼の先が、地面の枯れ葉を一枚だけ押した。
僕はアインを抱えたまま、口を開けていた。
「会う方法を知ってるって、そういうことかよ」
エリクが言った。
フィンは、少し困ったように笑った。
「うん。先に名乗るべきだった」
風が、白い髪を持ち上げる。
「僕はフィレイン。天翔王と呼ばれている」
◇
救援の引継ぎが済んだ後だった。
僕たちは村へ戻らず、街道脇の木陰に集まっていた。応援の兵が見える距離で、通る馬車の邪魔にならない場所だ。
ベルンさんは、知らない相手について霧の中へ入るつもりはないと、先に伝えていた。
だからフィンは、ここで話し始めた。
翼を見ても、ベルンさんはすぐ膝をつかなかった。
「その名を信じる根拠を、聞かせてもらおう」
フィンは頷いた。
指先へ、小さな渦ができる。
テトがベルンさんの足元から顔を出し、ポロが水筒の口へ上がった。ノエルの影から、ネロの耳も覗く。
アインだけでなく、みんなの精霊が、同じ方を見ていた。
風の中へ、何かが届いた。
言葉ではない。
広い空の下へ急に出たような感じがして、僕は肩をすくめた。
ベルンさんがテトへ触れる。
「王の共鳴を、知っているのか」
テトの短い尾が動いた。
ベルンさんは長く確かめてから、フィンへ顔を戻した。
「話は聞く。だが、名乗りが変わっても、子どもを勝手に連れ出すな」
「分かってる」
風の王は、叱られた旅人と同じ顔で答えた。
◇
嬉しいより先に、胸が熱くなった。
「だったら、ロクを助けられなかったんですか」
口にすると、フィンの笑みが消えた。
村の人たちは、音のない霧の中で待っていた。
ロクは、自分の角を石垣へ押しつけていた。
そのそばに、精霊王がいた。
「僕たちがどうするか、見ていたんですか」
フィンはすぐには答えなかった。
「君たちを見ていたのは、本当だ」
喉が詰まった。
「でも、村をあの状態にしたのは僕じゃない。すぐ元へ戻す方法を知っていて黙っていた、ということでもない」
彼は霧の残る丘を見た。
「僕の風を力任せに入れれば、奪われる力を増やす。あの鹿の中へ風を通しても、傷つけずに元へ戻せるとは分からなかった」
王の力でも、灰喰いへ与えてはいけない。
ベルンさんから聞いたことと、繋がった。
でも、腹立たしさが全部消えたわけではなかった。
「それなら、分からないって、先に言ってほしかったです」
フィンが僕を見た。
「そうだね」
彼は翼を少し下げた。
「面白がって、説明を後にした。君たちが怒るのは、もっともだと思う」
◇
アインが僕の腕から身を乗り出した。
『分からぬなら、最初からそう言えばよいのだ』
僕が訳すと、フィンは頷いた。
そのままアインへ何かを返したらしい。白い耳がぴくりと動いた。
二体の間を、風が細く揺れる。
僕に聞こえないやり取りがあることを、少し寂しく思った。
けれどアインは、すぐ僕へ向き直った。
『懐かしいと言うておる。我には、まだ分からぬ』
「僕も、なぜ懐かしいのかは分からない」
フィンは僕たち全員へ聞こえる声で言った。
「君に会ってから、胸の奥にあるものが動く。炎の王にも、同じことがあった?」
僕はベルンさんを見た。
彼は、話す範囲を僕たちへ任せるように頷いた。
「鍵が、アインへ戻りました。でも、どうして王の中にあったのかは、分かりませんでした」
「やっぱり、似ている」
フィンは胸へ掌を当てた。
服の上に、緑の光が透けた。
鍵穴へ入れる鉄の鍵ではない。
細い輪がいくつも重なり、中心で、ほどけかけた糸のようなものが揺れていた。
アインの背が強張った。
僕の胸にも、遠くから名前を呼ばれたような感じが来た。
でも、何という名前なのかは分からなかった。
◇
「触れてみたい?」
フィンが尋ねた。
僕はすぐ頷きそうになった。
アインの力が戻る。
そのために、ここまで来た。
けれど僕が、アインの代わりに返事をしてはいけなかった。
「どうしたい?」
白い頭を見下ろす。
アインは光を見つめたまま、前脚を握るように動かした。
『欲しい、とは違う』
僕は黙って待った。
『置いてきたものを、迎えに行くような気がする』
その言葉を、フィンへ伝えた。
彼は目を細めた。
「僕の中でも、そう感じる。ただ、渡せば何でも解決するという約束はできない」
「王様が、いなくなるわけじゃないんですよね」
エリクが聞いた。
フィンは首を振った。
「少なくとも、僕自身を君へ吸い込ませるつもりはない。炎の王も、そこに残っているんだね?」
僕は頷いた。
ベルンさんが、その先を確かめた。
途中でやめられるか。場所に危険はないか。周りの人へ風が向かわないか。
フィンは一つずつ答え、光を小さくした。
ただし、まだ始めなかった。
◇
「最後に聞きたい」
フィンが言った。
「翼があれば、昨日、一人で蔵へ行った?」
僕は丘を見た。
空から行けば、道を探さなくて済む。
そう思って、すぐに迷った。
蔵へ着いても、九人をどう運ぶのだろう。
僕一人で、戸の前の板をどけられただろうか。
ロクが来たら。
アインの言葉を書いている間、誰が子どもを支えるのだろう。
「行きたいとは、思ったと思います」
僕は答えた。
正しい返事を、探すのはやめた。
「でも、一人で行っても連れて帰れないから。みんなに聞きます」
「誰かに止められたら?」
「嫌だと思うかもしれないです」
エリクが小さく笑った。
僕は少し頬を熱くした。
「でも、何が危ないのか聞きます。僕には見えていないこともあるから」
フィンは、僕の足元を見た。
翼はない。
土のついた靴が二つ、地面にあるだけだ。
「誰かに言われたから飛ばないのと、自分で戻る道を選ぶのは、違う」
彼はゆっくり頷いた。
「その答えなら、聞けてよかった」
◇
「僕は、ルカを試すために危険を作ったわけじゃない」
フィンは、もう一度言った。
「けれど、見ている側でいようとした。それは、僕の悪い癖だ」
ベルンさんが腕を組む。
「では、これからは何をする」
「この土地の風がどこで途切れているか、調べる。人を避難させる君たちと、分かったことを渡し合いたい」
命令する、ではなかった。
リゼルの支部へ説明し、現場を引き継いだ人たちにも、王の名で協力を申し出るという。
ベルンさんは、届け先を確かめた。
僕は少しだけ、胸のつかえが下りた。
王様だから全部できるのではなく、できることを教えてくれる。
その方が、僕には分かりやすかった。
アインが鼻先を上げる。
『ならば、我も選ぶ』
銀色の目が僕を見た。
『ルカと、先へ行く。そのために、返してもらおう』
僕は頷いた。
その返事は、僕が代わりに決めたものではなかった。
◇
兵たちへ作業を説明し、道から離れた草地に場所を空けた。
霧はここへ届いていない。
ベルンさんが僕の隣に立ち、エリクたちは数歩離れて見守る。
アインを地面へ下ろした。
白い前脚が、草を踏む。
フィンは膝をつき、緑の輪を掌の上へ浮かべた。
「近づけるよ。やめたくなったら、離して」
僕はアインの背へ指を置いた。
輪が、白い額へ触れる。
風が吹くと思って、僕は目を細めた。
けれど最初に起きたのは、音だった。
草を撫でる音。
木の葉が擦れる音。
さっきまで一つに聞こえていたものが、別々の場所から届いてくる。
胸の奥へ、冷たい空気を吸ったような気持ちよさが広がった。
『……ここを、知っておる』
アインの言葉と一緒に、見たことのない空が浮かんだ。
雲より高いところに、白い石の縁がある。
隣に誰かがいた気がする。
振り向く前に、その景色は消えた。
「アイン?」
『誰といたかは、思い出せぬ』
寂しそうな言葉だった。
でも、背へ置いた僕の指を、白い尾が軽く叩いた。
今はここにいる、と言われた気がした。
◇
二本目の尾が現れた。
その隣へ、もう一本。
三本目の先を、薄い緑の光が走った。
足元の葉が浮く。
僕の顔まで飛んできて、鼻へ貼りついた。
「ぶっ」
手で取ると、エリクが吹き出した。
緊張していた僕まで、笑ってしまった。
『今のは、予定と違う』
「分かってる」
緑の輪は、もうフィンの掌になかった。
彼自身は、そこに残っていた。翼も、顔も、声も消えていない。
「僕は大丈夫。君たちは?」
僕は足を踏み直した。
ふらつかない。息も普通に吸える。
アインの身体は温かく、薄れてはいなかった。
ベルンさんが目の動きと返事を確かめ、頷いた。
「いきなり大きく使うな。確かめるのは、小さいものからだ」
アインは胸を張った。
『分かっておる。まず、その葉を返せ』
◇
僕は葉を草の上へ置いた。
アインが尾を動かす。
葉は少し浮き、横へ滑り、裏返って落ちた。
人を運べる風ではない。
でも、誰かから奪われた力を返したのとも違った。
今、アインが風を作ったのだ。
「もう一回、できる?」
『無論』
今度は葉が、僕の靴の手前で止まった。
エリクが両手を叩く。
僕も、思わず同じことをした。
フィンが笑う。
「戻った力が、身体へ馴染むまで練習するといい。大きく出すだけなら、失敗も大きくなるからね」
アインは返事をしようとして、首を傾げた。
銀色の目が、エリクへ向く。
『笑いすぎである』
エリクの笑い声が止まった。
僕も、手を止めた。
「今、俺に言った?」
エリクがアインを指す。
僕はまだ、訳していなかった。
◇
ミレアとノエルは、何も聞こえなかったと言った。
ベルンさんにも届いていない。
アインがもう一度エリクを見る。
『エリク』
彼が肩を跳ねさせた。
「聞こえた。今、名前」
僕の胸まで嬉しくなった。
アインがみんなと話せる。
そう言いかけて、フィンが掌を上げた。
「一度に広げないで。今は、一人へ短く届いた。それを確かめよう」
アインは少しむっとしたが、頷いた。
僕には、これまでどおり言葉が届く。
そのほかに、エリクへ短い言葉を送れた。
長く続けようとすると、アインの尾が震えたのでやめた。
誰にでも、いつでも聞かせられるわけではない。
それでもエリクは、ずっと笑っていた。
「そんな声だったのか」
「僕が真似してたのと違う?」
「もっと偉そう」
アインが僕を見た。
『今の返事は、訳すでない』
僕は笑いをこらえた。
全部を訳さなくてよくなる日が、ほんの少し近づいた。
◇
帰る準備の途中で、エリクが紙を一枚広げた。
救援の荷物へ貼るための札だった。墨が乾くまで待っていたのに、上へ砂が落ちてしまったという。
指で払えば、文字まで擦れる。
エリクは紙の端を押さえたまま、僕を見た。
「アイン、これ、できそう?」
僕はそのまま尋ねた。
短い言葉をエリクへ送れたからといって、すべてのやり取りを任せられると決まったわけではない。
アインは札へ鼻先を寄せた。
『紙ごと飛ぶかもしれぬ』
「端、もう一つ押さえるよ」
僕が反対側へ手を置く。
三本目の尾が現れた。
細かな砂が動き、紙の角へ寄る。
そのまま草へ落ちた。
文字は残っていた。
「できた!」
エリクが札を持ち上げかけ、まだ乾いていないことを思い出して止まった。
僕たちは顔を見合わせて笑った。
風の力が戻ったからといって、墨まで一瞬で乾くわけではない。
それでも、前ならやり直すしかなかったことが、一つできた。
『見たか』
アインが僕へ言った。
僕が訳す前に、エリクは白い頭へ手を伸ばした。
「見たよ。ありがとな」
今の言葉が聞こえたのではない。
何をしてくれたかを、見ていたのだ。
アインは目を細め、撫でる手を避けなかった。
ミレアが隣で、残った水筒を数えている。ノエルは届ける札の枚数を確かめていた。
僕は紙が乾くまで押さえた。
新しい力を得た後にする仕事が、こんな小さなことでもよかった。
この手を離せるようになったら、みんなと帰れる。
そう思うと、待つ時間まで嬉しかった。
◇
リゼルへ戻ったのは、翌日だった。
救援の引継ぎを終え、帰る車両の手配がついてから出発した。道の途中で羽を広げて飛んで帰る、といったことにはならなかった。
アインは練習をやめると、いつもの一本尾に戻った。
僕の肩で眠る重さも、変わらない。
ただ、風が頬へ触れるたび、昨日の緑の光を思い出した。
村の霧は残っている。
ロクが治った知らせも、まだない。
フィンは支部への説明を済ませた後、風の途切れる場所を調べに戻ることになった。
「分かったことは、置いていく。君たちも、行き先を知らせて」
ベルンさんが連絡の方法を確かめる。
王と話せたから、仕事の引継ぎを省くわけではなかった。
僕は、そのやり取りを少し安心して聞いていた。
◇
三日後、支部で四人の名前を呼ばれた。
今回の救援と、これまでの依頼の記録を合わせた審査の結果だという。
アインの新しい尾だけを見て決めたのではなかった。
ベルンさんの報告、同行した巡回兵の確認。ハルデンから届いていた依頼の追記も、机にある。
エリクが身を乗り出した。
「俺の仕掛けのところも?」
担当者は、一枚を指した。
「ええ。操作した本人の実績として確認が取れています」
四人とも、Cへ上がった。
僕は新しい札を握り、指先で文字をなぞった。
嬉しくて、何度も見た。
その後で、町の外の仕事には今後も年齢に応じた監督が必要だと説明された。
「そこは、飛ばせないんですね」
エリクが言う。
ベルンさんは鼻で笑った。
「札の文字が変わっても、お前の歳は増えん」
僕たちは顔を見合わせた。
がっかりしたような、ほっとしたような気持ちだった。
◇
宿へ戻る道で、ミレアが港へ向かう案内札を見上げた。
次に捜すのは、水の王だ。
フィンは西方の海にいると教えてくれたが、会える日時まで決まったわけではない。
まずは港の町で、道と船を確かめる。
ポロが水筒の中で揺れ、ミレアが小さく頷いた。
僕は肩のアインを見た。
『今度は、どのような場所であろうな』
その声は、僕にだけ届いた。
「まだ分からない。でも、一緒に行こう」
エリクが先を歩き、ノエルが宿の角で振り返る。
僕は走らず、二人へ追いついた。
飛ぶための翼は、まだない。
でも、新しい風を連れて歩く足は、ちゃんと前へ進んでいた。




