35話 任せるということ
「ルカ。それ、今は書けないだろ」
エリクに言われて、僕は自分の手を見た。
右手に、報告用の紙。
左腕にはアインを抱えている。書くための板はノエルが持っていて、ペンは袋の底だった。
僕は、紙を折らないように持っているだけだった。
「先に、村の道を聞かないと」
「ノエルが聞いてる」
言われて振り返る。
灰色の髭の男の人が、ノエルの広げた地図へ指を置いていた。村の入口から、穀物蔵まで。曲がるところを一つずつ説明している。
僕がやらなくても、進んでいた。
ほっとするはずなのに、胸の奥が少し痛かった。
◇
足を怪我した女の人は、馬車でリゼルへ戻ることになった。
巡回兵の一人が付き添い、御者に町への連絡を頼む。出発した九人のうち二人が町へ戻り、助けた女の人も乗る。
髭の男の人は、ここに残ると言った。
「蔵への道は説明できます。ロクのことも」
ベルンさんは、すぐには頷かなかった。
水を飲んでも気分は悪くないか。歩いたとき足はもつれないか。
確かめてから、戦う場所へは出ないという約束で残ってもらった。
残るのは僕たち五人とフィン、巡回兵、それから男の人。八人だ。
馬車が行くと、道が急に広く見えた。
帰るための車輪までなくなってしまったようで、僕はつい下り坂を見た。
「走って追うなよ」
ベルンさんに言われ、首を振る。
「追いません」
「分かっている。戻る道は残っている。車がないことと、帰れないことは違う」
僕は道の先をもう一度見た。
曲がり角の向こうには、町へ続く土の道がある。
ただ、暗くなる前に何でも終わらせられるほど、近くはなかった。
◇
男の人が最後に蔵を見たのは、今日の午後だった。
村を出る途中、上の窓から白い布を振る人が見えたという。蔵には共同の飲み水と食べ物がある。でも、何人いるかも、怪我をしているかも分からない。
「朝まで待てるかどうかも、確かめないといけませんね」
ミレアが言った。
ベルンさんは頷いた。
「そのために、まず見る。全員で中へ走るのではない」
ノエルの地図には、蔵の裏側を通る畑道が加わっていた。
村の入口から行けば、霧を正面から通る。
畑道へ回れば、蔵の上窓が見える場所へ出られるはずだという。
ただし、そこまで霧が広がっていない保証はない。
ベルンさんは巡回兵と二人で確かめることにした。
残る僕たちには、道具を置いた場所から動かないよう言う。
フィンにも、見張りの位置と、危なくなったら下がる場所を指した。
「案内役の範囲を越えるな」
「分かった。ここで見てる」
フィンは軽く手を上げたが、いつものように冗談は言わなかった。
◇
僕はベルンさんへ、持っていく板を渡した。
縄、灯り、合図の布。
それを見ていると、忘れ物がある気がしてきた。
「僕も行けば、アインが何か見つけたとき」
「呼ぶ」
ベルンさんは言った。
「今は、俺たちが通れる場所を調べる」
「でも、途中で声が届かなくなったら」
「だから、板と縄を持つ」
彼は責める声ではなかった。
それでも僕は、口を閉じた。
アインの言葉を聞けるのは僕だけだ。
灰喰いを見つけたら。ロクがまた来たら。羽の欠けた精霊が苦しんだら。
僕がいない場所で何かが起きるのが、怖かった。
『ルカ』
胸元でアインが呼んだ。
『我も、ここに残るぞ』
「分かってるよ」
『ならば、その腕を少し緩めよ。窮屈である』
僕は慌てて力を抜いた。
アインは息をつくように鼻を動かし、僕の肘へ顎を乗せた。
守ろうとして、抱き潰しかけていた。
そのことが、さっきエリクへしたことと少し似ている気がした。
◇
日が沈む少し前に、二人は戻った。
畑道の途中から、蔵の上窓が見えたという。
こちらが布を振ると、中からも返事があった。
窓に出した板には、炭で大きく字が書いてあった。
〈九人。水あり。子ども三人〉。
怪我人がいるかという問いには、軽い擦り傷だけ、と返ってきた。
全員が元気という意味ではない。
それでも、息が苦しい人や、すぐ運ばなければならない人はいないと、中にいる人が確認してくれた。
「裏の出口を使う。だが、今夜は暗くなる。向こうも、灯りを隠して戸を閉じて待つと言っている」
ベルンさんは説明した。
蔵の正面には霧が溜まり、灰色のものが動いたそうだ。
水車小屋へ閉じ込めた一体だけではないかもしれない。
「窓へ返事は届いたんですよね」
僕が尋ねると、彼は頷いた。
「明るくなったら、また合図をする。待っている間、こちらも準備する」
僕は蔵のある方を見た。
ここからは木の枝しか見えない。
それでも、誰も来ないと思っている九人では、なくなった。
◇
夜は、霧から離れた街道脇で休んだ。
小屋の壊れた壁の下ではない。退く道が二方向に見える場所を、ベルンさんが選んだ。
子どもだけの見張り番は作らない。
ベルンさんと巡回兵が交代し、男の人とフィンがそれぞれ補助についた。僕たちは言いつけられた場所で、外套をかぶった。
エリクはまだ、縄へ短い木片を結んでいた。
明日、救助した人が握る目印だという。
「それ、僕もやる」
手を伸ばすと、エリクが縄を引いた。
「今、同じこと考えた?」
「何を?」
「俺がやるより、自分でやった方が早いって」
僕は首を振りかけた。
それから、やめた。
そう思わなかったとは、言えなかった。
エリクの指先は冷えていて、結び目を作り直していた。
僕なら、と思った。
「……少し」
答えると、エリクは唇を尖らせた。
「俺だって、結べるよ」
「うん」
「力が足りなかったら言う。アインにしかできないことなら、呼ぶ。だから、全部取るなよ」
僕は膝の上で手を握った。
役に立ちたかった。
それだけなのに、エリクの役に立つ場所まで、自分の物にしそうになっていた。
「ごめん」
エリクは結び目を引っ張った。
今度は、ほどけなかった。
「できた。見て」
彼が渡した縄を、僕は両手で引いた。
木片は動かない。
「大丈夫だと思う」
「じゃあ、ベルンさんにも見てもらう」
エリクは立ち上がった。
僕はその背中を、追わずに見送った。
◇
朝、畑道はまだ使えた。
ベルンさんと巡回兵が先に確かめ、蔵へ合図を送る。昨夜の九人は揃っていて、戸の内側に積んだ袋を動かしているところだった。
救援の馬車は、まだ来ていない。
リゼルまで半日ほどの道を戻り、人を集めて往復するのだ。夜のうちに急に現れるわけではなかった。
「ここへ出てきてもらえれば、車を待てる」
ベルンさんが指したのは、蔵の裏手から下る畑道の途中だった。
道が広くなった乾いた場所で、霧は届いていない。
先にそこへ、水と毛布を運ぶ。
子どもや疲れた人を休ませる場所だ。
ミレアが水を受け持ち、ノエルが道の曲がり角へ目印をつける。
エリクは、握る木片のついた縄を広げた。
ベルンさんに点検してもらった結び目を、もう一度引く。
僕はアインを抱えて待った。
手を出せる仕事は見えた。
でも、出してほしいとは、まだ誰も言っていなかった。
◇
蔵の裏口には、小さな庇があった。
畑道はその前を通り、左へ曲がって下り坂になる。右側には、収穫を終えた畑と低い柵。
僕たちの休ませる場所は、左へ下った先だった。
正面の通りは見えないが、屋根の向こうから白い霧が流れ込んでいる。
ベルンさんと巡回兵が、裏口の両脇についた。
僕とアインは曲がり角の手前。後ろへ下がれば、ノエルの姿が見える位置だった。
中から戸が押された。
少し開いて、止まる。
隙間から手が出た。
庇から外れた板が斜めに落ち、戸の外側へ引っかかっている。内側から強く押せば、板ごと足元へ倒れそうだった。
ベルンさんが腕を交差させる。
中の人の手が止まった。
巡回兵が板を押さえ、ベルンさんは庇の残りを見上げた。
支えの一本から、細い縄が垂れている。
板はそれに引かれて、浮いたままになっていた。
僕は昨日の水車小屋を思い出した。
アインの火で、縄を切れば。
『待て。あれを切れば、上も落ちる』
アインが言った。
僕は口を閉じた。
昨日できた方法だから、今日もできると思ってしまった。
ベルンさんも同じところを見ていた。テトに根元の地面を確かめさせ、支える棒を入れる位置を決める。
エリクが、後ろから棒を渡した。
僕は火を出す話を、しなかった。
◇
板が外へずらされた。
裏口が、ようやく人の通れる幅になる。
最初に出てきた大人が、木片のついた縄を握った。
続いて子どもが二人。
小さな子は、縄へ手を伸ばしても届かず、大人が腰をかがめた。
僕はそちらへ動きかけた。
ノエルが坂を上がり、その子の目の高さへ手を下ろす。
「こっち。ゆっくりでいいよ」
まだ声が届く。
そのことに安心した直後、畑の向こうで柵が揺れた。
ロクだった。
青い布のついた角が、柱の間へ見える。
右肩の灰色は、昨日のままだった。
村の男の人が、休ませる場所から一歩出かける。
ミレアが腕を掴んだ。
「今は、ここから!」
男の人は止まり、両手を大きく広げた。
ロクが顔を上げる。
次の瞬間、前脚が柵を蹴った。
声が途切れた。
霧が、裏口の角を回ってきた。
◇
僕は書き板を持ち直した。
アインの言葉を、みんなへ届ける。
今はそれを、僕がやる。
『ロクは、あの男へ行きたがっておる。だが、身体が逆らう』
僕は短く書いた。
〈男の人へ行きたい。勝手に脚が動く〉。
ベルンさんが読み、頷く。
ロクを人の列へ近づけるわけにはいかなかった。
でも、正面から追い詰める必要もない。
巡回兵が盾を持って畑側へ出た。逃げる道を全部塞がず、人の通る側にだけ立つ。
ロクの角が盾へ向いた。
僕は息を呑んだ。
アインが腕の中から身を起こす。
『我を見るのだ』
白い耳がまっすぐ立った。
僕へ言葉が届いた後、胸の奥へ違うものが来た。
走りたいのに、脚が自分のものではない怖さ。
人の匂いへ近づきたいのに、近づけば傷つけてしまう怖さ。
アインがロクへ、敵ではないという気持ちを返している。
けれど、それだけで灰色が消えることはなかった。
ロクは柵の柱へ肩を押しつけた。
前へ出る脚を、身体の重さで止める。
アインの前脚が、僕の袖へ食い込んだ。
『長くは止まれぬ。人を通せ』
僕は書き板へ、大きく書いた。
〈今なら通れる〉。
◇
エリクが縄を引いた。
逃げる人の身体を引くのではない。握る目印がどちらへ続くか、揺らして見せる。
ノエルは曲がり角で腕を上げる。
ミレアは、その先で子どもを受け取った。
僕は人数を数えかけて、やめた。
数える係はノエルだ。
僕が同じ場所を見ていたら、アインから来る言葉を落とす。
『あと少し、右へ離せ』
右は、僕から見た右だろうか。
一瞬分からなくなり、アインの目を追った。
ロクの角が、巡回兵の盾の縁へ引っかかりそうになっている。
僕は盾を指し、その次に畑の空いた方を指した。
巡回兵が半歩ずれる。
ロクの角が外れた。
見えている場所を示せば、伝わった。
最後の大人が裏口を出たとき、庇が震えた。
ベルンさんが支え棒を残したまま、こちらへ下がる。
巡回兵も後ろへ歩いた。
アインの身体から、力が少し抜けた。
『終わりだ、ルカ。我を抱け』
僕はアインを胸へ戻した。
ロクが畑の奥へ跳ねた。
人へ向かう代わりに、土を蹴った。
角の青い布が、霧の向こうへ消える。
追いかけなかった。
助けられたと、言うこともできなかった。
でも、誰かを傷つけるところを、今日も見ずに済んだ。
◇
霧の外へ出ると、子どもの泣く声が聞こえた。
怖かった、と大きな声で泣いている。
ミレアがしゃがみ、背中へ毛布をかけた。
ノエルが指を折って確かめる。
「蔵から九人。大人六人、子ども三人。こっちの八人もいる」
十七人。
昨日町へ戻った三人は、ここには数えない。
僕はその返事を聞いて、やっと膝へ手をついた。
フィンが水筒を差し出す。
彼は途中から休ませる場所で、ミレアに頼まれた毛布を広げ、来た人を道の外へ誘導していた。
勝手に霧の中へ飛び込んではいなかった。
「飲める?」
「はい」
一口飲んだら、喉がひどく乾いていたと分かった。
アインは僕の膝へ丸くなった。
白い身体は薄れていない。
けれど、いつもなら胸を張るところで、今日は目を細めていた。
「疲れた?」
『うむ。あやつは、ずっと踏ん張っておった』
「アインもだよ」
『それは、そうである』
僕は笑い、ゆっくり背を撫でた。
炎を出していなくても、アインが道を守ってくれたことを知っていた。
◇
昼を過ぎてから、救援の馬車と応援の兵が来た。
町へ戻った巡回兵が案内している。足を怪我した女の人は、リゼルで手当てを受けていると教えてくれた。
僕は、馬車から降りた人まで数え直そうとして、ベルンさんへ肩を叩かれた。
「こっちの引継ぎは俺がする。お前たちは食え」
ノエルの記録が渡された。
水車小屋の灰喰い。蔵の正面で見えた灰色のもの。畑へ離れたロク。
見た場所も、まだ確かめていないことも、別々に書いてある。
村を取り戻したわけではない。
霧も残っている。
ここから先の見張りと、村にほかの人がいないかの確認は、応援を含めた大人たちが引き継ぐことになった。
僕たちが救った人は、帰る馬車へ乗る。
男の人は乗る前、畑の方を見た。
「ロクを、頼みます」
ベルンさんは、必ず治すとは言わなかった。
「見たことは、全部伝える。今すぐ殺すしかないと決めつけさせはしない」
男の人は、ゆっくり頭を下げた。
僕もアインを抱き直した。
できなかったことは、まだある。
それでも九人を乗せる車輪は、ちゃんと動いていた。
◇
エリクが、硬いパンを半分くれた。
「今日は俺の縄、使えただろ」
「うん。僕が持ってたら、アインのこと書けなかった」
「だろ」
彼は得意そうに笑った。
僕もパンを齧る。
少し硬かったが、昨日より味がした。
「次、僕がまた全部持とうとしたら、言って」
「言う。でも、言う前にも気づけよ」
「気をつける」
簡単に直るとは言えなかった。
それでも次に、エリクが自分の袋を持ち上げたとき、僕は手を伸ばさなかった。
代わりに、彼が肩紐を通しやすいよう、隣を空けた。
◇
フィンが、ベルンさんのところへ来た。
「救援の人たちへ渡し終えたら、少し話していいかな」
いつもの笑い方ではなかった。
僕たちへも目を向ける。
「風の王を捜しているって、言っていたね」
アインが顔を上げた。
「会う方法を、知っているんですか」
僕が尋ねると、フィンは頷いた。
「ただ、ルカ一人に来てほしい、という話じゃない」
彼の目が、縄を片づけるエリクへ、それからミレアとノエルへ移る。
最後に、ベルンさんを見た。
「みんなで聞いてほしい。勝手に連れ出しはしないよ」
風のない霧は、まだ丘の向こうにあった。
でも僕の前では、フィンの白い髪が揺れていた。
今度は、その人が何を話すのかを、僕たちは一緒に待った。




