34話 地図から消えた村
鐘を鳴らしても、自分に聞こえない。
僕は机の縁を、指で叩いてみた。
こつ、と音がする。
聞き取りに来た荷運びの人も、その指を見た。
「それが、なかったんです。手には、叩いた感じが残ったのに」
その人の右手は、まだ少し震えていた。
ベルンさんが地図を広げる。
北の丘を越えたところに、小さな丸があった。
リゼルから荷馬車で半日ほどの、カネル村。
線の上では道が続いているのに、その人は途中から何も見つけられなかったという。
「村の札も、石垣も、真っ白で。いつもの曲がり角が、なくなったみたいだった」
僕は地図の丸を見た。
そこには、ちゃんと名前がある。
でも昨日から、誰も村にいる人へ返事を届けられていなかった。
◇
出発は昼過ぎになった。
ベルンさんが引き受けたのは、村の外から様子を確かめ、救援の足場を作る仕事だった。霧の中へいきなり全員で入る計画ではない。
支部の巡回兵が二人、御者が一人つく。
僕たち四人は、ベルンさんの監督で後方の道具と記録を担当することになった。
「霧の中へ入るのは、俺たちが調べた後だ。それまでは決めた場所から動くな」
僕もエリクも頷いた。
灰喰いかもしれないと聞いて、嬉しくなるはずはない。
それでも、以前に見たことを伝えられるなら、役に立ちたかった。
フィンは、受付の奥へ呼ばれた。
戻ってきたときには、支部が渡した布の腕章を持っていた。
「道の確認を手伝う人、だって」
登録札を出せなかったので、冒険者としては雇われていないという。昨夜泊まった宿と荷運びの人への聞き取りで、町での動きだけは確かめられた。
正体が分かったわけではない。
だから支部は、フィンへ指揮も、単独の偵察も任せなかった。
ベルンさんは、その条件を書いた紙を本人へ見せた。
「人の列から離れない。知らない道を知っていると言わない」
「分かった。そこまで言われると、ちゃんと歩きたくなるね」
「最初から、ちゃんと歩け」
フィンは笑ったが、紙には自分で名を書いた。
僕は少し安心して、すぐに思い直した。
ベルンさんが見ているからといって、僕まで何でも話していいわけではない。
アインも、僕の肩で白い尾を揺らしていた。
『あやつ、叱られることに慣れておるな』
それは、僕たちもあまり人のことを言えなかった。
◇
道の途中で、エリクが荷台の板を二枚並べた。
片方は足を載せられる長さ。もう片方には、持ち手をつけた木槌が紐で結ばれている。
「聞こえなくても、これなら分かるかな」
僕が端へ掌を置くと、エリクが反対側を叩いた。
手のひらへ、びりっと震えが来る。
「離れた人には?」
「同じ板に触ってなきゃ無理。だから、見張りの足元に置く」
大きな鐘の代わりになるわけではない。
隣の人へ振り向いてもらう道具だった。
振り向いたら、腕を上げる合図を見る。両腕を交差したら中止。後ろを指したら退く。
全員で確かめると、フィンだけが最初、腕を頭の上で交差した。
「胸の前です」
僕が言った。
「どこでも見えればいいと思ったんだけど」
「違う合図だと思うかもしれないので」
フィンは僕を見て、胸の前でやり直した。
『ようやく揃った』
アインが頷く。
僕が訳すと、フィンは笑って肩をすくめた。
ノエルは紙に、合図の絵を描いていた。
ミレアは飲み水とは別の小瓶を出す。退路の杭へつける、濃い青に染めた布を湿らせるための水だ。
「乾いた布より、霧で色が見やすいか試す。垂れた水の跡も、すぐなら分かるから」
それだけで道を見失わない、とは言わなかった。
縄も張る。目印は高いところと足元の両方に置く。
できることを重ねると、荷台に並ぶ道具が増えていった。
◇
丘の手前に、古い水車小屋があった。
道の右側、低い石垣に囲まれた空き地だ。水車は止まり、水を流す横溝も乾いている。
その先の坂を上がると、カネル村の入口があるはずだった。
けれど坂の途中から、白い霧が道を隠していた。
日がまだ残っているのに、空も木の枝も同じ白さに溶けている。
ベルンさんと巡回兵が先に小屋の周りを調べた。
石垣の内側には黒い跡も、動くものもない。帰り道の見通しと地面を確かめてから、ここを道具置き場に決めた。
馬車はさらに下の曲がり角で、道を戻れる向きに止まる。
御者には、危険の合図が見えたら荷より人を乗せるよう伝えた。
僕は霧から一番遠い小屋の壁際へ、道具袋を下ろした。
ノエルが坂を見ている。
「枝が、動いてない」
外側の葉は揺れているのに、霧へ入った枝先だけが止まっていた。
フィンが話していた峠と似ている。
僕の頬には風が当たっていた。
あの白いところだけが、息を止めているみたいだった。
◇
ベルンさんは霧の縁へ入り、すぐに戻った。
腰には巡回兵へ渡した縄が結ばれている。
「中では声が届かん。だが板の震えは手に残る」
彼は持っていった短い板を地面へ置いた。
風の働きが弱っている可能性はあるが、原因はまだ分からないという。
息は普通に吸えたそうだ。何もかも消えているわけではない。分かったのは、少なくとも声を頼りに進めないということだった。
テトが前脚で地面を掻いた。ベルンさんが膝をつき、その動きを見てから、入口側の石垣を指す。
「ここは保つ。小屋の奥の壁には寄るな。ひびが深い」
僕たちは荷物を少し手前へ移した。
そのとき、坂の霧が膨らんだ。
風で流れてくるのとは違った。
動いていた草が、順番に止まる。
「戻れ!」
ベルンさんの声が途中で切れた。
口は、まだ動いていた。
僕は立ち上がり、アインを抱えた。
耳を塞がれたような圧迫感もない。ただ、足元の砂利を踏む音だけが消えていた。
『ルカ。右だ』
アインの言葉は届いた。
でも、声に出した「みんな」は、自分にも聞こえない。
契約でつながっている僕にしか、アインの言葉は届かないのだ。
僕はエリクの袖を掴み、右を指した。
石垣の入口に、人の手が見えた。
◇
最初に出てきたのは、灰色の髭の男の人だった。
片腕で女の人を支え、もう片方で石垣へすがっている。
女の人の足が、うまく地面につかなかった。
二人の後ろを、鹿が追ってきた。
馬より低いが、胸の厚い、大きな鹿だ。首の周りに岩のような房毛があり、枝分かれした角の一本には、青い布が結んである。
鹿の前脚が上がった。
男の人を踏む。
そう思って息を呑んだ瞬間、鹿は脚を脇へ逸らした。
石垣に蹄が当たる。
音は聞こえなかったが、小石が跳ねた。
鹿は自分の脚を見たように頭を下げ、次にはまた男の人へ角を向けた。
ベルンさんが二人を石垣の内側へ引く。
巡回兵の一人が盾を構え、もう一人が退路を指した。
僕たちも下がる。
その背後で、灰色の細いものが横溝を這った。
四つの脚があるのに、踏んだ土がほとんど動かない。
鹿のような毛も、息も見えない。
灰喰いだ。
アインの前脚が、僕の手へ強く触れた。
『火を出すな。あれは別だ。鹿の腹は動いておる』
分かっている、と頷きかけて、僕は鹿を見直した。
胸が上下していた。
灰色になっている右肩にも、毛の一本一本がある。
同じようにおかしく見える二体なのに、同じものではなかった。
◇
ミレアが女の人を支え、ノエルが小屋の角から帰り道を確認する。
エリクは板を石垣の内側へ置いた。
その端を僕が踏むと、靴底へ震えが来た。
顔を上げる。
エリクが、乾いた横溝と、その出口の木の扉を交互に指していた。
昔、水の勢いを止めるために使った扉らしい。上へ持ち上げたまま、柱の横の掛け金で留められている。
人の背より高い板だ。
落とせば溝を塞げる。
ベルンさんも気づいた。巡回兵へ扉の支柱を確かめるよう示す。
僕は男の人へ、ノエルの書き板を見せた。
〈あの鹿は?〉
男の人は震える手で、短く書いた。
〈村を守るロク。人を襲わない〉
そこで顔を上げ、涙の溜まった目で鹿を見る。
何度も首を振った。
僕は、追い払うために集まった人へ牙を見せていた白狼を思い出した。
でもロクは、人を近づけたくないだけにも見えなかった。
角を突き出すたび、途中で首が別の方へ引かれる。
自分で自分を止めているみたいだった。
『あやつ、下がりたがっておる』
アインが言った。
『だが、脚は前へ出る』
「助けられる?」
声にならないまま、僕は尋ねた。
アインはすぐには頷かなかった。
『どうすれば戻るかは、分からぬ』
知らないことを、できると言わなかった。
僕は悔しくて、アインを抱く手へ力を入れた。
『だが、今ここで傷つける必要もない』
銀色の目が、木の扉へ向いた。
◇
灰喰いは、壁沿いにこちらへ回り込んできた。
男の人の胸元で、小さな緑の光が震える。
襟元にしがみついた、羽虫に似た精霊だった。片方の羽だけが薄くなっている。
男の人はそれを掌で隠した。
灰喰いの輪郭が、その方へ伸びた。
僕はベルンさんへ駆け寄らず、書き板を掲げた。
〈あの精霊を狙ってる〉
ベルンさんは男の人を溝から遠ざけた。
アインが身を乗り出す。
『あの羽の欠けたもの。少しなら返せる』
胸が熱くなった。
でも、すぐに走っていってはいけない。
アインの回収は、遠くから何でも元に戻す力ではない。戻す相手がいて、敵との間を守ってもらい、途中で止まれることが必要だった。
僕は書き板を使ってベルンさんへ伝えた。
彼は灰喰いと溝の幅を見て、短く頷く。
巡回兵が盾を二枚並べ、溝へ向かう側だけを開けた。僕はその後ろ、ベルンさんの手が肩へ届く位置にしゃがむ。
男の人は後方で精霊を包み、青い布のついた杭の横へ座った。
戻る相手が、そこにいる。
僕は自分の息の長さを数えた。
『一筋だけでよい』
アインの白い前脚が伸びる。
空気に薄い輪が生まれ、縁が虹色に光った。
灰喰いの背から、緑の細い線がほどける。
奪われたものは僕の胸へ入らず、後ろの小さな精霊へ戻った。
男の人の髭が、ほんの少し揺れた。
灰喰いの前脚が沈む。
ベルンさんが僕の肩を二度叩いた。
やめる合図だ。
僕はアインを抱き寄せた。
輪は消えた。頭ははっきりしている。
全部を救えたわけではない。
でも、巡回兵が盾を進めるだけの隙間はできた。
◇
灰喰いは狭い溝へ下がった。
ベルンさんが長い棒を横にし、石垣側へ出る道を塞ぐ。木の扉の向こうまで追い立ててから、巡回兵が掛け金を外した。
板が落ちる。
途中で、止まった。
エリクがしゃがみ、下の隙間を見る。
古い補助縄が柱のささくれに引っかかり、斜めに扉を吊っていた。
手を伸ばせば届く。
けれど手を入れたまま板が落ちたら、指がなくなる。
僕はエリクの肩を掴んだ。
彼は頷き、手を引っ込めた。
アインが、僕の腕から柱を見た。
『ここまで寄せよ。縄なら切れる』
灰喰いへ火を投げるのではない。
扉の外側、柱に引っかかった縄だけだ。
ベルンさんへ指で場所を示す。彼が棒を支柱へ渡し、急に板が落ちても人のいる側へ倒れないよう支えた。
僕とアインは石垣の陰から柱へ寄った。
赤い先の二本目の尾が現れる。
小さな火が、縄の毛羽へ触れた。
灰喰いは板の向こうにいる。アインは炎を大きくせず、縄が切れたところですぐ消した。
扉が足元まで落ち、エリクが長い柄で横木を押し込んだ。
手には、板の震えが伝わった。
敵は向こうにいる。
こちらには、誰の指も残っていない。
僕はエリクと顔を見合わせた。
笑うには、まだ早かった。
鹿が石垣へ体をぶつけた。
◇
ロクの角が、入口へ差し込まれる。
巡回兵は剣を抜きかけ、ベルンさんの手を見て止めた。
閉じた扉とは反対側だ。鹿と馬車への道の間には、低い横柵が一つある。
ノエルがそちらへ青い布を結ぶ。
ミレアは救った二人を連れ、濡れた目印に沿って柵の内側へ動いた。
ポロが瓶の口から顔を出す。ミレアは水滴が落ちた石を見て、足の悪い女の人を乾いた側へ支え直した。
僕も続こうとして、ロクの目を見た。
鹿は、男の人を見ていた。
口が開き、閉じる。
声は届かない。
アインが身体を強く顕して、石垣の上へ前脚を置いた。
『道を空けろ。あやつらは、お前を追わぬ』
僕への念話の後に、白い耳が動いた。
鹿へ何かを伝えているらしかった。僕には、冷たい雨と、狭いところから抜け出したい気持ちが一瞬だけ流れ込んだ。
ロクの視線が、アインへ移った。
前脚が止まる。
その間に、フィンと巡回兵が横柵を引いた。鹿の顔へ押しつけず、人の通った道だけを塞ぐ。
ロクはまた前へ出かけた。
自分の角を、石垣へ押し当てる。
頭を振る代わりに、踏ん張った。
僕は唇を噛んだ。
僕たちが傷つけずに済んだだけじゃない。
ロクも、僕たちを傷つけないようにしている。
『行け、ルカ。今だ』
僕はアインを抱き、柵の内側へ戻った。
◇
坂を下ると、いきなり車輪の軋みが聞こえた。
女の人の荒い息。巡回兵が御者へ呼びかける声。
耳へ世界が戻ってきて、僕は膝へ手をついた。
「全員いるか」
ベルンさんが顔を順に見る。
出発した者は全員。それに、助けた村人が二人。
誰も置いてきていない。
灰喰いは小屋の溝に閉じ込めたが、あの扉がいつまでも保つとは限らない。巡回兵が安全な距離から入口を見張り、もう一人が馬車で救援を呼びに戻ることになった。
「ロクは、村の岩鬣鹿なんです」
髭の男の人が言った。
「あいつが毎晩、畑の見回りをしていた。昨日も、子どもを道から押し戻して……なのに、急に」
言葉が詰まった。
ミレアが、水をすぐ飲ませず、息が落ち着くのを待っている。
ベルンさんは鹿の様子を聞き、正体を決めつけなかった。
「自分で止まろうとしていた。今見たことは、記録する」
男の人は何度も頷いた。
僕はアインの背を撫でた。
二本目の尾はもう消えている。白い身体は温かく、輪郭も薄くなっていない。
『我の働きを、忘れるでないぞ』
「忘れないよ。縄も、羽も、ロクのことも」
言うと、アインは僕の腕へ顎を載せた。
フィンが隣へしゃがんだ。
「火を使わないで返した力と、縄を焼いた火。違うことをしたんだね」
「はい。でも、ロクは戻せませんでした」
「戻せないと分かって、違う方法を選んだ」
フィンは霧を見た。
さっきまでの笑みはなかった。
「それ、簡単じゃないよ」
◇
女の人の足は腫れていた。
ミレアが添え木を当て、ベルンさんが締め具合を確認する。僕は荷物を集め、濡れた布を袋へ入れ、報告用の紙も探した。
まだ、やれることがある。
村には、ほかの人もいる。
どこに隠れているのか聞いて、道を描いて、次に持っていくものを考えないと。
僕が立ち上がると、エリクが道具袋を掴んだ。
「それは俺のだろ」
「でも、今なら持てるから」
「俺も持てる」
彼は袋を引き取った。
その言葉に、少しだけ胸がつかえた。
手伝っているつもりだった。
けれどエリクは、困ったような顔をしていた。
そのとき、髭の男の人が地図を指した。
「村の奥に、石造りの穀物蔵があります。まだ中に、人が」
僕は急いで振り向いた。
「何人ですか」
「最後に見たときは、扉が内側から閉まっていました。数は分からない。でも、窓で布を振っていた」
地図の上へ、震える指が小さな四角を描く。
帰る場所を示す印だった。
まだ、そこへ届く道がない。
僕が紙を抱え込む前に、ノエルの手が伸びてきた。
「地図は、私が描く」
その向こうで、フィンは霧の境目を見つめていた。
白い羽が指から離れた。
風に乗った羽は、動かない枝の手前で静かに落ちた。




