33話 風の旅人
「鳥のこと、どこで聞いたんですか」
僕が尋ねると、旅人は支部の入口を指した。
「さっき御者が話していたよ。白い子が、小さな火で縄を切ったって」
振り向くと、隊商の御者の一人が受付にいた。橋の先で鳥に襲われたことを、次に通る人へ知らせているらしい。
旅人は石の縁から降りた。
背は僕より高い。短い銀色の髪が頬へかかり、灰色の外套の下から、柔らかそうな革靴が覗いている。
男の人なのか女の人なのか、僕にはよく分からなかった。
その指の上では、白い羽が回り続けていた。
「縄じゃなくて、鳥を焼こうとは思わなかった?」
「遠かったので。荷物に火が移ったら危ないですし」
「届いたら?」
僕は返事に詰まった。
届いたら、どうしただろう。
あの大きな爪を見たときは、近づかないでほしいと思った。
でも、袋を手放したら鳥は飛んでいった。
「……人を襲うなら、止めないといけないと思います。でも、昨日は袋を離せばよかったから」
『鳥を焼いたところで、落ちてくる袋は消えぬ』
アインが付け加えた。
僕はその言葉も伝えた。
旅人は羽から目を離し、アインを見た。
楽しそうだった口元が、少しだけ止まる。
「そっか。君は、落ちる方まで見ていたんだ」
『当然である』
アインが鼻を上げたので、僕は少し困った。
僕の方は、そこまで考えられていなかった。
「名前を聞いてもいいか」
ベルンさんが、僕の隣へ来た。
旅人は白い羽を掌に収めた。
「フィン。あちこち歩いてる」
「この町の者じゃないんだな」
「長居はしないね。君たちも?」
「仕事で着いたところだ」
ベルンさんは、それ以上は話さなかった。
僕も、口にしかけていた風の王のことを飲み込んだ。
まだ名前を聞いただけの相手だ。
アインは僕の肩で、フィンと名乗った人をじっと見ていた。
『妙な者だ』
「どこが?」
『羽を持っておるのに、手を閉じても曲がらぬ』
そこなのかと思って目を戻すと、白い羽はもう見えなかった。
◇
その日は、宿を決めるだけで夕食の時間になった。
王を捜しに来たのだからすぐに聞き回りたかったけれど、ベルンさんに明日だと言われた。
足も疲れていた。
靴を脱ぐと、踵がじんじんした。
昔の怪我が痛むのではなく、長く歩いたところが熱くなっていた。擦れていないか確かめてから、濡れ布で足を拭く。
アインは寝台の端で僕を見ていた。
『先ほどの者、悪くはない』
「羽を曲げなかったから?」
『我を勝手に触らなかった』
それは大事かもしれない。
僕は布を桶へ戻した。
「明日、何か聞けるかな。風の王は、ずっと同じ場所にいないんだって」
『ならば、同じ場所で待つよりよい』
「もし会えたら、何から聞く?」
アインはすぐには答えなかった。
白い尾を前脚へ巻きつける。
『我を見て、何か思い出すか、と』
短い答えだった。
僕は、聞いた自分の胸が痛くなった。
小さな火を使えるようになっても、アインの知らないことは、まだたくさんある。
僕も、どうしてアインに選ばれたのか分からない。
でも、分からないから一緒にいられないわけではない。
「じゃあ、最初はそれを聞こう」
僕は指を伸ばした。
アインが額を寄せてくる。
ぬくもりを確かめてから、僕たちは夕食へ降りた。
◇
翌朝、リゼルの支部で聞けたのは、思っていたより曖昧な話だった。
山の上で銀色の大きな鳥を見た。
空に浮く島へ、白い翼の誰かが降りた。
願いを聞いてもらった人がいる。
どれも面白そうで、どれも、明日どこへ行けば会えるかは教えてくれなかった。
「風王のために用意された面会所はないんです」
受付の女性が言った。
「捜して山へ入って、戻れなくなる方もいます。まずこの地方の道を覚えてください」
ベルンさんが礼を言う。
僕は地図を見た。
北側には尾根が重なり、道の線が途中で細くなっている。
このどこか、では広すぎる。
エリクが、僕の横から地図を覗いた。
「飛べたら、上から捜せるのにな」
「王が見つかる前に、僕が迷うと思う」
「じゃあ、縄つけて飛ぶか」
「凧じゃないんだから」
笑いながら言い返したけれど、空へ上がった自分を、少しだけ想像してしまった。
白い雲の上に、まだ見たことのない島がある。
そこに精霊が住んでいて、下を通る僕たちを見ている。
アインと一緒に、そこまで行けたら。
『落ちたとき、我を下敷きにするなよ』
「まだ飛んでもいないよ」
夢の途中で、肩を前脚に叩かれた。
エリクに訳すと、じゃあ俺が下で受け止める、と言いかけ、アインだけなら、と付け加えた。
僕は文句を言って、結局一緒に笑った。
ノエルもユアンの照会を確認したけれど、新しい手がかりは届いていなかった。
受付から戻ってきた彼女に、僕は何と言えばいいか分からなかった。
「まだ、だね」
ノエルの方が先に言った。
「うん」
「次に手紙を出す場所だけ、書いてもらった」
畳んだ紙を袋へ入れる。
僕は、それを待ってから一緒に掲示板へ向かった。
滞在するなら、お金がいる。
しかも知らない土地だ。ベルンさんは近くの仕事を見ながら、道を覚えようと言った。
そこでまた、フィンに会った。
掲示板の横で、焼いたパンを二つ持っていた。
「今日は山に行かないの?」
「まだ道も分からないので」
「いい返事だ」
フィンは一つを僕に差し出しかけ、肩のアインを見て手を止めた。
「食べて平気なもの、決まってる?」
『中に何が入っておる』
僕が尋ね直すと、干した果実だけだと教えてくれた。
ベルンさんも同じ店で朝食を買っていたので、僕は礼を言って、小さく割った一切れをアインへ渡した。
口いっぱいに頬張ってから、白い顔が上がった。
『よい者だ』
「昨日より評価が上がったね」
「何か言った?」
フィンが聞く。
僕はアインが喜んでいると伝えた。
そのとき、掲示板の向こうで、金属の倒れる音がした。
◇
支部の隣には、屋根だけの荷捌き場があった。
石の床を四本の柱が囲み、北側には背の高い板壁。南と東西は開いている。
倒れたのは、小さな炭の火鉢だった。
幸い、炭は燃えていなかった。
年配の女の人がしゃがみ、こぼれた炭を拾っている。横には、水の入った鍋と、湯呑みが並んでいた。
「大丈夫ですか」
ミレアが駆け寄った。
「怪我はないよ。風で布が飛びそうになってね。押さえようとして、足を引っかけたんだ」
女の人は、ここで荷運びの人たちへ湯を出しているという。
寒い朝にはよく売れるけれど、今日は火を起こす前から手間取っていた。
「火種が湿ってしまって。竈まで戻ってもらおうと思ってたところだよ」
僕はアインを見た。
目が合った。
「小さな火なら、つけられます」
「本当かい。助かるよ」
女の人は火鉢を、柱の内側にある平たい石の上へ置き直した。
ベルンさんがぐらつかないことを確かめる。
僕は布や荷から離れた側へ座り、アインを火鉢の前へ降ろした。
赤い先の尾が、白い尾の横へ現れる。
炭の間へ入れた細い薪に、小さな火が触れた。
すぐに風が吹き抜けた。
炎が横へ寝る。
薪の表面が黒くなっただけで、火は残らなかった。
「消えちゃった」
僕はつい言った。
『見えておる』
アインの耳が横を向いた。
失敗したところをフィンにも見られている。
さっき、できると言ったばかりなのに。
「もう少し大きくしたら?」
フィンが言った。
僕はアインを見た。
それなら、できるかもしれない。
でも、風に倒れた火が、火鉢の外へはみ出すのを想像した。
「……先に、風を止めたいです」
「止められるの?」
「アインは風を使えません。でも、板なら」
エリクが、すぐ横で頷いた。
「火鉢ごと囲むなよ。燃えるものを近づけるのは駄目だって」
「うん。離して置く」
女の人に聞くと、荷捌き場の仕切りに使う、脚のついた板を貸してもらえた。
一人では重い。
エリクと僕で両端を持ち、ベルンさんに倒れないよう支えてもらった。
火鉢から離れた西側へ立てる。
その陰へ入ると、頬に当たっていた風が弱くなった。
僕はもう一度しゃがんだ。
フィンは何も言わず、指先で白い羽を揺らしていた。
風を弱められる精霊がいたら、もっと簡単なのかもしれない。
僕はそう思って、すぐアインへ目を戻した。
ない力を数えても、目の前の薪は乾かない。
アインにできることを、ちゃんと役立てたい。
エリクが板の脚へ石を添えた。ベルンさんが軽く押して確かめると、さっきより動かなくなっていた。
「これなら、手を離しても平気だ」
「ありがとう」
僕は胸を押さえていた手を下ろした。
「アイン、もう一回」
『待て』
前脚が、薪の端を指した。
最初に火を当てたところは、黒いのに艶がある。
『ここは湿っておる。奥の薄いものを、上へ出せ』
女の人に頼んで火箸を借りた。
湿った薪を脇へ寄せ、内側にあった乾いた木片を組み直す。細い木片の間には、指が入りそうなくらいの隙間を残した。
「これでいい?」
『よい』
小さな炎が、今度はまっすぐ立った。
薄い木片の端へ触れる。
橙色がそこへ移り、アインが火を引いても残った。
僕はすぐ炭を上へ積もうとして、女の人に止められた。
「まだよ。小さい火を潰してしまう」
手を止めて待つ。
木片が乾いた音を立てた。
女の人が細い炭をそっと寄せると、端から赤くなっていった。
「ついた」
声が漏れた。
『当然である』
アインは胸を張ったが、今度は僕も同じくらい嬉しかった。
火鉢に鍋が載る。
少しして、水面から湯気が上がり始めた。
◇
僕たちはお礼に、温かい湯をもらった。
ミレアが持っていた乾燥した葉を少し分けてくれて、湯呑みからいい匂いがした。
アインは僕の膝へ戻り、尾を一本にしている。
「大きな火にしなかったね」
フィンが言った。
少し、試されていたような気がした。
「大きくした方が、よかったですか」
「お湯は沸いたよ」
それは答えになっているのか、いないのか。
僕が困っていると、フィンは湯呑みを両手で持った。
「ただ、力が増えれば、邪魔なものを全部押し返せると思う人は多いから」
「僕だって、できるなら……」
言いかけて、止まった。
大きな火を出せたら、きっと嬉しい。
もっと遠くの誰かを助けられるかもしれない。
でも、火鉢が倒れやすいままで火だけ大きくなったら、それは怖い。
「力も欲しいです。でも、さっきは板があってよかったと思います」
フィンが笑った。
『我は乾いた薪が欲しい』
アインが付け加えたので、伝えた。
今度は女の人も笑った。
「ちゃんとしまっておくよ。次に来たら、火をつけるところからやり直さなくていいようにね」
僕は湯呑みに口をつけた。
熱くて、すぐ離した。
まだ飲めない。でも、手は温かかった。
◇
荷捌き場を離れる前に、ベルンさんがフィンへ尋ねた。
「この辺りの風に詳しいのか」
「君よりは、たぶん」
「では、峠の無風について知っていることはあるか」
フィンは笑うのをやめた。
「君たち、その道を来たの?」
「通行止めだ。別の道を来た」
「それでよかった」
僕は湯呑みを持っていた手を下ろした。
その声は、さっきまでと違った。
「ただ風がない場所と、風が入れなくなった場所は違う。山陰なら、向きを変えて回り込む風もある。でも、今の峠はそうじゃない」
ベルンさんはフィンを見たままだった。
「実際に見たのか」
「うん。道へ垂れていた枝が、揺れるところと揺れないところに分かれていた。同じ枝なのに」
僕は一本の枝を思い浮かべた。
先だけ動かず、幹の方は風に揺れる。
なんだか、見えない壁に押さえられているみたいだった。
「原因は?」
「まだ確かめてない。知っているふりをすると、間違う」
フィンの目が、僕の腕の中へ向いた。
アインも見返した。
一瞬だけ、フィンが懐かしいものを見るような顔をした。
でも、すぐ目を細めたので、見間違いかもしれない。
「君、その子と長いの?」
「十歳の選定からです」
「そう」
フィンは少し黙った。
僕は、アインが昨夜言ったことを思い出した。
我を見て、何か思い出すか。
相手が風の王だという話は聞いていない。ただ、この土地の風には詳しそうだった。
それでも、尋ねてみたくなった。
「アインに似た精霊を、見たことがありますか」
フィンはすぐには答えなかった。
「見たことがある、と言い切れたらいいんだけど」
胸が、どきりとした。
「何か、知ってるんですか」
「分からないんだ。ただ、初めて見る気がしない」
腕の中で、アインの身体が動いた。
僕も、もう一つ聞こうとした。
その前に、支部の入口からベルンさんを呼ぶ声がした。
◇
呼びに来たのは、さっき地図を見せてくれた受付の女性だった。
「北の集落から、定期の連絡が届いていません。最後に通った荷運びの方が、入口で奇妙な霧を見たそうです」
ベルンさんの顔つきが変わった。
「いつの話だ」
「昨日の昼です。その方は入らずに戻って、今朝こちらへ。別の調査班は峠へ出ていて、すぐには戻れません」
女性は、僕たち全員へではなく、ベルンさんへ書類を渡した。
「まず、聞き取りに立ち会っていただけませんか」
「分かった。こいつらを連れていくかは、その後に決める」
僕は頷いた。
風の王を捜す話が、急に遠くなった気がした。
けれど、霧の向こうにも、毎朝火を起こす人がいるのだ。
この女の人みたいに、水を沸かして待っている人が。
フィンが僕の横へ来た。
「行くなら、僕も道を見たい」
ベルンさんは振り返った。
「一緒に動くなら、勝手に先へ入るな。身元と役割も支部で確認する」
「はいはい」
軽い返事に、ベルンさんの眉が動いた。
フィンは今度はちゃんと、勝手に入らないよ、と言い直した。
僕たちは支部へ戻った。
聞き取りの机で、荷運びの男性は、何度も自分の手を握り直していた。
「霧の手前に、連絡用の鐘があるんです。集落の人を呼ぼうと思って、それを鳴らした」
「返事がなかったんですか」
僕が聞くと、その人は首を振った。
「返事より前の話です」
濡れた声で、男性は言った。
「鐘を叩いたのに、自分にも音が聞こえなかった」
僕は隣のアインを見た。
さっきまで湯の匂いを嗅いでいた白い相棒が、耳を立てていた。
フィンの指先で回っていた羽が、ぴたりと止まった。




