32話 空を渡る護衛
荷車の向こうに、道がなかった。
いや、なかったのは地面だ。
谷を挟んだ向こう側まで、木の橋が続いている。両脇には太い鉄の鎖。橋板の隙間から、ずっと下の川が白く見えた。
僕は思わず、肩のアインを押さえた。
『落ちぬ』
「僕が落ちそうな気がするんだよ」
『ならば、下を見るな』
言われて顔を上げると、エリクも同じように顎を上げていた。
「見た?」
「ちょっとだけ」
「僕も」
そう答えると、少しだけ足が動いた。
ハルデンを出て、二日目の昼だった。
風が止まるという峠道には、結局入っていない。
依頼の話を聞いた翌日、先に向かった成人の調査班が、道の一部を通行止めにした。理由を決めつけるには、まだ調べることがあるらしい。
僕たちの隊商は、別の尾根を越える古い街道へ回された。
こちらの橋と道は、巡回の人たちが通れることを確かめてくれた。ベルンさんはその報告を読んでから、ようやく依頼票に名前を書いた。
それでも、紙で見た橋と、本物の橋は違う。
風が来るたびに、鎖が低く鳴った。
「一台ずつだ。前の車が向こうの広場へ抜けるまで、次は入れない」
隊商を率いるオットーさんが言った。
日に焼けた顔に、短い茶色の髭。ハルデンの支部へ来て、峠の異常を教えてくれた人だ。
荷車は二台で、馬は一頭ずつ。
隊商側は、オットーさんと御者二人、それに荷役の人が一人。僕たち五人を合わせて、人間は九人になる。
一台目には穀物と塩。二台目には布と薬草。
届け先は、山の向こうの町リゼルだった。
「薬草の箱は、揺らさない方がいいんですよね」
ミレアが尋ねる。
「箱は閉めてあるから、普通に運ぶ分には大丈夫だ。ただ、雨には濡らしたくない」
オットーさんは空を見た。
今は晴れている。けれど山の天気は変わりやすいから、日暮れ前に次の宿場へ着きたいと言っていた。
ベルンさんは橋の入口で、車輪を通す位置を御者と確かめていた。
テトが前脚で地面を掻く。
橋そのものではなく、手前の土の道を調べている。重い車輪が乗っても、端が崩れないかを見るためだ。
僕は渡った先の広場を見た。
そこなら荷車が二台とも停まれる。橋から出て右へ曲がれば山道で、左は岩壁だった。
「ルカ。渡ったら先へ行くなよ」
「広場で待ちます」
「そうだ。王の捜索は、まだ始まってない」
分かっています、と答えたら、ベルンさんは少し笑った。
僕がそんな顔をしていたのだろうか。
風の王。
どこにいるかも、会ってもらえるかも分からない相手だ。
でも、地図の先へ進んでいると思うと、怖い橋の向こうにも行ってみたくなった。
◇
出発までには、六日かかった。
迂回路が決まるのを待つ間、エリクは曲がった滑車を町の鍛冶場へ持ち込んだ。
戻ってきたものは、ただ真っすぐに直されただけではなかった。軸の両側に、小さな板が足されていた。
「横から引っ張っても、前より曲がりにくいって」
「自分で直したの?」
「手伝った。火に入れるところは、まだ任せてもらえなかった」
その言い方がおかしくて笑うと、お前だって釘打ち曲げただろ、と言い返された。
父親からの返事も、出発前に届いた。
ベルンさんが責任者であること。行き先が変わったら知らせること。怪我を隠して進まないこと。
エリクは許可の書かれた手紙を見せながら、最後の一行だけ隠そうとした。
「そこは?」
「別に」
横から見えた文字には、道具を濡れたまましまうな、とあった。
僕は姉上に、少し大きくなった自分と、相変わらず小さいアインの絵を添えて手紙を出した。
返事は途中の支部へ送ってもらう。いつまでもハルデンで待たなくていいように、ベルンさんが受け取り方を教えてくれた。
ミレアも出発日を祖母に知らせた。
ノエルは、ユアンについて返事が来たらリゼルへ回してほしいと頼んでいた。
準備をしている間は、早く出たいと思っていた。
けれど、エリクが新しい滑車を握るのを見ると、待った六日にも、ちゃんと意味があったのだと思う。
橋を渡る前、彼はそれを道具袋の底へ戻した。
「今日使わないなら、それが一番だけどな」
「うん」
僕たちは最初の荷車について歩いた。
橋板は幅が広く、車輪の両側にも人が通れるだけの余裕がある。それでも僕は、鎖へ近づきすぎないように歩いた。
馬の蹄が鳴る。
車輪が継ぎ目を越えるたび、足の裏へ振動が来る。
橋の真ん中では、谷から吹き上がる風がローブの裾を持ち上げた。
アインの耳が、二つとも後ろへ倒れる。
『ここは風が多すぎる』
「止まってるより、いいんじゃない?」
『ほどほどを知らぬ』
僕は肩から落ちないよう、白い身体を両手で抱えた。
胸元に温かい重さが来る。
そのまま、一歩ずつ渡った。
◇
二台目が橋を抜けるまで、何事もなかった。
向こう岸の広場で、馬に水を飲ませ、荷の縄を締め直す。
ノエルが最初に顔を上げたのは、そのときだった。
「岩の上。大きい鳥が二羽」
僕は彼女の指す方を見た。
山道の脇から突き出した岩に、灰褐色の鳥がいる。
翼を閉じていても、普通の鷹より大きい。足の鉤爪だけが、濡れた鉄のように黒く光っていた。
ベルンさんが、僕たちを荷車の内側へ寄せた。
「鉤爪鳥だ。この街道で注意する低位魔獣に載っていたな。袋物を掴んで持っていく。近づいたら棒で距離を取れ。崖へ追うなよ」
出発前に見せられた絵を思い出した。
名前は覚えていたのに、本物を見たらすぐには出てこなかった。
「食べ物を狙うんですか」
「匂いのする荷はな。中身を知らずに攫うこともある」
オットーさんが指示を出した。
御者は馬の頭を押さえ、荷役の人は二台目の横へ張り出していた予備の袋を荷台へ戻す。
ベルンさんは谷側、テトはその足元。
僕とエリクは、岩壁側に立った。
ノエルがネロへ何かを伝える。黒い猫は彼女の足元へ降り、荷車の影へ入った。
「みんなを隠すのは無理。岩壁側で、動く影を少し目立たなくする」
ノエルが僕たちに言った。
「それでも走ったら見つかるからね」
僕は頷き、派手に揺れていたローブの裾を帯へ挟んだ。
ミレアは馬の飲み残した桶を、車輪の通るところからどけた。ポロの水で鳥を落とそうとはしない。両手で持ち上げた桶を岩壁の窪みへ置き、御者のそばへ戻る。
できることを、先に一つずつ。
分かっているのに、僕の目は空へばかり向いた。
昨日まで、荷車の屋根に鳥が止まっても、ただ眺めていた。爪が大きいだけで、同じ空がこんなに怖くなる。
「来る!」
翼が二つ、岩から離れた。
一羽は谷側から低く回った。
もう一羽は、山道の上から二台目へ真っすぐ降りてくる。
僕は思わずアインを高く持ち上げかけた。
遠い。
今の距離で火を飛ばしたら、鳥より先に荷へ落ちるかもしれない。
「アイン、待って。まだ使わない」
『分かっておる』
ベルンさんが長い棒を振り上げた。
谷側の一羽が、手前で翼を返す。
けれど、もう一羽は荷役の人が抱えた袋へ爪をかけた。
男の人が手を離す。
袋は鳥と一緒に持ち上がった。
次の瞬間、荷台の横で縄が張った。
予備の袋は落下防止の細縄で、荷台の金具につないであった。
鳥が上へ羽ばたくたび、袋が幌の柱へ叩きつけられる。
すぐ横で、馬が前脚を浮かせた。
「頭を押さえて! 橋へ戻すな!」
オットーさんの声が飛んだ。
御者が手綱を短く持つ。
鳥を引き下ろそうとしたら、袋も爪も、馬の背へ落ちてしまう。
僕は張った縄を見た。
荷台の金具から、袋へ斜めに伸びている。
途中なら、幌にも馬にも触れていない。
「その袋、中は何ですか!」
「替えの布だ! 手放していい!」
オットーさんが即答した。
僕はエリクを見た。
「縄を切りたい。荷車の横、入れる?」
エリクは僕ではなく、馬の脚を見た。
「後ろからだ。前に出るな!」
荷役の人が一緒に動いて、僕たちと馬の間へ立ってくれた。
僕は荷車の後ろから、車輪の脇へしゃがみ込む。
アインを木の縁へ置いた。
『もう少し上である。ここでは車輪が近い』
抱き直す。
膝をついたまま、腕を上げた。
アインの鼻先から少し離れたところを、細縄が横切っている。
鳥が翼を打つたび、縄の高さが変わる。
さっきの蜘蛛の糸とは違う。
じっとしていない。
『揺れを追うな。我を止めておけ』
僕はアインを持った腕を、自分の胸へ引き寄せた。
肘を締める。
目の前に、小さな前脚が伸びた。
二本目の尾が現れ、赤い先が揺れる。
炎は、縄を追いかけなかった。
アインの前の同じ場所で、細く立ち上がった。
上下していた縄が、そこへ触れる。
一度では切れなかった。
焦げた筋ができ、次の羽ばたきで強く張る。
ぶつり、と音がした。
袋が空へ跳ね上がった。
鳥は急に軽くなったのか、身体を傾け、谷の上へ流れていく。
アインはすぐに火を消した。
短くなった縄の端が、金具から垂れた。
「切れました!」
「下がれ!」
ベルンさんの声で、僕はアインを胸へ抱いたまま立ち上がった。
エリクがローブの背を引く。
広場の山側へ戻ると、もう一羽も高く上がっていた。
袋を持った仲間の方へ飛んでいく。
僕は追いかける代わりに、馬を見た。
まだ首を振っている。でも、御者の横に立ち、四本の脚は地面についていた。
荷役の人が、焼けた縄の端へ濡れ布を当てる。
幌にも車輪にも、火は移っていない。
ようやく、息が吐けた。
◇
失った袋は一つ。
中身は、荷を包む替えの布が数枚だった。
オットーさんは荷の帳面を開いて、品物と数を控えた。
僕はその手元から目を離せなかった。
「すみません」
言うと、彼は鉛筆を止めた。
「どうして謝る?」
「届ける荷を、守れなかったから」
「あれは私が手放していいと言った。馬が暴れていれば、もっと多くを失ったかもしれない。君は言われた通りにしてくれたよ」
オットーさんは、橋を振り返った。
荷車が一台でもあちらへ走り出していたら。
考えると、指が冷たくなった。
「取り返しに行かなくていいんですね」
「谷へ降りてまで布を拾う仕事は頼んでいない」
はっきり言われて、僕は頷いた。
ミレアが横から、僕の手を持ち上げた。
「痛いところは?」
「ないと思う」
「思う、じゃなくて。指、曲げてみて」
一本ずつ動かす。
ローブの袖にも焦げはなかった。
アインの耳と尻尾も確かめられ、本人は大変不満そうだった。
『我は布ではない。燃えておらぬ』
「燃えてないって。でも、見てもらって」
今度はエリクが笑った。
笑えると分かると、僕もつられてしまった。
ノエルは岩の上を見ながら、戻ってきたネロを撫でていた。
「二羽とも遠くへ行った。けど、しばらく空を見てる」
「ありがとう」
「お礼は、荷台の下に頭をぶつけずに戻れたらでいい」
片づけのために潜ろうとしていた僕は、首をすくめた。
馬が水を飲めるくらい落ち着いてから、僕たちは荷を積み直した。
今度は予備の袋も、荷台の内側へ入れる。上から幌をかけ、外へ垂れている縄がないか、エリクが端から調べていった。
僕も反対側を見た。
一か所、結び目の下から長い縄が余っていた。輪にして束ねようとすると、エリクが近づいてきた。
「そんなに小さく巻くと、解くとき絡まるぞ」
彼は僕の手から縄を受け取り、掌くらいの輪を作った。余った端で輪の真ん中をまとめ、荷台の内側へ留める。
「ここを引いたら、すぐ外れる」
「火で切らなくていいように?」
「そう。毎回アインに頼んでたら、縄が短くなるだろ」
『もっともである』
アインの返事を伝えると、エリクは得意そうに笑った。
オットーさんが、直したところを一緒に確かめてくれた。
「次の便でも、こうしておこう。うちの者にもやり方を教えてもらえるか」
エリクの手が、結び目の上で止まった。
「俺でいいんですか」
「今、君がやったんだろう?」
「……はい」
エリクはもう一度縄を解いた。荷役の人に見えるよう、さっきよりゆっくり結び直す。
僕はそばで、解いた方の縄を持った。
ハルデンでついた確認中の印が、これで消えるわけではない。
それでも、エリクが説明する声がだんだん大きくなるのが、嬉しかった。
◇
その夜の宿場で、ベルンさんは鳥のことを短く振り返った。
「今回は縄が切れてよかった。だが、火を使えばいつでも早いわけじゃない。刃物で安全に切れる位置なら、そっちも考えろ」
僕は頷いた。
「揺れてたから、手で掴みに行ったら引っ張られると思って」
「それを先に言えると、周りもお前のやることが分かる。次は声を一つ増やせ」
怒鳴られたわけではない。
それでも、助けられたから全部正しかった、ではないのだと思った。
アインは僕の膝で丸くなっている。
白い尾は、もう一本に戻っていた。
『今日は、我が上手かった』
「うん。僕、動く縄を追いかけるところだった」
『追えば、おぬしの腕まで揺れる』
僕は昼間と同じように肘を締めてみた。
その動きを、エリクが向かいから見ていた。
「次は台を置けるといいな。ルカの腕より揺れないやつ」
「急に鳥が来ても?」
「じゃあ、腕を鍛えろ」
「急に厳しい」
二人で笑ったら、アインが鼻を鳴らした。
ミレアは温かいスープを飲み、ノエルは灯りの近くで、リゼルの支部へ聞きたいことを書いている。
僕はアインの背を撫でた。
大きい火ではなかった。
でも、みんなが無事にここにいることに、あの火はちゃんと役立った。
それが嬉しかった。
明日も同じようにできるとは限らない。だから、熱かったところや怖かったところを、忘れないうちに皆で話した。
翌日の夕方、隊商はリゼルへ着いた。
荷受けの人が封を確かめ、失った予備の布はオットーさんが説明した。僕たちの護衛は、そこで終わった。
空を渡ったような橋は、もう後ろにある。
これで風の王を捜せる。
そう思った僕は、支部の前で足を止めた。
石の縁へ腰かけた旅人が、こちらを見ていた。
薄い灰色の外套。歳は、ノエルより少し上くらいに見える。
その人の指の上で、白い羽が一本、くるくる回っていた。
風は、吹いていなかった。
「ねえ」
旅人が笑った。
「その子、鳥を焼かなかったんだって?」
僕の肩で、アインの耳が立った。




