31話 十二歳の依頼票
「エリク、まだ落とさないで!」
檻の扉へ伸びた手が止まった。
白い糸が、荷台の下でぴんと張っている。
その先には、男の人の靴があった。
「足、引っ張らないでください。そこにいて!」
僕は板塀の角を曲がった。
ハルデンの東にある、石造りの荷置き場。屋根のない中庭へ、二匹の繭吐蜘蛛が入り込んでいた。
一匹はもう檻の中だ。
もう一匹は荷台の下へ潜っていた。荷運びの人は作業をやめて離れようとしていたが、靴に糸が絡み、動けなくなっていた。
蜘蛛の胴は桶くらいの大きさで、脚まで広げると僕の両腕より長い。腹の先から吐いた糸を、前脚で手繰る。
靴底が石畳を擦った。
「動かないで。そのまま座って」
ミレアが男の人の肩を支える。
ポロの入った水筒は腰の袋にしまってある。今は水を撒くより、転ばせない方が先だった。
中庭の東には荷台、西には檻。その間に、板を二列に立てて作った細い通り道がある。
南の出入口はベルンさんとテトが守っていた。逃げた蜘蛛が街道へ出ないためだ。
僕とアインは、荷台の北側。
足を取られた人まで、あと三歩。
「アイン。靴じゃなくて、途中の糸を」
『見えておる』
肩から白い影が跳んだ。
アインは石畳へ降り、張りつめた糸の脇に前脚を置く。
白い尾の横に、もう一本、先の赤い尾が現れた。
糸の下で、小さな炎が立ち上がった。
細く、短く。
火は靴へ走らず、アインの前で糸だけを焼き切った。
引かれていた足が止まる。
男の人が息を吸った。
「切れました! ミレア、外へ!」
「分かってる!」
ミレアは男の人を立たせず、まず靴に残った糸を確かめた。荷台につながっている糸は、ほかにはない。
肩を貸して、南の出口へ下がっていく。
アインが僕を見上げた。
『次は、あれか』
荷台の下で、蜘蛛の脚が開く。
焼けた糸の端を探しているのか、前脚が何度も石を叩いた。
「うん。でも、まだ待って」
昔の僕なら、今の一回で息が上がっていたかもしれない。
今は足の裏が、ちゃんと地面についている。
僕は短く息を吐き、荷台の向こうへ声をかけた。
「ノエル、見える?」
「左の車輪。二本目の糸がある」
反対側の板塀から返事が来た。
ノエルは荷台に近づかず、塀の隙間から覗いていた。ネロは足元の影にいる。蜘蛛の下へ潜り込ませるようなことはしない。
教えられた車輪を見る。
白い糸が車軸から、板の通り道を横切っている。
さっきまではなかった。
蜘蛛が逃げ道に張った糸だ。
あそこへ追い出したら、僕たちの方が足を取られる。
「エリク、左の板、少し開けられる?」
「開けたら檻から外れるぞ」
「車輪に糸がある。先に切りたい」
「じゃあ、半分だけだ」
エリクが支えの棒を一本抜く。
板の端が動き、石畳に細い隙間ができた。
僕はアインと一緒にそこへ入った。身体を横へ向けると、ローブの肩が板に擦れる。
去年までなら、そのまま通れたのに。
「待って、引っかかった」
『大きくなりすぎである』
「アインが変わらないんだよ」
布を引き寄せ、抜ける。
蜘蛛がこちらを向いた。
腹の先が上がる。
「来る!」
エリクが板の端を押し、僕と蜘蛛の間へ傾けた。
白い糸が、僕の顔の代わりに板へ当たった。
べたり、と重い音がした。
僕は息を止めかけた。
大丈夫。板がある。
アインも、すぐ横にいる。
『今なら切れる』
「お願い」
アインが車輪のそばへ前脚を伸ばした。
火は拳より小さい。
それでも、重なった糸が丸まり、黒い粒になって落ちた。
車輪の木へ届く前に、火が消える。
僕は手を出さず、目で確かめた。
木に火は移っていない。石畳の上の糸も、もう燃えていない。
僕はアインを抱き上げ、入ってきた隙間から身体を抜いた。
「切れた。板、戻して!」
板が元の位置へ戻る。
蜘蛛は荷台の下から半分出ていた。
後ろには石壁。左右には板。
前だけが、檻へ続いている。
エリクが二本の縄を確かめた。片方は檻の扉を支える縄。もう片方は、荷台の下へ差し込んだ横長の板につながっている。
「ルカ、そっちから抜けろ」
僕はアインを抱いたまま、縄の通り道から離れた。
「いいよ!」
エリクが二本目の縄を引く。
荷台の下の板が、ゆっくり蜘蛛へ近づいた。
押し潰すためではない。
荷台の奥へ戻れる隙間を、少しずつ狭めるためだ。
蜘蛛が前へ走った。
板の通り道を抜け、空いている檻へ入る。
「まだ」
エリクが言った。
最後の脚が、檻の縁にかかっていた。
僕は口を閉じた。
脚が内側へ引っ込む。
「今!」
縄が緩み、扉が落ちた。
鉄が石を打つ音が、中庭へ響く。
蜘蛛が振り返ったときには、エリクが外から留め棒を差し込んでいた。
二つの檻に、一匹ずつ。
逃げた蜘蛛はいない。
僕はアインを抱いたまま、エリクと顔を見合わせた。
「入った」
「見てた」
「最後、よく待てたね」
「脚を挟んだら、またやり直しだろ」
そう言うエリクの頬にも、笑いが浮かんでいた。
『我の糸切りも褒めよ』
「アインが、自分も褒めてって」
「分かってる。いい火だった」
エリクが白い頭へ手を伸ばす。
アインは逃げず、鼻を高くした。
その横で、二本目の尾が淡くなって消えた。
◇
繭吐蜘蛛は、荷に紛れて入ってきた低位の魔獣だと、依頼を受ける前に教わっていた。
二匹いることも、糸が普通の刃に絡みつきやすいことも。
だからエリクは、糸を切る役をアインへ頼んだ。
僕たちの依頼は捕獲まで。その先の運搬と、どこへ移すかを決める仕事は、成人の専門班が引き受ける。
ベルンさんが留め棒と檻の底を確かめる間、僕たちは荷運びの人のところへ行った。
靴を脱いだ足には、赤い跡がついていた。
ミレアが足首を見ている。
「立つと痛い?」
「少し。引っ張られたときにな」
「じゃあ、今日は運ぶ仕事を代わってもらって。痛みが増えるなら診療所へ」
ミレアは傷を魔法で消したわけではない。擦れたところを、ポロに確かめてもらった水で洗っていた。
男の人は僕たちへ頭を下げた。
「助かったよ。あんな小さい火で切れるんだな」
「アインが練習したので」
僕が言うと、腕の中で胸を張るのが分かった。
あの岩庭で、初めて火が灯った日から約一年半。
僕とエリクは十二歳になった。
小さな火を出すだけで疲れていたアインは、今では目の前の糸へ火を当て、必要なところで消せる。
もっと遠くへ飛ばそうとすると、まだ形が崩れる。大きくすれば、それだけ僕もアインも疲れる。
だから、何でも燃やせるようになったわけじゃない。
燃やしてはいけないものを避けるのが、少し上手くなったのだ。
練習では、糸の代わりに細い藁を使った。
石皿の上の一本だけ。隣の一本へ火を移したら、最初から。
アインは何度も怒った。
僕も、もうできるよと言ってベルンさんに止められた。
でも今、男の人の靴は焦げていない。
あの練習は、ここにつながっていた。
「調子はどうだ」
ベルンさんが来た。
「息は苦しくないです。手も冷えてません」
「アインは」
『腹が減った』
伝えると、ベルンさんは白い額を指で軽く撫でた。
「昼飯まで待てるなら大丈夫そうだな。念のため、今日はもう火を使うな」
アインは、ものすごく不満そうな顔をした。
たぶん、火の話ではなかった。
依頼人が、僕たちの立ち位置を指で示して確かめてくれた。
「そっちの子が板を動かして、こっちの子が火を使ったんだな。見張りと手当も、ちゃんと書いておく」
エリクは頷いた。
煤のついた手のひらを、少しだけ後ろへ隠した。
◇
支部へ戻る途中、エリクの道具袋が鳴った。
「何か壊れた?」
「壊れたんじゃない。曲がった」
「それ、壊れたって言わない?」
「直るから、まだ違う」
彼は檻の扉に使った小さな滑車を取り出した。
縁が少し歪んでいる。
「父さんなら、こうなる前に気づくんだろうな」
「でも、扉は落ちたよ」
「次も落ちるようにしないと」
そう言って袋へ戻す。
僕の袖口も、前に姉上が直してくれたところから、もう手首が出ていた。
エリクはそれを見て、袖を引っ張るなよ、と笑った。
十三歳になったミレアは、僕たちより少し前を歩いている。十四歳のノエルが、その隣で荷置き場の見取図を畳んでいた。
ネロはノエルの肩にいた。僕が見たら、黒い耳だけがこちらを向く。
みんな変わった。
でも、空腹になると歩くのが少し速くなるところは、変わっていない。
支部の食堂で昼食を取ってから、僕たちは報告をした。
依頼達成の印は、すぐに押された。
捕獲した数は二匹。運搬班への引き渡しも終わり、約束の報酬は全額出る。
困ったのは、その下にある、個人ごとの働きを書く欄だった。
「エリク・ヴァレン。装具準備、補助作業」
査定を担当する男の人が読み上げた。
エリクの指が、受付台の端で止まった。
「捕獲の操作は?」
「装具を使った補助に含めた」
「板を動かしたのも、扉を閉めたのも俺です」
「魔獣を制した主力は炎精霊だろう。契約精霊のない君の戦闘実績としては――」
「違います」
僕は言った。
男の人が顔を上げた。
心臓が速くなった。でも、さっき何があったのかは分かっている。
「アインは糸を切りました。捕まえたのは、エリクの仕掛けです。あれがなかったら、荷台の下から出せませんでした」
『我だけでは檻は閉まらぬ』
「アインも、自分だけでは檻を閉められないって言ってます」
男の人は、僕の腕の中へ目を向けた。
アインは相手を見返していた。
「本人の申告だけでは判断できない」
「依頼人の確認書がある」
ベルンさんが紙を示した。
「俺も現場にいた。報酬の分配ではなく、実際にした仕事の分類について話している」
男の人は紙を受け取り、眉を寄せた。
僕は、エリクが引いた縄のことをもっと説明しようとした。
その前に、袖を軽く引かれた。
「俺が言う」
エリクだった。
僕は頷いて、一歩だけ横へずれた。
彼はノエルの描いた見取図を開いた。
「ここに板を置いて、こっちから縄を引きました。蜘蛛が全部入るまで待って、扉を落とした。準備だけじゃないです」
鉛筆の線を指でたどる。
言葉はつっかえた。でも、指は迷わなかった。
マルタさんが、別の机からこちらへ来た。
話を聞くと、依頼人の確認書と見取図を並べた。
「これでは現場の記録と合っていないわ。捕獲装置の操作も追記しましょう」
「査定区分は審査係の判断だ」
「だから、何をしたかを抜かずに審査へ回すの」
その場で、全部が決まったわけではなかった。
エリクの行動は書き足されたが、戦闘実績としての扱いには、確認中という印がついた。
僕はその印が嫌だった。
蜘蛛は檻へ入っている。
引いた縄も、落ちた扉も、見れば分かるのに。
「前の記録は、どうなってますか」
エリクが聞いた。
「領都で作った警報とか」
「残っているわ。今回の査定で消えるものではないし、Dの登録も変わらない」
マルタさんは記録を開いて見せた。
エリクは自分の控えと見比べ、頷いた。
今日の紙も、同じ袋へ入れる。
強く押し込んだから、端が少し折れた。
彼はすぐ取り出して、丁寧に伸ばした。
僕は隣で待っていた。
◇
「僕がもっと、ちゃんと言えたら」
食堂脇の長椅子へ座ってから、つい口に出した。
エリクは滑車の軸を見ていた。
「ルカのせいじゃないだろ」
「でも」
「アインが火を出せなかった方がよかった、とは思ってないぞ」
顔を上げて言われた。
僕は言葉をなくした。
「今日、助かったのは本当だし。俺も、うまくいったと思った」
彼は滑車を回す。
半分だけ回って、止まった。
「うまくいったのに、これかよって思っただけ」
アインが僕の膝から降り、エリクの靴のそばへ座った。
『あの板は、よい板であった』
伝えると、エリクは少し笑った。
「板を褒めるんだ」
『動かした者もだ』
僕が続きを伝える前に、アインは彼の道具袋へ鼻を押しつけた。
エリクが白い背を撫でる。
僕は、それを見ながら続きを言った。
「また組もうぜ」
エリクが言った。
「今度は曲がらない滑車で」
アインが短く鳴いた。
僕には、当然だ、と聞こえた。
◇
その日の午後、ベルンさんが一枚の依頼票を持ってきた。
山越えの隊商護衛。
必要な資格はD。責任者の欄には、まだ名前が入っていない。
「北へ向かう便だ。風の王の領域へ行く街道につながる。ただし、途中で仕事を放り出して王を捜しに行くのはなしだ」
僕は地図を覗き込んだ。
あの山で、ヴァルガンに教えてもらった方向。
ずっと地図の上で指を置くだけだった場所へ、道が伸びている。
「行けるんですか」
「準備ができていればな。俺も同行する。お前とエリクは、まだ十三歳になっていない」
「分かってます」
二人で答えて、顔を見合わせた。
前にも、こんな返事をした気がする。
でも今度は、地図を見るだけでなく、宿と水場の印を探していた。
ミレアは日数を確かめてから頷いた。
「おばあちゃんには、次は長い旅に出るって書いてある。出発の日が決まったら、もう一通送る」
水筒の中で、ポロが跳ねた。
「知らない土地の水も見たい。飲める水を用意できるようになりたいし」
ノエルは、途中の町を指した。
「ここの支部にも、ユアンの照会を出してる。返事がないから、着いたら聞きたい」
所在が分かったわけではない。
それでも、手紙を待つだけでなく、自分で尋ねられる場所がある。
ベルンさんは、護衛が終わった後の時間で調べようと言った。
エリクは道具袋の口を締めた。
「父さんへの手紙、今日出す。遠くへ行く前に知らせるって約束してるから」
僕も姉上へ書こうと思った。
袖が短くなったこと。
アインの火で、誰かを助けられたこと。
そして今度は、自分で選んで遠くへ行くこと。
『我の分も書け』
「何て?」
『菓子は旅先でも受け取れるか、と』
僕が笑うと、エリクが理由を聞いた。
伝えたら、みんなも笑った。
依頼票に書く名前は、四人と、責任者のベルンさん。
契約精霊の欄には、アイン、ポロ、ネロ、テト。
エリクの欄には契約精霊なしと書く。その隣の担当欄には、装具の点検と護衛中の仕掛けの操作を、本人が書いた。
その文字を、僕は覚えておこうと思った。
依頼を受ける前の打ち合わせで、隊商の責任者が支部へ来た。
挨拶を済ませると、日に焼けた男の人は地図の峠を指した。
「一つ、先に伝えておきたいことがある」
ベルンさんが顔を上げる。
「この道で、何か変わったのか」
「風が止まるんです」
男の人は言った。
「峠全部じゃない。道の途中だけ、旗が垂れる。前の便では、そこを抜けた途端、倒れかけていた荷車が急に横へ振られた」
僕は地図から目を離した。
アインも、菓子の話をやめていた。
「いつからだ」
「二つ前の便では、なかったそうです。荷を軽くして引き返した者もいます」
ベルンさんは依頼票を、まだ受付へ渡さなかった。
「危険度を確かめる。調べた結果によっては、護衛より先に街道の調査が必要だ」
男の人が頷く。
僕はアインの背へ手を置いた。
『周りでは吹いておるのに、そこだけ止まるのか』
小さな声だった。
アインにも、何が起きているかは分からない。
僕も、すぐに灰喰いだとは言えなかった。
ただ、地図の上にあった遠い道が、急に近くなった気がした。
風の王へ会いに行く。
その旅は、会えるかどうかを考えるより先に、無事に辿り着く方法を探すところから始まった。




