30話 白い相棒と、最初の炎
朝、鼻先へ何かが触れた。
目を開けると、白い顔がすぐ前にあった。
『遅い』
僕は動けなかった。
アインが、自分で立っている。
昨日まで、籠の中で薄くなっていた相棒が、僕の胸へ前脚を乗せている。
『食べ物はどこだ』
「……起きたの?」
『二度、呼んだ』
「聞こえなかった」
『おぬしは寝すぎだ』
僕はアインを抱きしめた。
小さな声で文句を言われた。毛が鼻へ入って、くしゃみが出た。
それでも離せなかった。
「ルカ?」
隣で寝ていたエリクが、目を擦った。
僕の腕の中を見て、止まる。
「起きたのか」
『同じことを申すな』
「同じこと言うなって」
伝えると、エリクは笑った。
それから僕と同じように、白い背へ手を伸ばした。
アインは避けなかった。
ベルンさんは、呼ぶとすぐに来た。
アインを台へ乗せ、歩く様子を見た。昨日まで薄かった脚も、尾も、今は朝の光の中にはっきり見える。
「立てたからと走らせるな。まず食事、それから休む」
『我に命じるでない』
「命じられるくらい元気なのは見た」
ベルンさんには言葉が聞こえていない。
僕が顔を見ていたら、分かったらしい。通訳すると、先生は少しだけ笑った。
空だった皿へ、姉上の菓子を小さく割って置いた。
アインが匂いを嗅ぐ。
前脚で一つ押さえ、口へ運ぶ。
ぽろりと屑が落ちた。
何でもない食べ方なのに、ずっと見てしまった。
『見られては食いにくい』
「うん」
返事をしても、目を逸らせなかった。
朝食のあと、僕たちはもう一度岩庭へ出た。
ヴァルガンは大きな岩のそばにいた。
山頂から下りてきたのか、夜も近くにいたのかは分からない。
赤い目がアインを見た。
『姿は保てておるな』
アインが胸を張った。
『当然である』
昨日までのことを忘れたような顔だった。
僕が見つめると、アインは少しだけ耳を伏せた。
『……借りは覚えておく』
王の鬣が揺れた。
笑ったのかもしれない。
『今日は、小さく確かめるだけだ』
石の窪みに、平たい皿が置かれた。
周りには燃える草も布もない。水と砂を離れた所に用意し、僕の袖もミレアにまくってもらう。
人を温める実験ではない。
怪我を治せるか試すのでもない。
まず何が出て、止められるか。それだけだとベルンさんに言われた。
アインは皿の前で前脚を上げた。
何も起きなかった。
もう一度、上げる。
何も起きない。
エリクが口を開きかけ、閉じた。
僕も黙った。
急いでできると言って、できないアインを困らせたくなかった。
『見すぎである』
「見ててって言ったじゃないか」
『ほどほどに見よ』
通訳すると、エリクが噴き出した。
アインはそちらを睨み、前脚を皿へ近づけた。
白い尾の横に、細い光が伸びた。
僕は息を止めた。
もう一本の尾の形だった。
先だけが赤く、風もないのに揺れている。
次の瞬間、石皿の上へ小さな火が灯った。
蝋燭より小さい。
少し息を吹きかけたら消えそうな火だ。
でも、近くの焚き火から取ったのではない。
誰かの精霊へ返したものでもない。
アインが、自分で生み出した炎だった。
「出た」
声が細くなった。
アインの目が輝いた。
『見たか』
「見たよ」
『もっと驚け』
「すごい」
それしか出てこなかった。
あの日、晶盤は光らなかった。
誰かが笑い、誰かが僕を見ないようにした。
僕もアインも、何ができるのか知らなかった。
でも今、石皿に火がある。
強いかどうかより先に、僕はそれが嬉しかった。
ヴァルガンが言う。
『小さく保て。増やそうとするな』
アインが前脚を下げた。
炎が少し丸くなる。
二本目の尾の先が、同じように揺れた。
ベルンさんが僕の顔を見る。
「冷えは」
「ありません」
「アインは」
僕は尋ねてから伝えた。
「疲れるけど、前みたいに引っ張られる感じじゃないって」
『もうよい。消してみよ』
王の声で、アインが目を細めた。
火が小さくなり、石皿へ吸い込まれるように消えた。
二本目の尾も、淡くなって見えなくなる。
残った白い尾は一本。
僕は指で数えず、アインの顔を見た。
「できたね」
『うむ』
得意そうに頷いてから、アインは僕の腕へ戻ってきた。
少し疲れたのだろう。
もう一度とは言わなかった。
僕も頼まなかった。
ミレアが石皿へ手を近づけ、まだ熱いから触らないよう皆へ教える。
火が消えても、熱は残る。
初めてできたことの後始末まで見てから、僕たちは木陰へ下がった。
「これで、水も出せる?」
エリクが聞いた。
アインは首を振る。
『今は、火だけだ』
僕が伝えると、彼は頷いた。
「そっか。井戸の水は、返したんだもんな」
何でもできるようになったわけではない。
そのことを、僕たちは一緒に確かめた。
ヴァルガンは僕たちを見ていた。
『昨日見えたものは、我にも残っておる』
暗い場所。
遠ざかる赤い光。
また会おう、という声。
「誰の記憶ですか」
『まだ分からぬ。無理に続きへ手を伸ばせば、今つながった道を傷めるやもしれん』
アインは不満そうだった。
でも僕が背を撫でると、黙った。
『ほかの王にも、似たものがあるかもしれぬ』
ヴァルガンが続けた。
『風、水、土、影、光。我と同じく、長くこの世界に在る者たちだ』
「会いに行けば、アインのことが分かりますか」
『確かめる価値はあろう。答えまで同じとは限らぬがな』
王は、試練だから教えないとは言わなかった。
風の王の領域へ向かうには長い旅が必要だと教え、詳しい道は季節と街道の様子を調べるようベルンさんへ伝えた。
今すぐ出発する話ではなかった。
僕たちは一度帰り、休まなければならない。
その日の夕方、イレーネさんに預けた道具を受け取り、山麓の宿へ戻った。
参道では、アインを籠に入れて運んだ。
歩けると言ったが、少しして自分から眠った。
今度は覆いの隙間から、白い毛がはっきり見える。
宿へ着くと、御者さんたちが顔を上げた。
「会えたかい」
「はい」
僕は籠の覆いを上げた。
アインが片目を開く。
「返事も、できるようになりました」
御者さんはそれ以上尋ねず、よかったなと言ってくれた。
翌朝から、僕たちは三日かけて領都へ戻った。
来たときと同じ街道を、同じくらい休みながら進む。
アインは馬車の揺れに文句を言い、昼のパンを欲しがり、眠くなると僕の膝へ戻った。
いつもなら、少しうるさいと思ったかもしれない。
僕は毎回、ちゃんと返事をした。
帰り道の最後の休憩で、御者さんが僕へ菓子を一つくれた。
山麓の宿で分けてもらった残りだという。
僕が半分に割ろうとすると、アインが鼻を寄せた。
『我にも』
「分かってる」
半分ずつ、同じ大きさにした。
アインは二つを見比べ、小さい方がないことを確かめてから食べた。
僕は笑った。
そんなことまで戻ってきたのが嬉しいとは、以前なら思わなかった。
食べ終わると、僕たちは一緒に馬車へ戻った。
領都へ着いた日は、門の横に新しい掲示があった。
中央炉は停止中。
北と東の封鎖へ近づかないこと。
灰喰いは、いなくなっていなかった。
見張りは七体を五つの場所で監視し、傷んだ柵を外側から替えていた。姿が小さいままだから終わり、とはしていない。
ベルンさんは支部で引き継ぎの報告を受け、僕たちは宿へ荷を下ろした。
トーマさんは歩けるまで回復し、まだ仕事には戻っていないという。
そのことも、僕はアインへ教えた。
『あの者も戻ったか』
「うん。アインもね」
翌日、ハルデン支部と領都支部の合同審査が開かれた。
僕たち四人は、同じ机の前に並んだ。
「討伐数は全員ゼロです」
審査員が言う。
エリクが少し身構える。
「そのうえで、救助、避難、記録、設備作成、負傷者対応の個別功績を確認しました」
金属の登録札が四枚置かれる。
Dの文字。
僕、エリク、ミレア。
そしてFだったノエルにも、Dの札がある。
「ノエル・ラヴィンについては、F級からの特例二段階昇格です。領都規模の緊急依頼で、影板による警報と所在確認を担当した実績、ベルン・アステルの監督記録、本人の保護状況を審査しました」
ノエルは札へすぐ触れなかった。
「ネロの力を使ったからですか」
「それだけではありません。灰喰いの近くで力を使わない判断と、誰にでも読める合図を作ったことを含みます」
ノエルが、やっと札を取った。
エリクは自分のD札を裏返した。
「精霊がいなくても?」
「警報装置と避難誘導は、君の個人功績として記録されています」
「あとで消えませんか」
十歳の声だった。
僕は隣で何も言えなかった。
消えないと決めるのは、僕ではない。
審査員は元記録と写しを二枚並べた。
「領都、ハルデン、本人控えの三か所へ同じ記録を残します。訂正する場合も、元の記載は消しません」
エリクはしばらく見てから、札を握った。
「なら、持っておきます」
父上にも、王へ会えたことを報告した。
話す場所は作戦室ではなく、宿の小さな応接間だった。
父上はアインの姿を見てから、僕の話を聞いた。
小さな火を出せたことも。
王がアインを知らなかったことも。
知らない記憶が少しだけ見えたことも。
僕が話し終えると、父上は短く頷いた。
「そうか」
それだけだった。
でも、アインを差し出せとは言わなかった。
「お前たちの働きは、救援記録に残した。エリクたちの役割も分けてある」
「ありがとうございます」
家へ戻れとは、やはり言わなかった。
僕も今ここで、戻してほしいとは言わなかった。
まだ話せていないことが、たくさんある。
守ろうとしたなら、なぜ何も言わなかったのか。
家の恥と呼ばれたとき、どう思っていたのか。
今日は全部を聞ける気がしなかった。
それでも一つだけ、伝えた。
「道が分かって、助かりました」
父上の指が、膝の上で少し動いた。
「参道は通れたか」
「はい。古い渡し場は、宿の人に教えてもらって回り道をしました」
「地図は直しておく」
普通の話だった。
それが、少し嬉しかった。
兄上は後日、宿へ書類を届けに来た。
玄関でアインと目が合っても、嫌な顔をしなかった。
「トーマが、礼を言っていた」
「助けに行ったのは兄上です」
「お前たちが気づかなければ、間に合わなかった」
言ってから、兄上は紙を僕へ渡した。
「精霊の回復も、記録へ加えた」
その紙には、アインの名があった。
外れ精霊とは書かれていない。
僕は小さく頭を下げた。
それから二週間ほど、僕たちは領都で休みながら暮らした。
灰喰いの囲いへは行かない。
アインの火も、ベルンさんが見ているところで小さく試すだけ。出すたび二本目の尾が現れ、消すと一本へ戻る。
水も風も、まだ生み出せない。
残った力を無理に引き出そうとはしなかった。
ある午後、封鎖区画から離れた支部の訓練用中庭で、ダリオさんが火を見に来た。火を使う許可は、見張りの報告を確かめたベルンさんが取ってくれた。
パルも肩のそばにいた。小さな炭の塊に似た炎精霊だ。
アインが石皿に火を出すと、パルがゆっくり近づいた。
二本目の尾を見て、それから火を見る。
アインは得意そうだった。
『どうだ』
「どうだって言ってます」
ダリオさんは屈んで、石皿の端を見た。
「長く同じ大きさで保つ方が、難しいぞ」
アインの耳が動く。
『知っておる』
「今知ったんじゃないの?」
僕が聞くと、尾が腕を叩いた。
みんなが笑った。
その日の練習では、小さな金属の器へ入れた水を少しだけ温めた。患者へ使うのではなく、温度を確かめるための水だ。
僕たちは離れた所から見て、時間が来たらアインに止めてもらった。
ミレアが器の熱を確かめてから、中のぬるい水を布へ少し含ませる。
温かい布が、僕の汚れた指を拭いた。
「アインの火で温めた水だよ」
言われると、ただの温かさが違って感じられた。
大きな獣を倒す火ではない。
でも、誰かから奪わずに作った温かさが、僕の手に届いていた。
『次は、もっと上手くやる』
アインが言った。
「うん。今日は、もう休もう」
今度はすぐに頷いた。
エリクはダリオさんの工房へ通い、肩紐の代金ぶん働いた。
ミレアは祖母へ手紙を書き、ノエルはマルタさんから届いた照会の続きを読んだ。神殿へ求めた七日以内の回答期限は、もう過ぎていた。必要な記録がそろっていないため、マルタさんは回答の催促も続けているという。
ユアンの所在はまだ確定せず、捜す場所だけが少し増えた。
誰かの問題が、一度の戦いで全部なくなったわけではない。
僕も、家名を失ったままだ。
それでも帰ってきたアインが、毎朝僕の袖を引く。
それが今の僕には、一番大きなことだった。
出発を相談した日、僕たちは宿の庭へ集まった。
すぐ遠くの王へ向かうのではなく、まずハルデンへ戻る。そこで勉強し、近くの依頼を受け、長い旅の準備をする。
ベルンさんが地図を広げた。
「次の旅は、自分で帰れる力をつけてからだ。Dになっても、十歳を大人扱いするつもりはない」
エリクが肩をすくめる。
「分かってます」
「今の顔は、分かってない顔だ」
僕たちは笑った。
アインが地図の端へ座る。
『我は風の王にも会ってみたい』
「風から?」
『火の次は、風がよい』
「理由は?」
アインは考えた。
『まだ、分からぬ』
僕は頷いた。
分からないなら、一緒に調べればいい。
「僕も行きたい」
エリクが地図を見る。ミレアが水筒を抱き直し、ノエルがネロの背を撫でた。
誰かに命じられた旅ではない。
四人で決めて、相棒たちにも聞いて進む道だった。
夕方、ベルンさんの見ている前で、アインがもう一度だけ火を出した。
石皿の上の、小さな炎。
風が吹くと、細く揺れた。
エリクが板を立て、風よけを作った。ミレアが皿の周りから枯れ葉を拾い、ノエルは僕の袖が近づかないよう引いた。
アインは火を少し丸く保った。
『見たか。昨日より揺れぬ』
「うん。エリクの板もあるからね」
『それも、我らの力であろう』
僕は笑った。
「そうだね」
白い相棒が、僕を見上げる。
選定の日、誰も分からなかった小さな精霊。
今も、名前以外は知らないことばかりだ。
でもアインは、もう何もできない相棒ではなかった。
僕も、ただ選ばれるのを待つだけの子どもではない。
小さな火を囲んだまま、僕たちはまだ見えない道の話をした。




