28話 精霊が選ぶ道
山へ入る朝、僕はアインに尋ねた。
「会いに行っても、いい?」
籠の中で白い体が動いた。
目は開かない。
それでも胸の奥へ、弱い肯定が届いた。
僕は昨日まで、連れていくよとばかり言っていた。
助けたいから。
消えてほしくないから。
それは僕の願いだった。アインも同じように望んでいるか、ちゃんと聞けたのは今だった。
「ありがとう。嫌になったら教えてね」
籠の縁へ指を置いた。
小さな鼻が触れた気がした。
朝食のあと、ベルンさんが僕を診た。
頭は痛くない。歩いてもふらつかない。指先も冷たくない。
「行こう。ただし、予定より休んでも気にするな」
僕は頷いた。
御者さん二人は馬車と一緒に山麓の宿へ残る。
山道へ入るのは僕たち四人と、ベルンさんとイレーネさん。精霊たちは、それぞれのそばにいた。
アインの籠は、最初の区間をベルンさんが持った。
僕が持ちたいと言うと、ベルンさんは籠を少し持ち上げてみせた。
「一緒に行くのと、全部一人で運ぶのは違う」
言い返せなかった。
僕は籠の横を歩いた。
道は、思ったより歩きやすかった。
坂は緩く、足を置くところには平たい石が埋められている。ところどころ、木の根に押されて石が浮いていた。
イレーネさんが先に確かめ、歩きやすい側を指す。
ロッソは炎を出さず、赤銅色の犬の姿でそばを進んだ。
テトが道の端へ鼻を寄せる。いつもなら地面を少し直してくれることもあるが、今日は勝手に土を動かさなかった。
「ここは誰かの庭みたいなものだからな」
ベルンさんが言った。
「困ったら道を借りる。入った途端に好きな形へ作り替えるな」
エリクが転びかけて、僕の肩を掴んだ。
二人とも止まる。
「ごめん」
「根っこ?」
「石」
彼の指の先に、半分だけ土から出た石があった。
僕は同じ石に足を乗せないよう、大きく避けた。
王のいる山でも、転ぶ原因は普通の石だった。
休憩場所の水場には、浅い木の樋があった。
水は冷たく、石の窪みに溜まってから細い沢へ流れている。ミレアがポロと確かめ、飲み水を少し補った。
僕は籠へ顔を近づけた。
薄さは変わらない。
いつものように、先へ行って待っているアインはいない。
その代わり、エリクが先へ出かけては振り返り、ノエルは僕が立つまで水筒をしまわなかった。
僕たちは、全員が同じ速さで歩けるわけではない。
でも今日は、遅い僕とアインに合わせてくれていた。
「遅くなって、ごめん」
言うと、ミレアが首を傾げた。
「誰に追いつくの?」
「え?」
「待ち合わせ、してないでしょう」
王が何時まで待つと約束したわけでもない。
急いで倒れたら、かえって遠くなる。
僕は少し笑って、水を飲んだ。
二度目の休憩を終えた頃、木々の間が明るくなった。
左右に、大きな黒い岩が立っている。
門扉はない。鎖もない。
その間だけ、風が通らなかった。
道端の草は揺れているのに、岩の向こうに落ちた枯れ葉は動かない。
僕はアインを見た。
白い耳が立った。
今朝、初めてはっきりした動きだった。
「ここ?」
イレーネさんが地図を開いた。
宿の主人が書き足した印と、二つの黒い岩を見比べる。
岩には、小さな文字が刻まれていた。
風雨で角が丸くなり、僕には全部読めない。
ベルンさんが杖の先で指す。
「先へ行きたいなら、相手の返事を待て。そういう意味だな」
エリクが岩の裏を覗きかけて、戻った。
「仕掛けがあるのかな」
「あるかもしれん。なくても、待つ」
ベルンさんは答えた。
入ったら罠が動くから。
兵士に止められるから。
そういう理由でないと止まれないのは、おかしいのかもしれない。
僕は足元を見た。
誰かの家へ来たなら、呼ばれる前に入らない。それと同じだと思うと、少し分かった。
宿を出て、休憩も含めて二時間ほど経っていた。
「ここから先が境界です」
声が小さくなった。
僕たちは岩より手前で止まった。
ロッソは、イレーネさんの膝へ鼻を押しつけた。
「緊張しているのですか」
問われると、短く鳴く。
イレーネさんが目を細めた。
「それだけではない、と。近くまで来られて嬉しいようです」
ポロも水筒から顔を出している。けれどロッソのように前へ進まず、ミレアの指へ頬を寄せた。
同じ精霊でも、感じるものが違うのだろう。
「ロッソは、王様に会ったことあるのかな」
僕が聞くと、イレーネさんは首を振った。
「私と共にいる間はございません。私と契約する前のことまでは、私にも分かりません」
アインなら、何と言うだろう。
僕は腕の中ではなく、まだベルンさんが持つ籠へ目を向けた。
白い耳は、岩の向こうを向いたままだった。
イレーネさんは剣を外し、布の上へ置いた。短い刃物も、エリクの工具袋に入った刃のある道具も、境界の外へまとめる。
「やっとこも?」
エリクが聞く。
「何に使うものかは、こちらの都合です。お会いする前に疑わせないため、今要らない物は置いていきましょう」
ベルンさんの杖は、歩くために必要だ。
それは最初に伝えて許しを求めることになった。
イレーネさんは荷のそばへ座った。
エリクは工具袋を床へ置く前に、中の物を一つずつ触っていた。
いつもなら、足りない物がないか確かめる手つきだ。
今日は、持っていかない物を確かめている。
「袋も、なくて大丈夫?」
僕が聞くと、エリクは頷いた。
「王様のところで、車輪は直さないだろ」
冗談のつもりだったと思う。
でも袋を離すまで、少し時間がかかった。
精霊を持つ僕たちは、相棒と一緒に入る。
エリクは頼りにしている道具を置いていく。
同じように見えても、同じではなかった。
僕は何も言わず、彼が立つのを待った。
イレーネさんが袋を自分の足元へ寄せる。
「責任を持ってお返しします。中の配置も変えません」
「お願いします」
エリクは頭を下げた。
「私はここでお預かりします」
「一緒に来ないんですか」
「どなたかが残らなければなりません。ロッソも一緒ですから、ご心配なく」
ロッソが短く鼻を鳴らした。
アインは籠の中で、ゆっくり顔を上げようとした。
途中で力が抜ける。
僕は慌てて手を入れた。
「持つよ」
ベルンさんが籠を岩の手前へ置き、底の布ごとアインを渡してくれた。
抱き上げたとき、白い体の向こうに僕の袖が見えた。
薄い。
でも、頭の奥に声が触れた。
『……我が、行く』
途切れそうな短い言葉だった。
「うん。一緒に行くよ」
アインの目が、岩の間へ向く。
僕の腕から下りようとする、小さな動きがあった。
「一人で?」
『我が……望んだ』
精霊自身が願う。
その作法を、アインも聞いていた。
人に抱かれていたら、自分で望んだことにならないと思っているのかもしれない。
僕は腕を緩めず、しゃがんだ。
目の高さを近づける。
「自分で歩くって意味じゃないって、父上も言ってたよ」
アインは僕を見た。
銀色の目の縁が、光に溶けそうだった。
「僕も行きたい。アインが何を聞いたか、あとで一人で考えなくていいように」
白い前脚が、僕の指へ乗った。
それから、言葉とは違うものが広がった。
風のない場所へ、遠くの火のそばに座ったような温かさが届く。
僕が知っている焚き火とは違う。
寂しさと、疲れと、それでも顔を上げる気持ちが重なっていた。
アインの共鳴語だ。
人間の耳には聞こえなくても、誰かへ向けて問いかけている。
僕は口を閉じた。
代わりに願いを言ってしまわないように。
白い相棒が伝え終えるまで、待った。
何も起きなかった。
黒い岩は、ただそこに立っている。
一歩進めば入れるように見えた。
けれどベルンさんは動かなかった。ミレアもノエルも、僕の後ろで待っていた。
遠くで、鳥が一度鳴いた。
その声が消えると、また静かになった。
僕は岩の向こうを見た。王には、僕たちが見えているのだろうか。
もし見えているなら、どんなふうに見えるのだろう。
小さい精霊を抱いている、赤い髪の子ども。
炎の精霊に選ばれなかった、名門の子。
そこまで分かるのかは知らない。
でも、今はアインを助けたいと思ってここにいる。そのことだけは、見てほしかった。
僕の横で、エリクが靴の土を擦った。
ミレアは水筒の紐を持ち直し、ノエルはネロの耳へ顔を近づけている。
待つのが平気な顔をしている人は、いなかった。
僕だけが怖いのではない。
そう気づくと、誰かに手を貸してもらうのが、少しだけ恥ずかしくなくなった。
僕の腕が少し震えた。
アインが重いからではない。
返事が来なかったら、どうすればいいのだろう。
ほかの王を探すのか。
その間、この子は同じ姿でいてくれるのか。
考えたくないことが、次々と浮かんだ。
「返事は、まだ?」
エリクが小声で聞いた。
僕は頷く。
「まだ」
エリクはそれ以上聞かなかった。
代わりに、アインを包む布の垂れた端を持ってくれた。僕の手から滑らないように、下を支える。
そのとき、岩の間の枯れ葉が動いた。
こちらへ吹く風ではない。
左右へ開くように、一枚ずつ道の端へ寄る。
日陰だった石畳が、奥から順に明るくなった。
『白き者。その願い、聞いた』
低い声が響いた。
僕の頭の中だけではなかった。
エリクが顔を上げ、ミレアが息を呑む。ノエルの肩で、ネロが身を低くした。
『抱く者と共に、進め』
僕はアインへ顔を寄せた。
「いいって。一緒に」
アインの目が、わずかに細くなる。
ベルンさんが杖を両手で持ち、岩の前へ出た。
「私は精霊療師のベルン・アステル。この二人の治療を引き継いでいただきたい。杖を使い、そばまで同行する許しを願います」
少し間があった。
僕はベルンさんまで残されるのかと、振り返った。
『診てきた者か。共に来よ』
ベルンさんは一礼した。
そのあと、ポロとネロも動いた。
水筒から小さな波が広がり、足元の影が一度だけ丸く揺れる。
ミレアとノエルは、それぞれの相棒を見た。僕には二体が何と言ったか分からなかった。
『水の子と影の子。そなたらの同行者も認める』
二人が静かに頭を下げた。
エリクだけが残った。
工具袋を置いた場所へ目を向ける。
「俺、イレーネさんと待つ」
僕は言葉を探した。
お願いしてみると言ったのに。
その顔は、断られる前に下がろうとしているように見えた。
アインの耳が動いた。
『……待て』
僕へ届く声だった。
「エリク。ちょっと待って」
アインがもう一度、境界の奥へ顔を向けた。
短い共鳴が広がった。
今度は僕にも、見慣れた手の感触が分かった。
縄を結ぶ指。
転びそうな僕を掴む腕。
籠の布を持つ、隣の手。
『この者も、共に来た』
アインが僕へ意味を伝えた。
僕はそのまま口にした。
「エリクも、一緒にここまで来た仲間だって」
エリクは僕を見た。
次に、アインを見る。
奥から返事が届いた。
『呼ばれた者よ。そなた自身は、何を望む』
エリクの肩がびくりと動いた。
僕ではなく、彼へ向けた声だった。
「アインが、よくなるところを見たいです」
少し詰まった。
「それから、一緒に帰りたい」
『ならば、進め』
エリクはしばらく動かなかった。
僕が袖をつつくと、ようやく頷いた。
「……行っていいんだ」
「うん」
小さな声で確かめ合った。
王は、エリクに精霊がいないからとは言わなかった。
それだけで、人間の町の扱いまで変わるわけではない。
でも今、この道を彼も歩ける。
アインの前脚が、布を支えるエリクの指へ触れた。
エリクは笑いそうになって、口元を引き結んだ。
「ありがとな」
ベルンさんが空の籠を拾い上げてから、僕たちは境界を越えた。
急に暑くなることはなかった。
頬を撫でる空気は穏やかで、草の匂いに乾いた石の匂いが混じる。
山頂はまだ遠く高い。
道はそこへ向かわず、斜面に沿って横へ続いていた。
足元の石が少しずつ暖かくなった。
靴を通して熱いわけではない。休憩のため触れた岩に、朝の日向へ置いた毛布のような温もりが残っていた。
僕は手を離してアインを見た。
白い鼻が小さく動く。
何か感じているのかもしれない。でも、この暖かさでよくなったとは、まだ言えなかった。
ノエルが後ろを振り返る。
境界の向こうに、イレーネさんの姿が見えた。
まだ声の届くほどの距離だ。違う世界へ飛ばされたわけではない。
イレーネさんは僕たちに気づき、片手を上げた。
僕も空いた指を小さく振った。
ここから戻る道がある。
そのことが、目の前の知らない場所を少しだけ怖くなくした。
少し歩くと、丸い岩庭へ出た。
平らな石の中央に、浅い窪みがある。その周りには背の低い木が並び、枝先に赤い葉を残していた。
誰も座っていない。
僕は足を止めた。
「ここで、待つんですか」
返事をしたのはベルンさんではなかった。
石の向こうで、足音がした。
大きな赤い獅子が歩いてきた。
父上のラウドより、ずっと大きい。
鬣は燃えていた。けれど火の粉が木へ飛ぶことはない。炎が形を保ったまま、呼吸に似た動きで揺れている。
土を踏み、岩のそばで止まる。
遠くの姿を映した幻ではなかった。
目の前の空気が暖まり、僕の頬へ光が当たった。
「炎の、精霊王……」
誰かが囁いた。
赤い獅子は、僕たちを見た。
最後に、腕の中のアインへ目を落とす。
『我は赫炎王ヴァルガン』
その名が、岩庭へ響いた。
僕は膝をつこうとして、アインを抱いたままではうまく動けなかった。
王の目が細くなる。
『礼より先に、その者を支えよ』
ベルンさんが僕の肘へ手を添えた。
僕は立ったまま、頭を下げた。
「アインを、助けてください」
声にしたら、ここまでの道が急に長く感じられた。
馬車の音。
雨。
籠の横の空の皿。
何度呼んでも返事のなかった夜。
全部、腕の中へ重なった。
「何が起きたのか、僕たちには分からないんです」
王は問い返さず、一歩近づいた。
大きな鼻先が、アインの白い耳より少し上で止まる。
『まず、休める姿に戻そう』
その言葉を聞いて、僕は初めて大きく息を吐いた。




