27話 君を連れていく
出発の朝、アインの籠には屋根がついていた。
細い木の棒へ布を渡しただけの、小さな日よけだ。
「ずっと上から覗いてると、眩しいだろ」
エリクが言った。
「アインが眩しいって言ったの?」
「言ってない。お前が一晩、顔を近づけてたのは見た」
僕は少し黙った。
心配で見ていたつもりだった。でも眠っているなら、落ち着かないかもしれない。
「全部は閉じないでね」
「分かってる」
エリクは布の片側を巻き上げた。籠の中から、僕の顔が見える。
毛布を詰めすぎないよう、ミレアが底を直した。ノエルは籠を置く場所に座って、窓から入る風を確かめる。
僕が抱いて乗るのだと思っていた。
けれどベルンさんには、揺れたとき一緒に落ちるから固定するよう言われた。
籠は僕の膝の横へ、幅広の紐で留める。
触れることはできる。
アインが動きたくなったら、僕が紐を外せる。
何もかも僕の腕で支えるより、その方が安心だと、ようやく思えた。
馬車は二台だった。
二頭ずつの馬に、それぞれ御者さんが一人つく。先の馬車には僕とベルンさん、ミレア。後ろにはエリク、ノエル、イレーネさんが乗った。
精霊たちも、それぞれの相棒のそばにいる。
城門まで見送りに来た姉上が、僕へ包みを渡した。
柔らかい布と、焼いた菓子だった。
「食べられるようになったら、アインにも」
「うん」
「あなたも食べるのよ」
「分かってるよ」
姉上は僕の返事を聞いても、手を離さなかった。
僕の頬を見て、アインの籠を見て、それから、やっと下がる。
「帰ってきたら、話を聞かせてね」
帰ってきたら。
その言葉で、喉がきゅっとなった。
屋敷へ戻れるという意味ではない。
それでも姉上は、僕がもう一度この町に来ると思って待ってくれる。
「いっぱい話すよ」
僕は答えた。
兄上は見送りには来なかった。父上も、北と東の監視のために残っている。
会えなかったことが少し寂しかった。
でも灰喰いはまだいる。僕たちが出る日にも、誰かが柵のそばで働かなければならない。
門が開く。
馬車が動き出した。
僕は姉上が見えなくなるまで手を振り、それから籠へ顔を向けた。
「南へ行くんだって。前の旅と、違う方」
白い耳は動かなかった。
それでも、話すのをやめなかった。
道は広かった。
向かいから来る荷車とすれ違うたび、御者さんたちが声を掛け合う。畑で働く人が顔を上げ、馬を水場へ連れていく子どもが手を振った。
僕より小さな子だった。
アインが見えたのか、両手を頭の上で尖らせる。
狐のまねらしい。
僕は手を振り返した。
「笑ってるよ」
アインへ教えた。
「あの子、アインが狐に見えたみたい」
いつもなら、狐ではないと言っただろう。
返事がないので、僕は勝手に代わりを言いかけた。
やめた。
アインの言葉を、僕が作ってはいけない。
「違うなら、起きたら教えてね」
籠の縁へ指を置いた。
少し先で、御者さんが休憩を告げた。
まだ昼には早かった。馬は疲れていないように見えたが、水を飲ませ、腹帯を緩める必要があるらしい。
「もっと進めませんか」
僕が聞くと、御者さんは馬の首を撫でた。
「今日は行けても、明日動けなくなったら困る。三日で着くための休みだよ」
三日。
長いと思った。
でも、三日より早くするために馬を倒せば、もっとかかる。
ベルンさんが馬車の踏み板から僕へ手を出した。
「降りるぞ。座りっぱなしも疲れる」
地面へ立つと、思ったより足が頼りなかった。
痛みはない。揺れが止まったのに、まだ体の中だけが揺れているようだった。
ベルンさんの腕につかまり、井戸のある木陰まで歩く。
「気持ち悪いか」
「ちょっと」
「言えたな。今日はその一周でいい」
ミレアが水を少し渡してくれた。
ポロは別の水筒から顔を出し、アインの籠を見る。力を使って励まそうとはしなかった。ただ、丸い目でそこにいた。
後ろの馬車から降りたエリクが、籠の固定紐を確かめた。
「ここ、擦れてる」
「もう切れそう?」
「まだ。布を挟む」
急いで結び目を増やすのではなく、木に当たる所へ小さな布を巻く。
何でも作り直すわけではない。
使ってみて、少し直す。
僕もベルンさんから、自分の具合をそうやって確かめてもらっていた。
昼には街道沿いの小屋を借り、パンを食べた。
菓子の包みを開けると、甘い匂いがした。
アインの鼻が動いた気がした。
僕はすぐに顔を近づけた。
「アイン?」
ミレアも覗いた。
白い体は、そのままだった。
「匂いが届いたのかもしれないね」
それ以上、ミレアは言わなかった。
回復した、と決めて喜ぶには小さすぎる動きだ。
でも僕は、包みを少しだけ籠に近づけた。
食べさせはしない。
ただ、いつもの匂いがそばにあるようにした。
夕方に着いた宿は、低い石塀で囲まれていた。
最初の夜は、まだ山が見えなかった。
御者さんたちが馬を厩へ入れる間、ベルンさんが部屋を見た。イレーネさんは宿の主人へ街道の様子を尋ね、明日通る橋が使えることを確かめていた。
僕は部屋へ入ってすぐ、籠の覆いを上げた。
昼と同じくらい薄い。
目を閉じている。
「変わってません」
報告すると、ベルンさんが同じ向きから確かめた。
「そうだな」
声を聞いた途端、涙が落ちた。
泣くつもりはなかった。
僕が驚いて拭くより先に、二つ目が落ちる。
「変わってないのに」
言ってから、続きが出なかった。
ベルンさんは隣の椅子へ座った。
泣くなとも、大丈夫とも言わない。
「……起きないんです」
僕はやっと言った。
「分かってる」
「何も言わない」
「うん」
「怒ってもいいから、話してほしい」
アインの背へ触れた。
僕が泣いたら起きるわけではない。
分かっていても、止まらなかった。
ベルンさんは水と布を置いてくれた。僕は少しずつ顔を拭き、最後には鼻までかんだ。
そのとき、頭の奥へ小さな温かさが触れた。
ほんの一瞬だった。
言葉ではない。
でも、慌てたような、困ったような感触だった。
「今、届きました」
ベルンさんが顔を上げた。
「何が」
「うまく言えないけど。アイン、僕が泣いてるのを気にしたみたいです」
声が裏返った。
「返事、しなくていいよ」
籠へ言った。
さっきまで話してほしいと泣いたのに、今は少しでも休んでほしかった。
「聞こえてるなら、それでいい。僕が話すから」
白い尾の先が、わずかに丸くなった。
寝る前、エリクが籠の日よけを畳み直した。
僕は椅子からその手を見ていた。
「エリクは、いつも何か直せるね」
「直せないのもある」
「でも、僕よりずっと」
エリクの指が止まった。
籠の棒ではなく、白い背を見ている。
「これでアインが元に戻るわけじゃない」
「……うん」
「火を返したのも、俺じゃないし」
僕は返事を探した。
すごかったよと言えば、少しは元気になるだろうか。
でもエリクが言っているのは、そこではない気がした。
「僕、籠が揺れなくなったから、手を離して水が飲めたよ」
エリクが顔を向けた。
「そこ?」
「うん。ずっと抱いてたら、こぼしたと思う」
「水くらい、言えば持つのに」
「だから、助かってる」
エリクは困ったように笑った。
「お前のそれ、でかいこと言わないよな」
「でかいこと?」
「町を救ったとか」
僕は籠を見た。
街の火を戻したときの光より、今はアインの耳が少し動く方が気になっていた。
「今は、お水が飲めてよかったんだよ」
エリクは頷いた。
作業を再開した手が、さっきよりゆっくりになった。
「じゃあ、明日もこぼさないようにしとく」
二日目は雨だった。
細い雨で、道が川になるほどではない。それでも馬車の音が変わり、乾いた土埃の代わりに泥が跳ねた。
イレーネさんは出発前、宿の主人から先の渡し場の話を聞いていた。橋へ回る道が使えるというので、御者さんたちと進路を確かめる。
父上の地図に線があるからといって、今日も同じように通れるとは限らない。
僕は馬車の窓から、そのやり取りを見ていた。
「父上の地図、間違ってたんですか」
「古くなった場所があるだけです」
イレーネさんが答えた。
「地図を捨てる必要はありません。今の道へ、書き足せばよいのです」
借りた地図の隅へ、別の紙が重ねられた。
父上がくれたものが役に立たなかったわけではない。
父上が知らないことを、ほかの人が教えてくれた。
僕は、その二つを一緒にして眺めた。
雨が強くなった昼頃、僕たちは街道の宿で長めに休んだ。
ノエルが窓のそばに座り、古い布を膝へ広げかけた。
すぐにしまう。
「ネロも休む日?」
僕が聞くと、ノエルは頷いた。
「昨日も、何も調べてない」
「調べたい?」
「うん。でも、ここには元の帳簿がないから」
何度同じ文字を見ても、ユアンの居場所は増えない。
ノエルは分かっているのに、しまった布へ何度も手を伸ばしていた。
僕がアインの籠を、何度も覗いてしまうのと似ていた。
「帰ったら、返事が届いてるか聞こう」
ノエルが僕を見た。
「アインがよくなったらね」
「うん」
約束しただけでは、どちらも解決しない。
それでも、帰ってからすることができた。
雨が弱まると、また馬車へ乗った。
道の脇に、壊れた荷車が一台あった。
御者さんが馬を止め、離れた場所から声をかけた。
車輪の修理を待っているだけで、人も馬も無事だという。近くの宿へ使いは出してあると聞き、ベルンさんが確かめに下りた。
僕は荷台の縁へ手をかけた。
手伝わなければ、と思った。
そのときアインの籠が小さく鳴った。車体が傾き、留め具が木へ当たった音だった。
僕は座り直した。
ここで待つのも、今日の役目だ。
エリクは工具袋を抱えたまま、ベルンさんが戻るまで下りなかった。
「直せそう?」
後ろに止まった馬車へ声をかけると、エリクが荷台から首を横へ振る。
「見えてる所だけじゃ分からない。替えの車輪が来るなら、触らない方がいいって」
僕たちは飲み水を一本渡した。修理の人が来る道を御者さんが教え、先へ進む。
全部の困り事を、自分で直さなくてもいい。
そう思いながらも、後ろを何度か振り返った。
夕方、追いついてきた別の荷車の人から、修理が始まっていたと聞いた。
僕とエリクは、顔を見合わせて息を吐いた。
二泊目の宿へ着いたとき、僕は昨日より少し多く夕飯を食べた。
アインは同じだった。
その日は泣かなかった。
泣かなかったから偉いわけでもないと思った。ベルンさんは僕の皿を見て、食べたな、とだけ言った。
三日目の午後、山が見えた。
尖った山頂ではなく、幾つも重なった黒い斜面。その上だけ、雲が薄く赤みを帯びている。
「灼天峰です」
イレーネさんが前の馬車から教えてくれた。昼の休憩で乗る場所を替え、今日は僕の向かいに座っている。
「頂上へ行くんじゃないんですよね」
「はい。お会いできるなら、山腹の岩庭へ」
「すごく熱いですか」
「その場所までは、私も入ったことがありません。麓で伺います」
知らないことを、知らないと答えてくれる。
僕はその声がありがたかった。
山へ近づくにつれ、畑の形が変わった。
平らな土地が少なくなり、低い石垣の上に畑が重なっている。働く人は、細い道を大きな籠を背負って歩いていた。
僕は思わず窓から身を乗り出した。
「落ちそう」
「毎日通る道なのでしょう」
イレーネさんが言う。
「ですが、慣れていても危ない場所はあります。知らない私たちが同じ速さで歩く必要はありません」
向こうの人が、一度止まって背中の荷を直した。
急な道だから、何もかも速くできるのではない。
止まる場所を知っているのだと思った。
僕は窓から顔を戻した。
明日の僕は、初めての道を歩く。
遅くてもいいから、アインを落とさず進もう。
籠の固定紐を引くと、エリクが巻いた布が間に見えた。
それも、ここまで誰かと来た印だった。
山麓の宿へ着いたのは、夕飯の支度が始まる頃だった。
窓の外には山があり、戸口には山道へ持っていく長い杖が何本も立てかけてある。
御者さんが馬を撫でた。
「着いたぞ。よく歩いた」
僕も四頭へ頭を下げた。
誰かに頼まれたのではない。ここまでアインを運んでくれた足へ、言いたかった。
宿の主人は地図を見て、参道の曲がり角を二つ確かめた。
「境界までは緩い道だ。途中の水場は使える。だが、その先を歩けるかは別の話だよ」
「王様が、会いたくなかったら?」
僕が聞くと、主人は頷いた。
「そのときは引き返す。昔からそうだ」
エリクが床へ目を落とした。
「俺は、外で待つのかな」
「どうして?」
「契約した精霊がいないから」
僕はすぐに、そんなことないと言いたかった。
でも、面会の作法は僕もよく知らない。
イレーネさんが首を振った。
「精霊が同行を願えば、契約者以外も招かれることがあると伺っています。人間の選定の結果だけで決まる場ではありません」
エリクは顔を上げた。
「ある、だけですよね」
「ええ。王の許しが必要です」
その返事を聞いて、エリクは少し考えた。
「じゃあ、お願いしてみる」
僕は頷いた。
一緒に来たのだから、一緒に聞きたい。
その夜、ベルンさんは僕を部屋の端まで歩かせた。
息は苦しくない。指も温かい。食べたものも戻していない。
「明朝も同じなら歩こう。疲れたら、その場で休む」
「途中で歩けなくなったら?」
「俺たちがいる。無理して隠すな」
僕はアインを籠ごと寝台の横へ置いた。
窓の外で、山の影が夜空を切っていた。
明日、この山へ入る。
会えるかは分からない。
何か知っているかも、助けられるかも分からない。
それでも、遠かった名前が、窓から見える場所になった。
「ここまで来たよ」
僕は囁いた。
白い耳が、声の方へ少し傾いた。
「もう少しだけ、一緒に行こう」
籠の覆いは、片側を開けておいた。




