26話 消えないで、アイン
目を開けたとき、最初に見えたのは知らない天井だった。
布の屋根ではない。木の梁に、小さな節が三つある。
僕は横へ手を伸ばした。
白いものがない。
「アイン!」
起き上がろうとして、肩を押さえられた。
「ここにいる」
ベルンさんの声だった。
寝台の横に、浅い籠が置かれていた。畳んだ上着の上で、アインが丸くなっている。
見えなかったのは、白い毛が薄すぎたからだ。
背中の向こうへ、上着の縫い目が透けていた。
僕は籠へ手を入れた。指先に、かすかに毛が触れる。
「朝より、薄くなりましたか」
ベルンさんはすぐに大丈夫とは言わなかった。
「運び込んでからは変わっていない。耳の先も、尾も、同じくらい見えている」
窓からは明るい光が入っていた。
決戦が終わって、まだ同じ日の午後らしい。
南広場の近くに借りた宿の部屋だと教えられた。僕が眠っている間に、何度も体温と呼吸を確かめていたという。
「お前は温かくなった。まず水を飲めるか見る」
「アインは」
「先にお前の返事をくれ」
僕は唇を噛み、差し出された器へ口をつけた。
ぬるい水が喉を通る。今度は、自分で飲み込んだことが分かった。
「飲めました」
「気持ち悪くは」
「ないです」
ベルンさんが頷く。
それでようやく、アインの話へ戻れた。
籠のそばへ、ポロの水筒が置かれていた。
ポロは自分の水から顔を出して、アインを見る。
青い尾が揺れるたび、僕は水をかければ戻るのではないかと思った。井戸で一緒に水を取り戻した、あの二体なら。
ベルンさんが僕の視線に気づいた。
「ポロは水の違いを確かめられる。アインの欠けたものが何かまで、分かるわけじゃない」
「テトも?」
「今のところ、俺たちには分からん」
ベルンさんは籠へ顔を近づけた。
力がないからではなく、知らないものを扱っている顔だった。
僕は自分の指を見た。膝を怪我したときには、布を巻いて、休んで、日ごとに傷が塞がった。
アインの背には傷がない。
血も出ていない。
同じように考えてはいけないのだと、やっと分かった。
「それじゃ……寝ているだけですか」
「普段の眠りとは違う。呼べば耳は動くが、姿が戻らん」
「精霊の核が、壊れてるんですか」
口にしてから怖くなった。
ベルンさんは首を振った。
「そこまでは見えていない。分からないことを、壊れていると決めない」
僕はアインの背を撫でた。
返事はない。
でも、指の下がほんの少しだけ動いた。
寝返りを打とうとしたのかもしれない。僕は手を止め、その動きが終わるまで待った。
戸が細く開き、エリクが顔を出した。
目が合うと、変な顔になった。怒っているのに、今にも泣きそうにも見える。
「返事、書いたろ」
「うん」
「倒れる前に言えって」
「止めたんだよ。ベルンさんが言って、ちゃんと……」
言い訳みたいになった。
エリクは寝台の端へ座った。
「分かってる。聞いた」
自分の膝の上で、拳を握る。
「でも、戻ったら寝てたから」
僕は、ごめん、と言いかけた。
何に謝ればいいのか分からなくて、声にならなかった。
エリクの指に小さな傷があった。縄で擦ったのだろう。工具袋の紐も、別の布で結び直してある。
僕が火を見ていた間、この手も働いていた。
「エリクも帰ってきてよかった」
そう言うと、エリクは顔を伏せた。
「当たり前だろ」
少ししてから、アインの籠へ目を向ける。
「こいつも、当たり前みたいに起きろよ」
白い耳が、一度だけ動いた。
二人で息を止めて見た。
それきり、動かない。
でもエリクは籠の前から離れなかった。
夕方、ミレアとノエルが食べ物を運んできた。
パンを柔らかく煮たものと、薄いスープ。ミレアは器を置くと、僕が一口食べるまで見ていた。
「全部一度に食べなくていいから」
「アインの分は?」
聞くと、ミレアは困ったように籠を見た。
「食べれば戻る、とは限らないよ。生き物の体じゃないもの」
分かっていたはずだった。
それでも、いつも肉を欲しがるアインに何も用意しないのは嫌だった。
ノエルが小さな皿を籠の横へ置いた。
何も乗っていない。
「起きたとき、ここへ置こう」
僕は頷いた。
それなら待っていられる気がした。
ベルンさんは夜も何度か部屋へ来た。
小さな灯りを籠の同じ位置へ置き、白い輪郭を確かめる。昼と同じ角度から見るのだという。
「明かりが強いと、薄く見えることもあるからな」
朝と比べる、と言われても、僕は目を凝らしすぎて何が違うか分からなくなっていた。
変わっていない。
その答えが嬉しくて、同時に悲しい。
悪くなっていないのに、よくなってもいない。
「もっと火を返せば、戻るかな」
僕の声に、ベルンさんの手が止まった。
「誰へ返す」
「分からない。でも、アインは火を戻したとき、何か思い出しそうだったから」
「今は使わせない」
「少しでも?」
「少しでもだ。試すために灰喰いへ近づけたり、誰かの精霊の力を奪わせたりはしない」
僕は籠を抱き寄せた。
アインを助けるために、誰かを傷つけたいわけではない。
ただ何もできない時間が、怖かった。
「精霊王なら、知ってるでしょうか」
戦いが始まる前、父上に尋ねた南の山を思い出していた。
ベルンさんは椅子へ座り直した。
「何をだ」
「アインみたいに、休んでも戻らない精霊のこと。すごく長く生きているなら、見たことがあるかもしれません」
王なら何でもできる。
そう言いかけて、やめた。
知らないと答える人へ、何でも知っていてほしいと思うのは、アインに対してもしてしまったことだ。
「治してくれるかは分からないけど。何か、聞きたいです」
ベルンさんはしばらく考えた。
「俺が知らない例を知っている可能性はある。会えるかも含めて調べよう」
すぐ出発するとは言わなかった。
僕も、今すぐ歩き出せるとは言えなかった。
それでも、行き先の名前が一つできた。
灼天峰。
アインへ小声で教えた。
「長く生きている精霊に、会いに行こうか」
頭の奥へ、微かな感触が届いた。
手のひらへ頬を寄せるような、弱いものだった。
言葉にはならない。
でも、いないのではなかった。
夜中に一度、目が覚めた。
アインの姿が見えなくて、息が止まった。
上体を起こすと、籠の覆いが少しずれていただけだった。
椅子にいたイレーネさんが、すぐに立った。
「こちらです」
灯りを持ち上げ、白い背が見える位置へ動かしてくれる。
僕は籠へ手を入れた。
触れる。
ほんの少しだけれど、ちゃんといる。
「……消えたかと思いました」
イレーネさんは覆いを直した。
「驚かせました。私がずらしたままでした」
「眠ってなかったんですか」
「先ほど交代しました。ベルン殿は隣で休まれています」
僕は空いた椅子を見た。
みんなが眠らずにいたら、僕まで眠っていいのだろうか。
ノエルが、同じことを心配していたのを思い出す。
「明日は、イレーネさんも眠れますか」
「もちろんです。私も眠らなければ、護衛はできません」
真面目に答えられた。
僕は少し安心して、枕へ頭を戻した。
胸元で母上の護符が布に触れた。
これが光って、アインを助けてくれたらいいのに。
そんなことを考えた。
けれど石は何も変わらなかった。握っても、冷たい手触りのままだ。
僕は護符を離し、アインの背へ指を置いた。
母上へお願いするように目を閉じて、それから今ここにいる相棒へ声をかけた。
「朝になったら、また呼ぶね」
イレーネさんは黙って、僕たちのそばへ座り直した。
翌朝、姉上が父上を連れてきた。
僕は寝台の上で背筋を伸ばした。父上を見ると、今でも体が勝手にそうなる。
父上はアインを見た。
眉がほんの少し動いた。
「炎の王への道を尋ねたと聞いた」
「はい」
イレーネさんも一緒だった。父上から受け取った地図を、小机へ広げる。
南へ続く街道と、山の麓にある宿。最後に、細い線が山腹へ上がっていた。
「麓まで馬車で三日。そこから参道を歩く。ただし、山頂へ登る必要はない」
父上が地図へ指を置いた。
「聖域の端に、面会のための岩庭がある」
「父上が、会わせてくれるんですか」
「私は道と作法を知っているだけだ。王がお会いになるかは、王がお決めになる」
父上の名を書いた紙があれば、通れるのかと思っていた。
そうではないらしい。
「人が精霊を連れていけば、会えるというものではない。精霊自身が望みを伝える。そのうえで、同行を望む者を示す」
僕は籠を見た。
「アイン、歩けません」
「歩けぬ者を置いていけ、という作法ではない」
父上は短く答えた。
「境界の外から意思を伝える。声や体の強さを競う場でもないと聞く」
聞く、という言い方だった。
父上自身も、何度も会ったことがあるわけではないのだろう。
イレーネさんが地図を覗いた。
「私は山麓までなら通ったことがございます。参道は、宿で今の様子を確かめます」
「行って、いいですか」
父上へ聞いてから、ベルンさんも見た。
僕はもう、父上の命令だけで動くわけではない。でも父上を無視して言うのも違う気がした。
ベルンさんが答えた。
「今日食べて、歩いて、体温が戻ったままか見る。明朝も変わらなければ馬車で行く。途中で具合が悪くなれば、宿で止まる」
父上は頷いた。
「馬車と御者は支部から手配する。救援への支援として記録させる。家へ戻ることを条件にはしない」
胸の中で、期待が小さく沈んだ。
家へ戻れとは言わない。
分かっていたのに、まだ待っていたらしい。
アインの籠へ視線を戻した。
今はこの子を連れていく。
それは父上に許されたからではなく、僕がそうしたいからだ。
「道を、ありがとうございます」
父上は一度だけ頷いた。
部屋を出る前に、籠の横で足を止める。
何か言うのかと思った。
けれど父上は、薄い白へ目を向けただけだった。
その日の午後、エリクは父さんに会いに行った。
帰ってきたとき、工具袋に新しい肩紐がついていた。
「怒られた?」
「怒られた」
「僕のことで?」
「俺のことで」
エリクは椅子へ座り、新しい紐を引いた。
「手紙に危なくない仕事って書いたのに、街であんなことしたから。俺も怖かったって言った」
「うん」
「それから、アインを助けに行きたいって頼んだ。ベルンさんとイレーネさんが来ること、馬車で行って戻ることも」
ダリオさんは、返事をする前にベルンさんと話したらしい。
許しは、この往復だけ。
行き先を変えるなら、知らせること。
エリクは指を折って確認してから、最後に笑った。
「帰ったら、新しい紐の代金ぶん働けって」
「それは大変だね」
「父さん、丈夫に作りすぎるんだよ」
文句を言いながら、肩紐を何度も撫でていた。
ミレアはオルガさんへ、行き先と帰る予定を書いた。前から教わっていた支部の便で送り、長い旅へ勝手に出るつもりはないと添えた。祖母からもらっていた、ベルンさんの監督下での救護同行の範囲を、大人たちが確かめた。
ノエルはマルタさんへの連絡に、自分で名前を書いた。
神殿への照会は続いている。
ユアンがどこへ移されたか、まだ返事は来ていなかった。
「私たちが町を離れたら、調べるの止まらない?」
ノエルが聞くと、ベルンさんは受領印のある控えを見せた。
「続ける人が残る。お前が全部持って歩かなくてもいい」
ノエルは布切れをしまい直した。
夕方、部屋へ工兵隊の報告が届いた。
地上の灰喰い六体は四つの囲いへ分け、地下の一体には別の見張りがつく。夜も交代する人が決まり、柵を直す人と水を運ぶ人もついた。
父上の命令を写した紙には、交代する人の名前が並んでいた。
二人ずつ見張り、夜も別の人へ代わる。五つの場所を三組ずつで回すので、それだけで三十人だという。
僕は思わず、その数を指で追った。
「そんなに、要るんですか」
「眠らない人間はいないからな」
ベルンさんが答えた。
「ほかに柵を直す者も、報告を運ぶ者も要る。目の前の二人だけ見て、大丈夫だとは言えん」
僕は紙を戻した。
アインを助けに行っている間、あそこが破られたら。
そう思っていた胸の奥へ、少しだけ安心が入った。
絶対に破れない柵ができたわけではない。
異変があったら下がる場所と、次に知らせる人が決まったのだ。
ベルンさんが手を止めて読む。
「俺の患者は、領都の療師へ引き継いだ。残った者に任せられる」
誰かが残ってくれるから、僕たちは行ける。
僕はアインを抱いたまま、窓の外を見た。向こうの塔で見張りが動いていた。今日も誰かが、板と鐘を確かめている。
夜、エリクが旅に使う別の籠を持ってきた。
宿の人に借りたものだ。編み目の一か所を確かめ、尖った端へ布を巻いている。
「腕に抱いたまま寝ると、落とすかもしれないから」
「でも、籠に入れるの嫌がるよ」
「起きて怒ったら、出せばいい」
僕はその言い方に、少し笑った。
エリクも笑いかけ、それから白い背へ目を落とした。
「怒ってほしいよな」
「うん」
僕たちは二人で、籠へアインを移した。
僕が体を包む布を持ち、エリクが底を支える。どこも引っ張らないよう、ゆっくり置いた。
薄い体が布へ沈む。
前脚が一つ、縁へかかった。
僕はそっと中へ戻そうとして、止めた。アインが自分で置いたのかもしれない。
そのままにすると、白い脚はもう動かなかった。
ベルンさんが見て、苦しくない姿勢だと頷いた。
何もできないと思っていたけれど、今夜眠る場所を一緒に作ることはできた。
夜、僕は寝台の周りをゆっくり歩いた。
頭はふらつかない。
スープもパンも食べた。ミレアが手を握り、昨日よりずっと温かいと頷いた。
アインは朝と同じだった。
よくなってはいない。
悪くもなっていない。
僕は籠を枕の横へ置いた。
「明日、出るよ」
いつものアインなら、我を荷物へ入れるなと怒っただろう。
今夜は怒らない。
僕は籠の縁へ指をかけた。
「僕も乗る。同じ馬車だよ」
白い鼻が、ほんの少し指へ近づいた。
その距離を見てから、僕はようやく灯りを消してもらった。




