25話 名もなき白の力
中央炉の地下から、まだ一人戻っていない。
「名前は!」
僕が尋ねると、炉の管理役が名簿をめくった。
「保守員のトーマ。南扉へ向かった四人にはいません!」
大きな灰喰いが炉塔へ六本の腕を巻きつける。
石に刻まれた炎の紋が、下から順に消えていく。炉塔の中では、火が燃えている音ではなく、空気を吸い込む低い音が続いていた。
「地下通路はどこへ出ますか」
「南扉と、西の灰捨て口です。ただし灰捨て口は内側からしか開きません」
「トーマさんがそこへ行ったかもしれない」
地図では、灰捨て口は炉塔のすぐ西にある。
灰喰いから二十歩も離れていない。
「救助班を出す」
兄上が剣を取った。
肩のフィアは疲れている。赤橙色の翼を広げかけたが、兄上は首を振った。
「炎は使わない。私と盾兵四名で行く」
父上が兄上を見る。
「戻る道は」
「西倉庫の荷下ろし路。灰捨て口が開かなければ、百数える前に戻ります」
「行け」
兄上たちは盾を持って作戦室を出た。
僕も行きたかった。
けれど、盾の訓練も受けていない僕がついていけば、兄上たちに守る相手を増やしてしまう。
「僕は、トーマさんが出たかをここで確認します」
誰に言うでもなく声にした。
アインが僕の手首へ前脚を置く。
『それでよい』
窓の外で、兄上たちが建物の陰を進む。炎騎士の赤い外套は脱ぎ、灰色の作業布を肩へ巻いていた。目立たないためではない。外套には炎除けの術が織り込まれているため、灰喰いへ近づけないのだ。
灰喰いは炉塔から火を奪い続けている。
一口ごとに大きくなるのではない。
輪郭の足りない場所へ、腕や脚が増えていく。
右に六本。
左に五本。
地面へつく脚は四本だったものが、今は七本に見える。
数えるたび形が変わった。
『あれは、この地の形を知らぬ』
アインの声が震える。
「だから、喰ったものをつなげて体にしてるの?」
『おそらくは』
アインにも分からない。
分からないことを隠さず、それでも見ている。
北と東からも報告が届く。
北の三体は荷下ろし場へ分けたが、大型一体が第三柵を削っている。
東の二体は西空き地と鉄輪工房前。住民の退避は完了。
中央の一体を含め、七体すべての位置がもう一度分かった。
北で最後まで確認できていなかった十三人も、捜索班が場所を確かめて搬送を始めたと報告が来た。十九人の手伝いに出た人については、作戦室を出た役人が担当先との照合を続けていた。
「見えている七体。増えてはいません」
僕は地図の下へ時刻を書いた。
父上は中央炉の管理役へ向く。
「炉を完全停止できるか」
「今閉じれば、管に残った熱が逃げません。西側の放熱弁を三つ開ける必要があります」
「人が近づくのか」
「一つ目と二つ目はここから開きます。三つ目だけは地下です」
そこにトーマが残っている。
「遠隔の二つを開けろ」
管理役が太いレバーを順に倒す。
炉塔の西側から白い蒸気が上がった。
熱が少しずつ逃げる。
灰喰いの腕が、蒸気ではなく炉塔の赤い紋へ集まった。
ただの熱ではない。
炎として働く力を選んでいる。
「アイン。あの中に、どれくらい火があるの」
『多すぎて数えられぬ』
古橋で取り戻したのは一粒。
ソーン村で戻した水は、匙一杯から少しずつ試した。
石橋で戻したのは一筋。僕たちは止めることができた。
でも今は、領都中から奪われた炎が、一体へ集まっている。
「全部は無理だよ」
『まだ何もしておらぬ』
「でも、しようとしてる」
アインは答えなかった。
僕の胸にも、同じ気持ちがあるから分かった。
あの火を見捨てたくない。
「一人でやらない」
僕はアインを抱き上げた。
「火が戻る場所を、みんなに探してもらおう」
父上がこちらを見る。
僕は地図の周りにある記録を指した。
北壁のかがり火。
東職人街の鍛冶炉。
避難所で小さくなった炎精霊。
中央炉から各区画へ伸びる暖房管。
奪われた火にも、元いた場所がある。
「アインなら、灰喰いに奪われた炎を取り戻せると思います。でも、戻す場所を先に決めないと……」
僕は腕の中のアインを見た。
「取り戻した炎が、僕とアインの身体に流れ込んでくるかもしれません。あんなにたくさんの炎、僕たちには受け止められません」
ソーン村で倒れたときと同じになる。
今度の量は、比べられないほど多い。
「各区画の火を使った場所と、消えた時刻を集めてください。契約精霊が弱ったなら、その精霊の名前も」
「そんな記録で火が戻るのか」
管理役が尋ねた。
「分かりません」
僕は正直に答えた。
「でも、前に水を戻したときは、元の水が目の前にありました。今度も、戻す場所を確かめてから試したいです」
呼ばれて戻ってきたベルンさんが頷いた。西広場と診療所の患者は成人の療師へ引き継ぎ、ミレアとポロも一緒に戻っている。ノエルも調査を終え、作戦室へ戻されていた。
「戻った火を、また喰わせるな。柵の近くの火は戻ったことだけ確かめて消す。精霊は、退避済みの者からだ」
父上が伝令へ同じ指示を出した。火を戻すことと、炉を使い始めることは別だった。
「試すなら先に止める条件を決める。ルカの返事が遅れる。体温が下がる。アインの輪郭が透ける。どれか一つで中止だ」
「中止できなかったら?」
ミレアが聞く。
「俺とテトが二人を引き離す。お前とポロは呼吸と体温を見る」
「ネロは?」
ノエルが尋ねた。
「影の力は使わせない。窓の明かりが眩しければ、布をかけろ。ルカの読む行を一緒に確かめてくれ」
「エリクは東にいます」
僕が言うと、胸の奥がざわついた。
いつもなら、仕掛けを作るのはエリクだ。
でも今は別の場所で人を守っている。
全部の役に、同じ人はいられない。
「東から伝言です!」
戻った伝令が木札を差し出した。
〈鉄輪工房の炉。昨夜、砂で停止。奪われた熱あり〉
字の下に、小さく付け足してある。
〈ルカへ。無理ならやるな。やるなら倒れる前に言え。エリク〉
命令みたいな書き方に、少しだけ笑いそうになった。
「返事を書いてください」
僕は伝令へ頼んだ。
〈分かった。そっちも一人で残らないで〉
北からも記録が届く。
かがり火十二基。
炎精霊三体が縮小。
北診療所の保温炉二基。
東からは鍛冶炉八基、窯四基、炎精霊五体。
南広場では、姉上から指示を受けた職員が弱った炎精霊を一か所へ集めず、持ち主ごとに間隔を空けて並ばせている。姉上とルーメは作戦室に残り、報告を受け取った。
記録は、紙を持った人だけから集めたのではない。
字を書けない鍛冶職人は、消えた炉の場所を地図で指した。北の見張り役は、かがり火を置いた石皿の形を伝令へ描かせた。弱った精霊の名が分からない子どもは、赤い蜥蜴の姿と、祖母の膝にいたことを話した。
「名前が分からないと、戻せないの?」
ノエルが尋ねる。
アインは首を振った。
『名は帰る道の一つにすぎぬ。場所、契約者、いつも灯していた物。結びつきがあればよい』
「名前だけじゃなくて、いた場所や一緒にいた人が分かればいいって」
僕が伝えると、姉上は名簿に新しい欄を加えた。
精霊名。
姿。
契約者。
最後にいた場所。
分からない欄を無理に埋めず、分かるものを二つ以上残す。
「赤い蜥蜴の子は、南広場の西端です!」
伝令が窓の外を指した。
祖母が両腕で、小さな炎精霊を包んでいる。炎を温めることはできない。それでも、離さず呼び続けていた。
「戻す場所が分かる火から返そう」
僕はアインへ言った。
『我が選ぶのではない。奪われたもの自身が、帰る』
その言葉を聞いて、少しだけ怖さが減った。
僕とアインが領都中の火を正しく選ぶのではない。僕たちは、帰る道を隠しているものをほどく。
「名前を呼べる人は、呼んでください」
僕は窓を開けた。
冷たい朝の空気が入る。
灰喰いの周りだけ、色が薄い。
兄上たちは灰捨て口へ着いていた。盾を二枚重ね、建物の角から長い棒で扉を叩く。
内側から三回。
返事があった。
トーマは生きている。
「西の放熱弁を開けられますか!」
兄上が扉越しに叫ぶ。
内側から一回。
できるという合図。
しばらくして、炉塔の地下で重いものが動いた。
三つ目の放熱弁が開く。
白い蒸気が西の溝へ流れ、炉の赤い光が弱まった。
灰喰いが初めて炉塔から顔を離す。
兄上たちの方ではない。
窓辺のアインを見た。
口しかない顔が、こちらを向く。
『来るぞ』
灰喰いの七本の脚が地面を蹴った。
「窓から離れて!」
僕は叫んだ。
盾兵が窓の前へ板を倒す。
灰喰いが作戦室へ来る前に、アインが机から飛び降りた。
『返せ』
外に聞こえたのは、小さな鳴き声だけだった。
けれど灰喰いの動きが止まる。
アインの周りへ、透明な波紋が広がった。
古橋とソーン村で見たものより大きい。
一つ目の輪が窓を通り抜ける。
二つ目が炉塔へ届く。
三つ目が灰喰いの身体へ触れた。
灰色の背中に、赤い筋が浮かぶ。
細い筋は一つではない。
何百本もの火の糸が、無理に絡められている。
「北壁のかがり火!」
僕は最初の記録を読んだ。
北の見張り役が、火を置いていた場所を指す。
赤い糸が一本、灰喰いから抜けた。
窓の横を通り、北へ飛ぶ。
見張り塔の消えた皿に、小さな火が戻った。
見張り役が合図を送り、すぐに蓋をかぶせた。灰喰いから離すまで、灯し続けてはいけない。
「東職人街、鉄輪工房!」
二本目。
「北診療所、保温炉!」
三本目。
戻る場所を呼ぶたび、糸が一本ずつほどけていく。敵に近い炉では、戻った火を担当者がすぐに消した。
灰喰いが腕を振った。
地面へ当たった場所から、石畳の色が消える。
父上が僕の前へ出た。
炎は使わず、剣で飛んだ石を払う。
「続けろ!」
「父上、でも」
「今のお前の持ち場を離れるな!」
怖かった。
父上の背中が灰喰いに近い。
でも僕が走っても、あの背中を守れない。
「作戦室、ルーメ!」
姉上がルーメの名を呼ぶ。
大きな赤い糸が灰喰いの胸から抜けた。
目の前で、小さくなっていた橙色の身体が明るさを取り戻す。
全部ではない。
戻るたび、アインの胸の動きが速くなる。
僕は指を握り直した。まだ、冷えは感じない。
「ルカ、指を動かして」
ミレアが言う。
動かす。
まだ動く。
「自分の名前は」
「ルカ」
いつもの名前を答えた。ここで家名を返してもらうために、力を使っているのではない。
父上は振り返らなかった。
「続けて」
ミレアが言う。
記録を読む。
鍛冶炉。
窯。
かがり火。
契約精霊の名前。
一つずつ火が帰る。
北と東にいる六体の灰喰いからも、細い赤が抜け始めた。中央の個体を通して、奪ったものを分けていたからだ。
形が小さくなる。
十一本に増えていた腕が、四本まで減る。
七本あった脚の二本が、灰になって落ちた。
「トーマさんが出ました!」
兄上が灰捨て口から保守員を引き出す。
五人目。
戻っていなかった一人が、戻った。
僕は名簿の空欄へ印をつけた。
その文字が二重に見える。
「中止」
ベルンさんが言った。
「まだ火が――」
「返事が遅れた。決めた条件だ」
アインは波紋を止めなかった。
『まだ残っておる』
「アイン、やめて」
『これは、我らのものではない』
「分かってる。でも、アインまでいなくなったら嫌だ!」
十歳の子どもの声だった。
みんなの前で叫んだことが恥ずかしいと思うより、怖い方が大きかった。
アインが僕を見た。
淡い銀色の目が、少しだけ細くなる。
『ならば、共に止めよ』
僕は次の行を読まなかった。
「終わり!」
自分で叫び、アインを抱いた。
ベルンさんとテトが僕たちを窓から離す。透明な波紋が途切れた。
灰喰いの巨体は、牛ほどの大きさまで縮んでいた。
倒してはいない。
父上と盾兵が板を押し、炉塔から離れた地下の割れ目へ進路を作る。属性を失った個体は石をほどく力も遅くなり、やがて割れ目の中へ退いた。
北と東の六体も、柵と荷下ろし場で動きを弱めている。
弱ったからといって、兵士たちは近づかなかった。
北では二体ずつを別の荷下ろし場へ残し、入口へ木と鉄の二重柵を置いた。東の一体は西空き地、もう一体は砂で冷えた鉄輪工房の炉前から、空の石倉へ誘導した。
七体のうち、地上に残る六体。
地下の割れ目へ退いた一体。
討伐した数はゼロ。
診療所からの人も、北大路の最後の荷車も、東職人街で残っていた人も、避難先が確認された。手伝いに出た可能性があるとされた十九人も、役人が担当先と避難先を照らし合わせ、全員の所在を確かめた。
親方の娘は東職人街の百四十三人に含まれている。別に一人足してはいけないと、姉上が同じ名前の欄を結んだ。
「到着の連絡が来たわ」
姉上の声を聞いた。僕にはもう細い文字を読む力がなく、役人が名簿を引き取った。
声を上げて返事ができない患者は、治療師が寝台番号と顔を確かめる。名前を呼ぶだけで終わらせず、本当にそこにいることを一人ずつ見た。
父上は隔離場所へ見張りを二人ずつ置き、近づかずに鐘と引き縄で知らせるよう命じた。炎精霊は休ませ、柵の補修にも術を使わない。
勝ったとは言えない。
灰喰いは生きている。
それでも、今運んでいた人たちは戻った。トーマさんも、五人目として帰ってきた。
街全体の被害は、まだ調べなければならない。
「体温、下がってる」
ミレアの手が僕の頬へ触れた。
きれいな水を含ませた布が、乾いた唇へそっと当てられた。ミレアはまだ飲ませず、僕がはっきり返事をできるまで待っていた。
飲み込んだつもりなのに、喉の感覚が遠い。
腕の中のアインは、向こう側が透けるほど薄くなっていた。
『火は、帰ったか』
「帰ったよ」
全部ではない。
それでも呼んだ場所には、炎を返せた。敵に近い火は消し、安全な南広場では、弱っていた精霊たちが明るさを取り戻している。
『そうか』
アインの声が聞こえなくなった。
白い身体が光の粒になりかける。
「アイン?」
返事がない。
「ここから離れるぞ」
ベルンさんが僕を抱き上げた。僕はアインを離さず、ミレアたちと南広場へ運ばれた。
背後では工兵が地下の割れ目を囲み、炉塔へ続く通路にも石と鉄板を重ねている。地下へ退いた一体を追わず、出入口を見張るためだ。
南広場は、炎が奪われた通りからさらに二つ角を曲がった先にあった。避難所の小さな火は、今も縮まずに灯っている。
「柵だけで安心するな。火が細くなったら、ここもすぐに離れる」
父上の命令を、見張りが繰り返した。
僕はアインの名を呼んだ。
返事はなかった。
さっき、みんなの火が戻った。
それなのに、僕の腕の中だけが空になっていくようだった。
「アイン。僕も帰ってきたよ」
声が震えた。
「今度は、アインも帰ってきてよ」
白い耳が、ごくわずかに動いた。




