24話 灰喰いの群れ
北の見張り塔に、四角い影板が上がった。
第一柵へ到達し、板が傾いた。
続いて丸い板。
第二柵も、灰喰いに押されて傾いた。
「二つ同時だ!」
伝令の声が作戦室へ響いた。
窓の外は、夜が明け始めたばかりだった。青黒い空の下で、北壁の見張り塔だけが蓄光石の白い光を残している。
僕は地図の北へ、灰喰いの駒を四つ置いた。
「炭坑道から出た二体は?」
父上が尋ねる。
別の伝令が、息を切らして入ってきた。
「二体とも東職人街へ。地下の振動は、中央炉へ向かっています。坑道の見張りが、一体の後ろ姿を確認しました!」
七体。
見えている数だけだ。
地下にまだいるかもしれない。
僕が八つ目の駒を置かずにいると、父上は地図を見た。
「確認できた数と、分からない数を混ぜるな」
「はい」
叱られたわけではなかった。
それでも肩に力が入った。
父上と同じ部屋で話すと、追放された朝のことを思い出す。けれど今は、僕が何を感じるかより、外にいる人の方が先だ。
「北壁の四体は、第一柵と第二柵の間です。東に二体。中央へ一体」
僕は声に出して数え直した。
「地上六体、地下一体。今分かっているのは、七体です」
『北から来る匂いが強い。窓の近くでも分かる』
机の上でアインが言った。
僕にしか聞こえない。
「アインは、北の匂いが強くなったと言っています」
父上は北の見張りへ、大きさを確認するよう伝令を出した。
「確定ではない。だが備える」
鐘が鳴った。
今度は一度ではない。短く二回、少し間を空けて一回。
東職人街の第一柵が押されて傾いた合図だった。
「エリクがいる」
椅子から立ち上がりかけ、机の角へ手をついた。
一人で持ち場を離れない。そう約束したばかりなのに、足が先に動いた。
『ルカ』
アインが僕を見上げる。
「分かってる」
一人で走っても、エリクを助けられない。
「東の配置を教えてください」
父上へ向き直った。
「工兵十名、盾兵六名。炎精霊騎士は術を使わず、槍と盾で柵を支える。エリクは警報装置を設置後、職人街の避難名簿を確認中だ」
「戻る道は?」
「南大路と西の細道。二つとも確保している」
一つではない。
僕は少しだけ息を吐いた。
「僕はどこへ行けばいいですか」
父上の眉が動いた。
家にいた頃なら、指示される前に尋ねることはなかった。
「お前はここに残れ」
胸が冷たくなる。
また何もできない子どもだと言われた気がした。
でも、父上は地図の横にある名簿を指した。
「各所から人数が来る。出発と到着を分けて記録しろ。北と東が同時に崩れれば、どちらへ人を送るか判断する材料が要る」
前へ出る役ではない。
けれど、必要のない役でもなかった。
「はい」
最初の報告は北診療所から来た。
患者二十六人。治療師八人。荷車六台。
出発済み。
南広場への到着は、まだゼロ。
僕は三つの欄へ分けた。
出発した人数。
途中にいる人数。
到着した人数。
二つ目は東職人街。
住民百四十二人のうち、南大路へ百十九人。西の細道へ十八人。残る五人は工房の消火確認中。
「火は使っていないよね」
伝令へ尋ねる。
「炉の蓋を閉じ、水ではなく砂を入れています」
「五人の名前は?」
伝令は二人まで答え、止まった。
「分かりません」
「工房の名前は?」
「三軒です。鉄輪工房、南角鍛冶場、それと――」
場所は分かる。
名前が分からなくても、五人をいなかったことにはしない。
「僕はまだ書けません。工房に誰が残っているか、確かめてもらえますか」
父上が頷き、確認を命じた。
伝令が走っていく。
北診療所の荷車が南広場へ着き始めた。
一台目、患者五人と治療師一人。
二台目、患者四人と治療師二人。
到着数を書いていると、東から大きな音がした。
床まで揺れる。
窓の外で、丸い影板が上がった。
東の第二柵。
『欠けたものが近い』
アインの毛が逆立つ。
次の瞬間、作戦室の壁に掛けた炎灯が小さくなった。
「消せ!」
父上が命じる。
兵士が蓋をかぶせるより先に、炎が糸のように東へ引かれた。
壁を抜けたわけではない。
炎から赤い色と熱だけが離れ、細い筋になって窓の外へ消えていく。
残った芯から、黒い煙が上がった。
アインが机の端へ走る。
『奪われておる。まだ遠くへは行っておらぬ』
「炎は消えたんじゃない。灰喰いに崩されて、東へ引かれています」
「戻せるか」
父上が尋ねた。
僕はアインを見た。
ソーン村で水を取り戻したとき、僕は倒れた。アインも、自分が何をしたのか全部は分かっていなかった。
石橋では一筋だけ戻し、倒れずに済んだ。
でも今は、赤い筋が壁の向こうで途切れている。どこへ奪われたか、アインにも追い切れない。量が小さければ必ずできるわけではなかった。
アインは窓の外を睨んだまま、耳を伏せた。
『今は追えぬ』
「今は無理です」
言うのが悔しかった。
父上は責めなかった。
「なら、できることを続けろ」
東職人街から三角の影板が上がった。
第三柵への到達。
その下を、小さな人影が走っている。
ここから顔までは見えない。東の様子は、戻ってくる伝令が順に教えてくれた。
「エリク……」
窓からでは顔が見えない。
けれど工具袋を斜めにかけた走り方を、僕は知っていた。
エリクの後ろには工兵が二人。三人で長い縄を引いている。
縄の先は、道を横切る荷車につながっていた。
荷車には空の鉄樽が積まれている。
「何をする気だ」
父上が窓へ近づく。
東の灰喰いが第三柵へ前脚をかけた。
木の色が消え、縄がほどけ始める。
エリクが腕を上げた。
工兵二人が横道から縄を引く。
荷車が坂を転がり、灰喰いではなく、その前の石畳へぶつかった。
鉄樽が道いっぱいに落ちる。
灰喰いの足を潰すためではない。
樽はばらばらに転がり、まっすぐだった道へ隙間をいくつも作った。
灰喰いが一つ目へ触れる。
鉄の表面から色が抜ける。
しかし食べ切るには時間がかかる。二つ目を避け、三つ目へぶつかり、進む向きが少しずつ南大路から外れた。
「西の空き地へ誘導しています!」
伝令が駆け込んできた。
「エリクの案です。工兵隊は、樽を置いたら西の細道へ退避!」
「残っていた五人は」
僕はすぐ尋ねた。
「三人が南大路へ出ました。二人は鉄輪工房!」
まだ二人。
そのとき、別の人影が工房の扉から現れた。
大人が一人。背中に小さな子を負っている。
把握していた大人だけではなかった。
「子どもが一人いたそうです!」
伝令が言い、僕は名簿から顔を上げた。
エステル姉上が名簿を確かめた。
「鉄輪工房の親方の娘よ。昨夜は南広場へ避難した記録になっている」
出発にはいる。
到着にはいない。
途中で工房へ戻ったのかもしれない。
「戻った理由は後だ。三人を西の細道へ!」
父上の命令を伝令が繰り返す。
エリクも三人に気づいた。
自分で迎えに行こうと、一歩工房側へ出る。
「行くな!」
僕の声は届かない。
けれど工兵の一人がエリクの肩をつかんだ。
もう一人が長い板を石畳へ倒し、三人へ西の道を示す。
エリクらしい人影が、腕を下ろした。ここからでは、どんな顔をしているかまでは分からない。
一人で行かなかった。
親方と職人と子どもが、板の横を走る。
最後の職人が西の細道へ入った直後、灰喰いが鉄輪工房の炉へ顔を向けた。
砂を入れて消したはずの炉。
その奥に残る熱を見つけたらしい。
灰色の身体が膨らむ。
四本脚だった輪郭の背中から、細い腕が二本伸びた。
鉄樽を一つ抱え、音もなく引き裂く。
「三角板を下げろ!」
東の見張り役が叫ぶ。
警報板が落ちる。
第三柵を越えたという意味だ。
「東班、全員退避!」
父上が命じた。
「炎騎士団は追うな。西空き地の外周を盾で閉じろ!」
騎士たちは剣へ炎をまとわせなかった。
盾を二人で持ち、灰喰いへ近づかず、空き地の出口へ並べる。工兵は長い棒で樽を押し、灰喰いが町の中心へ戻らない道を作った。
精霊契約者だけではない。
荷車を押す職人。
鐘を鳴らす老人。
名簿を読む姉上。
走って報告する子どもに近い伝令見習い。
精霊術を使わなくても、守れる場所がある。
北から、さらに三人の伝令が続けて戻った。
一人目は、所在未確認だった三十三人のうち十一人を北診療所で見つけたと報告した。患者を運ぶため残っていた者たちで、診療所の出発名簿には載ったが、町の避難名簿では自宅にいることになっていた。
「二つの名簿を一つにしないで」
僕は言った。
「診療所から出た十一人として書きます。南広場へ着いたら、同じ名前に印をつけてください」
二人目は炭坑の夜勤を終えた九人を連れてきた。避難開始より前に坑道へ入り、鐘を聞いていなかった人たちだ。
三人目の報告では、北の第二柵が二か所崩れていた。
「灰喰い四体が横一列に広がっています。大きい一体が柵を崩し、残りが左右へ分かれました」
地図の駒を動かす。
一体が北大路。
一体が診療所跡。
一体が西倉庫。
大きい一体は中央。
「北大路には避難中の人がいる?」
「最後の荷車二台です」
「何人?」
「確認します」
伝令が手元の札をめくった。
すぐに答えないことに、僕は安心した。分からないまま急いで言った数より、確かめた数の方が人を助けられる。
「一台目に六人。二台目に五人。御者が二人。護衛四人。合計十七人です」
「灰喰いと荷車の間は?」
「第二柵から百五十歩ほど」
近い。
父上が北壁の隊長へ命令を出す。
「投石器は灰喰いを狙うな。北大路の東側へ石を落とし、進路を曲げろ。荷車は西路へ移せ」
「投石器に炎は使いませんね」
僕が尋ねると、父上は頷いた。
「ただの石袋だ。着弾場所に人がいないことを先に確かめる」
見張りが旗で東側無人を知らせる。
投石器の太い腕が倒れた。
革袋に詰めた拳ほどの石が、灰喰いの前ではなく、北大路の東端へ降る。石畳にぶつかって転がり、道の半分を埋めた。
先頭の灰喰いは石へ触れた。
一つ目の石から色が抜ける。
二つ目も崩れる。
けれど全部を散らす間に、荷車は西へ曲がった。
「十七人、西路へ移動開始!」
僕は途中の欄へ十七と書く。
まだ助かった数には入れない。
北壁の盾兵は、第三柵の前へ四人一組で並んだ。二人が盾を持ち、二人が後ろから長い棒を支える。灰喰いへ突き出すのではなく、道に置いた板を遠くから押すためだ。
一枚目の板が倒れ、北大路を塞ぐ。
灰喰いが板へ触れる。
木目が薄くなり、端から砂のように崩れた。
「一枚で二十数える時間!」
見張りが叫ぶ。
二枚目を置く。
今度は十八。
同じ物でも、前より短い。
「食べるのが速くなってる」
僕が言うと、アインが北を睨んだ。
『あれらは互いに奪ったものを分けておる』
「喰った力が、一体の中で止まらず動いているみたいです。アインにも、どこまでつながるかは分かりません」
父上はすぐ地図へ線を引いた。
「北大路の左右にある荷下ろし場を開けろ。鐘を右で二回、左で三回。交互に鳴らして二体ずつ分ける」
「鐘にも触られたら?」
「引き縄は屋根の上から伸ばす。鳴らす者は灰喰いの前へ出さない」
北の鐘が右で二回鳴った。
二体が顔を向ける。
左で三回。
別の一体が動く。
大きい一体だけは、どちらも見なかった。町の中心に残る火を感じるように、第三柵へまっすぐ進む。
別の道へ分けても、力を分ける働きまで止まるとは限らない。それでも、四体に同じ板を削られることは避けられた。
「西路の十七人、南広場へ到着!」
報告が届く。
僕は途中の十七へ線を引き、到着へ書き直した。
南広場から戻った伝令は、御者の手当てについても教えてくれた。
荷車の一台で車軸が熱を持っていたという。ミレアとポロが南広場で待ち、水を直接車輪へかけず、布を濡らして御者の手の火傷を冷やした。灰喰いの近くでは属性の力を使わせない。けれど十分離れた場所なら、ポロは水に灰や油が混じっていないか確かめられる。
精霊を全部隠せばいいわけではない。
敵へ届かない場所で、できることを任せる。
北の三体は荷下ろし場へ分かれた。
大きい一体だけが第三柵へ着く。
三角の影板が、北の塔にも上がった。
「第三柵、接触!」
領都の北と東で、同じ印が並んだ。
父上は予備兵をどちらへ送るか、すぐには決めなかった。
「北の退避完了は」
「住宅側は未確認十三人です。手伝いに出た可能性のある十九人は、別に照合中です」
「東は」
「工房の三人を除き完了。その三人も西の細道へ移動中です」
「予備兵八名を北へ。東は現在の班で退避を続けろ」
強い敵がいる方ではなく、逃げ遅れた人が多い方へ送った。
僕は理由も地図の端へ書いた。
後で結果だけ見れば、東を見捨てたように見えるかもしれない。今分かっている人数を残せば、なぜ北を選んだのか確かめられる。
東の一体は空き地へ入った。
もう一体は工房の熱へ向かっている。
北では四体が第二柵を越えた。
中央炉へ地下を進んだ一体は、まだ現在地が分からない。
「七体のうち、見えているのは六体です」
僕は地図を見た。
北に四。
東に二。
中央の一が消えている。
『下だ』
アインが床へ鼻先を向けた。
『火の集まる場所へ、地の下を進んでおる』
「アインが、床の下に近づいたと言っています! 中央炉の方です!」
父上の顔色が変わった。
中央炉は出力を四分の一まで落としている。
完全に消してはいない。
急に止めれば、領都の暖房管と鍛冶用の補助炉が割れる恐れがあるからだ。
「炉の地下通路に人は」
「保守員が五人!」
「全員を出せ!」
伝令が走る。
僕は名簿へ五人と書いた。
まだ名前はない。
まだ到着もしていない。
その瞬間、地面が持ち上がった。
作戦室の中央ではない。
窓の向こう、領都の中心に立つ石造りの炉塔。その根元の道が、下から押されて大きく割れた。
灰色の腕が一本、地面から伸びる。
炉塔を囲む炎の紋が、一つずつ消えた。
塔の上から赤い光が引き抜かれ、灰色の腕へ流れ込む。
『止めよ!』
アインが叫んだ。
同時に炉塔の石が崩れ、響いた衝撃で窓ガラスが震えた。
灰喰いが地上へ這い出す。
牛より大きい。
頭に見える場所には口しかなく、背中から六本の腕が伸びている。
中央炉の炎を喰うたび、さらに輪郭が高くなる。
「地下に残っていた保守員五人のうち、南扉へ四人退出!」
伝令が叫んだ。
「到着は?」
「四人です!」
一人足りない。
最後の一人が、どこにいるのか分からない。
父上が炉の管理役を呼ぶ。兄上も北の部隊を副官へ引き継ぎ、至急作戦室へ戻るよう呼ばれた。
炎を使えば、敵はもっと大きくなる。
でも使わずに、地下の人をどうやって連れ出せばいいのか。
僕は机の上の駒を握った。
『あの中に、奪われた火がある』
アインの白い尾の奥を、赤い光が一度だけ走った。
『まだ、消えてはおらぬ』




