20話 用意されていた護衛
「旧別邸への移動を、もう一度お考えいただきたいのです」
朝のギルドで、イレーネさんが言った。
四か月の間に、何度も会っている。それなのに今日は、最初に宿で会った日と同じくらい緊張しているように見えた。
ロッソが椅子の脇へ伏せる。アインが近づき、鼻先を触れ合わせた。
古橋で傷ついた炎はもう戻っている。赤銅色の毛並みも、今ははっきり見えた。
「父上が、もうハルデンにいるなって?」
「いいえ。今の滞在許可を取り消す命令ではありません。ただ、神殿から照会が増えています。ノエルさんの件もあり、隠れられる場所を確かめておくべきだと考えました」
ノエルが登録札を握った。
「私のせい?」
「いいえ。あなたが来る前から、ルカ様への照会はございました。別々の話です」
イレーネさんはすぐ答えた。
ベルンさんが会議室を借りてくれた。僕たちは一昨日の救助と昨日の弟子入りを話し、イレーネさんは最後まで聞いた。
話が終わると、机へ二通の書状を置いた。
一通は、父上の署名と炎獅子の印章がある命令書。
もう一通は、姉上の字で宛名だけが書かれた手紙だった。
「先に命令の内容を説明します」
イレーネさんが紙を開く。
「ルカ様を西の旧別邸まで護衛すること。領外ではエルフォード家の名を使わせないこと。大神殿、王国軍、侯爵家の者を名乗る者が引き渡しを求めても、アルヴァン様ご本人の新しい命令と二名の立会人がなければ応じないこと」
「監視役じゃなかったの?」
エリクが聞いた。
「表向きは監視役です」
「じゃあ、最初から守るつもりだった?」
僕の胸が苦しくなった。
期待してはいけないと思うのに、答えを待ってしまう。
「アルヴァン様は、選定の儀より前から旧別邸の屋根と井戸を直させていました。食料は三か月分。管理人夫婦には、家名を問わず十歳の子どもを預かるよう伝えています」
「父上は、僕が家を離れることになるかもしれないと、選定の前から考えていたんですか」
「結果を知っていたわけではありません」
イレーネさんはすぐに否定した。
「何が起きても逃がせる場所を用意していたのです」
「兄上と姉上も知っていた?」
「エステル様は、旧別邸を整えていることだけご存じでした。ギルベルト様には知らされていません」
兄上は、父上の追放を家を守るための決定だと信じていた。
だからあの日、僕へ厳しい言葉を向けたのだ。
「兄上は、僕を逃がす計画を邪魔したと思いますか」
「分かりません。知らなかった選択を、したことにはできません」
兄上を悪い人に決めれば簡単だった。けれど、知らされていなかったことまで責めるのは違う。
それでも、言われた言葉で傷ついたことは消えない。
僕はその二つを、無理に一つへしなかった。
「なぜ」
「それは、私から断定できません」
父上が言葉にしなかったことを、イレーネさんが父上の気持ちとして決めることはできない。
「ただし、大神殿へ直接引き渡さないための命令だったことは分かります」
ノエルの隣で、ネロの輪郭が揺れた。
「未分類の精霊に選ばれた子が、帰らなかった記録を父上は知っていた?」
「私は記録を見ていません。アルヴァン様は、王都へ送れば戻らない可能性がある、とだけ私へ告げました」
父上は知っていた。
僕とアインが離されるかもしれないことを。
だから追放した。
そう考えれば、旅費も仮身分証も、護衛も説明できる。
でも、僕へは何も言わなかった。
「守るつもりなら、どうして僕に話してくれなかったんだろう」
声が震えた。
「理由は、ご本人に尋ねなければ分かりません。私は、命令が外へ漏れぬよう言われました。ですが、ルカ様へ何も説明しなくてよかったとは思いません」
「僕が子どもだから?」
「それだけではありません」
イレーネさんは父上を庇う言葉を探さなかった。
「アルヴァン様は、ご自分の決断を家族へ説明することが不得意です。一度は移送を拒んでも、そのまま家名も地位も失うまで神殿と争い続ける道は選べなかった。ルカ様だけでなく、残る家族と領民を守りたい気持ちもあったはずです」
「だったら、やっぱり僕を選ばなかったんだ」
部屋が静かになった。
優しい嘘を言ってほしくはなかった。
父上は僕を守ろうとした。
同時に、家も地位も守ろうとした。
そのために、僕を家の恥と呼ばせた。
どちらか一つだけを本当にはできない。
「はい」
イレーネさんは答えた。
「アルヴァン様は、すべてを選ぶことができませんでした」
胸の奥が痛んだ。
けれど、追放された日のような、何も分からない痛みではなかった。
エリクが机の下で僕の袖をつまんだ。アインは膝へ前脚を置く。
アインは僕の膝から机へ移り、父上の命令書を鼻で押した。
文字を読んだのではない。折り目で隠れていた署名が見える。
『そこに何とある』
僕はもう一度、引き渡しに応じないという行を読んだ。
『では、そなたを離さぬように、と命じたのだな』
「……そうだと思う」
『なのに、そなたへは離れよと申した』
喉の奥が痛くなった。
「うん」
アインはいつものように父上を罵らなかった。
小さな前脚を、僕の手へ重ねる。
『二つ言われては、分からぬのも当然だ』
僕は目を伏せた。
父上が守ろうとしていたなら、僕が悲しんだのは間違いだったのだろうか。
さっきから、それが分からなくなっていた。
でもアインは、分からなかった僕を馬鹿だと言わなかった。
「僕、知らなかったんだ」
声にすると、胸につかえていたものが少し動いた。
「ずっと、僕はいない方がいいんだと思ってた」
イレーネさんが目を伏せた。
「そう受け取らせたのは、私どもです」
僕は首を振りかけ、止まった。
イレーネさんに謝ってほしかったわけではない。
でも、悲しかったことをなかったことにもしてほしくなかった。
机の下で、エリクが僕の袖を握り直した。
『我はお前を選んだ』
「うん」
その一言だけで、息が少し楽になった。
イレーネさんは旧別邸までの地図を広げた。
ハルデンから北西へ二日。森の外れに小さな屋敷がある。井戸、畑、寝室、物置。街道から離れており、大神殿の目も届きにくい。
「今からでも滞在できます。ただし、エリクさんのハルデンでの滞在許可を、別の土地での暮らしへ使い回すことはできません」
エリクが黙る。
父親との約束を忘れたわけではない。
僕たちが旅を続ければ、エリクは許された範囲から外れる。
「旧別邸へ行けば、ノエルとネロも守れますか」
「一時的には。しかし、神殿の記録を探すなら隠れているだけでは進みません」
ノエルは登録札を握った。
「私は、原本を探したい」
「僕も手伝うって決めた」
「まだ皆で決めると言っただけだろ」
ベルンさんが訂正した。
「そうでした」
急いで答えを自分のものにしようとしていた。
僕たちは、できることと危険を紙へ書き出した。
旧別邸へ行く場合。寝床と食料があり、神殿から距離を置ける。神殿の追手から離れやすい。ただし、記録の手掛かりは増えない。
旅を続ける場合。ギルドの依頼と共同調査に参加できる。でも、今もらっている滞在許可だけで、遠くへ行ってよいわけではない。
「俺のことは、俺が父さんへ話す」
エリクが言った。
「勝手に決めて、ごめんで終わらせるつもりはない。ハルデンで何をしたか、誰が責任者か、どこへ行くかを書いて送る。駄目だって返事が来たら、それも読む」
「それでも行くの?」
「返事を読んでから決める。でも、お前が俺の約束まで背負うな」
十歳の僕たちだけで何でも決められるわけではない。
だからといって、大人が決めた道を黙って歩くしかないわけでもない。
「先に手紙を書いてからだ。返事を待たずに旅を決めるなよ」
ベルンさんの言葉に、僕とエリクは頷いた。
ミレアは薬の残りを確認した。
「旧別邸へ行っても、旅をしても、薬は足りない。次の依頼で補充したい」
ノエルは、ネロが長く影を使わなければ一緒に歩けると伝えた。
イレーネさんは最後に尋ねた。
「ルカ様は、どちらを選びますか」
父上が用意した場所へ行けば、安全かもしれない。
行かないと決めれば、父上の気持ちを捨てることになる気もした。
でも、用意された場所は牢屋ではない。行かなければ裏切りになるわけでもない。
父上が選べなかったように、僕も全部を選ぶことはできない。
「僕は、旅を続けたいです」
自分の声で言った。
胸の中では、旧別邸の温かい寝床も気になっていた。怖い目に遭わず、朝まで眠れる場所へ行きたい気持ちもある。
それを弱いと思って隠しかけて、やめた。
「でも、怖くなったら、休みに行ってもいいですか」
イレーネさんはすぐに頷いた。
「もちろんです。行く先を変えることと、約束をなかったことにすることは違います」
アインが、僕の手へ鼻を寄せた。
「アインが何者なのか知りたい。ノエルたちの記録も探したい。僕の故郷で、また灰喰いに襲われる人が出るかもしれない。隠れて待つだけにはしたくない」
「旧別邸を使わないのですか」
「帰る場所の一つとして残してほしいです。疲れたときや、逃げなきゃいけないときに使いたい。でも今は、行き先にしません」
言い終わると、急に不安になった。
安全な寝床と三か月分の食料を断って、まだ正体も分からない灰喰いを追う。それが勇気なのか、ただ危ない方へ行きたいだけなのか、自分では分からない。
「ベルンさんは、どう思いますか」
「俺が決める話じゃない。ただ、旅を続けるなら条件は増やす」
ベルンさんは指を一本ずつ立てた。
「行き先は保護者と支部へ先に伝える。依頼は俺が危険を確認したものだけ。ノエルの記録探しと灰喰いの調査を同じ原因だと決めない。アインの力は少量から。この前できたからと無理をしない」
「四つですか」
「もう一つ。嫌になったら旧別邸へ行くと言え。途中で選び直していい」
僕は五本の指を見た。
一度決めたら最後まで変えてはいけないと思っていた。父上の命令か、僕の旅か。どちらかを選べば、もう片方を捨てるのだと。
でも、戻る場所を残したまま前へ進むこともできる。
「分かりました。五つとも守ります」
『我の食事を忘れておる』
「それは条件じゃないよ」
アインが不満そうに尾で僕の腕を叩き、エリクが笑った。
イレーネさんは、すぐには答えなかった。
やがて命令書を折り、僕へ差し出した。
「承知しました。今は許可を得ているハルデンに留まり、今後のご希望はアルヴァン様へお伝えします」
「父上に怒られませんか」
「怒られるでしょう」
「それでも?」
「護衛は、対象を荷物のように運ぶ仕事ではありません」
イレーネさんは簡潔に言った。
「ルカ様が選んだ道の危険を減らします」
常に一緒に来るわけではない。今後も領都へ現況を届け、姉上との連絡役を続ける。エリクの父へも、イレーネさん自身が状況を書き添えると約束した。
最後に、姉上の手紙を開いた。
〈ルカへ。旧別邸へ着いていなくても、無事ならそれでいい。あなたが選んだ場所を教えてください。母上の護符について、屋敷の記録を調べています〉
短い手紙だった。
帰ってこいとも、家を許せとも書いていない。
返事の最初の一行が、なかなか書けなかった。
無事です。
それは前にも書いた。
楽しいです。
楽しいことはある。でも、それだけを書くのも違う気がした。
アインが紙の端へ鼻を寄せた。
『何を迷う』
「何て書けばいいかなって」
『言いたいことを書け』
「たくさんあるんだよ」
『一つずつ書けばよい』
簡単に言うので、少し笑ってしまった。
僕は最初に、手紙をもらえて嬉しかったと書いた。
その次に、旧別邸の話を聞いたことを書いた。
父上をどう思ったかまでは、まだうまく書けなかった。だから、今はまだ分からない、と書いた。
姉上なら読んでくれると思った。
それから、今いる場所と仲間の名前を書いた。
エリク。
ミレアとポロ。
ノエルとネロ。
ベルンさんとテト。
アインは僕の手元を覗き込み、自分の名前が最初でないことへ文句を言った。
「アインは、僕の隣にいるから書かなくても分かるよ」
『ならば一番大きく書け』
僕は紙の端へ、少し大きくアインと書いた。
その日の午後、ギルドの掲示板へ新しい依頼が貼られた。
〈D級合同調査。北の森で魔獣六種が生息域を放棄。原因確認。討伐は必要時のみ〉
依頼責任者はベルンさん。
Eランクの僕たちは補助参加できる。
目的地は北東だった。北西にある旧別邸とは、違う道を行くことになる。
依頼票の横には、北の森を描いた大きな地図が貼られていた。
南にハルデンへ戻る街道。東に浅い川。西に切り立った崖。北側には、鹿角鳥、苔牙猪、青尾蜥蜴など六種類の生息域が別々の色で記されている。
その六つすべてに、昨日から赤い印がついていた。
〈生息確認できず〉
「魔獣がいなくなったなら、安全なんじゃないの?」
僕が尋ねると、ベルンさんは首を振った。
「食われたのか、逃げたのかで逆になる。逃げたなら、何から逃げたかを知らずに入る方が危険だ」
エリクは工具袋から短い縄と金属筒を出した。ミレアは薬と普通の水を分け、ノエルはネロが影を使える時間を確認する。
僕は地図を写し、南の帰り道へ太い線を引いた。
アインが地図へ前脚を置いた。
『我のことを知りたい、と申したな』
「うん」
『我も知りたい。思い出したいのに、どこを探せばよいか分からぬ』
ロッソへ向ける顔が、いつもより小さく見えた。
イレーネさんは僕の通訳を聞き、少し考えた。
「長く生きた精霊なら、今の人間が知らない話を知っているかもしれません」
「精霊王も?」
「ええ。ただ、何でもご存じとは限りませんし、願えば必ず会える相手でもありません」
アインは黙って、自分の尾を見た。
僕は地図から手を離し、その背を撫でた。今すぐ答えが出なくても、一緒に探すことはできる。
敵を探す前に、帰る場所を描く。
それがベルンさんの弟子として、最初に覚える調査だった。
僕は自分で、その依頼票へ名前を書いた。
今度は、誰かに決められた行き先ではなかった。




