18話 今度は、取り戻せる
西門を出る前に、ベルンさんは僕たちを一列に並べた。
「助けに行くことと、危険へ飛び込むことは違う」
朝の道に、救助用の荷車が二台止まっている。
どちらも二頭立てで、御者が一人ずつつく。一台目には水、毛布、担架、縄、木杭。二台目にはハルデン支部の救助職員が四人乗る。先頭に立つのはAランクのベルンさんだ。
「ルカ。足が治ったからといって、獣に追われて逃げ切れると思うな。勝手に前へ出ない」
「はい」
「エリクは仕掛けを作れても、一人で灰色の獣へ近づかない」
「分かってる」
「今の返事は分かってない顔だ」
エリクが口を閉じた。
「ミレアは治療を優先。ポロに属性を使わせない。ノエルは保護中だ。町へ残る」
ノエルはネロを抱き、門の壁にもたれていた。
「残らない」
「これは相談じゃない」
「追ってきた神殿の人も、西へ出た」
僕たちが準備している間に、四人のうち二人が町からいなくなっていた。残る二人は、仲間が応援を呼びに行ったと話している。
「応援を呼びに行ったなら、避難の人たちと同じ道にいるかもしれない」
ベルンさんの目つきが変わった。
「どうしてそう思う」
「昨日、追ってきた人が、西の宿場にも仲間がいるって言ってた。そっちへ行ったのかもしれない。ネロなら、近づいたときに見つけられる」
「お前が見つけられるのも向こうは知っている」
「でも、知らないまま行くよりいい」
ノエルは怖がっていた。
声も少し震えている。
それでも、自分にできることを隠さなかった。
ベルンさんはマルタさんを見る。
「保護責任者として、町外同行を認められるか」
「目的地、同行者、帰還予定、役割を記録するなら。本人の同意も必要です」
ノエルがすぐに頷いた。
「影で人を隠すのは、三人まで。長くても百数えるくらい。ネロが疲れたら終わり」
「戦わせない。追手の位置確認だけだ」
ベルンさんはそう決めた。
誰に何ができ、何ができないか。
それを言葉にしてから、僕たちは西へ出た。
ミュール集落は、ハルデンから荷車で一刻ほどの小さな場所だ。西の丘で灰色の獣が二頭見つかり、住民は朝のうちに町へ移ることになった。
立ち往生した場所まで半刻で着いた。
道の中央で、荷車の左輪が外れていた。
道端には十六人が固まっている。老人が三人、大人が八人、子どもが五人。職員の報告と人数は合った。
「けが人は?」
ミレアが荷車から降りる。
「足をくじいた者が一人。子どもが熱を出してる」
集落の男が答えた。
ミレアとポロは、すぐ二人のところへ向かった。
ベルンさんは西の道を見る。
遠くで、炎が一度上がった。
その直後、丘の向こうから低い鳴き声が聞こえた。
「誰かが術を使った」
エリクが言う。
「灰喰いなら、大きくなる」
ソーン村で、水の力を喰った獣を思い出す。
「まず人数を運ぶ。荷物は置いていけ」
ベルンさんが指示した。
けれど、救助用の荷車二台だけでは十六人全員を乗せられない。歩ける大人は歩いてもらうとしても、老人と子ども、負傷者でいっぱいになる。
壊れた荷車を直す時間もない。
「車輪は直せない。でも、荷台は使える」
エリクが外れた車軸を見た。
「どうやって動かす」
「前を持ち上げて、後ろへ丸太を入れる。橇みたいにする」
「誰が引く」
「救助の馬一頭を外す。二台に分けて乗せれば、空いた方から借りられる」
ベルンさんは道の傾きと距離を確かめた。
「町まで引かない。東の石橋までだ。橋を越えれば追いついた増援へ渡せる」
役割が決まった。
救助職員二人と歩ける大人四人が、壊れた荷車から荷物を下ろす。エリクは短い丸太を荷台の後ろへ二本固定し、車軸が地面へ刺さらないよう縄で吊った。
僕は道の東側へ、人数を分けた。
一台目に老人三人と熱のある子。
二台目に足をくじいた人と幼い子二人。
橇に残る子ども二人と、荷を持てない大人二人。
歩く人は五人。
「十六人いる?」
子どもが僕に聞いた。
「いるよ。今から名前も書く」
怖いときは、数だけでは足りない。
一人ずつ名前を聞き、荷車二台と橇、徒歩の四つに分けて名簿を作った。先頭と最後を歩く大人にも、同じ名簿を渡す。
アインが西へ顔を向けた。
『来るぞ。一つは大きい。もう一つは小さい』
「灰色の獣が二頭。片方が大きいって」
僕が伝える。
テトも前脚で地面を叩いた。
ベルンさんがその振動を読み取る。
「二頭で間違いない。道の上と、北の斜面だ」
同時に、ネロの耳が南の林へ向いた。
ノエルが目を閉じる。
「人がいる。二人。神殿の追手が履く、硬い革靴の音」
追手も近い。
ベルンさんは僕たちを見た。
「全部を止めようとするな。避難だけを進める」
「灰喰いは?」
「追いつかれないための時間を作る。倒すのは後だ」
最初の荷車が東へ動く。
橇も軋みながら続いた。
僕は最後の組と歩き、ときどき名簿と顔を見比べた。後ろが気になるたび、アインの耳も西を向く。
「ルカ、後ろを見るな」
エリクが言った。
「でも」
「後ろは俺が仕掛ける。お前は人数を見ろ」
道端には、集落から運び出した空の樽が三つ転がっていた。エリクは樽を横倒しにして道を塞ぐように並べ、それぞれの中へ小石を一握りずつ入れた。さらに三つの樽を縄でつなぐ。
灰喰いを傷つける罠ではない。
誰かが樽を動かせば、中の小石が激しく鳴る。追手や灰喰いが近づいたことを知らせるための仕掛けだ。
「一人で残らないで」
僕が言う。
「置いたらすぐ戻る。十まで数えて、戻らなかったらベルンさんを呼べ」
「最初から呼ぶ」
「それでいい」
エリクは笑って走り、すぐ戻ってきた。
十まで数える前だった。
南の林から神殿の二人が出た。
「ノエル!」
避難民が振り返る。
列が止まりかけた。
「歩いて!」
僕は大きな声を出した。
「町まで行く人は、前の人についていって!」
神殿の男がこちらへ近づく。
「危険だ。こちらで保護する」
「今は避難中です」
ノエルが答えた。
「話はギルドでします」
「お前が逃げたせいで、余計な人間まで危険に巻き込まれた」
ノエルの足が止まる。
そのとき、後ろで樽が倒れた。
一つ。二つ。
灰色の獣が道へ現れた。
犬ほどだった身体が、炎を喰ったためか牛ほどに膨らんでいる。口の周りから灰が落ち、足元の草から緑が薄れていく。
もう一頭は北の斜面を下りてきた。
「術を使うな!」
ベルンさんの声が響いた。
神殿の男が反射的に杖を上げる。
「火も光も喰われます! 大きくなる!」
僕が叫ぶと、杖の先の光が消えた。
灰喰いは大きい方が道を、小さい方が斜面を進む。
避難列へ届くまで、百歩もない。
「エリク、道!」
「分かってる!」
エリクと救助職員が、荷物から下ろした空箱を道へ並べる。倒す壁ではなく、進む向きを曲げるための列だ。
灰喰いは最初の箱へ触れた。
木の角が灰色にほどける。
でも、箱を喰う間だけ足が止まった。
「テト、斜面の石を落とすな。道だけ作れ」
ベルンさんの合図で、テトが土へ触れる。
灰喰いへ土の力を当てず、避難列の横にある崩れかけた溝だけを固める。人が一列で通れる近道ができた。
「歩く人は溝側へ。荷車と橇は道のまま!」
僕は名前の紙を見て、組を分け直した。
歩ける五人は溝を通る。荷車と橇は道を進む。
列が二つになり、灰喰いがどちらを追うか迷った。
ネロの周りで光が薄くなる。
「ネロ、橇の人を隠せる?」
ノエルが尋ねる。
黒い精霊が震えながら頷いた。
橇にいる四人のうち、子ども二人だけを影が包む。
三人までという限界を超えない。
灰喰いは人の気配が濃い救助荷車へ顔を向けた。
「ネロを休ませて!」
僕が言うと、ノエルは百まで待たず影を解いた。
倒すためではなく、向きを迷わせるだけでいい。
ベルンさんは大きい灰喰いと列の間に立った。
テトの土壁は使わない。長い棒で空箱を押し、獣の進路へ一つずつ転がす。
「危ない!」
ノエルを追ってきた男の一人が叫んだ。
もう一人の男が、杖ではなく自分の外套を脱いだ。外套を丸め、ベルンさんとは反対側へ投げる。
灰喰いがそちらへ顔を向けた。
「今だ、行け!」
追手だった男も、避難民の背を押した。
石橋まで、あと少し。
けれど橇の縄が切れた。
荷台が傾き、端に座っていた子どもが落ちる。
僕は手を伸ばしかけた。
僕からでは遠すぎる。間には職員さんと、傾いた荷台があった。
「ミレア!」
名前を呼んだ。
ミレアが子どもを抱き止める。エリクは切れた縄を直さず、後ろの丸太を一本外した。
「軽くする! 歩ける人は降りて!」
落ちた子はミレアが抱いたまま近くの職員へ渡した。橇に残った子一人と大人二人も、石橋の手前まで来ていた増援の荷車へ移す。橇が空になり、道の端へ退けられた。
僕が走る必要はなかった。
一人で手を伸ばすより、届く人の名前を呼んだ方が早かった。
そのとき、獣の口から赤い筋が漏れた。
空へ消えるのではなく、避難列の男の人へ伸びている。
男の手には、煤色の小鳥がいた。羽が透けている。先ほど丘で炎を使ったのは、この人だったらしい。
「逃がそうと思って、火を……」
男は唇を震わせた。
アインが僕の襟を引いた。
『あの者の火だ。まだ道が残っておる』
僕にも、赤い筋がかすかに見えた。獣と小鳥の間で、何度も途切れかけている。
「戻せる?」
『全部を呼ぶな。一筋だけだ』
井戸で僕たちへ押し寄せた冷たさを思い出した。
「ベルンさん! この精霊の火だけ、戻したいです!」
ベルンさんは獣と小鳥を見比べた。
「その男は列へ入れ。ルカ、お前は俺の後ろから動くな。冷えたら即中止だ」
僕は頷いた。
アインは僕の腕の中で、目を細める。
『小さき炎よ。こちらを向け』
小鳥の頭が動いた。人間には聞こえなくても、アインの呼びかけは届いたらしい。
『おぬしの火だ。戻ってよいと言ってやれ』
「アインが、戻っておいでって呼んでほしいそうです」
男が小鳥の名前を呼んだ。震える声で、何度も。
小鳥が細く鳴いた。
赤い筋の先が、獣からほどけた。
僕はその一本だけを見た。ほかの光を探さない。全部を助けようと思わない。
指が少し冷たくなる。
「一つ来た。もう止めよう」
『うむ』
アインが前脚を下ろした。
赤い光は僕たちへ入らず、小鳥の胸へ吸い込まれた。透けていた羽に、夕焼けのような色が戻る。
同時に、大きい灰喰いの前脚が折れた。
転んだのではない。膨らんでいた肩が縮み、足をつく位置がずれたのだ。
「今だ、進め!」
ベルンさんが叫ぶ。
エリクと職員が空箱を押した。獣が体を起こす前に、最後の荷車が角を曲がる。
小鳥が炎を広げかけた。
「今は出さないで!」
僕が伝えると、男はすぐ相棒へ声をかけた。小鳥の火は羽の内側へ収まった。
返した火を、また奪わせてはいけない。
僕は自分の足を見た。
立っている。
寒いけれど、話せる。アインも腕の中で顔を上げた。
『おぬし、止められたな』
「アインもね」
笑ったら、喉の奥が少し痛くなった。
怖かった。でも、今度はできた。
ミレアが僕の指を握り、顔を覗く。
「温かいものは、橋を渡ってから。今はゆっくり歩いて」
僕は頷き、みんなと同じ方へ足を出した。
最後の一人が石橋を越えた。
橋の中央で、集落の男が振り返った。
「妻がいない」
列に不安が広がる。
僕は持っていた紙を見た。十六人の名前には、男と同じ家名の女性もいる。
「青い頭巾の人なら、一台目の荷車です」
先頭の職員が頭巾を上げてもらう。女性がこちらへ手を振った。
荷車を分けたとき、夫婦も別の組になっていた。
「いる。先に橋を渡っています」
男の足から力が抜けた。
人数だけ合っていても、誰がどこにいるか分からなければ、いないと思って戻る人が出る。名前を書いた意味が、やっと僕にも分かった。
「戻らないで。向こうで会えます」
男は何度も頷き、橋を渡った。
東からギルドの増援が来る。盾を持った職員たちが、術を使わず大きな板を二列に立てた。
灰喰い二頭を倒すのではなく、橋の西側へ誘導して人から離す。
避難民は増援の荷車へ乗り換えた。
僕は紙の名前を一つずつ呼んだ。
十六人。
返事も十六。
足をくじいた人と熱のある子はミレアが診る。落ちた子どもにも大きな怪我はない。
「全員います」
声にした途端、力が抜けた。
ベルンさんが戻り、僕の手と目を確かめた。
「冷えは」
「さっきより、戻りました」
アインは僕の腕を降り、自分で歩いてみせた。
『我も倒れておらぬ』
「アインも、倒れてないって」
「見りゃ分かる。今日はもう使うなよ」
僕は頷いた。できたから、もう一度。それを今やったら、今日覚えたことがなくなってしまう。
小鳥を抱いた男の人が、深く頭を下げた。
アインは急に横を向いて毛繕いを始めた。耳だけが、しっかり男の声を聞いていた。
ノエルだけは、石橋の西を見ていた。
さっき助けた神殿の男が、もう一人と話している。
「あの人たちも、灰喰いを見た」
ノエルが言った。
「神殿へ戻ったら、なかったことにされるかもしれない」
ベルンさんは頷いた。
「だから全員の記録を取る。ギルド、避難民、神殿、お前たち。明日、同じ机で照らし合わせる」
一人の言葉だけでは消される。
同じものを見た人が、それぞれ残せば消しにくくなる。
灰喰い二頭は西側の空き地へ誘導され、夜通し見張ることになった。
見張りには精霊術を使わない鐘と長い引き縄を渡し、異変があっても二人だけで近づかず、石橋の詰所へ知らせる手順を決めた。
僕たちは十六人と一緒に、ハルデンへ戻った。
帰りの荷車で、アインは僕の膝へ丸くなった。
「次も、少しずつね」
『うむ。だが今は寝る』
言った通り、すぐに目を閉じる。
僕は白い背へ手を添えた。消えそうなほど薄くも、冷たくもない。
自分で戻ってきた相棒を抱いたまま、僕も背を荷台へ預けた。
今度は、助けた人と一緒に帰れる。
向かいの荷車で、小鳥の精霊が目を開けた。
男の人が気づいて、何度も頷いている。何を話しているのかは聞こえなかった。
僕はアインの耳元へ教えた。
「向こうも、お話できたみたいだよ」
『……そうか』
眠そうな返事だった。
でも白い尾が、僕の手へ一度だけ触れた。
アインにしかできないことが、誰かの普通の朝へ戻っていく。
僕はその小鳥がもう一度眠るまで、静かに見ていた。




