17話 影を抱いて逃げる少女
Eランクの札をもらってから、およそ四か月が過ぎた。
僕の右膝はすっかり治った。エリクの道具袋には継ぎが増え、ミレアは僕たちの苦手な薬の味まで覚えた。
イレーネさんは何度も便りを運んでくれた。エリクの父さんからも滞在を延ばす許しをもらい、僕たちはベルンさんのいる宿から近くの仕事へ通っていた。
神殿からの問い合わせも届いた。
そのたびマルタさんが書類を確かめ、ベルンさんが外出の範囲を決めた。誰も追ってこなくなったわけではない。
灰喰いを閉じ込めた場所では、大人の見張りが続いている。ほかの土地にも似た跡が見つかったと聞いた。でも、そのたび僕たちが呼ばれるわけではなかった。
今日は、三人で選んだ道標の仕事だ。
といっても、三人だけで町の外へは出られない。
僕とエリクは十歳、ミレアは十一歳だ。十三歳になるまでは、Dランク以上の大人が責任者として一緒にいる必要がある。
「これならどうだ」
ベルンさんが掲示板の下段を指した。
〈旧街道の道標確認・E級〉
ハルデンから西へ半日の旧街道を歩き、倒れた道標と崩れた場所を記録する仕事だ。魔獣討伐ではないが、旅人が道に迷わないための大切な依頼らしい。
「行きたいです」
僕が言うと、エリクも依頼票を外した。
「道標なら、直せるところは直していいですか」
「勝手に形を変えなければな」
マルタさんは、古い道標の印を写した紙を渡してくれた。
分かれ道ごとに、石柱の形と刻まれた矢印を比べる。向きが変わっていれば戻し、割れていれば場所を記録する。
ミレアは薬草袋のほかに、水筒を二本持った。
一本は僕たちが飲む水。
もう一本はポロが休むための清水だ。
「混ぜると困るから、青い紐がポロの水です」
アインが青い紐を鼻でつつく。
『我の水は』
「アインは同じ水でいいよね」
『扱いが違う』
「扱いが違うって、怒ってる」
僕が伝えると、エリクは青い紐の水筒を指さした。
「アインは俺たちと同じように水を飲めるだろ。ポロは水の中で休むから、専用の水筒がいるんだよ」
エリクが言うと、アインは先に町門へ向かった。
怒ったふりをしているが、耳は僕たちの声を聞く向きだった。
旧街道は、今使われている西街道より細い。
二台の荷車がすれ違えるほどの幅はなく、両側から背の高い草が伸びている。道の左は緩い斜面、右は木の多い窪地だ。
最初の石柱は、町から半刻の場所にあった。
腰ほどの高さで、上が斜めに欠けている。西を示す矢印は残っていたが、蔦に隠れて旅人から見えにくい。
エリクが蔦を切り、ミレアが周りの刺草を避ける印を置く。
僕は記録紙へ、道のどちら側にあるかと、欠けた部分の形を描いた。
「絵、細長すぎない?」
エリクが覗く。
「石柱が細いんだよ」
「本物はもうちょっと太い」
「じゃあ、エリクが描いて」
描かせると、今度は僕より太くなった。
ミレアが二つの絵を見比べ、間くらいの石柱を描いた。
ベルンさんは何も言わず、三枚とも記録袋へ入れた。
「全部持って帰るんですか」
「どれが近いかは、マルタが決める」
少し恥ずかしい。
でも笑いながら歩ける仕事は、久しぶりだった。
二本目の道標を確かめ、昼前に古い休憩小屋へ着いた。
石の壁に木の屋根を載せただけの小屋で、扉は外れて壁へ立てかけられている。中には長椅子が二つと、冷えた灰の残る炉があった。
ベルンさんが屋根と床を確かめる。
「今日はここで食べる」
エリクが固いパンを四つに割った。
僕の分だけ少し大きい。
「同じにしてよ」
「先に選んだのが俺だから」
「じゃあ、小さいのと交換して」
「いいの? あとで腹減ったって言うなよ」
言い返そうとしたとき、アインが扉のない入口へ顔を向けた。
耳がぴんと立っている。
『誰か来る』
旧街道の東、僕たちが来た方角から足音がする。
一人分。
草を踏み外し、何度も転びそうになる不揃いな音だ。
ベルンさんが立ち上がる。
「武器は抜くな。道を空けろ」
僕たちは小屋の壁際へ寄った。
やがて、黒い外套を着た少女が道の曲がり角から現れた。
僕たちより少し年上に見える。
黒に近い紫の髪は乱れ、灰色の目が何度も後ろを振り返っていた。片方の靴が脱げかけ、右手には布で包んだ何かを抱えている。
少女は僕たちを見て止まった。
逃げ道を探すように、左の斜面と右の窪地を見る。
「大丈夫?」
僕が一歩出ると、少女は布包みを強く抱いた。
「来ないで」
声がかすれている。
「水だけ置くね。近づかないから」
ミレアが普通の水筒を道の中央へ置き、三歩下がった。
少女はすぐに取らない。
僕たちの人数と、ベルンさんの杖と、退路を順番に見た。
そのとき、布包みの隙間から黒い耳が出た。
子猫に似ている。
けれど輪郭が煙のように揺れ、日なたへ出た部分だけ薄くなった。
影の精霊だ。
黒い耳は少女の胸へ戻ろうとした。
少女が外套で光を遮る。
「見ないで」
「その子、苦しいの?」
「違う」
少女は強く否定した。
でも布包みの中から、弱い声が漏れる。
音ではなく、短い気持ちだけがアインを通して僕へ触れた。
怖い。
離れたくない。
アインが少女へ近づこうとする。
僕は背中へ手を添えて止めた。
「今は待とう」
『黒き小さき者が、助けを求めておる』
「分かってる。でも、あの子は僕たちも怖いんだ」
少女が僕とアインを見た。
「その白い精霊と、話せるの?」
「うん。アインっていうんだ」
少女は何か言いかけた。
遠くで金属の鳴る音がして、顔色を変える。
街道の東から、今度は複数の足音が近づいていた。
鎧を着た大人が四人。
胸当てには、太陽を囲む六本の線が刻まれている。神殿の印だ。
少女は水筒を取ることも忘れ、西へ走ろうとした。
右足がもつれ、道へ膝をつく。
抱いていた影精霊が布から転がり出た。
黒い子猫のような体に、尾が二本見えた。片方ははっきりしているが、もう片方は揺れる影のように薄い。
神殿の男たちが少女を見つけた。
「ノエル・ラヴィン!」
先頭の男が叫ぶ。
少女の名前はノエルらしい。
「その精霊を地面へ置き、こちらへ来なさい」
ノエルは影精霊を抱き直した。
「嫌」
「契約の検査をするだけだ。抵抗すれば、精霊の状態が悪化する」
優しい言葉に聞こえた。
けれど男たちは、道の幅いっぱいに広がっている。
ノエルが逃げられる場所を残していない。
僕は神殿の人を見ると、選定の日を思い出す。
白い台。
光らなかった晶盤。
僕もアインも、神殿へ移されると告げられた声。
胸の奥が冷たくなった。
それだけで、目の前の男たちが悪い人だと決めてはいけない。
ノエルが何をしたのか、僕はまだ知らない。
でも、影精霊を置けと言われたとき、ノエルの腕が震えたことは見えた。
僕はノエルの前へ出かけて、ベルンさんを振り返った。
「ベルンさん。この子、まだ水も飲めてません」
ベルンさんが頷き、僕より前へ進んだ。
エリクは修理した留め具を外して、水筒の紐をミレアへ渡す。手が塞がっていても、落とさず持てるようにするためだった。
「どうして」
ノエルが僕へ聞いた。
「僕も、アインと一緒に神殿へ移されるって言われたことがあるから。離されるかもしれないって、怖かったんだ」
知らないことはたくさんある。それでも、目の前で震えている二人を離していいとは思えなかった。
神殿の男が一歩進む。
ベルンさんの杖が道へ横に出た。
「ここからは俺が聞く」
低い声だった。
「俺はハルデン冒険者ギルド所属、Aランクのベルン・アステル。三人の未成年冒険者の責任者でもある。この少女を連行する法的根拠と、保護命令書を見せてもらおう」
男たちは足を止めた。
先頭の男が革筒から紙を出す。
ベルンさんは受け取らず、開いたまま見せるよう求めた。
紙の上には神殿の印がある。
でも、ノエルの名前が書かれた行の下は空白だった。
「契約精霊の名がない」
ベルンさんが言う。
「検査対象は契約者だけか」
「影精霊は未登録だ。名称を記す段階にない」
布の中で影精霊が震えた。
未登録だから、名前がないのだろうか。
アインは晶盤に測れなくても、アインだった。
「名前、あるよね」
僕はノエルへ尋ねた。
少女は迷った後、小さく答えた。
「ネロ」
黒い精霊の耳が動く。
「この子はネロです」
僕は神殿の人へ言った。
「紙に書いてなくても、名前があります」
先頭の男の声が硬くなる。
「その精霊には、契約者の精神へ悪影響を与える疑いがある。分離検査が必要だ」
「分離って、どれくらいですか」
エリクが尋ねる。
「必要な期間だ」
「一日? 一週間?」
「子どもへ説明する必要はない」
ノエルがネロを抱く指へ力を込めた。
「戻ってこない」
初めて、はっきりした声だった。
「連れていかれた精霊は、誰も戻ってこなかった」
神殿の男たちが動いた。
先頭ではなく、一番後ろの男が笛を取り出す。
ネロの輪郭が大きく揺れた。
休憩小屋の周りから音が薄くなる。
鳥の声が遠ざかり、葉が揺れているのに風の音がしない。
ノエルの姿まで、日なたの中で見落としそうになる。
「ネロ、だめ。力を使ったら見つかる」
ノエルが囁く。
男が笛を吹いた。
音は聞こえない。
けれど笛の先から白い輪が広がり、薄くなった影を押し戻した。
ネロが苦しそうに鳴く。
アインが僕の前へ出た。
『あの輪は、黒き者と娘のつながりを裂こうとしておる』
僕の胸が強く鳴った。
「やめて!」
白い輪へ手を伸ばしかける。
ベルンさんが僕の肩を掴んだ。
「触るな。何の術か分からん」
代わりにテトが地面を叩いた。
笛を持つ男の足元だけが盛り上がる。攻撃ではない。男の体が傾き、笛が口から離れた。
白い輪が消える。
ネロはノエルの影へ半分沈み、荒く震えていた。
神殿の男たちが杖へ手をかける。
ベルンさんは冒険者札を高く掲げた。
「今の術で保護対象が苦しんだ。ここから先は、ギルド支部で双方の書類と証言を確認する」
「神殿の管轄へ口を出すつもりか」
「街道上の負傷者を保護し、身元争いを支部へ運ぶ。それが冒険者ギルドの規則だ」
「拒否する」
「ならば、少女へ術を使った事実を含め、王都本部へ報告する」
男たちはすぐに答えなかった。
ベルンさんは僕たちを振り返らずに言う。
「エリク、記録」
「はい。白い輪が一回。ネロが苦しんだ。テトが足場を上げて止めた」
「ミレア、二人の状態」
「ノエルは右膝の擦り傷と疲れ。ネロは輪郭が薄いです。水は飲めていません」
「ルカ、退路」
僕は周りを見る。
西の道は空いている。右の窪地は木が多く、けが人を連れては進めない。戻るなら東だが、神殿の四人がいる。
「西の道を次の分かれ道まで進めます。そこから南へ曲がれば、ハルデンへ戻る西街道につながります」
「よし」
ベルンさんは神殿の男へ告げた。
「我々は少女をハルデン支部へ保護搬送する。同行するなら、武器と笛をしまえ」
先頭の男は長く黙った後、杖から手を離した。
「支部で話す」
神殿の四人は僕たちから十歩離れてついてくることになった。
ミレアがノエルの傷を洗う間に、エリクとベルンさんが小屋の外れた扉へ縄を通した。二人で持ち上げてから床板の割れがないか確かめ、ノエルを寝かせる。
西の分かれ道へ出るまで、神殿の四人は後ろをついてきた。
アインは担架の上から、ときどき振り返る。
『右の者が近い』
僕が伝えると、ベルンさんが足を止め、約束した距離を空けさせた。
ノエルはそのたびに目を開けた。
「眠らなくてもいいよ」
僕は言った。
「でも、水は飲んで。自分で蓋を開けていいから」
ノエルはようやく水筒を受け取った。
分かれ道の石段では、テトが崩れた足場を直した。僕とエリクは担架の後ろを二人で持った。前を持つベルンさんが一段下りるのを待ち、声を合わせて進む。
途中で乗せてもらえた行商人の荷車が、こんなにありがたいものだとは思わなかった。
町へ戻る頃、アインがネロの隣へ伏せた。
『今は呼ばれぬまで寝ておれ。我が見ておく』
アインの言葉を伝えると、ノエルは僕たちを順番に見た。
「起こしてね」
初めて、任せる言葉を口にした。
ハルデン支部へ着くと、マルタさんは入口前の広間を二つに分けた。
ノエルとネロは奥の相談室。
神殿の四人は、廊下を挟んだ記録室。
同じ机へ着かせる前に、別々の話を記録するためだ。
「今夜の保護責任者は私とベルンさんです」
マルタさんはノエルへ、名前と日付の入った紙を見せた。
「あなたが自分で出ると言わない限り、確認が終わるまで神殿へ渡しません。ネロも同じ部屋にいます」
ノエルは紙より先に、最後の一行を見た。
〈保護対象精霊 ネロ〉
「書いてある」
「ルカたちの記録に名前がありましたから」
ノエルはネロを抱いたまま椅子へ座った。
今度は、逃げ道を探すように部屋を見回さなかった。
ノエルが落ち着いたのは、夕方になってからだった。
「見せたいものがある」
上着の縫い目から出したのは、古い布切れだった。
ネロが前脚を置くと、洗い落とされた文字の跡が黒く浮き上がる。新しく書くのではなく、布に残った跡を見せているのだと、ノエルが教えてくれた。
〈属性判定不能〉
〈分離観察〉
その下に、子どもたちの名前が並んでいた。
「ラグナの神殿で見つけた。私、そこで書庫の掃除と記録の写しをしてたの」
ノエルは十二歳。ネロには二年前に選ばれたという。
最初は、消えた文字が見えると褒められた。
けれど古い部屋を調べさせられ、この布を見つけたあと、ネロだけを別の部屋へ移すと言われた。
「いつ戻すか、教えてくれなかった」
僕はアインの背へ手を置いた。
布には八人分の古い記録があった。王都へ送られたことは書かれていて、帰った日は空欄だった。
「帰らなかったってこと?」
僕が聞くと、ベルンさんは首を振った。
「それだけでは決められん。別の帳簿に記録があるかもしれない」
戻っていてほしい。
そう思ったのは、僕だけではなかったらしい。
「探したの。でも、移送簿は頁が切られてた」
ノエルが本の名前と棚を答えた。マルタさんはその場所を写し、「原本を確かめるための情報」と書いた。
アインが机へ前脚をかけ、ネロを見た。
『これを、一人で持ってきたのか』
ネロから返ったものを、アインが僕へ伝える。
暗い廊下と、閉じる扉。抱きしめられた腕の感触。
『二人だ、と申しておる』
「うん。二人で来たんだね」
僕が言うと、ノエルが頷いた。
「ネロが、私を見つからないようにしてくれた」
マルタさんは布を取り上げず、ノエルの目の前で写しを作った。
そのあと、神殿側の代表が一人だけ入ってきた。
大人同士の話は長かった。検査が必要だと言う男に、ベルンさんは理由と期間を尋ねた。ネロが怯えていることと、ネロが人を傷つけたことは違うと、同じ質問を繰り返した。
ノエルは膝の上の黒い背を撫でていた。
やがて顔を上げる。
「ユアンは、どこにいるの」
男の手が止まった。
「誰だ」
「地下で会った子。十歳って言ってた。丸い羽の精霊を抱いてたけど、次の日には部屋が空だった」
「王都へ移った」
「精霊も一緒?」
男は、自分の担当ではないと答えた。
マルタさんが別の紙へ名前を書いた。古い八人とは別に、今のユアンを捜すための問い合わせを出すという。
男が帰ったあと、ノエルは小さく息を吐いた。
「聞いちゃった」
「うん」
「怒られたら、どうしよう」
「今は、ベルンさんたちがいるよ」
僕が答えても、ノエルの震えはすぐには止まらなかった。
アインがネロの隣に座る。白い背と黒い背が、机の端に並んだ。
僕はそれを見ながら、ノエルが落ち着くのを待った。
翌朝、町外の救助を知らせる鐘が鳴った。
ミュール集落から避難していた十六人が、荷車の故障で動けなくなった。
灰色の獣が二頭、後ろから迫っているという。
アインが僕の肩へ跳び乗った。
『今度は、戻す先を見失わぬ』
ソーン村で見た青い筋を、僕も思い出した。
怖くなかったわけではない。
けれど今度は、一つだけならできるかもしれない。




