13話 水が水へ還るとき
共同井戸から汲んだ水は、朝になっても布へ染み込まなかった。
桶の中では普通の水に見える。
けれど布を浸して持ち上げると、表面を滑って全部落ちてしまう。
「灰喰いを閉じ込めても、元には戻らないんだね」
僕が言うと、ミレアは唇を噛んだ。
広場には空の水瓶を抱えた村人が並んでいる。ハルデンから運んだ樽は、もう底が見えていた。
次の荷馬車が着くのは、早くても昼だ。
僕の右膝には新しい包帯が巻かれていた。
ベルンさんからは走ることを禁じられ、杖代わりの棒を持たされている。
「傷がまた開いている。今日は右足へ体重をかけるな」
「でも、水を調べるくらいなら」
「立たずにやれ」
ベルンさんは僕を井戸端の椅子へ座らせた。
アインが膝へ乗ろうとして、包帯を見て左側へ回る。
『おぬしは、言われねば休めぬのか』
「アインにだけは言われたくないよ。昨日、灰喰いの前へ飛び出したじゃないか」
『あれは我が選んだ』
「僕も選んだよ」
『だから二人とも叱られておる』
ミレアには鳴き声しか聞こえない。それでも僕たちの顔を見比べ、呆れたように息を吐いた。
「けんかは後。ポロが何か見つけた」
青い水滴の姿をしたポロが、小さな器の中で尾を振っていた。
器には二種類の水が入っている。
左はハルデンから運んだ清水。右は井戸水。
ポロが左へ触れると、青い体の輪郭が丸く広がる。右へ触れると、尾の先が細かく震えた。
「昨日は、井戸水に足りないものがあるとしか分からなかった。でも今は、なくなったものが近くに残ってるって」
「近くって、どこ?」
ミレアが器を井戸の縁へ置く。
ポロの尾が、旧排水横穴の方角を向いた。
灰喰いを落とした沈砂槽の下だ。
『喰われたものは消えておらぬ』
アインが低く言う。
昨日も同じことを話していた。
「ばらばらにされて、戻る場所がないんだよね」
『うむ。水であったという形を失っておる』
僕は桶の水へ指を近づけた。
触れる前に、ベルンさんが手首をつかむ。
「何をする気だ」
「アインが、なくなったものは残っているって」
「だから手を入れるのか」
「……入れたら分かるかなって」
「分からないものへ、けが人の手を入れるな」
昨日までなら、止められたことが悔しかったと思う。
でも、灰喰いへ走ったせいで傷を開いたばかりだ。
僕は手を引いた。
「では、どう調べますか」
ベルンさんが少しだけ頷く。
「まず量を減らす。次に、触れなくていい方法を探す」
エリクが木の匙を三本持ってきた。
一つへ清水、一つへ井戸水、残りは空のまま並べる。
ミレアが乾燥豆、塩、清潔な布を少しずつ入れた。
清水では豆が沈み、塩が溶け、布が濡れる。
井戸水では、豆は沈んでも硬いまま、塩は底へ落ちても溶けず、布の上では水滴が丸く弾かれた。
「水の力が弱い、だけじゃないよね」
エリクが匙を横から見る。
「弱いなら少しは染みる。これは、水が何をすればいいか忘れてるみたいだ」
『忘れたのではない。並びを崩された』
アインは空の匙へ前脚を置いた。
『我ならば、戻せるやもしれぬ』
「どうやって?」
『知らぬ』
「知らないの?」
『手が覚えておるような気がする』
「橋で、ロッソの火を一粒だけ取り戻したときみたいに?」
『おそらくな。だが、今度は水が多すぎる』
古橋では、アイン自身も気づかないうちに起きた。今度は何を戻すのかを確かめ、止める条件まで決めてから試さなければならない。
アインに手はない。前脚ならある。
そう言いかけて、やめた。
アイン自身にも分からない何かが、灰喰いに崩された水へ反応している。
「少しだけ試せますか」
僕はベルンさんへ尋ねた。
「条件を決めろ」
「井戸水は匙一杯。みんなが離れた場所でやる。アインか僕に変化があったら、すぐやめる」
「もう一つ。灰喰いの見張りへ先に知らせる。向こうが動いたら中止だ」
エリクが打板の合図を確認しに行った。
沈砂槽は夜の間に二度だけ揺れたが、板と石は持っている。見張り二人も無事だった。
僕たちは広場の端へ移った。
ミレアが井戸水を匙一杯だけ石皿へ落とす。
ポロは清水の器から見守っていた。
アインが石皿へ鼻を近づける。
『水は、流れる』
僕の頭へ届く声が、いつもより遠い。
『包み、運び、混ざる。冷え、温まり、形を変える』
「それを、水に教えるの?」
『違う。散らされたものへ、帰る場所を示す』
アインの白い尾が、ゆっくり揺れた。
石皿の上に光は出ない。
風も起きない。
ただ、水面へ小さな輪が一つ広がった。
井戸水の中にあった塩の粒が、沈み始める。
「溶けてる」
ミレアが顔を寄せた。
ポロが器から飛び出し、石皿の縁へ着地する。
青い尾が水へ触れた。
さっきまで細かく震えていた尾が、丸く膨らむ。
「戻った。水に戻ってるよ」
胸が熱くなった。
アインの言葉を、もっとはっきり聞きたいと思った。
その瞬間、僕とアインの間にある細い糸が強く引かれた。
視界が青く染まる。
本当の地面が消えたわけではない。土や井戸へ重なるように、無数の青い筋が透けて見えた。
筋は井戸から旧排水横穴まで、流れを失った糸のように地中へ散らばっている。水脈そのものではない。
水が物を濡らし、塩を溶かし、飲んだ人の身体へ巡るための働き。それを灰喰いが水から引き剥がし、ばらばらのまま置き去りにしたものだと、なぜか分かった。
『ルカ、追うな!』
アインの声が頭の中で弾ける。
止まろうとした。
でも、行き先を失っていた青い筋が、アインとつながった僕を帰り道だと思ったように、一斉に流れ込んだ。
冷たい。
息ができない。
椅子から落ちる前に、エリクが肩をつかんだ。
「ルカ!」
右膝を床へつきそうになり、ミレアが腰を支える。
「寝かせて! 右足は曲げないで!」
ベルンさんが僕の顎を上げ、口元へ耳を寄せた。
「呼吸はある。アインを離せ」
アインが僕の胸へ前脚を押し当てている。
『離れぬ。我が始めた』
「アインは、離れないって」
声が出た。
自分でも驚くほど細い声だった。
「話すな。息を吐け」
ミレアの指が首筋の脈を数える。
ポロが清水を薄い布へ含ませ、額へ運んだ。
冷たさが少しずつ外へ逃げていく。
青い筋はまだ見えていた。
それぞれが水へ戻ろうとしているのに、どの水へつながればよいか分からず、ばらばらのまま僕たちの周囲を巡っている。
全部を僕たちだけで戻そうとすれば、たぶん耐えられない。
「アイン。一つずつ」
『何を申す』
「僕たちは、ばらばらになった働きを井戸まで一本ずつつなぐ。そこから水全体へ広げるのは、ポロと井戸の流れに任せよう」
ミレアが僕の言葉を聞き、石皿を井戸の縁へ運んだ。
「ポロ、できる?」
小さな水精霊は尾を一度だけ振った。
アインが僕とのつながりを狭め、青い筋が入ってくる道を一本分だけ残す。
押し寄せていた青い筋が止まり、その一本だけが僕たちと石皿の水をつないだ。
その一本を、石皿の水へつなぐ。
ポロが輪を作るように泳いだ。
戻った水が井戸へ一滴落ちる。
井戸の底から、雨粒が石を打つような音が返ってきた。
けれど、すぐに全部が戻ったわけではなかった。
井戸の東側から汲んだ水は布を濡らしたのに、西側から汲んだ水はまだ丸く弾かれた。桶を下ろす場所によって結果が違う。
「混ざれば戻ると思ったのに」
僕が言うと、エリクが井戸の内壁を指した。
「上から落ちた一滴が、同じ場所しか通ってないんじゃないか」
井戸は深い。底へ直接手を入れることはできない。
ミレアが縄付きの採水瓶を下ろした。
東側、中央、西側。深さも変えて九か所から水を取る。
僕は椅子に座ったまま、木札へ結果を付けた。
東の上層は戻っている。中央は少しだけ。西の底は、まだ塩さえ溶かさない。
「水を戻す場所が偏ってる」
「だったら、道を分ければいい」
エリクが古い樋の残りを三本運んできた。
エリクは三本の細い樋を、石皿から放射状に伸ばした。石皿へ注いだ水が三つに分かれ、井戸壁の離れた場所へ一滴ずつ流れるようにする。樋の先には細長い布を垂らした。水を一か所へ集中させず、三方向の壁へゆっくり伝わせるためだ。
「これなら、違う場所へ落ちるよ」
『人の子は、水の道まで作るのか』
アインが驚いたように言う。
「アインが全部やらなくていいようにね」
ベルンさんは見張りの打板を確認し、僕の脈をもう一度測った。
「三回で止める。一回ごとにルカとアイン、ポロの状態を見る」
一回目は東と中央。
二回目で西の上層。
三回目の途中、僕の指先がまた冷たくなった。
「中止」
ミレアが僕より先に言った。
「でも、底がまだ」
「続けて倒れたら、次の道を作れない」
ポロも器の中で動きを止めている。
アインは不満そうだったが、石皿から前脚を離した。
僕たちは温かい薬草湯を飲み、半刻休んだ。
その間に井戸の水は、作った三つの道から少しずつ混ざっていく。
戻す作業をしていない時間にも、変化は進んでいた。
「待つのも作業なんだね」
「待っている間に確かめるんだよ」
ミレアは僕の指先へ触れ、温度が戻ったことを確認した。
四回目は、僕ではなくエリクが木札を持った。
僕はアインの声を伝えることだけに集中する。
ミレアはポロを見る。
ベルンさんは全員を止める役。
役目を分け、一人で全部を見ようとしなくなったとき、青い筋は僕の中へ押し寄せず、さっきより穏やかに石皿から井戸へ戻った。
二滴目。
三滴目。
水滴の音が増えるたび、散らされていた青い筋が道を思い出したように、自分から井戸へ向きを変え始める。
「僕が引っ張らなくても、戻ってる」
『水は流れるものだ。道さえあればよい』
アインの声に、さっきまでなかった驚きが混じっていた。
自分で起こしたことなのに、自分でも初めて見たようだった。
井戸の水面が揺れる。
溢れはしない。
水位も変わらない。
それでも、桶の水へ布を入れると、今度はゆっくり染み込んだ。
乾燥豆が沈む。
塩が底へ残らず溶けた。
村人から声が上がる。
「まだ飲まないで!」
ミレアが大声で止めた。
「一つ戻っただけかもしれない。ポロとベルンさんが確かめるまで待って!」
喜んで駆け寄りかけた人たちが止まる。
ベルンさんは井戸水を四つの器へ分けた。
布、塩、豆、乾いた薬草。
ポロは一つずつ触れ、最後に自分の体へほんの一滴だけ取り込んだ。
青い輪郭が崩れないことを確認してから、ミレアが頷く。
「水としての働きは戻ってる。でも最初に飲むのは少しだけ。体の弱い人は、運んだ清水を優先して」
配給係が名簿を書き直す。
最初の一杯は、井戸水の異常で倒れた六人へ渡された。
一番年上の男性は、器を持つ手にも力が入らなかった。
妻が背中を支え、ミレアが木匙で一口だけ運ぶ。
みんなが見ている前で、すぐに元気になるわけではない。
男性は目を閉じ、ゆっくり飲み込んだ。
しばらくして、白く乾いていた唇に少し色が戻る。
「冷たい」
それだけの言葉に、妻が泣いた。
昨日までの井戸水は、いくら飲んでも喉の渇きが和らがなかったという。
次の人へ移る前に、ミレアは時刻と飲んだ量を書いた。
「効いたように見えても、全員へ一度に飲ませない。悪くなる人がいないか待つ」
村人の中には、早く子どもへ飲ませたいと訴える人もいた。
オルガさんが配給名簿を持って前へ出る。
「待つのが嫌なのは分かる。でも、ここで順番を崩したら、具合が悪くなったとき何を飲んだか分からなくなるよ」
すぐには飲ませず、まず唇を濡らす。むせないことを確かめてから、少量ずつ飲ませた。
十分ごとに一人。
呼吸、手足の温度、受け答えを確認する。
最後の六人目が飲み終わるまで、一時間近くかかった。
誰も急に立ち上がりはしなかった。それでも全員が、自分の手で器を持てるところまで戻った。
奇跡みたいな一瞬ではない。
小さな回復を、間違えずに重ねた結果だった。
僕はその様子を椅子から見ていた。
立とうとすると、ミレアに肩を押さえられる。
「今度こそ休んで」
「もう冷たくないよ」
「顔が真っ白。脈も速い。平気かどうかは私たちが決める」
「私たち?」
ミレアは一瞬黙った。
それからポロの器を抱き直す。
「少なくとも、あなたが自分で決めるよりはまし」
エリクが笑い、アインも『そのとおりだ』と頷いた。
僕だけが納得できない。
ベルンさんの診断では、魔力を使い切った状態に近いらしい。
ただし、僕自身の魔力が減っただけではない。
「お前とアインの間を、大量の何かが通った。今夜は意識、呼吸、体温を一刻ごとに見る」
「膝は?」
「そちらも悪化させるな。二つけがをしたから、一つを忘れていいとは言っていない」
村の空き家を借り、僕は寝台へ運ばれた。
歩けると言ったが、エリクとベルンさんに両側から支えられた。
夕方、ハルデンから封鎖班と二台目の水樽が到着した。
灰喰いはまだ沈砂槽の下にいる。
井戸の働きが戻った直後、板を叩く間隔が速くなったという。
消されたものが戻ったことに気づいたのかもしれない。
恒久的な封印方法ができるまで、精霊術を使わない見張りと打板警報を続けることになった。
「倒したわけじゃないんだね」
僕が言うと、ベルンさんは頷いた。
「水を戻したことと、灰喰いを止めることは別だ」
一つ解決しても、全部が終わるわけではない。
それでも広場では、久しぶりに水を含んだ布で母親が子どもの顔を拭いていた。
その夜、ミレアが荷物を持って空き家へ来た。
薬草袋、着替え、ポロの水筒。それから祖母オルガが焼いた黒パン。
「明日、ハルデンへ戻るんでしょう」
「うん。封鎖班へ引き継いだら」
「私も行く」
「村を離れていいの?」
「おばあちゃんが行けって。井戸を直した方法を、ここだけの秘密にしたら、別の村で同じことが起きたとき困るから」
ポロが水筒から顔を出す。
「それに、あなたたちだけだと、けが人が休まない」
僕は反論しようとして、右膝と今朝のことを思い出した。
「……助かります」
「敬語は変」
「じゃあ、助かる」
ミレアはようやく笑った。
アインは寝台の足元で、自分の尾を見つめていた。
見た目は一本のまま。
けれど白い毛の奥を、ごく淡い青が一度だけ流れた。
『水を、知っておった』
「思い出したの?」
『分からぬ。思い出したというより、戻ってきた』
アインにも、まだ答えはない。
僕たちは水を取り戻した。
同時に、白い相棒が失っていた何かを、一つだけ目覚めさせてしまった。




