11話 水を失った村
「水は出るのに、飲んだ人が倒れる?」
マルタさんが受付台から身を乗り出した。
少女は何度も頷いた。
「見た目も匂いも普通です。でも、喉が乾いたままで、飲み続けると手足に力が入らなくなるんです」
胸に抱えた水筒の中で、青い精霊が不安そうに尾を振っている。
「あなたの名前と、村の場所を」
「ミレア・ソーン。十一歳です。ハルデンから東南へ歩いて半日くらい。祖母と薬草を作っているソーン村です」
「最初に倒れたのはいつですか」
「昨日の夕方。朝までに六人。みんな同じ共同井戸を使っています」
ギルドの空気が変わった。
壁際で食事をしていた冒険者たちまで、こちらを見る。
ベルンさんが少女の前へしゃがんだ。
「倒れた者の意識と呼吸は」
「意識はあります。息もできる。でも、体が重くて起きられない。祖母が塩と蜂蜜を溶かした別の水を飲ませたら、少しだけ戻りました」
「別の水はどこから」
「雨水を溜めた甕です。井戸水は使ってません」
「判断は正しい」
ベルンさんは立ち上がった。
「マルタ。俺が受ける。内容は水源異常の調査と傷病者の応急対応だ」
「緊急のC級調査として出します。見習い二人は?」
「置いていく」
反射的に口が動いた。
「僕も行きます」
「膝が治っていない」
「走らなければ歩けます」
「半日の道を歩いたあと、村で動ける保証は」
答えられなかった。
助けたいという気持ちだけでは、膝の痛みは消えない。
南採取場で、自分にできないことまで抱えるなと言われたばかりだ。
エリクが僕の肩を掴んだ。
止めるのかと思った。
「荷馬車を借りられませんか。調査道具と、ハルデンの水を積んでいく。ルカも荷台なら足を休められる」
マルタさんが依頼棚を見た。
「支部の荷馬車は南採取場の資材運搬へ出ています」
「うちの村の馬車があります」
ミレアが言った。
「門の外へ置いてきました。馬を急がせたから休ませないといけないけど、夜が明けるまで休めば戻れます」
「なら今夜は準備に使う」
ベルンさんが決めた。
「出発は夜明け。ハルデンの飲み水を樽二つ、吸着粉、清潔な布、塩、乾燥果実を積む。ルカは荷台から降りる回数を俺が決める。エリクは馬車と樽の固定を担当。それが守れないなら置いていく」
「守ります」
「俺も」
ミレアは僕とエリクを見比べた。
「この子たちも来るんですか」
「Fランクの見習いだ」
「役に立つんですか」
遠慮のない問いだった。
エリクが眉を上げる。
僕は少し考えてから答えた。
「まだ分かりません。できることはします。できないことは、できないと言います」
ミレアは僕の包帯を見て、それから頷いた。
「それなら、来てください。できるふりをされるよりいいです」
翌朝、東の空が白み始める前にハルデンを出た。
荷馬車には飲み水の樽が二つ、治療用品、空の水瓶、縄、板材が積まれている。
ベルンさんとミレアが御者台へ座り、僕とエリクは荷台に乗った。
テトは樽の間で丸くなり、アインは僕の膝を避けて肩へ乗る。
ミレアの水精霊は、水筒から半分だけ顔を出していた。
『あれは水なのか、魚なのか』
「アインが、君の精霊を気にしています」
「ポロ。下位の水精霊よ」
ミレアが水筒を少し持ち上げる。
「水を増やすのは苦手。でも、水に混じったものを見分けられる」
ポロが丸い目でアインを見た。
水面に小さな輪が三つ広がる。
「挨拶してる」
『我へ挨拶するとは見どころがある』
「アインも、よろしくって」
「本当にそう言った?」
「だいたい」
アインが僕の耳を前脚で叩いた。
エリクが声を殺して笑う。
道中、ミレアは村のことを話した。
家は三十戸ほど。畑と薬草作りで暮らしている。
共同井戸は百年以上使われ、枯れたことがない。
二日前の朝までは異常がなかった。
「ほかの水場は?」
エリクが尋ねた。
「北の沢はあります。でも、雨のあとだから濁ってる。煮沸すれば飲めるかもしれないけど、村まで運ぶのに一往復二時間」
「家ごとの井戸はないの?」
「地面を掘っても硬い岩に当たるの。共同井戸だけが岩の割れ目まで届いてる」
ベルンさんが馬車を止めた。
道の横に細い沢が流れている。
「休憩だ。馬へ水をやる。村へ着いてから、この水が使えるか比べるために一本採れ」
ミレアは空の小瓶へ沢水を汲んだ。
ポロが自分から水へ入り、くるりと一周する。
「泥と枯葉。少し動物の匂い。でも、煮て濾せば使えるって」
「ポロが知らない毒だったら、どうするの?」
僕が聞くと、ミレアの眉が上がった。
「ポロは間違えない」
「疑ってるんじゃないよ。アインだって、忘れてることがたくさんあるから」
ミレアはすぐに答えなかった。
ベルンさんが代わりに言う。
「分かる範囲を言う。それだけだ。毒を見分ける精霊でも、未知の毒まで必ず分かるとは限らん。力を信じることと、万能だと決めることは違う」
ミレアは水筒へポロを戻した。
「泥と枯葉と、ポロが知っている範囲の汚れ。未知のものがないとは言えません」
少し悔しそうだった。
でも、自分の言葉で言い直した。
「ありがとう。僕も、アインが知らないことまで分かると思わないようにする」
『我は正しいぞ』
「正しいと思っているらしいけど」
「自信のある精霊ね」
ミレアは初めて少し笑った。
「ポロは、いつ気づいたの?」
「昨日の朝。井戸水へ入ろうとしなかった」
「嫌な匂いがしたの?」
「違う。匂いも味も、混じってる物も普通だって言うの」
「普通なのに、入らないの?」
ミレアは水筒の蓋を撫でた。
「ポロが伝えてくる感じを、私がうまく言葉にできない。水なのに、水じゃない場所があるみたいな……」
ベルンさんが手綱を握ったまま問う。
「量は」
「井戸水を器へ汲むと、最初は端だけでした。昼には半分くらい。夕方には、ポロが全部を嫌がった」
「広がっているのか」
僕は古橋を思い出した。
炎が炎でなくなる。
鉄鎖から色が消える。
足場に、滑らかな欠落が生まれる。
でも、まだ同じものだとは決められない。
「ベルンさん。古橋の獣と似ていますか」
「可能性はある。だから、似ていることと同じだということを分けて見ろ」
馬車は昼前にソーン村へ着いた。
広場の中央に石造りの共同井戸がある。
その周りには赤い縄が張られ、誰も近づかない。
家々の軒先に空の桶が並び、人々は唇を乾かしていた。
僕たちが運んだ水樽を見て、何人も駆け寄ってくる。
先頭の男が荷台へ手をかけた。
「畑の苗が枯れ始めている。まず一桶くれ」
別の女性が男の腕を掴む。
「病人が先でしょう!」
「苗が全滅したら、来月には村全体が飢える!」
どちらも間違っていない。
二つの樽は、人と畑の全部を救える量ではなかった。
「この樽を今すぐ全部使ったら駄目! 次の水が来るまで残さないと!」
ミレアが叫んだ。
「病人と小さい子が先! 家畜は北の沢へ連れていく。畑の水は、そのあとみんなで考えます!」
「お前に村の畑を決める権利があるのか」
男の声に、ミレアの顔が強張った。
「喧嘩したら、水がこぼれます!」
思わず叫んでから、自分でも何を言っているんだと思った。
でも、荷台へ伸びていた手は止まった。
ベルンさんが僕の前へ出て、登録札を示す。
「樽はギルドの緊急依頼で運んだ。まず傷病者と乳児へ配る。畑を捨てるわけではない。沢から運べる量を、今から確かめる」
僕は慌てて名簿を開いた。
「病人は六人でした。荷車と空の樽は、いくつありますか」
エリクが荷台の縄を持ち上げる。
「樽があるなら、俺が動かないように結びます。父さんの荷車でやったことがあります」
男はしばらく黙っていた。
やがて荷台から手を離す。
「荷車は二台。樽は空が四つある。沢までの道は俺が知ってる」
争いが消えたわけではない。
それでも、奪い合う手が運ぶ手へ変わった。
「先に名簿を作る!」
ミレアが荷台から飛び降りた。
「一軒ずつ。病人と子どもを先にする。勝手に樽を開けたら、全員へ行き渡らないから!」
小柄なのに、声は広場の端まで届いた。
村人たちは不満を言わず、ミレアの前へ並んだ。
彼女が普段から信頼されているのだと分かった。
エリクは樽を荷台へ固定したまま、下へ小さな台を置いた。
「降ろすと倒されるかもしれない。ここで器へ分けます」
僕は名簿を読み、一家族ごとの量を数えた。
最初に六人の病人へ、塩と乾燥果実を使った飲み物を運ぶ。
膝のせいで速くは歩けない。
その分、一度に持つ器を一つだけにして、こぼさないようにした。
病人たちは意識があり、ベルンさんの質問にも答えられた。
手足の力が抜け、喉の渇きが消えない。
熱も腹痛もない。
「毒や病気の出方とは違う」
ベルンさんが言う。
「水は体へ入っているのに、水として働いていない」
「そんなことがあるんですか」
「普通はない」
普通はない。
その言葉が、アインと出会ってから何度も増えている。
病人の手当てを祖母たちへ任せ、井戸の調査へ移った。
ミレアの祖母はオルガと名乗った。
白髪を太い三つ編みにし、背は曲がっているが、薬草袋を運ぶ手は力強い。
「最初に異常が出た水だよ」
蓋つきの壺を差し出す。
「煮ても、濾しても変わらなかった」
ミレアが三つの透明な器を並べた。
一つ目にハルデンから運んだ水。
二つ目に昨日の井戸水。
三つ目に、今汲んだ井戸水。
さらに、道中で採った沢水を四つ目へ入れた。
見た目は全部同じだった。
ポロが水筒から飛び出す。
青い雫の体が、一つ目の器へ落ちた。
気持ちよさそうに尾を振る。
四つ目の沢水では、底へ沈んだ砂を避けながら泳いだ。
ミレアの言葉どおり、汚れてはいるが、水としては働いているらしい。
二つ目へ近づくと、器の縁で止まった。
三つ目には近づこうともしない。
「何か混ざっているの?」
僕が尋ねると、ミレアは目を閉じた。
ポロの感覚を受け取っているらしい。
「違うって。汚れでも、毒でも、金属でもない」
「なら、何がある?」
ベルンさんの問いに、ミレアは苦しそうに眉を寄せた。
「あるんじゃない。ないの。水なら、ここにあるはずのものが……一部だけ、抜けてる」
器の水は揺れている。
冷たく、透明で、濡れて見える。
僕は指を入れようとして、ベルンさんに手首を掴まれた。
「見るために触るな」
「すみません」
「棒を使え」
エリクが木匙を一本、器へ入れた。
匙は濡れた。
けれど持ち上げると、表面の水滴が布へ染み込まず、丸い形のまま転がり落ちた。
「水なのに、布へ入らない」
エリクが低く言った。
次に乾燥豆を一粒落とす。
豆は沈んだが、しばらくしても表面が柔らかくならない。
「体の中でも、同じなのかもしれない」
ミレアが呟いた。
飲める形をしているのに、体へ水分を渡さない。
だから、いくら飲んでも渇きが消えない。
ベルンさんは布、乾燥豆、塩、油を順に試した。
井戸水は布へ染み込まない。
豆を戻さない。
塩を入れても、しばらく底に残ったまま溶けない。
油とは混ざらず、見た目だけなら普通の水と同じだった。
「水が物を濡らし、溶かし、体へ巡る働き。その結びつきだけが失われている」
ベルンさんは試した順番と結果を紙へ書いた。
「これを毒として扱えば、毒消しを探して時間を失う。病として扱えば、患者を隔離して人手を失う。何でないかを確かめることにも意味がある」
「治す方法が分からなくても?」
「分からないからこそだ。間違った手当てで悪化させない」
ミレアはポロが避けた三つ目の器へ蓋をした。
「診療所へ弟子入りを頼んだとき、下位精霊が分かるのは泥くらいだって笑われました」
声は平らだった。
「でも、上位の水精霊でも、この違いに気づけたかは分からない」
「ポロだから分かったんだと思う」
僕が言うと、ミレアは僕の顔を見た。
「下位なのに、じゃなくて?」
「うん。水の量を増やす精霊とは、見ているものが違うから」
ポロが器の中から小さな尾を振った。
ミレアはそれ以上何も言わなかったが、水筒を抱える腕から力が抜けた。
『嫌な感じがする』
アインが井戸の縁で毛を逆立てた。
古橋でも聞いた声だった。
「何が分かる?」
『下だ。奥から、何かが水をほどいておる』
「アインは、井戸の下に原因があると言っています」
井戸へ顔を近づけず、鏡で中を覗いた。
水面は見える。
壁の一部だけが、不自然に滑らかだった。
周囲には四角い石の輪郭と、その間を埋める黒い目地が残っている。けれど、その場所だけは継ぎ目も凹凸も消え、何枚もの石を灰色の一枚板へ塗り潰したようになっていた。
「古橋の足場と似てる」
エリクも鏡を見て、唇を結んだ。
ベルンさんは長い縄の先へ空の瓶を結んだ。
「水面だけでなく、深さごとに採る。上、中、底だ」
三本の瓶へ水を採り、ポロに見てもらう。
上の水では、ポロは器の縁まで近づいた。
中では離れた。
底の水を出した途端、水筒の中へ隠れた。
「下ほど欠け方が大きい」
ミレアが言う。
「水脈の奥から来ています」
「井戸の底へ人が下りるのは危険だ」
ベルンさんは周囲の地面を見た。
「水脈へつながる保守横穴はないか」
オルガさんが村の南を指した。
「昔、井戸を掘ったときの排水穴なら、畑の下に残ってる。今は石蓋で塞いであるよ」
テトが先に反応した。
南へ向き、地面を何度も掻く。
村の畑を抜けた斜面に、苔むした石蓋があった。
中央に小さな穴が開き、そこから冷たい風が漏れている。
風には水の匂いがしなかった。
エリクが蓋の縁へ耳を当てる。
「何か、擦ってる」
僕にも聞こえた。
ざり、ざり、と硬いものが石を削る音。
穴の周囲には、色を失った草が伏せていた。
枯れた茶色ではない。
緑だったことだけを忘れたような、薄い灰色。
ベルンさんの顔から、いつもの気だるさが消えた。
「全員、蓋から離れろ」
僕たちが三歩下がった直後、石蓋の穴から細い灰色の鼻先が現れた。
猟犬ほどの頭。
目のある場所は滑らかに窪み、口の隙間から白い灰がこぼれている。
ミレアが息を呑んだ。
「魔獣……?」
『橋にいた小さなものと、同じ匂いだ』
アインが言った。
次の瞬間、石蓋の下から衝撃が響いた。
古い石に、一本の亀裂が走った。




