第一章 ──5 可能性
「センセイ」
「……ちょっと来い、琴宮」
生物室に顔を見せた星兎センセイは、何か物申したげな顔であたしを手招きした。
あたしは遥果とひかりに目配せをして、仕方なしに席を立つ。
準備室に入ったあたしにセンセイはさらに手招きをする。
これ以上どこに近づけと。
あたしがセンセイのもとへ歩いていくと、次の瞬間、彼はあたしを壁際に追い詰めた。
か……ッ、壁ドンだ!
「ど、どどうかしたの?」
若干ひかりみたいな話し方になりつつ聞く。
あたしは何とか平静を保とうと胸に手を当てた。
深呼吸を二回。
うん……落ち着くわけがない。
ドキドキするというよりは、居心地が悪いが先に来る。
「……八木の件なんだが」
センセイが小声で話し始めた。
「聞いてたんかい」
「聞こえるんだよ」
この部屋の防音の甘さに辟易する。
秘密の女子トークは教師に筒抜けだったのである。まる。
なるほど、それで壁ドンからのひそひそ話なんだね。
わざわざこっちに読んだのも、話を聞いていたことをひかりたちに悟らせない気遣い。
……説明しろや、びっくりするわ。
「僕は八木広大を弓永が話していた通りの人物だと思う。彼の素行にはいろいろ問題もあるが、根は真面目な生徒なんだと思う」
「どうして?」
「……彼は特定の部活動に所属せずにいつもどこかのピンチヒッターをしている。……そして、僕の知る限り、どの場面においても決して手は抜かない。勉強に関しても、だ」
聞けば八木は去年、ここに質問に来ることが多い生徒だったようだ。
二年になった今年も、化学や物理の先生のところによく顔を出しているんじゃないか、とセンセイは言った。
「……だから僕には、彼の女癖の方がどうも引っかかるんだ。まずはそこを洗い出さないと弓永の対策も打てないんじゃないか。傾向を知って対策を練るべきだ」
「なるほど。傾向と、対策か。……おにーさん、先生みたいな発言だね」
「先生なんだが」
ともかく敵を知らねば何もできないということか。
逆にそれさえできればあたしの心の引っかかりも解消されて、純粋な気持ちでひかりを応援できるかもしれない。
もしひかりの恋が叶ったら、それは関わったあたしの経験値にもなるだろう。
なんだ、いいことづくめじゃないか。
「じゃあ、さっそく聞き込み調査から始めてみるよ! ありがとね、センセイ」
あたしは壁ドンの隙間をすり抜けて、生物室へ戻ろうと一歩踏み出した。
しかし、センセイはそんなあたしの肩を掴む。
「待て。話は終わってない」
「ほぇ?」
あたしは半ば強制的に振り向かされた。
センセイの目は、なぜだか少し苦しそうだった。
「どしたの」
「……いや、その……」
なぜかセンセイは言い淀む。
やや目を伏せて、視線を泳がせる。
言うかどうかすらためらっていそうな雰囲気……もしかして本題はまだなのか?
言いたいけど言えないような何かがセンセイに壁ドンまでさせたのか……?
「千星」
「……! ひゃいッ」
急に名前で呼ばないでよ。
心臓に悪い。
センセイは頬を引きつらせながら、極めて言いにくそうに、呟いた。
「────八木に告白された経緯は、なんだ」
「……」
「……」
「……は?」
言い終わるなり、センセイは大きくため息をついた。
なに、もしかしてそれが聞きたかったのか。
八木があたしに一目ぼれした可能性を考慮して、心配になって、それから……。
「────ヤキモチ?」
「違うが!?」
センセイは慌てて首を振る。
おやぁ? なんか怪しいですねぇ。
「なんだよおにーさん。あたしのことめっちゃ好きじゃん?♡」
この際からかってやろうと煽るようなことを言ってみるのだが。
「……くそっ、こうなるから聞きづらかったんだ」
彼は青筋を立てつつ奥歯を噛みしめるように漏らす。
ご愁傷さまです。
でも、その言い方だと本当に嫉妬から出た質問ではなさそうだ。
「ごめんねからかって。でも、どういう意図の質問だったのさ」
あたしの問いに、少し目を閉じて間を置くセンセイ。
やがて薄くまぶたを開くと、遠くを見る目をして呟いた。
「八木の歩んだ道に繋がるんじゃないかと思ったんだ。彼はもしかすると、僕と同じかそれに近い状態なんじゃないかって」
センセイと同じ。
それじゃあ。
「────女性不信」
センセイは頷いた。
八木がどうだかは知らない。
けれど、センセイの抱える爆弾を、私はこれ以外に知らない。
女性に対する恐怖、あるいは嫌悪から、センセイは女の人の目すらまともに見ることができないんだ。
だがそれは、初対面で告白してくるような八木の行動とは似ても似つかない。
けれど、センセイが何かを感じ取ったのだ。
信頼に値する情報だとあたしは考えた。
「だとすると、八木って……」
センセイは言う。
「ああ。きっと────彼は、別の選択肢を選んだ僕なんだ」
────
──
生物室に戻ると、そこでは女子二人がなぜかわちゃわちゃしていた。
具体的に言うと、遥果の腕をひかりが引っ張って、引き留めている構図。
「……何してんの」
「あ、こ、琴宮さん」
「ああもうっ、千星ちゃん帰ってきちゃったじゃんっ」
唇を尖らせる遥果の背中を、ひかりがぽこぽこと叩き出す。
「だ、だって、だめだよぅ、ぬ、盗み聞こうとするなんて」
「しーっ」
「……はぁ。あんたねぇ」
どうやらセンセイとの密会を覗き見ようとする不届き者がいるらしい。
ま、あたしが遥果の立場でも気になって仕方がないって思うだろうけど。
ともかくセンセイが示してくれたことでなんとなくの方向性は見えてきた。
まずは相手の八木広大をもっと知ること。
あの男の真意がわからなければ、何をどう対策しても無駄になってしまう。
それともう一つ。
確認しておかなければならないことがある。
「ねえ、ひかり」
「うん」
「諦めるって選択肢は無かったの? 八木を射止めるってことはさ、あいつのことを好きな全女子たちに勝つってことだよ」
「そ、それは」
かなり嫌な聞き方を選んだ。
真意がどうであれ、面食いなどとあだ名されるくらいなのだ。
きっとひかりは八木の元カノたちにも容姿で負ける可能性がある。
いくら彼が本当に「容姿で評価されたくない」という感性の持ち主だったとしても、周囲の目は突き刺さってくるからだ。
「ひかりは八木の理解者かもしれない。けど、それだけじゃ勝機には遠いと思う」
「わ、わかってるよ。私の容姿じゃ、ふ、不利だって……でも」
ひかりは顔を上げる。
力強い瞳をその長い前髪の奥でたぎらせて。
「さ、最初から諦めるなんて、したくない。せめてせ、先輩に想いをぶつけるまでは、折れたくないの」
今までのどんな言葉よりも力強く。
どんな言葉よりも心が込められている。
……すごいな。
これが、恋なのか。
ひかりの眩しさに、あたしは目を細めた。
ひかりの手を取る。
あたしはふっと口角を上げた。
「あたしも決めたよ。ひかりの恋を、絶対に成就させてみせる!」
「こ、琴宮さん……」
「そのためにはまず、八木の本音を引き出さなきゃ。あたし、頑張って調べてみるよ」
「……! あ、ありがとう、琴宮さん。私も、が、頑張るから!」
ああ。そして必ず掴んでみせる。
恋という感情を。
センセイの過去へ繋がる可能性だって。
あたしは心の中で拳を握り、ぐっと力を込めるのであった。
「ところで千星ちゃんっ。先輩の本音がわかったら、次は何をするプランなのっ? 協力したいから教えてっ」
「……えっ」
「……えっ」




