幕間 ──すべては君次第
「お前……この状況で今日も泊まる気か」
センセイは愕然とした様子で手にしていたグラスを落としかける。
あたしは平然とした様子で味噌汁をずずずと口にした。
入学式を終えて、部屋に戻って寝落ちして、ベッドドンされてからの今である。
あたしは普段通りに夕食の準備をして、普段通りに彼と共に食事をとっている。
平常運転、万歳。
エッチを拒否られた以外は万事うまく進んでいる。
「だって学校はここからの方が近いし」
あたしはきゅうりの浅漬けをポリポリ。
センセイは若干の困り眉で長い髪をボリボリ。
へへ、困ってる困ってる。
だけどもこれはあたしの中では確定事項なのだ。
「あたしはここから通学する。おにーさんとこれからも一緒に暮らすよ」
「……教師と生徒だぞ」
「ふふ、ずいぶん仲良しな先生と教え子だねぇ」
「……千星は未成年だろ」
「バレなきゃ大丈夫だよ」
「……無鉄砲すぎるぞ」
家にあげた時点でおにーさんの負けだぜ。
もっとも、許可されなくても合鍵で入るんだけど。
「あたしはおにーさんに恋したい。ちゃんと好きになって、ちゃんと結ばれたいんだ。半同棲なんて美味しい状況から一歩身を引くなんて選択肢に無いよ」
「……どうして、僕なんだ」
センセイは悲しげに目を細める。
彼にそんな目をさせてしまうくらい、あたしは罪深く、許されざる行為をしているんだろう。
だけど引けない。ここだけは。
「あなたの隣は居心地が良かった。それが理由じゃ、ダメ?」
「……よく、わからない」
彼は目を伏せる。
「そう。あたしもよくわからないんだよ。だから恋を知りたいんだ。結ばれるなら、ちゃんと」
あたしは箸を置いた。
とうに食事の手は止まっていたから。
軽く両手の指を組んで、あたしは真っ直ぐ彼に向き合う。
「ねえおにーさん。あたしが学校に編入せずにあのまま暮らしていたら、将来どうなってた?」
「結婚していただろうな、おそらく」
へぇ、これは即答するんだ。
「あたしもそう思うよ。あれだけ毎日のようにセックスしてさ、避妊は一応してたけど、まあいつかはできちゃうよね。赤ちゃん。……おにーさんは責任感が強そうだから、その時点で……ううん、もしかすると子供を作ろうってタイミングで籍を入れようってなる。二人は戸籍上結ばれて、ハッピーエンド」
でも。
「……それで良いの? おにーさんは、それで良い?」
幸せなのは違いないだろう。
末長く仲睦まじく暮らしていけるって確信はある。
だけど、彼の本質にはもう踏み込めない。
恋人である前に夫婦、家族として、幸せを壊すような行為、彼のトラウマに踏み込む勇気はもう持てないだろう。
「あたしは、全部知りたい。知ってから決めたいんだよ。……形だけの幸せなんていらない」
「……たとえ、全部を失っても?」
頷いた。
あたしの選択の結果、彼との未来が失われるのだとしても。
あたしは知ることを選びたい。
「というわけで、あたしは強欲なのです。全部知りたい全部欲しい。今の環境は手放さない。おーけー?」
彼は腕を軽く組んで、腕の皮をつねる。
彼の癖。迷いがあるのだろう。
「────追い出したところで、過去の肉体関係をネタに強請ってきそうだしな」
よくお分かりで。
「……仕方ない」
それだけ言うと、彼はようやく食事に手を付けた。
言葉数は少ないけど、認めてくれたってことなんだろう。
彼は味噌汁を口に運ぶと音もたてずに上品に飲む。
するとその瞬間、少し柔らかな表情になって、
「……うまいな」
そう零した。
「毎日飲みたい?」
あたしが悪戯っぽく問うと、彼は少し口角を上げてこう言った。
「……君次第だ」
◇ ◇ ◇
風呂に入って火照った体をベッドに預ける。
そこにはすでに彼がいた。
普段は二人で一緒に入浴して、イチャイチャして、裸のままベッドにもつれ込んでいたのだけれど。
そこだけが悔やまれる。
「……ねえ、おにーさん」
背を向けている彼に向かって呼びかける。
「……なんだ」
「いつもの練習、しないの?」
彼は少しだけ身をよじってあたしの顔を一瞥すると、まもなく目を逸らし、仰向けに体勢を変えた。
瞼を閉じて、すっかり睡眠移行モードに切り替わる。
「……しない。もう昨日までの二人じゃないんだ。わきまえないと」
「ふぅん」
セックスだけじゃなく、これも拒否られるのか。
ちょっとだけむっとした。
「おにーさんのために始めたんだよ、『見つめ合い練習』。女の人の目、怖くなくなるようにって」
彼は目を閉じたまま表情も変えなかった。
固く口を噤んだ彼は、ただ小さく首を振って、今までの慣習を否定した。
くそ、そっちがその気なら。
「……ねえ、おにーさん」
あたしはゆっくりと身を起こし、眠る彼の顔を上からまじまじと観察した。
細くて形のいい眉も、長いまつ毛の瞼も、筋のはっきりした鼻も、柔らかそうな唇も。
彼を構成する全部が美しい絵画のよう。
あたしは少しだけ目を細めて、顔を寄せ、彼の唇にそっと自身の唇を重ねた。
「──!」
キスに慌てた彼があたしの体を掴む。
力を入れて引き離そうとしてくるけれど、もう遅い。
あたしは彼の中に舌を差し入れた。
「ん……ぇお……ん、ちゅ……」
「んぐ」
やや拒絶気味な彼の舌先を、あたしの舌が追い立てて愛撫する。
甘くとろけるように。
深く溶け合うように。
やがて観念したのか彼の力が抜けていく。
「れぉ……れろ……んッ……」
「んッ……ん……ちゅ」
貪るような激しさは無い。
ただ体の熱を分け与えるみたいに、優しく舌を絡める。
このまま本番に、なんて考えたのだけれど。
「いいかげんに……ッ」
彼はあたしの顔を引き離し、腰を抱いてベッドに転がした。
口元から伸びる銀の糸が頬に張りついて少し冷たい。
「こら」
本気で困った顔をして、彼があたしの額を小突いた。
「……へへ、目を瞑ってるのがいけないんだよ」
あたしがそう言うととたんに彼はむっとした顔を作るが……残念、顔が赤くなってるぞ。
「あたしの目を見てよ、センセイ」
あえてそう呼んでみた。
これから先の、あたしたちの関係を表す呼び名。
彼の綺麗なライトブラウンの瞳が、だんだんとあたしの緋色の瞳に向けられる。
やがてはっきりと互いの目が合ったのを知覚すると、あたしは彼にくすりと微笑みかけた。
「やっと見てくれたね。いくよ。いーち、にーい……」
彼にギリギリ届くくらいの囁きで、あたしはカウントを始める。
時計の針よりもゆっくりと。
二人の呼吸に合わせて数を打つ。
気恥ずかしさに彼の瞳が揺れる。
あたしの瞳もきっと同じ。
目を逸らさないように、じっと耐える。
「ごーお……ろーく……」
そのまま瞳を覗き続けたら、そのうち彼の心の底まで見えたりしないだろうか。
あるいはあたしの心も彼に覗かれているのだろうか。
いつもより潤んで見える宝石のような双眸。
見つめ合いを解除するまでのテンカウントは、なぜだかいつもより長く感じた。
「……じゅーう。どう? おにーさん」
カウントが終わるとすぐに目を逸らして背を向ける彼。
明らかに口を尖らせているだろう声であたしに言った。
「……やっぱり、見つめ合い練習はこれからはやらない」
「えー、どうして」
あたしが問うと、彼は黙り、何呼吸かの間を置いて────消え入りそうな声で呟いた。
「……我慢できなくなるだろ」
────か、可愛いぃぃ!
何この生き物。
クールぶった年上男性の癖に。
ホントはエッチなことしたいのに、我慢してるんだ、へぇー、そーなんだ。
今までの関係を破壊してしまう暴挙に出た日だというのに。
なんだかいっそう彼が愛おしくなる、そんな夜なのでした。
[甘くて歪な二人は────]
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